六 痛いの痛いの飛んでいけ
六 痛いの痛いの飛んでいけ
体に残る鈍い痛みで桐忠は意識が引き上げられるのを感じた。ぼんやりとした視界が徐々に明確になっていく。白い天井が目に飛び込む。そして心配そうにこちらを見つめる珠依がいた。
視線を動かして桐忠は自分の左手側を見た。欠損なんて無かったかのように、腕も、肩も、右の太腿も全てが元通りになっていた。ふーっ、と息をついてから珠依に尋ねる。
「どれくらい寝てた」
「ここに来てから一時間くらい、体の損傷が酷かったから、もっと寝てていいんだよ」
「痛くて眠れねぇよ……」
「あ、そっか、おまじないを聞く前に寝ちゃったもんね」
「あ?」
「今痛み止めのおまじないをかけてあげるからね、そのままでいて」
珠依は優しく微笑み、桐忠の左手を握る。するりと滑らかで柔らかい、馴染みのない感触に桐忠は居心地の悪さを感じた。
『痛いの痛いの飛んでいけ』
とうとう言ったか、と桐忠は思った。その子供騙しの言葉を自分自身にも使われると思ってなかった。ふざけているのか。どこまで平和ボケしてるんだ。今までの不満と、体の痛みで心がが苛立つ。桐忠は口から感情の全てが飛び出した。
「ああ、そうだな、全部お前に飛んでっちまえ」
「え」
ひゅ、と珠依の口から空気が漏れる音がした。そんなこと今まで言われたことがなかったのだろう。驚いたのか目が大きく見開かれ、びきん、と体が硬直した。
そしてそのまま床に崩れ落ちた。
「……は?」
思わぬ出来事に桐忠は飛び起きた。珠依に近づいて、体をゆする。しかし、口から「う、」「あ、」という呻きが漏れ出るだけで、起き上がることはなかった。
持病かなにかか、とりあえずこのままにしておくのはまずい、人を呼ぼう、そう思い顔を入口に向けた。珠依を抱えて外に出ようと戸に手を伸ばす。すると先に目の前の戸が開かれた。
「桐忠さんのご飯持ってきました!」
「おい!」
目の前に現れた葉祥に桐忠は詰め寄る。
「こいつ様子が変だ!」
「珠さま!?」
葉祥は夕食をそばの机の上に起き、桐忠の腕から珠依をかっさらった。改めて見るとどんどん顔色が悪くなっていっている。珠依の口から空気が抜けると同時に音が響く。
「……へや、でて」
「わかりました」
葉祥は珠依を抱き変えて部屋を飛び出した。救護室から一歩外に出ただけで、珠依の顔色が多少マシになった。
「珠さま、お部屋をお借りします」
「うん……」
「桐忠さん、そこの戸を開けてください」
「こ、ここか」
目の前の戸には鍵がかかっていなかった。がちゃりと戸を開けて葉祥を通す。飛び込んだ葉祥の後に続いて桐忠は部屋を覗いた。すぐ近くに二人がけのソファーがあり、そこに珠依は寝かされた。
「桐忠さん、まさかとは思いますが、あの部屋で珠さまに何か言いましたか」
「……言った」
「治療に必要です、詳しく話してください、あの優しいおまじないが、こんなふうになることは無いんです」
「……全部お前に飛んでけって」
「は」
カッ、と葉祥の目が開かれた。普段の温厚で明るい様子からは考えられないくらいの怒りが瞳に込められる。その気迫に桐忠は思わず後ずさった。しん、と静まり返った空間に、消え入りそうな声が響いた。その瞬間、弾かれたかのように葉祥は珠依の元に近づいて行った。
「よう、しょう……」
「珠さま!」
「……、……」
「……いいんですか?」
「……」
「はい、珠さまの思う通りに」
葉祥は踵を返して部屋を出ていこうとした。
「どこ行くんだ」
「珠さまの兄上である小千谷様に、来ていただきます、貴方はここで珠さまを見守っててください」
ぴしゃり、と葉祥は言い放ちすぐに部屋を後にした。
