【コミカライズ】私がヒロイン?いいえ、ごく普通の令嬢です
「貴方も転生者なんでしょう!?原作改変なんて許せない!ヒロインならヒロインらしく、逆断罪されなさいよ!!」
学院の卒業パーティで、突如降りかかってきた災難。
下位貴族らしくモブに徹していたアイリーン・バックリー男爵令嬢は、全く身に覚えのない罵倒に目をぱちくりとしながらこう答えた。
「えっと……どなたかとお間違えではないでしょうか?」
◇ ◇ ◇
幼少期のアイリーンの容姿を一言で言い表すなら、「天使」である。
生まれたばかりの娘を見て、あまりの可愛さにバックリー男爵は胸を押さえて崩れ落ちた。祖父母は「天使だ……天使がいる……」と絶句し、やっぱり崩れ落ちた。まあ、多分に親バカ祖父母バカも含まれてはいただろうが。
ともかく、そのくらい愛らしい赤子だったのである。
アイリーンが長じるにつれ、その美しさは際立った。
ピンクブロンドのふわふわの髪に象牙のような白い肌、くりくりの大きな瞳はエメラルドグリーン。
少し舌ったらずのしゃべり方も、その愛らしさを一層際だたせる。
彼女は愛された。両親や兄に祖父母、使用人。みんな彼女に夢中だ。
「アイリーンを嫁になんて出すものか!ずっとこの家にいておくれ」とバックリー男爵は幼い娘に頬ずりした。
だが何事も度が過ぎれば、よからぬ結果を招くのが常である。
アイリーンは徐々に、我が儘な面が目立つようになってきた。あまりにも溺愛された故である。
家族の中で唯一、母親のオーレリアだけがそのことに気付き、憂慮した。幼いうちはいい。我が儘も幼子の愛嬌のうちだ。
だがこのまま成長すれば――傍若無人な令嬢が出来上がってしまうことは容易に想像できる。
そうなる前にと、オーレリアはアイリーンを厳しく躾けようとしたが、難航していた。
母に叱られるとしばらくはしおらしくするものの、父や祖父母が甘やかすものだからどうにも効果が無い。
7歳になった頃、ついにトラブルが起きた。
アイリーンが友人のご令嬢を泣かせてしまったのだ。
どちらがブランコへ先に乗るかという、たわいもない言い合いだったらしい。いつも家族から最優先に扱われてきたアイリーンは、自分が譲られないことに腹を立て、友人を突き飛ばし、転ばせてしまった。
幸い双方に怪我は無かったけれど、友人の親も男爵なのだ。貴族社会であることないことを言いふらされたら……アイリーンだけではなく、バックリー家だってお先真っ暗だ。
それをよく理解していたオーレリアは、友人家へ飛んでいって土下座した。
必死で頭を下げる母を見て、アイリーンはようやく事の重大さを理解したらしい。
「ごべん゙な゙ざい゙ーーー!!」
鼻水を垂らしながら大泣きする少女。美貌がかなり台無しである。
それを見た友人母子はドン引きしながらも、謝罪を受け入れてくれた。
さらに、オーレリアは罰として娘へ孤児院での無料奉仕をさせることにした。荒療治である。
父や祖父母は「厳しすぎる!」「アイリーンに奉仕活動なんてまだ早い!」と反対したが、オーレリアは鬼の形相で黙らせた。
孤児院では、子供たちと一緒に洗濯や掃除をさせられる。
最初、アイリーンは何の役にも立てなかった。それはそうだ。家事なんて、今まで侍女や使用人がやってくれていたのだから。
孤児たちと接し、ちょっとずつ仕事を覚えていくうちに。彼女は自分がどれだけ恵まれた環境にいたか、理解した。
自分を取り巻く優しい世界。それは家族や使用人が作り上げたものだったということも。
それ以来、アイリーンは気遣いの出来る真面目な令嬢になった。元来、素直で優しい性格だったのである。
父親は「我が儘なアイリーンも可愛かったけれど、いまのアイリーンも淑女らしくていい」と大喜びだ。
貴方が甘やかしたせいで要らぬ苦労をしたのですよ、と妻にさりげなく釘を刺されてはいたが。
