チュリッヒ空港からグリンデルワルト経由でユングフラウヨッホへ⑤
ユングフラウヨッホのスフィンクス展望台
【09:00|スフィンクス展望台への昇降リフト】
カフェで身体が温まったあと、
「SPHINX OBSERVATORY」の案内に沿って、無人の昇降リフトに乗り込む。
リフトは音もなく上昇し、わずか25秒で高低差100メートルを一気に駆け抜ける。
壁の内側に走る数字が「3400」から「3500」へと静かに変わる。
それだけで、自分の存在が薄くなっていくような不思議な感覚を覚える。
【09:03|展望室に到着――地上ではない場所】
扉が開くと、そこはすでに「地上」ではなかった。
360度のパノラマが、ガラス越しに広がっている。
西にはメンヒとユングフラウの頂。
東に向かえば、アレッチ氷河がゆっくりと、しかし確実に“下へ”と流れていく。
展望台は完全に密閉されているが、空気はどこまでも透明で冷たく、
まるで「空そのもの」がガラスの中に入り込んでいるようだった。
人の話し声が響かない。むしろ、すべてが吸い込まれていく。
それがこの空間の“重力”なのかもしれない。
【09:10|屋外デッキへ――真の風に触れる】
外に出るドアは厚く、開くたびに内部の空気がわずかに逃げていく音がする。
一歩踏み出すと、そこには文字通り“剥き出しの風”がいた。
突風ではない。ただ、すべての隙間に入り込むような細い風。
手すりに触れると、金属の冷たさが皮膚を焼くように刺さる。
身体は防寒していても、顔だけがむき出しで空と接していた。
視界には、境界がない。
どこまでも広がる雪と氷。
そしてその上に、異常なまでに深い青空。
この場所には「高さ」ではなく、「静寂の密度」がある。
人はこの上に立っているのではない。
借りているだけだ――そう感じさせる何かが、ここにはある。
【09:20|科学と空とのあいだ】
屋内に戻ると、壁には観測機器の解説。
スフィンクスは単なる展望台ではなく、世界最上級の高所天文・気象観測所でもある。
コズミックレイの観測。大気中微粒子の測定。
人が感じる「空の美しさ」の背後にある、理知的なまなざしがここにある。
宇宙と地球をつなぐ場所。
そのどちらにも属さず、ただその間に存在するプラットフォーム。
そしてその“はざま”に、自分もまた数分間、立たせてもらっている。
【09:35|下りのリフトへ――その場を後にするということ】
昇ってきたときとは逆方向に、リフトが滑るように下降する。
身体はほとんど何も感じていないのに、内面の深部だけがわずかに揺れている。
“あの静寂”が身体から離れたあとに残ったのは、
どこか透き通った孤独のような、澄んだ余韻だった。