チュリッヒ空港からグリンデルワルト経由でユングフラウヨッホへ②
【グリンデルワルト到着】から【ハイキング開始】まで
【13:30|グリンデルワルト到着――絵はがきの中の呼吸】
A8号線を抜け、トンネルをひとつ越えると、
その先に現れたのは、まるで絵の具で塗られたような山の風景だった。
緑の斜面が柔らかく波打ち、その上に刺さるように立ち上がる白い峰――アイガー。
雪と岩肌のコントラストが、現実のものと思えないほど鮮明だ。
村の入り口で車を停め、一度エンジンを切る。
その瞬間、あたりの音がすっと耳に戻ってきた。風の音。牛の鈴。教会の鐘の残響。
あらゆるものが「音楽」ではなく「空気」として漂っている。
チェックインは、木組みの建物の小さなレセプションで。
受付の女性はにこやかに「Grüezi!」と迎えてくれ、
「今日は天気が完璧。歩くなら、今がいちばんよ」と、地図を開きながら教えてくれる。
【14:15|村の背後、ハイキングの入り口へ】
バックパックに水と軽い防寒具、地図を詰め直し、宿を出る。
家並みの背後から延びる舗装されていない小道が、すでに静かに始まっていた。
足元には栗色の土の道、両脇には野花と、草の上を跳ねる小さなトカゲたち。
空は、ほんのわずかに薄曇り――逆にそれが光を拡散させ、あたりを柔らかく照らしていた。
振り返れば、グリンデルワルトの村がミニチュアのように下に広がり、
その向こうには、先ほどまで走ってきた湖と道路が、記憶のように折りたたまれている。
【15:00|“歩く”という、最も静かな会話】
小道はやがて森へと入っていく。
針葉樹の香りが風に混じり、足音は苔のクッションに吸われる。
ここまで来ると、もう誰の気配もない。
鳥の声。枝の軋み。
時おり、遠くの谷からこだまする落石の音が、自然のスケールをそっと教えてくる。
分かれ道に立ち止まり、地図を見上げる。
目的は山頂ではない。ただ、「この空間の中を歩くこと」そのものが目的になるような時間。
ふと立ち止まって、水をひと口。
湿り気のない冷たさが喉を過ぎると、身体の感覚がひとつずつ、風景と重なっていく。
【15:45|開けた尾根、眼下の広がり】
森を抜けると、視界が突然ひらけた。
草原の起伏の先に、ベルナー・アルプスの山並みが、劇場の舞台のように並んでいる。
雲が流れ、陽が当たる場所と陰る場所が、まるで手で撫でたように移り変わる。
斜面には、羊たちが点在し、ほとんど動かない。
風が草を揺らす音だけが、静かに、絶え間なく続いていた。
手をポケットに入れたまま、その場に立ち尽くす。
言葉が出てこない。けれど、なにか「言葉にならないもの」と、確かに会話している感覚。
ここに来てよかった。
それは感動ではなく、もっと根の深い、静かな同調だった。