さてそれから数年経ち、アイリーンは貴族学院へ入学する年齢になった。
ピンクブロンドの髪に大きな瞳はそのままに、背は伸びて体型はより女性らしく。この年齢特有の、あどけなさと艶が危うい均衡を保つ佇まい。
「天使が女神に変貌した」と父や兄は大絶賛であるが、母オーレリアはひどく心配だった。
学院には年頃の男子が山ほどいるのだ。よからぬ令息に目を付けられるかもしれない。オーレリアは切々と娘へ言い聞かせた。
「アイリーン。貴方の外見に惹かれて言い寄ってくる殿方がいるかもしれませんが、むやみに親しくなってはいけませんよ。貴族の令嬢として、貞節は守らなければなりません」
「はい、お母様」
「学院には高位貴族のご令息ご令嬢もたくさんいらっしゃいます。男爵家などいわば最底辺。自分の立場をよく理解し、謙虚に振る舞いなさい。それがきっと、貴方の身を助けるわ」
「肝に銘じます、お母様」
オーレリアの懸念は的中した。
何人もの令息たちが麗しいアイリーンと友人になりたいと、あわよくばそれ以上の関係になりたいと近寄ってきたのである。
アイリーンは母親の言いつけを守り、「婚約者でない方と、むやみに親しくなるなと言われてますので……」と断った。
それでもしつこく彼女を口説きにかかった令息もいた。アイリーンは迷惑がっているのだが、気付かないのか、あるいはそれでも口説き落とす自信があるのか。どちらにしろ、アイリーンの周囲はひどく騒がしい。
そうこうするうちに、アイリーンに対する嫌がらせが起きた。荷物を隠されたり、通りすがりにぶつかられたり、カフェテリアで熱いコーヒーを掛けられたこともある。
しかもその騒ぎをたまたま、王太子アルヴィンに見られてしまった。
生徒会長でもあるアルヴィンは義憤に駆られ、「虐めの犯人には厳罰を加える!」と息巻く。側近たちも積極的に動き、アイリーンを守ろうとした。
王太子一派が、ちょくちょくバックリー男爵令嬢と共にいる。
そんな噂はあっという間に学院中に広がった。
勿論、良い噂ではない。
「男爵令嬢の癖に王太子殿下へ言い寄っている」「側近たちまで篭絡して、侍らせているらしい」という、事実無根の悪評だ。
「アイリーン様?ちょっといいかしら」
ある日、アイリーンは令嬢の一団に呼び出された。
その先頭は王太子の婚約者、クラリッサ・レヴァイン公爵令嬢。
うしろにいるのはクロネリー侯爵令嬢にキンケイド伯爵令嬢、ロートン伯爵令嬢。それぞれ、王太子側近の婚約者たちだ。
そうそうたるメンバーに、アイリーンはすっかり怯えてしまっている。
「貴方、ずいぶんアルヴィン様と親しくなさっておられるようですわね?ご自分の身分と振る舞いというものを、もう少し省みたら如何かしら」
「愛妾の座でも狙ってらっしゃるの?」
「それどころか、側近の方々とも親しくなさってるとお聞きしましたわ。ずいぶん、殿方を魅了することに長けていらっしゃること」
「本当に男爵家のご令嬢なの?娼婦の間違いではないかしら」
ねちねちと厭味をぶつけられたアイリーンは、みるみるうちに青くなった。
「申し訳ございません!!!」
アイリーンはスライディング土下座をしながら叫んだ。
それはもう、流れるような所作だった。母親の教育の賜物である。
「クラリッサ様や皆さまに於かれましては、私のような慮外者が殿下の側をうろついてさぞやご不快に思われたと存じます。私はどのような罰でも受けます!だからどうか、実家のバックリー男爵家だけはお目こぼしいただきたく……」
地に頭をつけながら懇願するアイリーンに令嬢たちは困惑し、「ええ……」と互いに顔を見合わせる。
「殿下や側近の皆様は、私がトラブルに巻き込まれていることを知ってご助力下さっただけなのです。悪評が立っていることは存じておりますが、決してそのように不埒な行為はしておりません。どうか、それだけはご理解下さいませ!」
