接触感染(中)
「おい、歩……。俺、喉痛い。頭もガンガンする」
重たい身体でベッドから抜け出し、リビングへ行こうとドアへ向かったところで、先程まで隣で寝息を立てていたヤクザが鳴砂を呼び止め、呟いた。
サイドテーブルの目覚ましを見ると、バイトの面接二時間前。
「え……なんで?」
薄暗い室内で、眠たい顔をしかめながら振り返る。
「なんでて。風邪やろ……なんか熱っぽいわ」
手首を額に乗せて天井を見つめながら真剣に言う男の姿が、この日最初の笑いを誘った。
「風邪? さあ――、それだけは無い思いますけどねえ……」
歩いていたらUFOが落ちてくるくらいの確率で、それは無い。
どう考えても一年中半袖半ズボンで運動場を走り回っていたタイプだ。
「なんでや」
そんなに真剣に聞き返されると、阿呆だからですとは言えなくなった。
「おい。どこ行くねん」
「体温計取りに行くんでしょう。どこにあるんですか?」
「ない。そんなもん」
面倒臭いことになった。
こんな忙しい日に限って……絶対わざとや――。
溜息をつきながらベッドに近づき、上半身裸、下着姿で寝ている男を上から見下ろす。
「だからパジャマ着て寝んとあかんって言うたのに……」
「偉そうに言うな。どの口がほざくんじゃボケ。
お前が服着せてくれと甘えるから着せたったら、こっちが疲れて裸で寝てしもたんやんけ」
またそういう事を言う。情事の後の甘いわがままを、一夜明けてから責められても困るのに。
掌で前髪をかき上げ、ムッとした表情の強面に額を合わせると、大好きな人の香りが一瞬の軽いめまいを促す。
「あ……ほんまにちょっと熱あるかも……」
予想に反して九鬼の額は鳴砂の体温よりもはるかに熱かった。
この分では、ある日突然空からUFOが降ってくる日もそう遠くは無い。
「ほんなら……俺、面接の帰りに薬買って来ますわ。だから今日は一日大人しく――、んぅっ……!」
表情も見えない至近距離のまま後頭部が固定されたと思ったら、鳴砂の口にいっぱいに異物が侵入する。すんなりと唇を割って入ってくる高熱の粘膜が、乱暴に唾液をひと掻き混ぜ。
「んん――ちょっ……ちょっと! 何してんスか――風邪うつるやないですか!?」
深く繋がろうとする唇を引き剥がして、袖で口を拭う。
「うつるわけ無いやろ。この世を揺るがす程の阿呆やのに……」
畜生。気使わんと、俺もさっき言うといたらよかった――。
この男に気を使うと後々必ず後悔することになる。殴られてでも言いたい事はその場で言おうと決心した。
「九鬼さん……。言うたでしょ? 俺、今日の面接が上手くいったら、明日からバイト始まるんです。こんな大事な時に、風邪なんかひいてる暇ないねんから……」
鳴砂が口を尖らすと、九鬼は鼻で笑って寝返りを打つ。
こちらに向けた広い背中の上、肩甲骨の左半分に、暗い中でも鮮やかな鬼の錦絵が鳴砂を睨み付けていた。
「ああ、そうか。よう分かった。
お前そうやってバイトで金稼いで、ある日俺の前から姿を消すつもりやろ?
