Midnight Loop: 羽田から渋谷へ①
Tokyo Express Night ―
距離:30km|所要:約30分(深夜首都高)|景観:東京湾岸→汐留→環状内回り→渋谷
『Midnight Loop: 羽田から渋谷へ』
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羽田空港第1ターミナル、深夜0時03分。
到着フロアのガラスの壁が、内部の光を柔らかく街へ放っていた。
そこに吹く風は、海と滑走路の気配を含んでいて、どこか金属的な冷たさを孕んでいる。
シャッターを降ろしたJALのカウンター、消えかけたディスプレイ。
照明は控えめで、動くのは空港職員か、深夜便で戻ってきた数人の旅客だけ。
彼女はスーツケースを引きながらロータリーへ出た。
並ぶ黒塗りのJPN TAXIの列、その中の一台がライトを点けて前へ出てくる。
その瞬間、空港という一大構造物の中で、わずかに感情のようなものが動いた気がした。
「渋谷まで。湾岸線からC1、内回りで。」
そう言って乗り込むと、ドアが音もなく閉まり、空気が切り替わる。
そこからは、東京という巨大な“都市の血管”を走る、静かで濃密な時間の始まりだった。
出発して間もなく、右手にはP1駐車場ビル、立体的な鉄骨構造の奥で赤い「P」のサインが点滅している。
左手には、JALとANAのサテライト棟が並ぶ滑走路の外縁が広がる。
羽田の構造は海に囲まれており、道路もまた埋立地の上を縫うように走っている。
誘導標識が現れる。
「第1ターミナル →」「銀座・芝浦 →」「C2中央環状 →」
彼女の目線は、ガラス越しに遠くの明かりへ向けられていた。
コンビナートのタンク群、煙を吐く塔。
その下をくぐるように、高速道路のランプウェイが滑らかに曲がっていく。
この都市では、道路すら美しい。
少し先で、湾岸線(首都高B)に合流。
右手には大井ふ頭のコンテナヤードが広がり、無人のガントリークレーンが赤い警告灯を点滅させている。
音はなく、ただ、巨大な都市構造が静かに呼吸している。
ここからは、まっすぐな道がしばらく続く。
速度が乗る。エンジン音が一段、低く唸る。
左手には京浜運河、そしてその向こうに羽田空港第3ターミナルの遠景。
飛び立った機影が一機、湾の向こうに小さく光の尾を引いた。
右手には城南島、その向こうは黒々とした東京湾。
夜の海は見えないが、海面に反射する光の断片から、その存在だけが確かに感じられた。
運転席ではFMラジオが小さく流れていた。
TOKYO FM、夜中のクラブ・ジャズ。
ベースのリズムが、アスファルトの振動と溶け合う。
彼女は窓に額を寄せ、息で曇ったガラスに円を描いた。
辰巳JCT、芝浦方向へ。
左に分かれた道を追うと、タクシーは次第に都市の中心へ向かって昇っていく。
そして、視界が一気に開ける瞬間が来た。
レインボーブリッジ。
彼女は、思わず背筋を伸ばす。
眼下に広がるのは、暗闇に浮かぶお台場の人工島。
観覧車はすでに止まり、ビルの明かりもまばらだが、その沈黙が逆に深みを与えている。
海の上を走る高架の道。
風は強く、タクシーの車体がわずかに揺れる。
右手にレインボータワー、左手には晴海、勝どきの高層マンション群。
夜空を突く光の帯。その背後に、さらに遠くの銀座の灯りが重なる。
都市の階調が、幾重にも折り重なっている。
橋を渡りきると、東京はその姿を変える。
タクシーは汐留JCTにさしかかる。
正面に現れるのは、カレッタ汐留。電通本社の巨大な壁面。
その下をすり抜けるように、道は分岐する。
左へ行けば築地、勝鬨、銀座。
彼女たちは、右へ──C1内回りへと合流。
コンクリートに覆われたトンネル区間。
音が変わる。
外の世界は断ち切られ、ただ車内の呼吸音と、エンジンの回転数だけが支配する。
だが、それは恐ろしい静寂ではなかった。
むしろ、胎内のような安定がそこにはあった。
外堀通りの真下、都市の中心軸を回る環状道路。
タクシーは静かに、しかし確実に、丸の内、霞ヶ関、溜池山王を越えていく。
右手に見えるのは、皇居の森。
都市の中心にあるこの深い闇は、どこか異質で、神秘的だった。
南青山あたりまで来ると、道の上に再び高層ビルの輪郭が現れ始める。
青山一丁目の青い光、左手には赤坂御所の樹々。
その向こうに、東京ミッドタウンのガラスが夜風に濡れていた。
渋谷ランプ。
都市の軸から、少しだけ逸れると、そこには別の表情が待っていた。
道玄坂下。
ハチ公口は既に終電が終わり、人影はまばら。
だが、スクランブル交差点の電光掲示板はまだ煌々と街を照らし、
24時間営業のファストフードの窓際には、ノートPCを広げた若者がぽつりといる。
タクシーが停車したのは、MODIビル近く。
運転手がメーターを止める音が、やけに静かに響いた。
「3,980円ちょうどです。」
カードをかざし、彼女はドアを開けた。
外は、思ったよりも暖かかった。
渋谷の坂が、まるで「おかえり」とでも言うように、なだらかに上っていた。
彼女はスーツケースを引いて、しばらく動かずにいた。
都市の音。
車のエンジン、誰かの笑い声、ビル風、信号音。
それらが、まるで一曲のジャズのように響いていた。