気がそがれたのか、令嬢たちは「ま、まあ、分かればいいのよ。今後の振舞いに気をつけなさいな」と言いながら去っていった。クラリッサだけは、アイリーンを憎々しげに睨んでいた。
その後も、アイリーンは何かとクラリッサに絡まれた。
廊下ですれ違えば睨まれる。突如「上辺だけ取り繕ったって、私は騙されませんわよ!」と怒鳴られることもあった。そのたびにクロネリー侯爵令嬢たちが「まあまあ、落ち着いてくださいませ」とクラリッサを連れ去るので、大した問題にはならなかったが。
アイリーンは想定していたよりも、ずっと常識的な娘らしい。
クラリッサ以外の令嬢たちはそう判断したのだ。
各々の婚約者ともよく話し合い、誤解は解けたらしい。
王太子や側近たちだって年頃の男子だ。美しい少女の前で、ちょっと良い所を見せたいと張り切ってしまったのは仕方がない。だけど決して浮気心があったわけではないと分かって貰えたのだ。
側近の一人は「俺を愛するあまりに嫉妬してくれたのだな!」とポジティブに解釈した結果、婚約者との愛が深まったらしい。結果オーライである。
クラリッサだけは相変わらずアイリーンを敵視していた。アルヴィンは何度も誤解だと説明したが、話し合いは平行線だ。そのせいで、最近では婚約者との仲がぎくしゃくしている。
「悪い娘じゃないんだけど、昔から思い込みが激しいんだよね。アイリーンやバックリー男爵家に弊害が無いようにこちらも気を付けるから、心配しなくていい」と話すアルヴィンの、少し困ったような顔が印象的だった。
ちなみに、アイリーンへの嫌がらせについては既に解決済みである。犯人は、自分の婚約者がアイリーンへ惚れてしまったことを妬んだ令嬢たちだった。彼女たちはアルヴィンから厳重注意の上、謹慎処分を言い渡された。
悪評の方も、徐々に収まって行った。
王太子たちと同学年であるアイリーンの兄が、評判の打ち消しに尽力したのだ。父親同様に彼女を溺愛する兄は、「妹の危機!」と奔走してくれたらしい。
クラリッサとは相変わらずだけれど、アイリーンはあまり気にしないようにした。何せ、アルヴィンもクラリッサも最終学年なのだ。あと半年我慢すれば彼らは卒業する。
王太子も公爵令嬢も、男爵家にとっては雲の上の存在だ。学院の外に出れば、顔を合わせることも無いだろう。
そんな風に考えていたのだ。
そして、冒頭の卒業パーティへと物語は戻る。
といっても卒業するのはアイリーンではない。上級生だ。
式典の後、学院ではパーティが開かれる。卒業生とその親のみならず、在校生も参加できる大規模なものだ。
特に今年は王太子やその側近、婚約者が卒業生に含まれるとあって、かなり気合いの入った準備がされていた。在校生の令嬢たちも、ここぞとばかりに着飾って会場入りしている。
我らがアイリーンも、白く大きな襟が印象的な可愛らしいドレスを着て両親や兄と共に参加していた。
なごやかに歓談する参加者たちの輪に、突如としてざわめきが起きる。
その中心にいたのは、たった今会場入りしたクラリッサ・レヴァイン公爵令嬢。
そして彼女をエスコートしているのは、第二王子ブライアンだ。
それを見た者たちは内心、首を傾げる。
彼女はなぜ第二王子と共にいるのだろう?レヴァイン公爵令嬢の婚約者は王太子殿下ではないのか?と。
二人は周囲の喧噪をものともせず、ゆっくりと舞台へと歩み寄った。そこに立つ、王太子アルヴィンのもとへ。
「クラリッサ……説明して貰おう。なぜ婚約者の俺ではなく、ブライアンと共にいるのだ?」
「あら。ご自分でお分かりなのではなくて?」
「さっぱり分からないが」
「兄上!貴方はクラリッサという婚約者がいながら、男爵令嬢如きにうつつを抜かしているそうではないですか。しかも、その令嬢を虐めた罪をクラリッサへ被せようとしていると聞きました。俺は、弟として恥ずかしく思います」
