そのバンドの名は
朝、一歌は洗面所で髪を整えていた。黒髪におさげ、前髪は綺麗に切り揃えられている。化粧はよく分からないので、眉毛を書いて下地と色付きのリップクリームしか塗っていない。
「これでよしっと」
すると寝坊したのか、出勤前の忙しない敏之が一歌を鏡の前から追いやる。
「ちょっと邪魔」
敏之は一歌の顔も見ずに低い声で一言だけ話すと、短い髪を整え始めた。
いつも敏之と洗面所の奪い合いになるのが嫌で、今日は時間をずらしたのに、こういう日に限って寝坊したりする。歯車が噛み合わず、居心地が悪い。
「一歌ー?パパ仕事だから後にしてあげてー」
昌美が朝食の洗い物をしながら、声をかける。
この家では、この男が一番偉い。
都内のマンションで自室を持てて、高校にも通えるのは全部この男のおかげなのだから。
一歌は自分にそう言い聞かせて、今日も学校に向かう。生まれたばかりの妹、結衣の顔も確認せずに。
「行ってきます」
「おはよう」
バンドに加入してから一ヶ月と少し、朝練で一歌が部室に入ると、藤孝と如月が楽器の準備をしていた。
「一歌、合わせられるか?」
「うん」
ショルダーバッグを下ろし、急いで準備を始める。
あの日、下駄箱ライブで聴いた曲の名は『エウレカ』。
エウレカとは、ギリシャ語で何かを発見したことを喜ぶことに使われる感嘆詞で、古代ギリシアの数学者、アルキメデスが叫んだ言葉だと言われている。
藤孝が一年の頃にギリシャにハマって、この曲名を名付けたらしい。
一歌はこの曲をスマホに入れて、何度も練習している。
「じゃあ始めるぞ」
イカベースをアンプに繋ぐ。
藤孝からはこの曲のベースの音は半殺しにした餅米のイメージと言われているが、よく分からなかったので、自分なりにアンプのつまみを調整し、歪ませてみる。
そして三人が顔を見合わせ、如月がスティックでカウントを取る。
──カンカンカンカン
木材が擦り合う音を上げると、次の瞬間、地鳴りのような迫力で部室内を三人の音が響き渡り、音圧で部室の窓ガラスが共振する。
テンポ百八十の比較的速いこの曲は、一歌には難易度が高く、二人に追いつくのがやっとだった。
右手の指がテンポに追いつかず、もたついて弾くのが止まってしまう。
それでも食らいついて追いつくまで弾き続ける。
イントロを弾き終え、ベースのソロが一瞬入った後、歌に入る。
下駄箱ライブでは歌のないインストの曲だったが、藤孝が一歌の加入を機に、歌入りでアレンジをやり直したのだ。
一歌はこの一ヶ月、ベースの練習だけをしていたのではなく、歌いながら弾くという課題もこなしていった。
右手と左手で違う動きをするのが難しいように、複雑なベースと絡み合わせて歌うのにはまだ慣れないが、意外にもこちらはすぐに解決できたように思う。
藤孝の書いた詞は、『どうしようもない世界の中で自分の居場所を見つけた』というような事を言っていて、今の自分にぴったりだと一歌は思った。
(もしかして藤孝や如月もこんな思いを抱えてるのかな?いや如月はないな。絶対ない)
高音が上がりきらず、フラット気味になり、声量が足りず、他の楽器に声がかき消されていく。
苦しいのに、楽しい。
一歌は人の作った曲をただ聴くだけの受動的な自分では、もうなくなっていたのだ。
演奏が終わると、如月は早速悪態をついた。
「おい一歌、お前何回ミスしてんだ。グダグダじゃねえか」
「ごめん……」
これでも加入して一週間目の時よりはだいぶマシだ。
あの頃は一歌の下手な演奏に耐えられず、スパルタも驚くほどの如月の暴君っぷりが炸裂していた。
「でも、最初よりはだいぶ良くなったんじゃないか。一応曲にはなってるし」
「藤孝〜」
一歌が藤孝を拝む。
厳しい如月とは正反対で、一歌には藤孝が菩薩のように見えていた。藤孝は一歌の態度に「やめろ」と鬱陶しそうにしている。
「良くねえよ。ピッチもぶれぶれだし、ベースがもたついてるとやりづらくてしょうがねえ」
「まぁでも、このまま練習続けてもしょうがないかもな。何か目標がないと」
「あ、それなら対バンの話来てるぞ。クラブユートピアの」
「なに? 胎盤?」
一歌が首を傾げる。
「対バン形式! 複数のバンドが入れ替わりながら演奏するイベントだよ! お前はそんなことも知らねえのか」
「如月、禁煙中? なんでそんなに怒ってるの」
「お前がアホすぎるからだ!」
如月は煙草を取り出して吸うと、はぁーっとため息をつくように煙を吐く。
「クラブユートピアは俺たちも何回かやったことがあるライブハウスなんだよ」
「ふーん。あ、そういえばこのバンドってなんていう名前なの?」
如月と藤孝が沈黙する。
練習することに夢中で、一歌は一番重要な事を聞きそびれていた。
「バンドの名はない」
「へーバンドの名はないんだ」
「違う! バンドの名はない! これが俺達のバンド名」
「え……?」
一歌の頭が混乱する。
「このバンド、最初は何人かいたんだよ。でも音楽性の違いでその度にやめていって……やめる度にバンド名が変わるから、めんどくさくなってこの名前にしたんだ」
(えー……嘘でしょ?)
バンドの名はない。
なんのひねりもない珍奇なバンド名だが、このスリーピースバンドが、後にインディーズ界隈で名を挙げるようになることを、三人はまだ知らない。