第11話 魔獣ザルナグ
「……ほら、行って!」
二人に短く指示を発して、俺は身を低くしてザルナグへと跳ぶ。
はっきり言って、分が悪い賭けだとは思うが……これしか手が無いのも確かだった。
うまくすれば犠牲は俺だけで済むだろう。
「ギッギッギッギ!」
「相変わらず気味の悪い!」
かつて、『探索者教導プログラム』に参加して、大阪にある迷宮の深層に潜ったとき、この凶暴な魔物を一度だけ見たことがある。
その時は、手練れの探索者達がいたために大事にはならなかったが、それでも被害は出た。
経験も、装備も、迷宮適応も鍛えに鍛えた探索者達ですら、コイツを相手に無傷とはいかなかったのだ。
そんな魔物が浅層──しかも、迷宮の入り口近くに現れるなんて、異常事態が過ぎる。
かと言って、あり得ないとも言い切れない。
迷宮では、何が起こっても不思議ではないのだ。
ここは、現実を塗りつぶす異常構造体なのだから。
「シィッ!」
マチェットを横薙ぎに大きく振るい、動きを牽制する。
ここで一番まずいのは、俺を無視して太刀守姉妹を追いかけられることだ。
多少なりとも脅威を感じてもらわねば、俺が残った意味がない。
「ギッギッ!」
一瞬、退がったかと思ったザルナグだったが、すぐさま後ろ脚で立ち上がって振り下ろし気味にその爪を俺に向ける。
それを左手首のプロテクターから展開した小型盾でギリギリいなして、少しばかり距離をとる。
『ピルグリムB1』の性能に頼った戦い方だが、ここで重要なのはこいつをどれだけ足止めできるかだ。
出し惜しみなど、していられない。
「〝起動〟」
腰のホルダーから、カードを一枚抜き取ってキーワードを口にする。
カードが黒ずんでボロボロと崩れ落ちた直後、強烈な冷気の突風がザルナグへ向かって発生した。
「ギギギッ」
さすがにこれには驚いたのか、巨体のザルナグが頭を振って数歩下がる。
そのたてがみと鼻先には霜が降りており、実験がてらに持ち込んだこの最新ツールが魔物に有効であることが証明された。
「よーし、よし……。そのまま俺を見てろよ?」
目の前の獲物がそれなり手強い相手だと思えば、魔物とて警戒する。
ザルナグは魔物の中ではかなり凶暴で、どこまでこんな小手先の技が通用するかわからないが。
「ギッッ! ギギギッ!!」
……どうやら、俺の抵抗はコイツを随分と苛つかせてしまったらしい。
魔物の言葉などわかろうはずもないが、ザルナグがご機嫌斜めにしているのは見ればわかる。
「ギギギギギッ!!」
鋭い乱杭歯をかち合せながら、ザルナグがまっすぐに跳び込んでくる。
スピードとパワー、そしてウェイトを兼ね備えたこの生粋のハンターは、俺を終わらせるつもりらしい。
こっちも簡単に終わってやるつもりはないけど。
「〝起動〟!」
もう一枚、カードをホルダーから抜き取って使用する。
今度のカードはどちらかというと、防御と反撃用だ。
「ギギャ!?」
出現した岩の槍衾に激突し、ザルナグが短い悲鳴を上げて後退る。
コイツにとってはひどく予想外な出来事だろう。
脆弱に見えた侵入者で暇つぶしをしようとしていたのに、傷を負う羽目になるなんて。
「あと一枚で打ち止めか……」
このカードは、迷宮内で異常現象を発生させることができる最新ツールである。
迷宮適応によって『現実改変現象』を行うことができるようになった探索者協力の元で研究・開発され、満を持して『ウォールゲート社』で製作された。
古式ゆかしく【スクロール】と呼称されているこのツールは、あくまで試用という形で藤一郎から少数が供給され、今回は一枚ずつしか持ち込んでいない。
強烈な冷気を放射する〈結氷雪〉。
硬質な岩の棘を形成する〈岩槍壁〉。
……残るは、防御用の〈光盾〉のみだ。
致命的な一撃を一度は回避できると考えれば有効ではあるのだが、この凶悪な魔物を追い払う決め手にはならない。
「ギッギッギッギ!」
「馬なのか熊なのか、それとも猿なのか……ハッキリしろよ!」
素早く取り出した大型弩弓を構えて、渾身の一射を放つ。
超高速で鋼鉄製の太矢を発射するこれは、銃火器を封じられた俺たち探索者が携行できる最大の飛び道具だ。
当たれば、ザルナグとてただで済むまい。
……と思ったのだが、これは俺の浅慮であったらしい。
太矢はこちらに向かって突進してきたザルナグに突き刺さったものの、まるで勢いをそがれることなく突っ込んでくる。
「〝起動〟!」
おかげで、俺は命綱とも言うべき最後のカードを切る羽目になってしまった。
まあ、あのまま突進を受けていればひどいことになっていただろうから、切らざるを得なかったわけだけど。
形成された光の壁に激突したザルナグが、よだれを撒き散らしながら地団太を踏む。
俺のような小物にいいようにあしらわれているとでも思っているのかもしれない。
俺自身は、そんな余裕ありはしないのだが。
「さて、そろそろ二人は逃げ切ったか? 俺は、どうやって逃げる?」
「ギッギッギ」
独り言に返事をしてもらって恐縮だが、俺としてはお前と仲良くするつもりは毛頭ない。
ここをどうしのぐべきか……。
「ギィーッギッギ!」
不愉快な鳴き声を上げて、ゆっくりと俺の周囲を歩き回るザルナグ。
警戒し、観察しているのだろう。
そして、俺がいよいよおかしな道具を失ったと見るや、くらいつくつもりに違いない。
見た目と違って、思ったよりも賢いらしい。
──次の瞬間。
俺は空を舞っていた。
気を抜いたわけではないし、目を逸らしたわけではない。
ただ、ザルナグが速かっただけの話だ。
左の脇腹に酷い痛みを感じつつ、俺は迷宮のほこりっぽい床を転がる。
鉄の味がしたのは、錆びた床のせいか……それとも血の味だろうか。
「がっ……う、ぐ」
立ち上がろうとして、立ち上がれない自分に気付く。
眩暈はないが、ひどい激痛で息がしにくい。
体がひどく重たくて、なんだか痺れて冷たい感じがしてきた。
「ギッギッギ……」
嗤うような鳴き声を上げながら、ザルナグが俺に近づいてくる。
魔物がこうも感情豊かで、邪悪だとは予想外だったな。
完全に、遊んでやがる。
──ああ、これは死ぬな。
ようやく、探索者の公認資格も取って……これからだってのに。
だが、これもまた探索者の生き方か。
「ギッギッギッギ!」
嗤い声がさらに近づいてくる。もうザルナグは鼻息がかかるほどに近い。
ああ、なんて気配だ。
こんなに強大で、生命力に満ちて……まるで、まるで……
──ごちそうみたいだ。




