第五話 ホスピタリティ
「お店の人に怒られるよ」
ぐずり始めた男の子をちらりと見た母親らしき人。その声は少し棘がある。
男の子は、小さな眉間にしわを寄せて、こちらを警戒しながら、母親の大きなスーツケースに精一杯に身を寄せる。彼の小さな手は、そこしか行き場がない。お母さんの左手はスーツケースのハンドルを握り、右手はスマホの画面をせわしなく撫でているから。
(勝手に私たちを悪者にしないでほしい)
心の中でひとつため息をつき、今にも泣きだしそうな男の子の前に、ゆっくりしゃがむ。
できるだけ優しそうに見えるように微笑んで。
「ぼく、これから飛行機に乗るんだよね?」
「……のる」
「飛行機は初めて?」
男の子は、小さなピースサインを私の目の前にずいっと差し出す。
「二回目かあ。前に乗った時、窓から外が見えた?」
男の子は、黙ったままうなずく。その目に、小さな光がともり始めた。
「くも、いっぱいだった」
「すごいね。だけど、夜は白い雲が見えないかもしれない」
「えっ」
「でも、その代わりに、この時間じゃないと見られない、すごいものが見られるんだよ」
「ほんと?」
「うん、お空に上がったら、下を見てみて。街がきらきらして魔法みたいに光ってるから」
「わかった」
男の子は、力強く頷いた。子どもは、明確な目標があれば、そこまで頑張れるのだ。前の店長が教えてくれた。
「行くよ」
会計を済ませたお土産の紙袋をがさがさと言わせて、母親が男の子を促す。
彼女は私を横目で見て、ぼそりと呟いた。
「こんなに並んでるのに、子どもと遊んでるとか最悪」
耳の奥で再生される『お客様の心に残るおもてなしを』というマネージャーの声とまとめて、聞こえないふりをして、完璧な角度のお辞儀で、お見送り。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
十二月二十九日。世間では多くの人が今日からお休み。国内線は怒涛の帰省ラッシュ。ラストフライトまで一時間半。これが今日の最後の波だろう。
最後のお客様を送り出し、レジを締める。
「はー、マジでやばかった。何なんですか今日」
「君もとうとう帰省ラッシュの洗礼を受けたか。大人になったね」
「いやもう成人してますって」
秋から入ったバイトの学生と軽口をかわす。これも大事な業務だ。
「まあでも、おかげで助かったよ。本当に良かったの? 帰省しなくて」
「大丈夫です。それに、彼女がうちで待ってるんで」
「はいはい。彼女の待つスイートホームへどうぞお帰りください」
「ハハ。それにしても店長、子どもの相手、上手でしたね。なんで結婚できないんでしょうね?」
「ひとこと多い」
学生君は、機嫌良さそうに笑いながら、帰って行った。
誰もいなくなった売り場で、今日の売上報告をパソコンに打ち込んでいく。今日は一応黒字。ほっとする。
店長という肩書はあるけれど、契約社員。
前の店長は、真面目で良い人だった。でも、彼は店長になって四か月持たなかった。不景気と人手不足の歪みを埋めるために、休みなく働き続けて。
「責任」って何だろう。
私は、学んだ。真面目ではいけない。良い人ではいけない。
生きていくために、割り切る。仕事も人づきあいも、その時間だけ役を演じて、その後は、忘れてしまえば良い。誰も、他人のことなんて気にかけていない。
皆、役を演じている。母親も、店長も。そうやって、世界は回っている。
本物じゃなくて良い。
壊れないように、本当の心は奥にしまっておかなければ。
たとえ、周りに誰もいなくなっても。
ブブと、パソコンの横に置いていたスマホが震えて、思わずびくりとする。
さっき退勤したばかりの学生君からのLINEだった。
『今、電車が止まりました。システムトラブルらしいです。店長、まだ知らないだろうと思って』
連絡する相手が私しかいなかったということだ。とりあえず、『ありがとう』と返信。
『上下線ともだそうです』
(暇人か!)
『彼女』と打ちかけて、消去する。彼を待っている『彼女』が、ただのAIであることを私は知っている。彼もまた、自分で決めた役を演じているのだ。
そういえば、年末年始の予定を聞かれなくなって、もう何年経つだろうか。あの頃、相手がAIなら、嘘の言い訳を重ねる必要もなかったのだろうか。
『しばらくかかりそうだね。でも、良かった。この時間ならもうフライトに乗り遅れた人はいないだろうから』
学生君から、くすくす笑いの絵文字が届いた。
(え? 今、笑う要素あった?)
『店長、こんな時でもお客さんの心配するんですね』
『職業病かな』
『やっぱり、店長、良い人ですね』
小さなため息がこぼれないように、天井を見上げる。
あの男の子は、地上にきらめく光の街を見ただろうか。




