白き花は君のために[一輪]
ウォルシュ伯爵邸の廊下を一人の少女が走っていた。この邸宅の一人娘であるアリアだ。いつもはお小言を言われないように走ったりなどしない。
だが、今日は違った。脇目もふらず走っている。晩餐の準備にとりかかっていたメイドたちが、ぎょっとしながらその姿を見送った。……とめる間もなかったという方が正確だろう。
「は、母上っ!」
「まぁ、なんですの。騒がしいわ」
アリアが行儀というものを蹴飛ばして、扉を慌しく開けた。その先には一人の女性がいた。優雅に椅子に腰掛け、紅茶を飲んでいる。アリアと同じ金の髪に、緑の瞳。大変麗しい人だった。……とても二児の母には見えない。
「あ、あの私の部屋に今日の朝にはなかったはずの家具やら、服が置いてあるのですが。あ、あれは一体なんなのですか?」
引きつった顔を隠す事なくアリアは言った。大変おぞましいものでも見たかのような顔だった。
「貴女に必要だと思って用意したのですわ。ドレッサーにドレスに靴。首飾りに髪飾り。――舞踏会に行くのでしょう?」
紅茶を飲む手をとめて、母は娘にとても穏やかな顔で言った。――いつの間にこんなに大きくなったのだろう、そんな娘の成長を見る表情だった。
「あ、ありがとうございます。……ですが母上、その、舞踏会に行くだけですから。あのドレッサーというのは、その必要ないかと思うのですが」
母の顔を見て、アリアも強くは出れなくなったようだ。だがそれでも諦められないのか気持ちを訴える。
「まぁ、何を言っているの? 娘の社交界のお披露目に力を入れないで、いつ入れるというの? それにまだ時間はあると思っていたのに、こんなにいきなりだなんて」
確かにアリアはまだ11歳。もうすぐ12歳になるとはいえ、まだまだお披露目には早かった。普通なら15歳ほどでお披露目するものである。――アリアの場合は“相手”が少々特殊な立場であったのだ。
「で、ですが、その今回だけのことかもしれませんし」
「あら、今回お誘いして下さった方に次に頼まれたら断りますの?」
「……それは」
アリアは下をむいた。少しの躊躇いを感じさせる。だが否定はしない。その意味は――
「ならいいでしょう」
母は娘の事はすべてお見通し、と言わんばかりの顔だった。
――お、落ち着かないのである。この渋みのある、なんとも落ち着く我が砦に、今日“異物”がきたのである。
(い、いかんな。母上からの贈物であるぞ。異物などと言っては。)
……今日はこの部屋に“異質”なものが家具の一つとして加わったのである。小さな引き出しがいくつかある棚。その上になぜか鏡をつけた家具である。……なぜかチェストに鏡をつけてしまったと書けば分かりやすいかな。はは。
色はせめてもの情けなのか、重厚な我が砦の家具たちに見劣らぬような茶色である。
(もしこれが白であったならば、この衝撃はさらなるものであったろう。)
あとはドレスが五着。それに合わせた靴と首やら頭の飾りがごろごろと。もうすぐ誕生日であるからな。その祝いなのだろう。
――そもそもなぜ、こんな事になったのかね?と聞かれれば答えは一つ。エミリオ少年に舞踏会に誘われた。ただそれだけの事であるよ。
もうすぐ13歳になる王太子殿下のお披露目を兼ねた舞踏会が開かれる。王族は他の貴族よりもお披露目が早いのが通例であるから、別段不思議ではない。
だが側近候補である彼のお披露目も一緒にするとは。これは少々異例な事であった。王太子殿下のお気に入りだからという様な簡単な理由なのか、よく分からない。
(……彼にもそのあたりの事は聞けなかったしな。)
分かっている事と言えば、お披露目は一年で最も規模の大きい年始の舞踏会で行われるという事くらいだ。
舞台は王城。観客は王族と貴族。
――どんな目線にさらされるか。痛いほど分かっているし、知っている。彼とは違う立場にいたが、似ている場所に私はいた。
そんな場所に彼を一人で行かせる気はない。すぐに『行きます』と返事をした。……おそらく優雅に踊れはしない。無様な姿をさらすだろう。だができる事もある。きっとある。それをすればいいんだ。
――私は“その覚悟”ならしていたのだが。
アリアは顔をあげた。暗がりに浮かび上がる姿、それがアリア自身の目に入る。ドレッサーという家具がある為に。
金の長い髪に青の瞳。白い夜着。美しいと百人中、九十九人が言いそうな姿である。
アリアは立ち上がりドレッサーに歩みよると、埃よけの布を鏡にかけた。そこでようやく、ほっと一息つく。
そしてまた机にむかい椅子に座る。日記の続きを書く為に。
――鏡は、好きではない。
あと何日たてば慣れるのだろう。すぐには難しそうだ。それも仕方ないか、今日までこの部屋に鏡はなかったのだから。
必要がなかった。家をでるときに異変があれば執事かメイドが気付いてくれるのだから。それに。
……見たくないものしか、うつさない。
日記は乱暴に閉じられた。