ニビ視点
亜橋ニビの内面をひとことで言い表すならば「無感動」だ。
感動――すなわち、感情を揺り動かされることはニビの人生とは無縁のものだった。
取り繕うことも知らない幼少期は、両親……特に母親を心配させた。
関西から圏外へと引っ越したことが影響しているのではないかとか、ニビの無感動さに母親は頭を悩ませていたようだ。
そんな空気を読み取れるていどに、ニビは幼くとも聡明だった。
母親の勧めで地元の少年野球チームに入ってはみたものの、ニビがそこで喜びや悲しみを覚えることはなかった。
それでもそこで、ニビはあるていど取り繕うということを覚えた。
つまり、周囲の少年たちの感情の発露をつぶさに観察し、トレースするようになったのだ。
少年野球チームで、ニビはあるていどチームメイトたちと打ち解けた――ように見えていただろう。
けれども内心でニビはチームに愛着を持ってなどいなかったし、やはりレギュラーに選ばれても、素早い球を打てても、勝っても負けても、なにか特別な感想を抱くことはなかった。
しかしニビがそんな心境を吐露したことはなかったので、高校では野球をしないと言ったとき、周囲にはたいそう驚かれた。
勉強に専念したいという言い訳を、これまた取り繕って、ニビは野球をすっぱりとやめた。
野球をやめてもなにも感じなかった。
元チームメイトたちに何度かしつこく誘われたが、それを鬱陶しく思うこともなければ、後ろ髪を引かれるような思いもしなかった。
亜橋ニビは、どこまでも無感動だった。
ニビは、そんな自分が心底嫌だった。
そのように自分の性質を嫌悪する感情は湧いた。
その感情を確認するたび、ニビは自分はマトモなのだと思い込もうとした。
だれにも共感できない、無感動な自分を嫌う。
それは当然のように苦痛を伴ったが、少なくともニビを正気に繋ぎとめる役割は果たしていた。
ニビは自分のことをまだマトモな人間だと思いたかった。
だから、だれにも誇示せず善行と呼べるようなことを積んだ。
困っている人間がいれば率先して助けるし、他人がやりたがらない仕事も進んで引き受ける。
そのようなニビを便利に扱う人間もいれば、不器用だと言って呆れる者もいた。もちろん、誉めそやす人間も。
けれども彼女だけは――樹ミコトだけは違った。
「亜橋くんは善人だね」
「そんなことあらへんよ」
「私……わかるよ。他人が言われて欲しいこと、逆に、言われて欲しくないこと。亜橋くんは『善人』って言われて欲しいんだなって思った」
「え……」
「すごくいいと思うよ。悪ぶるよりはずっといい。だから、亜橋くんは正真正銘の『善人』」
ニビは初めて、樹ミコトの言葉によって心揺さぶられた。
それは不快で、心地よい感覚だった。
樹ミコトの発言は、中二病だとかいうひとことで片付けられるものだっただろう。
実際に、樹ミコトはクラスでは浮いた存在だった。
ニビは、そんな樹ミコトの面倒をなにくれとなく見ていた。もちろん、樹ミコトが指摘したとおりに、「善人」だと思われたいがゆえに。
樹ミコトはそのようなニビの浅ましい欲求を見抜きながらも、しかし否定したり嫌悪したりすることはなかった。
ただ微笑んで――美しく、微笑んで、「いいと思う」と肯定したのだ。
だから、ニビは「善人」でいようと思えた。
樹ミコトが肯定してくれたから。
初めて、その言葉で心が動いたから。
だから、ニビは「善人」で――いたかった。
「――なあ、あいつ、ひと殺したってマジ?」
高校二年生の夏、ニビはひとを殺した。
最終的には正当防衛だとお咎めはなかったが、ひとひとりを殺したのは事実だった。
樹ミコトを守るためだった。
相手は刃物を持っていた。
樹ミコトは太ももを刺されて、路上に座り込んだ。
ニビは相手の刃物を奪い――至極冷静に、首の大動脈へ向かって刃先を滑り込ませた。
同級生を助けるために、無我夢中だったと供述すれば、過剰防衛には問われなかった。
実際のところニビはまったくもって冷静だった。
冷静に、相手を無力化する……殺すことだけを考えて、行動した。
ひとひとりを殺しても、やはりニビの心が揺れ動くことはなかった。
ただ、いつもひとりぼっちで、孤高を決め込んでいる樹ミコトが、ニビに対して罪悪感を覚えていることに、ニビは――喜びを感じた。
「俺、自分のこと『善人』やと思っとった」
ニビがそうつぶやくと、樹ミコトのまつ毛が震えたような気がした。
うれしかった。
いつも凪のような、つまらなさそうな顔をしている樹ミコトの心をかき乱せていることが、うれしかった。
