第十話 ベンチの下の雪だるま
どこかのファストフード店の「スマイル」のように、今、「やさしさ」をスプーン一杯トッピングしてくれるサービスがあれば、私は迷わず注文するだろう。なんなら、ほんの一滴でも良い。
インスタントコーヒーをすくって、そんなことを考える。
お湯を注ぐ音。
ひと混ぜすれば、白いカップの内側で、コーヒーはぐるぐると渦を描く。
ひとりは寂しい。
それは認める。事実だから。
でも、仕方ない。
オーブントースターが、チンと音を立てる。
トーストとコーヒーの香り。
トーストは、角から食べるのが好きだ。
サクっという音。
自分が立てる音以外に、音はない。
ひとりきりの部屋。
一月三日。
去年までは、翌日から仕事始めだと気持ちを新たにしていた日。
休職してもうすぐ一年が経つ。
このままではいけないと、分かっている。
でも、動けない。
自分が情けなくなるから、できるだけ考えない。
逃げているだけだと、分かっている。
でも、踏み出せない。
月に一度の通院と買い物以外、ずっと部屋にいる。
ただ、何もない日々を過ごしている。
何かから、自分を守るために。
休職して以降、人づきあいはほぼ途絶えた。最初は「ゆっくり休んで」と言ってくれた人達も、時が経つにつれ、連絡は減っていった。
あの頃に比べれば、これでもだいぶましになったほうだ。
最初の半年は本当に酷かったから。
私の心に深い傷を負わせたのは、人の口から出た「言葉」。
そして、私の心を救ってくれたのも、文字で書かれた「言葉」。
辛いことは時間が解決してくれると言うのは、ある意味正解で、ある意味間違いだ。
別のことを考えるようにするのが一番の薬だ。
だから、ずっと本を読んでいる。
手元にある本を何度も何度も読み返して、それでも足りなくなって、スマホでネット小説を読み始めた。最新話まで行ったら、また最初から戻って読む。時間をかけて。
子どもの頃から本が好きだった。
学校の小さな図書室の本を、片っ端から順番に読んで、本棚をひとつずつ制覇した。
ただ、楽しかった。
文字の世界は、現実とは違う。
そしてそこに、私は存在しない。
だから、安心できるのかもしれない。
世間では、これを「現実逃避」と呼ぶのだろう。
不思議なことに、本を読んでいるだけなのに、お腹はすく。
最初の頃、食欲もなく体調を崩したことを考えれば、少しは成長したと思う。
空っぽの冷蔵庫を開ける。
もちろん、何もない。
最後の食パンは、今朝食べてしまった。
(しょうがない。買い物に行くか)
今朝は雪が降った。コートとマフラーと手袋で重装備する。
幸いすぐ近くに24時間営業のスーパーがある。徒歩三分しかかからないのに、そのわずかな距離さえ、必要に迫られなければ出て行かない。
ドアの内側で、ひとつ深呼吸をする。
(出て行けるようになっただけ、良しとしよう)
外は、冷たい。
近所の家々の車や庭木に、うっすらと雪が積もっている。
道路の雪は溶けているが、端の方にはわざとそこを歩いたような足跡が見える。
(その気持ち、分かるよ)
雨の後の水たまりに、わざと長靴で入ってみたり。
子どもの頃は、そんな些細なことが冒険だった。
大人になると、冒険は難しい。
勇気以外のリソースも必要だから。
スーパーに行く手前のバス停に、ベンチが一つある。
そのベンチの下に、白いものが見えた。
(猫?……にしては、小さいか)
近づいてみると、手のひらサイズの雪だるまだった。
(どうして、ベンチの下に隠したんだろう?)
ベンチの上に、うっすらと雪を集めた指の跡。
少ない雪をかき集めたせいか、雪だるまの小さな顔には、石の粒がちょっと混じっている。
溶けかけた透明な氷の結晶が、淡い光を反射している。
胴にはコンビニでもらうような小さなスプーンが一本さしてある。
まるで、こちらへ向かって片手を上げているようだ。
その瞬間に、理解した。
雪だるまが溶けないように。
少しでも長く、この世界に留まっていられるように。
もしかしたら、寒くないように?
もしかしたら、誰かに踏まれないように?
もしかしたら、ひとりでも多くの人に気づいてもらえるように?
頑張れ。
雪だるま。
君を作った人は、優しい人だ。
せっかくもらった命。
少しでも長生きして、この世界を楽しんでおいで。
ホッと温かい息が、思いがけず口から飛び出した。
それは白くなったと思ったら、すぐに冷たい空気の中に溶けていく。
世界はいつも優しいわけではないけれど。
この広い世界のどこかで、誰かの何気ない優しさが生まれている。
小さな優しさを、おすそ分けしてもらった気分だ。
ありがとう。
私ももう少し、頑張ってみるよ。




