「夏の姿」(木坂涼) 解説
いつ……「四月」
どこ……「梨園のめぐり(周囲)」
誰 ……「わたし」と「あなた」
どのようにどうした……「ゆっくりと」「歩いていた」
「四月」はこれまで閉ざされていたものが目を覚まし、何かが始まる月。また、「夏」はすべての物事が盛んで、生命力があふれる季節であり、それは人間・人生においても同じ。だからこの「わたし」と「あなた」は若いふたりだろう。「出会ってまだ日の浅い」ふたりは、「梨園のめぐり」を「ゆっくりと」「歩」く。ふたりは、仲睦まじく散歩でもしているのだろう。胸の弾みに反して歩みはゆっくりだ。初々しくも、心を許し合うふたり。
梨園には「棚作りの枝いちめんに白い花が咲いていた」。「白い花」はふつう、死者に手向けるものだが、この詩ではその意味では用いられていない。若いふたりの純粋さ、清廉さを表す。ふたりを、梨の花の甘く爽やかな香りが包む。
次の場面で「あなた」は突然「わたし」に戯れかける。「蝉の抜け殻」を「肩に」「のせた」のだ。この後に続くのは、ふつう彼女の悲鳴だろう。なぜなら、それは「一匹が脱ぎ切った全き姿だった」からだ。完全な蝉の姿。蝉そのものを目にした瞬間に、条件反射的反応をするはずだ。従ってここは、それまでの緩慢さ・穏やかさが破られる場面。いたずらな「あなた」。
「四月」であるから、まだ季節は春であり、その「蝉の抜け殻」は、前年の夏のものだ。
「一匹が脱ぎ切った」には、その主が幼時・過去を完全に振り払い、成虫・大人としてこの世にはばたいたことを表す。
おそらく女性である「私」は、とても落ち着いた人だ。彼のいたずらに、それほど驚きもせず、冷静にその殻を観察し、そうして思う。「わたしたち」もこの殻の主と同じように「ゆっくりと」殻を「脱いでゆく」のだと。それまでの殻を破り、自分たちも成長していくのだ。
彼女は決して慣れ合わない。ちゃんと自分を持っている。その独立・自立が感じられるのが、続く、「独り 独り」だ。私も自分の力で成長し、あなたも自分で成長するという意味。殻は自力で破らねばならない。そうしなければ、新しい自分になれないし、新しい世界に飛び立てない。
独立・自立での脱皮の後に「落とされ(残され)」た、「姿」は、「どんな」だろうと「抜け殻に開いた背を」「覗」く「ふたり」。それは、過去の自分をじっと振り返ることを意味する。過去があり、いま隣に愛しい人がおり、これから自分たちにはどのような未来が待っているのだろう、ということ。
明るい予感が、「わたし」にはある。なぜなら、「その(あなたの)」「ひたい(存在)」は、自分のすぐ「近」くにあるからだ。ときめきとともに、親近感・親密さを、「わたし」は「信じる」ことができる。互いの信頼感は確固たるものとなっている。
だから「わたし」は、「あなた」とともにこの「夏」に若々しく飛翔する。そのきっかけとして、「夏よ」、「私の背」を「ざっくりと」「開け」る力を与えてほしい。これまでの「わたし」をすっかり脱ぎ捨てて、新しい「わたし」になるために。「ざっくりと」はややグロテスクな表現だが、きっぱり、さっぱりと、これまでと決別し、ひとりの人間・大人として生きていくという決意表明の言葉だ。彼女は子供の殻をすっかり脱ぎ捨て、自分の両足でしっかり立ち、生きていこうとしている。その若々しい決意と希望がうかがわれる詩だ。
そうして、その隣には、「信じる」ことのできるパートナーがいる。白い梨の花はやがて実を結ぶ。ふたりはこれから、支え合いながらも自立して、生きていくだろう。
「わたし」はこの「夏」に、その「姿」を変える。「あなた」とともに、ひとりの人間・大人として、自立して生きていくのだ。