昨日もあの司法書士のガキと身体寄せ合って仲良うしとったしなあ。やっぱり逃亡の手引きでもしてもらってたんと違うか?」
煙草を取り出してくわえ、空になった箱をぐしゃりとやる。
「またその話……? その話やったら、昨日あれから決着ついたやないですか。アドレスも消したし、名刺も捨てた。俺の気持ちはちゃんと伝えたでしょう?」
決着がついたというよりは、無理やりつけさせられたという方が正しい。それも話し合いの末ではなく、恋人が選んだのはずいぶんと強引なやり口だった。
くだらない嫉妬に駆られてヤクザを本気で怒らせたのがいけなかったのだ。
思い出すだけで顔面が熱くなる、昨晩のベッド上。痛くて、苦しくて、その何倍も気持ちよくて、涙声で謝りながら手放しの意識を何度も消失させられた。
その狂おしい快楽の主たる原因が、ただの激しい性交渉のせいではなく、相手の男に対する特別な感情のせいなのだから、実にたちが悪い。
つくづくどうしようもないと鳴砂は自分に呆れる。
相手が思っている以上に、自分が思っている以上に、気付かぬうちに良からぬ病に感染してしまっていた。
恋の病、不治の病。そんな麗しいものではない。
もっと浅ましく、淫らで欲深い。毒々しい症状を呈す病。
離れていれば、不安や胸部の圧迫感に襲われ、近づけば、それはアルコールのように発熱を促し毛細血管を隅々まで広げる。触れてしまうと、循環動態が見事に即反応。全身が灼熱の熱感に火照る。
動悸、めまい、喉の渇き。感染者の意思を無視して、症状は徐々に悪化の一途をたどっていた。
「ほんなら何で風邪で寝込む恋人見捨てて出掛けられるねん。
普通は付きっきりで看病とかするん違うんか?
お前は二枚舌やからなあ。ホンマは俺の事、金づるくらいにしか思てへんのやろ」
子供のように不貞腐れた表情で吐き捨てる九鬼は、毒づく口に手をやって、半分も吸い終わらない煙草をサイドテーブルの灰皿に押し付け吸殻に変えた。
極道などという、一般的な社会からは程遠い世界に身を置きながら、この男は堂々と普通という言葉を使って甘い恋人生活を要求する。脳ミソが感染でやられている鳴砂に言わせれば、そういう所がまた憎めない。
うつ伏せに肘をついて、九鬼がリモコンをテレビに向けた。
高らかにマイクエコーのかかった声を出すテレビ画面に目をやると、いいとも選手権がもう終わろうとしている。
やばい。もうこんな時間や――。
「お前、明日の朝九時にアルタ前に集合せえや。びっくり素人さんのコーナーに出してもらえ。極道を恐れず何度も騙す、怖いもの無しのびっくり素人として……」
センスの無い嫌味を言うヤクザの相手をしている暇は無かった。
鳴砂は溜息をつく。
付き合ってからまだ一月も経たない短い関係。
ただ、その短期間に身体を重ねた回数、一緒にいた時間、低レベルな会話で笑い合った回数。相手との関係性を時間の長さでは無く、過ごした時間の濃さで測るなら、鳴砂にとって目の前の男との関係は限りなく深い。
それこそ相手が言いたい事、自分に言わせたい事までもが、瞬時に分かってしまう程。
すべすべとした広い背中に触れ、ゆっくりと頬を寄せる。
微妙な表情をする赤鬼の絵と間近で目が合う。刺青の表面だけが少しヒンヤリと冷たい。
「触んな」
振り向きもせず吐き捨てる男の背筋を、人差し指でなぞる。
「九鬼さん……。俺の気持ちはちゃんと伝えたでしょう?