「この場で私との婚約を破棄し、そこにいる見目だけは良い令嬢と新たに婚約を結ぶおつもりだったのでしょう?私は事前にそれを察知し、ブライアン様へご協力を仰いだのですわ。彼も貴方様の愚行に大変憤っておられますの。謀り事が露呈して、残念でしたわね?アルヴィン様」
高らかに笑うクラリッサへ、苦々しい表情のアルヴィンが問いかける。
「どこに令嬢がいるって?」
「えっ?」
そう。王太子は一人だったのである。
困惑するクラリッサに、アルヴィンは畳みかけた。
「お前を迎えに行ってみれば、控え室はもぬけの殻。行く先もわからぬ故、仕方なく単独で参加したのだ。しかも公式の場で、そのような訳の分からぬ言いがかりを付けるとは。婚約者とはいえ、流石に庇いきれんぞ」
「そんな……嘘よ……」
クラリッサはきょろきょろとあたりを見回したが、アイリーンはいない。目的の相手が見つからないことに苛立ったのか、彼女は金切り声で「アイリーン・バックリー!出てきなさい!」と叫んだ。
モブよろしく埋もれていたアイリーンへ、一斉に視線が集まる。周囲からざっと人が引いて衆目に晒された彼女は、仕方なく前へと進み出た。
「貴方、何でアルヴィンと一緒にいないのよ!?」
「え……だって、王太子殿下にはクラリッサ様という婚約者がいらっしゃるではないですか。私が同伴する理由がありません」
全くもって正論である。観衆は「そりゃそうだよな」「当然ですわね」と頷いた。
「嘘おっしゃい!貴方、アルヴィンへ言い寄っていたのでしょう?貴方を虐めたという冤罪を私へかぶせ、この場で私を断罪するつもりだったくせに!断罪返しを逃れようとしても、そうはいきませんわよ」
「虐めの件でしたら、アルヴィン殿下のご尽力で解決しておりますが」
「うむ。虐めを行った女生徒には、既に謹慎処分を言い渡してある。といっても、半年前だぞ」
「クラリッサ。本当に貴方の言うとおり、彼女が黒幕なのですか……?」
アルヴィンとアイリーン、そしてブライアンまでもが困惑した表情でクラリッサを見る。
その途端。
クラリッサは顔をゆがめ、「きぃぃぃーっ!」と叫びだした。
「アイリーン、貴方の仕業ね!貴方も転生者なんでしょう!?原作改変なんて許せない!ヒロインならヒロインらしく、逆断罪されなさいよ!!」
「えっと……ひろいんとは何のことでしょう。どなたかとお間違えではないでしょうか?」
「しらばっくれないで!!」
美しい顔を醜悪にゆがめて地団太を踏みながらアイリーンを怒鳴りつけるクラリッサは、まさに悪役令嬢と言った様相だ。
会場は静まり返り、クラリッサの金切り声だけが響き渡る。
「レヴァイン公爵令嬢は錯乱しているようだ。別室へ連れて行け」
もはや収拾が付かないと悟ったのだろう。アルヴィンは警護の衛兵に指示を出し、クラリッサを会場から引きずり出させた。「離しなさいよ、無礼者!私はいずれ王妃になる人間なのよ!」と叫びながら運ばれていく彼女を、参加者たちは呆然と眺めるしかなかった。
結局、アルヴィンとクラリッサの婚約は解消となった。表向きにはレヴァイン公爵令嬢が重病にかかったため、とされている。卒業パーティに参加していた者たちから噂が広まってしまったので、貴族ならばみな真相を知っているのだが。
クラリッサの言い分が支離滅裂なため、王家側は当初、薬物の類いかと疑ったらしい。だが当人がそれを否定し、「私は主人公なのよ!」と叫び続けていたそうだ。
彼女は気狂いとして公爵家から籍を抹消され、檻付きの修道院に入れられた。
第二王子ブライアンは、クラリッサに「貴方こそ王太子に相応しい」と唆されて協力したらしい。廃太子を画策した廉により王族から除籍され、辺境の騎士団へ放り込まれた。
辺境付近は魔獣が頻繁に出没する厳しい土地だ。そこで一から鍛え直されているそうだ。