ニビの心を揺れ動かせるのは樹ミコトで、そんな樹ミコトの心をかき乱すのはニビ。
その関係性は、ニビにはとても素晴らしいものに思えた。
ひとを殺したニビの周囲から去って行く人間はいくらかいたが、ニビにはどうでもいいことだった。
樹ミコトさえいれば、その他は有象無象。どうでもいい存在だ。
そう、思っていたのに。
そう思っていたのに、樹ミコトはいなくなった。
ある日突然、家に帰らず失踪したのだ。
樹ミコトの家庭は、ニビの家ほどにあたたかみのあるものではなかったらしく、ほどなく樹ミコトは退学したことになった。
樹ミコトのいない世界は、ニビにとって味気なく、どこまでも灰色だった。
それどころか、まったく、生きている意味を見出せなかった。
だからニビは自ら命を絶つことを選んだ。
樹ミコトのいない世界で生きて行くことと、自ら死を選ぶこと。ニビにとって両者にはさほど差異がなかったからだ。
しかし――
「永遠領域にある永遠校舎の永遠生徒で構成された永遠委員会。――ようこそ、永遠のモラトリアムへ。ここは既に終わった者たちの楽園だよ」
ニビはなぜか、この永遠の夕暮れの校舎に辿り着いた。
ニビにとって僥倖だったのは、そこで樹ミコトと再会できたことである。
しかし不幸もあった。樹ミコトはニビのことを覚えていなかったのである。
その事実にニビは心がざわつき、そして安堵した。
やはり、己の心を揺れ動かせるのは――「樹ミコト」という存在に他ならないのだと。
だというのに、その蜜月も長くは続かなかった。
「樹ミコト」が死んだのだ。
それも、ニビたちの目の前で。
また「樹ミコト」を失うのかと、ニビは絶望を覚えた。
けれども、なぜか「樹ミコト」は帰ってきた。
同じ姿形、声、振る舞い、名前……でも、ニビたち永遠生徒や、永遠校舎で過ごした記憶は持っていない様子だった。
でも、彼女は「樹ミコト」だった。
「――ぶつわけないよ、亜紗さん。だって、私はだれかをぶったことなんて一度としてないからね。亜紗さんがそうやって、私を悪者にするのは数えきれないほどあったけど」
「樹ミコト」のその微笑みを見て、確信できた。
「樹ミコト」の血の繋がらない姉だとかいう女子は、よもや反論などされるとは思いもよらなかったという顔で、目を白黒させる。
「私は亜紗さんを気持ちよくさせるための道具じゃないよ」
「っ……そ、そんなつもりじゃ――」
「ほらほら、早く反論しないと亜紗さんが悪者になっちゃうかもしれないよ。亜紗さんは、それだけは嫌でしょう? だって亜紗さんは可哀想な弱者でいたいんだから。義理の妹にいじめられる、可哀想な姉でいたいなら、今ここで泣いてみたらいいと思うよ。そうすればそこの迷子生徒さんくらいは同情してくれるかもね?」
「ひ、ひどい……!」
亜紗と呼ばれた女子の隣に立つ、もうひとりの迷子生徒は、戸惑いの表情で亜紗を見やる。
亜紗は暗い顔をしてうつむき、眉間を強張らせたが、泣きはしなかった。
ただ怒りか屈辱か、顔をほのかに赤く染めて、無意識のうちか、拳を作り握り締めている。
「樹さん……そないに言わんでもええんとちゃうかな」
ニビがそう言うと、助け船だとでも思ったのか、亜紗は素早く顔を上げた。
「このままやと余計こじれそうやし、ええと、亜紗さんからは俺からいっぺん話聞くゆうことでええかな?」
「あ、あたし、そんなつもりじゃないのに、ミコトさんはあたしの話聞きたくないみたいだから……ニビくんに間に入って欲しい、かな……」
「せやったら、ちょっとそこの教室借りるわ。樹さん、ええ?」
「樹ミコト」はなにも言わなかった。
ただその顔から微笑みは消えて、興味が失せたらしい、元の世界で見たときのような、つまらなさそうな表情をしていた。
ニビは「樹ミコト」の無言を許可と解釈し、亜紗の背中に手をやって手近の空き教室へと誘導する。
「――ところでなんで俺の名前知っとるん?」
どこか期待を込めた目で見ていた亜紗の顔が、さっと青くなる。
「知っとるわけないよな? やって、俺が知っとる樹さんは姉なんておらんかったもん。今いる樹さんは……言ってしまえばパラレルワールドの同一人物とかなんやろなあって思っとるんやけど。せやからあそこにおる樹さんは最初、俺のこと名前も知らんかった。――で、なんであんたは俺の名前知っとるん?」
亜紗がなにごとか言い訳を口にする前に、ニビの大きな筋張った右手が、その顔を覆う。
「……ま、どうでもええか」