俺は九鬼さんのことが好きで好きでどうしようもない。気がついたらいつも恋焦がれてる、どうしようもなく好きで仕方ないんです。
この期に及んで、これ以上俺を夢中にさせてどないするつもりです? 女と話してるだけで後ろから刺されたいんですか?」
これ以上話をこじらせる事無く速やかに出掛ける準備に移るため、相手が聞きたかったであろう鳴砂の本心を素直に伝えた。
口から出任せ、心にも無い嘘八百を並べる方がまだ楽だと、鳴砂は滅入る。別に隠し立てする訳では無いが、好き好んで恥ずかしい本音を口にしたくは無いものだ。
「ふうん」
背中から両腕を回し面を覗き込むと、九鬼は無表情で目を細め、澄ました返事をする。鳴砂がどれだけ気持ちを伝えようと、この男が本心を言葉で返してくれることはまず無い。
皮膚の張った首筋に忠誠のキスを何度も落としていると、途端視界がぐるりと一回りし、一瞬目の前に広がった天井を遮る黒い影が全身に重く圧し掛かる。煙草の匂いが口元を荒っぽく塞ぎ、空気を奪う。
スウェットの中に潜り込む大きな手が、鳴砂の弱点を迷い無く確実に撫で上げる。
「やっ! ちょっ……」
脇腹を這う九鬼の手を服の上から押さえ込むが、それくらいで止められる程度の力なら、昨日の晩はあんな事にはならなかった。
安定した時間を淡々と進めるテレビの中で、大物演歌歌手が音楽に合わせて大きなサイコロを振っているのが見えた。
やばい。もう、ごきげんよう始まった――。
改めて気持ちをちゃんと伝えれば話が早く片付き、面接に行く用意ができると思っていたが、逆効果だったかもしれないと後悔し始めた。
「ね、ねえ……九鬼さん? 熱あるんやし、そういう事は我慢しはった方がええんと違います? 風邪、余計にひどくなりますって……。
俺も、もう用意せなあかん時間やし……」
柔らかな口調で制止を要求するが、鳴砂の身体に覆いかぶさる熱が冷める事は無い。
「あかん。やらせろ」と荒々しく服をめくり上げる。
覆いを剥がれた肌が、昨晩の乱れた記憶を勝手にリロードし始め、熱を持つ。
男を止めようと冷静な台詞を吐いていたのは束の間。身体に続き精神までもがすぐに高揚し始め、吐く息が深く速くなる。
感染した体内で何かが増殖し、自己規制システムが破綻。恥ずかしげもなく漏れ出す艶めいた吐息。
いつもよりも熱い男の肌が、余計に症状の悪化を加速させていく。
「あぁ……んっ……ぁっ、そこ……」
仰向けに背を反らせ、潤う瞼をギュッと閉じて、酔う。
くったりと首を傾げたまま男の熱い指を口とは別の器官で舐め取っている。違う使用目的で備わったはずの消化器官が、今は甘いよだれを溢れさせ、新しい六番目の感覚として体内で蠢く悪戯な刺激を入電し続ける。
「あっ……」
不意に指の感触が消えた。
充分に火照ってた身体が、次に迎え入れるものを想像して煮えたぎり、嬉しそうによじれた。
「ほんなら、今日はここまでやな……。やめて欲しいんやろ?」
鳴砂の顔の横両側に手を付き、真正面から見下ろす男が、平気な顔で有り得ない事を冷たく言い放つ。
「ぇっ……やあ。なんで、そんな意地悪なこと……九鬼さん……」
うろたえ見上げた恋人の顔が完全に怒っている事に気付く。
なだめる様に男の二の腕に指先を滑らせる。すがり付くような表情で、悩ましく首を傾け、なまめかしい涙目で最大限に誘う。
内心不安を募らせながらも、自分を焦らせ惑わす太い指一本一本に、舌を見せ付けるように絡ませて、吸い上げ甘噛みする。
「早く……入ってきて、下さ……い」
切なげに小さく囁くと、恋人の顔が僅かに歪んだ。
「お前……卑怯やぞ」
熱い熱い。バイトの面接、怒涛の一時間十分前。
今日(もう昨日)は平日なのに久しぶりに仕事が休みでした。って事で、この話を早くアップさせて、他の短編でも一本書いたんで~!と張り切っていたんですが、ちらりと寄った人様のBL長編作品にはまり込み、一日読みふけってしまいました……。そして、毎回のことながら自分の力の低さを実感して落ち込むんですよね、長編は特にそのダメージが大きい(-_-;) 微力を尽くして精進したいと思います(。-_-。 )ノハイ