静まり返った部屋で、珠依の苦しそうな呼吸音だけが聞こえる。桐忠は思わず近づき、ソファーの上の珠依を見る。
それが真っ向から、まじまじと初めて見る自分の主の顔であった。
元々色白なのだろうか、肌は白を通り越して青くなっている。唇も血の気が引いていて青よりも灰色に近い。目元に引かれた、魔除け用と思われる紅だけが、血のように赤く、いやに生々しく感じた。
観察しているうちに、閉じていた瞼がゆっくりと薄く開く。あぁ、思ってた通りの若い小娘だ。そう思うのに、彼女の黒曜石の様な瞳には、酷く狼狽した桐忠の姿が映し出された。
「お前、持病かなんかあるのか」
「……」
「それとも俺が、俺が言った言葉か」
「……」
「教えてくれ」
黒曜石の瞳が、迷うように揺れる。逡巡の後、相変わらず血の気のない唇から小さな掠れた声が聞こえた。
「あの部屋には、おまじないをかけてるの」
「まじない?」
「言霊をつよくする、おまじない」
「は」
ひゅ、と自身でも意識しないうちに桐忠は息を飲んだ。では先程こいつが倒れたのは、こいつの容態が悪いのは。ぐるんぐるん、と頭が痛いほど回転していく。
そういえば、先程まで感じていた痛みがまるで何処かへ飛んでったかのように無くなっている。葉祥が言っていたおまじないというのは本当だったのでは。あのおまじないは本当に鎮静効果がある言葉だったのではないか。
人である司書の言霊でも鎮痛の効果がもたらされるならば、精霊である自分の言霊だとどうなるのか。「全部お前に飛んでいけ」は、言葉通りになったのではないか。
「きりただくん」
ふわ、と頬に柔らかいものが触れ、思考が遮断された。目の前の黒い瞳には滑稽なくらい困惑した自分が映っていた。「まだ痛い?」と滑らかな指がゆったり頬を撫でた。
「……いや、」
「よかった、じゃあお願い」
「何だよ」
「何かおはなしして、このまま黙ってたら寝ちゃう」
なにか話せと言われても、何を話せば良いのか。そう思いながら桐忠はぐるりと当たりを見回した。
「ここ、初めて入った、知らねぇ部屋だ」
「……」
「お前の部屋か?」
小さく目が伏せられた。どうやら肯定の意味らしい。部屋は本棚にぎっしりと本が詰められている。
本の背表紙を何気なく眺めた。
「植物図鑑、牡丹について、……こっちは草の図鑑か、四葉のクローバーにその論文?」
「……」
「ここ、図書館の蔵書とは関係ない、お前だけの資料館ってとこか」
「そ」
「というか、菊だのむくげだの、お前と契約した宿者にまつわる資料ばっかじゃねぇか……要石まである」
横に視線をずらせば、長机にも本や資料が積み重なって置かれている。周りには紙やノートも散乱しておりそれらに文字がびっしりと書き連ねていた。
机の真ん中に置いてあったのは、中村半次郎にまつわる資料だった。桐忠のことについて調べて、まとめていたのだろう。
「散らかってて、ごめんね」
「お前これ全部読んで一人で纏めてるのかよ」
「みんなのこと、知りたいから」
「図書館の運営に宿者の管理もあって、こんなことやる時間ないだろ」
「うん、仕事の前とか、終わった後、寝る前とかも、それに本人に色々聞いちゃうこともあるから」
こいつは、この主はただの浮かれた小娘じゃない。桐忠はもう一度珠依の顔を見た。
目尻の紅に気を取られて分かりにくいが、うっすらと目元に隈がある。恐らく今回の件でできたのでは無い。自身の時間を、睡眠時間でさえ削って俺たちの研究をしているのだろう。
「なぁ、さっきの言葉だけどよ……」
「珠依、おまたせ!」
よく通る声がして、戸が開き、一人の男性が顔をのぞかせた。
珠依の双子の兄、小千谷であった。
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