私にもできること
一人の少年が小道を歩いている。目深にかぶった帽子に、少し見える髪は赤毛――アリアスだ。
早朝とはもう言えない時刻だが建物と建物の間の小道に陽は差さず、出歩く人も数少ない。そんな道をあえて選び目的の場所に行く。
導きの塔へと。
「ちょうどいいところに」
塔の主は部屋に入ったアリアス見てそう声をかけた。久しぶりの再会だというのに、それを感じさせない気軽さだ。
「貴方に依頼でさぁ」
「私に?」
確かにアリアスは今日、久しぶりに実践ができる依頼をするつもりでここにきた。
ただ、アリアスを指定しての依頼があると思っていなかった。たとえ腕がどれほど立っても子どもにくる仕事は高がしれている。
――そんなものをリードが話すわけがなかった。
リードは手に持っていた紙をアリアスに差し出した。
「これは……」
王都の特権階級の連なる区域、その中でも一際荘厳な邸宅。ハーウェルン公爵邸。曇り空の下でもそれは変わらなかった。
徒歩できたアリアスと違い、貴族の客人として誰か招かれたのだろう。上等な馬車が敷地にとめられていた。
“アリアス”がここにくるのは四度目になる。三度は前の依頼のために。今度もまた一つの依頼のために。
案内役に連れて行かれたのは庭だった。花の美しい庭園ではない。今回の目的には相応しい庭だった。
エミリオは一人で待っていたようだった。いつもより簡素な服。手に持ったもの。準備は万端なようだ。
「よくきてくれました。久しぶりですね」
「君の、剣の相手をするようにと」
エミリオはアリアスの言葉に頷くと、剣を手渡した。練習用の刃を潰した剣。アリアの体には、少し長い。
だがそんな事はどうでもよかった。
アリアスは目深にかぶった帽子のつばを更に引き下げながら、エミリオの様子を注意深く見た。
突然の依頼状には『剣の相手役をしてほしい』としか書かれていなかった。なんのために。理由が、意味があるはずだった。最初は剣の鍛錬にでも呼ばれたのかなと思っていたが――
いつもと変わらない優しい口調、柔らかな笑顔。だが、おかしかった。丁寧でそつのない彼がなんの説明もせずに剣を差し出すなんて。
――異常事態だった。
「はじめても?」
エミリオが構える。アリアスの動きを待っているようだ。
「……あぁ」
最良はわからない。だが、いや、だからこそ。
私が今できることを。
エミリオの護衛役だろうか。いくつか視線を感じる。私が彼の命を奪うと考えているのだろうか。もしくは私の技量を疑い、彼が怪我をしないか心配しているのだろうか。殺気、ではない。だがあからさまに注視されていた。
それを振りきるように剣を振るった。
雨が降ってきた。私はエミリオの目を見た。いつもの彼なら『やめましょうか』そんな静止の言葉を言うと思ったからだ。だがその瞳に闘気は変わらずあって、その考えをすぐ捨てた。
跳ねる泥。雨水を吸って重くなった服。顔に張り付く髪。それでも、剣を叩きつけ合う。
冴えた技巧などない。雨の中でただぶつける。訓練になんてなりはしない。
けれど。
彼はきっと今、これを望んでる。なぜかそれを確信できた。
陽が沈んだ。雨は降りやまず、エミリオは前がほとんど見えなくなってようやく剣を下ろした。
私の体はとっくの昔に冷え切っていた。いかに激しく斬りあおうとも長時間雨にうたれ続けたのだから、それは自然な事だった。つまり、それは彼も同じで。
心配だった。本当はすぐに湯につかり温まってほしかった。だが、彼の心境が今どうかなんて分からない。だから彼の言葉を待つ。
「部屋に、入ろう。案内するよ」
穏やかな声が聞こえた。顔はよく見えない。
「あぁ」
ずぶ濡れのまま、テラスにむかって歩くエミリオの後に続く。雨音に紛れるような声が聞こえた。
「……アリアス、ありがとう」
彼は振り返らない。自分の判断は間違っていなかったらしい。
「いいんだ」
一言にすべてをこめた。伝える必要がない思いも、自分の覚悟も、そのすべてを。
「なにも、聞かないのですね」
静かな部屋にエミリオの声が響いた。エミリオとアリアスしか部屋にはいない。エミリオは自室で、アリアスは客室で湯につかった後だった。
「聞いてほしいのか」
そう言ったアリアスの髪はまだ乾ききってはいない。だがアリアスは濡れた赤毛の上から帽子をかぶっていた。――以前、エミリオに渡した帽子を。顔を隠しているアリアスに気をつかってくれたのだろう。着替えと一緒に置かれていた。
アリアスは静かにエミリオの答えを待つ。
アリアスにどう返事をするか、エミリオは一瞬悩む顔をした。
そして――
「聞いてください」
穏やかでもない、深く悩んだ苦悩に満ちた少年の顔。
剣をぶつけあい、雨にうたれ。ようやく本当の彼に会えた。