アルヴィンには、新しい婚約者として侯爵家の令嬢があてがわれた。まだ12歳のご令嬢とは6歳の差だが、政略結婚ならばそのくらいの年齢差は問題ないだろう。
彼も今回の件には思うところがあったのか、新しい婚約者とは頻繁に交流し、仲を深めているそうだ。
アイリーンはその後、とある子爵令息との婚約が決まった。
すっかり親しくなったキンケイド伯爵令嬢の紹介で、家柄も人柄も申し分のない相手だ。
娘を手放したくなかったバックリー男爵はゴネたが、伯爵家の仲介を断るわけにもいかない。それに、いい加減嫁ぎ先を決めなければ嫁き遅れになりますよと妻に諭され、ようやく婚約を認めた。
しょんぼりとして丸まった背中は、同じく愛娘を持つ父親たちの同情を引いたそうだ。
婚約者はアイリーンに夢中で、彼女をとても大切に扱っている。その熱愛ぶりは学院でも有名になり、アイリーンへ言い寄ってくる令息はいなくなった。
◇ ◇ ◇
「貴方も転生者なんでしょう!?」
その叫び声を聞いて私は思った。
ああ、彼女も転生者だったのか、と。
そう。私、オーレリア・バックリーも転生者だ。
私が前世を思い出したのは、アイリーンを産み落としたその瞬間だった。赤子をスポーンとひり出したと同時に、スポーンと記憶が蘇ったのだ。
前世はごくごく普通の家庭で育った女性だったこと。
入社した会社が令和にあるまじきブラック企業で、残業の末、朦朧としながら帰宅した途中で事故にあったこと。
そして、この世界が前世でハマっていた異世界恋愛小説の一つ、「悪役令嬢ですが断罪後は王子の溺愛が待っていました」の世界であるということ。
小説の主人公はクラリッサ・レヴァイン公爵令嬢。
彼女の婚約者であるアルヴィン王太子は、学院で知り合ったピンクブロンド髪のアイリーン・バックリー男爵令嬢に心奪われてしまう。
しかもアイリーンは王太子のみならず、彼の側近たちにまで言葉巧みに言い寄って逆ハー状態に。
クラリッサが再三諫めてもアルヴィンは態度を改めるどころか、逆に彼女がアイリーンを虐めたという虚言を信じてクラリッサを嫌悪するようになる。
さらに彼らが卒業パーティで自分を断罪しようとしていると知ったクラリッサは、婚約者を見限ることを決意。断罪返しを仕掛けるべく反証を集める中、第二王子ブライアンとの仲が深まっていく。
そして卒業パーティで見事断罪を退けた後、クラリッサは新たに王太子となったブライアンと婚約しラブラブハッピーエンドを迎える。
そういう、よくある異世界小説だった。
そして重要な問題は――自分がバックリー男爵夫人であること。
小説では王太子や側近たちは廃嫡の上、辺境騎士団送り。そしてヒロインのアイリーンは処刑され、実家であるバックリー男爵家も取り潰しとなるのだ。
つまり、このままでは一家揃って破滅である。
冗談じゃない。
なんとしても悲劇を回避しなければ。
この手の話では、ピンクブロンドのヒロインがアホで多情な娘であるのがお約束だ。王太子や側近たちもバカなんだろうが、謂わばそれを炙り出すのがヒロインとも言える。
ならば、アイリーンをまともな娘へ育てれば良い。
だが、そこに立ちはだかる壁があった。
アイリーンがあまりにも愛らしい故に、大人たちが彼女を溺愛するのだ。使用人ならば言い聞かせればいいが、義両親や夫はそうはいかない。
むしろ私が我が儘を言う娘を叱ると「まだ幼いのに、厳しすぎるんじゃないか」と窘められる始末だ。
私は頭を抱えた。
小説を読んでいる時は、アイリーンの事が嫌いだった。
下位貴族令嬢のくせに王太子に近づくって、どんだけ非常識なのよ。しかも彼だけじゃなく幾人ものイケメンを侍らせようとするし。
こんな非常識で色情狂の女、断罪返しされて当然。自業自得でしょ。
なんて思っていたのだが。
これ、周囲も悪かったのでは?
