滲んだページ
――日記を書く事を再開しようと思う。
(晩餐の時刻だと呼ばれたのだ。仕方ない。私が来ないと食べ始めないのだ、あの方達は)
さて、どこまで書いたのだったのか。
――あぁ、魔の領域が見え、恐るべき未来予測図が脳裏に走ったところまでか。
ふふっこの私が唯々諾々と受け入れたと思うのかね?
勿論、全力で拒否したとも!!
(何が悲しくて、妻に抱き上げられねばならないのだ! 違うだろう、むしろするのは私だ。……いや、もうこの先する事はないのだが。な、涙などこぼれておらぬぞ!)
私は駆けた。魔の領域が視界に入って一瞬後には。
即座に行かねばならなかったのだ。彼が私を振り返る前に。
ドレスの裾を持って走り出す。
目標はぬかるんだ地面にある、均等に配置された石だった。十個、十分だ。
石と石の間を跳ぶ。多少の無様さは気にしない。
(やるしかない、やらねばならない。ゆくぞ私!! 跳ぶのだ!)
カツッカツッと石とヒールのぶつかる音が響く。
全てを跳び終えて、舗装された道にたどり着く。
よしっ!! と拳を掲げたくなる衝動を抑え、呆気にとられた面々を見る。
私は取り付けたように微笑んだ。
「ごめんなさい。お手を煩わしたくなくて」
(言わねばならなかった。私はアリアだったから)
そこで私は勝利の余韻に酔いしれていたのだが。
(なぜ、なぜ私はそこで呆けていたのだ。即座に行動していれば、この様な事にはならなかったのに)
はぁ、大変動揺する事が起きたのだ。
呆気にとられた面々でいち早く、我にかえったのはエミリオ少年だった。
(彼の呼び方はエミリオ少年にしよう。なんだか気に入ってしまった)
クスッと笑い、私と同じ様に石を跳んできた。
優雅である。
茶の髪はさらっと光り輝き、長い脚は石を跳ぶ事も苦ではないらしい。
(私の必死の跳躍に対する当てつけだろうか。私の被害妄想か、これは)
私はズンッと沈み込んだ気持ちのままエミリオ少年を見ていた。
邪魔になるなと思い、一歩下がった。
――その時だ、想定外の事が起きたのは。
一歩下がった私の手は、なぜか少年にとられ、彼は私の前で片膝をついていた。
(この時の私は、その小綺麗な服の膝が汚れるぞ少年。などと内心で思う余裕もなく、呆然として見ていた)
「この手に力を貸す事を煩わしい等と思う男がおりますでしょうか。少なくとも私は思いません。……もしお嫌でなければ、今後この様なときは私をお使い下さい」
美しい少年が真摯に見上げ言っている。
(卒倒しなかった私を、誰か褒めてくれ。褒めちぎってくれ! ひぃぃぃぃ!! 思い出すだけで気が遠くなる)
だが私は頑張った。震えながらも手を振り払わずに答えた。
「……覚えていたら頼みますわ」
(私は忘れるっ!! 明日には絶対に忘れるぞ)
私はエミリアに女性扱いされた事が本当に堪えてしまったようだ。それだけだ。
本当は『ここは学院、知識を学ぶ場所です。社交界ではないのですし、必要以上に紳士として接しなくてもよろしいのです。私も守られるつもりはありませんの』と言うつもりだった。
他の男どもならこの台詞だ。
つまり『その様な扱いは社交場で充分である。なぜにこの学ぶべき場でまで、かような扱いを受けねばなるまい!』と言いたいところだったのだ。
(伸びた鼻の下をへし折ってやるのだ)
だが、少年はエミリアなのだ。私にどうしろというんだ。
幸せになって欲しい。
この世の誰よりもだ。
だが私は普通ではない。
彼が紳士的な人間で、女性相手にはその様に振る舞う事が彼の常識なのだとしても。
(その彼を尊重したいと思っていても)耐えれる事ではないのだ。
……嗚呼、インクが次のページにまで滲んでしまったようだ。
私の、この苦悩は続くだろう。
彼女から離れればすぐ終わることだ。だが、それは出来ない。したくない。
彼女を守る、その私の望みを叶えるために。