一 書架にて
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ああ 口惜しや 口惜しや
我が思ひ人の願い 遂げることかなはず
ああ 名残り惜しや 名残り惜しや
この世を 去らねばならぬ その哀しさよ
逢ふことも 言ふことも 赦されぬまま
ただ 血にまみれし願ひを
残すばかりなり
ならば 残そう 怨嗟の証
血を 血を 怖れし者に
忘れぬように 刻むために
一 書架にて
血とは、
人間の生死と深いかかわりをもつ血は古くから人間に恐れられ崇められてきた。
ときには血に神聖な霊的な力をみいだし、ときにはそれを忌むというように、血にはさまざまな観念が付与されている。
『日本大百科全書』より抜粋
そりゃあ汚ねえし忌まわれる存在だよな、と納得して本を閉じ、棚に戻す。移動図書館『玖燈籠』の書架にて調べ物をしていたのは、宿者の桐忠である。
彼自身はあまり本を読まない。しかし今日はどうしても調べておきたいことがあり、こうして書架に訪れていたのだ。
なぜ桐忠がここにいるのかと言うと、少し日を遡る。一週間ほど前、桐忠はとある歴史の監査任務中に紙魚からの襲撃にあい、救護室へと運ばれた。そこで救護室にかけられたおまじない、主である珠依のこと、筆継である牡宵との関係性について、認識を改めることになったのだが、それはまた別の話である。
ともかく、その一日で桐忠は、ただの小娘だと思っていた珠依に対する考え方が、天地が入れ替わるほどに変わった。
しかし、一つだけ引っかかっていたことがあった。というのも、主である珠依は、血を流すことを極端に避けているのではないかと感じたからである。
この前なら、血を見るのが怖いのだと鼻で笑っていたところだろう。しかし、珠依の人となりを知った今、血を避ける主に違和感を持ったのである。
珠依は宿者である自分たちが傷付くのを、何よりも避けたいと思っている。しかし、紙魚との戦いでは負傷・破損は当たり前。それを綴り治すのも、司書の立派な任務である。
そのため、多少の流血はどんなに血が苦手な司書だろうと、割り切っているはずなのだ。自分の責務を全うする珠依なら、それも受け入れるはずだ。では何か理由があるのではないか、と桐忠は考えた。
というわけで、書架にて人と血について、司書と血についての関連書籍がないのかを、調べようとしていたのである。
だが、血と言っても調べるには多くの書籍にあたる必要があった。医学的なのか、宗教的なのか、文化的なのか、はたまた時代観によるものか。多角的に調べる必要があると分かり、桐忠はため息をついた。
「めんどくせぇ……」
「調べ物なら手伝おうか」
少し離れたところから声がして振り向く。そこには牡宵が立っていた。今日は紫紺色の髪を下ろし、いつもの筆継の仕事をする格好だった。なんと答えようか桐忠が考えているうちに、牡宵は目の前にやってきた来ていた。
「何かお困りかな?」
「……少し調べたいことがあったんだけどな、行き詰まってて」
「そうだったのかい、それなら手伝おう、何について知りたかったんだい?」
「血について」
血について?と同じ言葉を繰り返す牡宵を後目に桐忠は思考をめぐらす。ここまで話すならおそらく調べる理由も聞かれるだろう。そうなって素直に話しても良いべきなのか。そこでふと思考を止める。耳によく馴染む声が、ふと聞こえてきたような気がした。
『素直に言葉にしてみようよ、その方が手っ取り早い事もあるだろうしさ』
数日前に、桐忠と珠依が約束したことであった。そうだな、聞くだけ聞いて見りゃあいい、気のせいなら詫びればいい。もし理由があるとするなら、その場合は、首を突っ込んだ責任をもって、自分も何か力になればいい。そう思い桐忠は牡宵に顔を向けた。
「牡宵、単刀直入に聞く」
「僕に答えられることなら」
「珠依は、なんで異様に血が流れるのを避ける?」
薄く微笑んでいた牡宵の口元が真横に結ばれる。じっ、と氷のような瞳に見つめられ、桐忠は目を逸らさずにいた。
「なぜ、そう思った?」
「初めに会った時に言ってたんだ、血が苦手だって、その時は文字通りの意味だと思った、けど」
「けれど?」
「そんな訳ないと思った」
「血が苦手な司書も多いと思うが?」
「あの人は自分の感情よりも司書であることを優先させる人物だと思った、だからあの言動が引っかかったんだ、珠依なら俺らから流れた血でさえ、大切に思うだろ、違うか?」
そう答える桐忠に牡宵は苦笑する。何か変なことを言ったのだろうか。でも的はずれなことは言っていないはずだと、桐忠は牡宵を見つめる。降参だと言わんばかりに、牡宵は肩を竦めた。
「そこを突かれると否定できないね、お見事」
「やっぱり何か理由があるのか」
「あるには、ある、と答えようか、けれど教えていいものかどうか……」
牡宵はそう言って顎に手を当てる。桐忠は慌てて付け足した。
「別にこれを言霊蔵の本部に連絡しようとは思ってない、俺個人が気になってるだけだ」
「おや、てっきり一言主様からのお達しかと」
「違う、俺にはもう報告義務はない、もうここの宿者だ」
「なるほどね……そういうことなら話してもいいと思うが、知って君個人はどうするんだい?」
思いもしなかった質問に桐忠は答えが詰まった。ただ気になっただけで聞くだけでは、答えてくれそうにない。では桐忠は知った上でどう行動したいのか、それを考えて口にした。
「詳しくは分かんねぇ、知りたかっただけだ、だが、知った上で俺に出来ることがあるなら、手伝いたい」
そう答えると牡宵は驚いた顔をした。そんなに合わないことを言ったろうかと思っていると、牡宵は声を落として話してきた。
「随分肩入れするじゃないか、……そこまで珠様に入れ込む理由は?」
「安心しろよ、あんたみたいに惚れ込んでる訳じゃない、この前の借りを返さないと気持ち悪いだけだ」
「な」
途端に牡宵の顔が赤くなる。普段は落ち着いているのに、珠依のことになると、てんでボロが出るのだ。最終確認なのか、念押しするかのように、牡宵は尋ねる。
「じゃあ、珠依様に対して、特別な思い入れなどはないんだね?」
「ねぇよ、司書として尊敬はしてるけどな」
「そうか、……そうか、それならいい」
「何だよ、俺が珠依のこと好いてるのかと思ってたのか」
「い、いや、そんなことは」
ごほん、と咳払いをして牡葉が仕切り直す。
「と、とりあえず君がこの移動図書館や珠様に害をなそうとしていないことが分かった」
「じゃあ教えてくれるのか?」
「それとこれとは話がべつさ、この件は僕だけでは判断できない、というわけで珠様の元へ行こう」
そう言って、牡丹宵は裾を翻して先立つ。桐忠も黙ってその後を追いかけて行った。
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