幼い頃から蝶よ花よとちやほやして甘やかせば、我が儘で傲慢に育つのも当然。もはや優しい虐待だ。
逆ハーの男どもだってそうだ。彼らは高位貴族令息として、アイリーンの非常識な振る舞いを指摘し、撥ね退けるべきだった。結局のところ、みんなアイリーンの美しさに目が眩んでいるだけではないか。
これが他人ならば放っておくのだけれど、自分が巻き込まれるとなったら話は違ってくる。
それに、腹を痛めて産んだ娘だ。愛おしいに決まっている。
私は娘を必死で矯正した。
それはもう、本当にがんばった。無責任に甘やかそうとする義両親や夫から娘を守り、少しずつ少しずつアイリーンを常識的な令嬢に仕立て上げたのだ。
学院へ入り、アイリーンの美しさが令息たちに知れ渡るようになると、釣書がいくつも舞い込んだ。
私としては早く婚約者を決めてしまいたかったけれど、かといって娘の見目だけに惹かれて寄ってくる有象無象にアイリーンを任せるわけにはいかない。
夫が「アイリーンに婚約者なんてまだ早い!」と騒いで、娘の婚約を先延ばしにしようとしたのは幸いだった。おかげで焦ることなく、ゆっくり吟味することができた。
アイリーンから「王太子殿下の婚約者たちに絡まれた」と聞いたときは血の気が引いたが。
どうやら娘の機転により、難を逃れたらしい。あの時は本当にホッとした。
しかもそのおかげで親しくなったキンケイド伯爵家から、良い婚約者を紹介してもらえたのだ。
少し無骨な感じだけれど、とても真面目で真っ直ぐな少年だ。彼ならば娘を愛し、男たちの盾になってくれるだろう。
アイリーンの婚約が決まった時の夫の落胆ぶりといったら、今思い出しても笑ってしまう。
学院を卒業後、アイリーンはつつがなく婚約者と結婚し、今は婿と共に領地に居を構えている。
子爵家の領地は王都から遠いためなかなか会うことはできないけれど、時折娘から手紙が届く。慣れない領地経営は大変だと、夫の惚気話を交えつつ書かれていた。幸せにやっているようだ。
美しいアイリーンならば、もっと高位の貴族に嫁ぐこともできたのでは?なんて義両親は嘆いていたが。現代人の価値観を持つ私からすれば、そんなのクソ喰らえだ。
身の丈に合った相手と、身の丈にあった家庭を築く。
特別な能力があるわけでもない。格別優秀なわけでもない。そんな娘にとっては、それが一番安寧な人生設計だろう。
だいたい、欲張ったってロクなことがないのだ。そう、あのクラリッサのように。
クラリッサの無実を知ったアルヴィンは、真に愛しているのは彼女であった事を思い出し、ブライアンと仲睦まじいクラリッサを見て嘆き悲しむ。ブライアンは兄の気持ちを知り、わざとクラリッサと愛し合う様を見せつける。小説はそこで終わっていた。
彼女は小説通りの終わり方を迎えたかったのだろう。"二人の王子に愛される私"に酔いたかったのかもしれない。
愚かな娘だ。
欲張らなければ少なくとも王太子には愛されたであろうし、いずれは王妃となって敬愛を集める存在になれただろうに。
逆断罪を回避できた。男爵家も守れた。その上、娘は愛する夫と幸せになったのだから。
これで十分なのだ。