7、顔
「あっえっとお疲れ様です。」
私は侑ちゃんを押すのをやめて藤間さんの方へ向き直った。どうしてこんな所で?それにお疲れ様ですって、間違ってはいないけど正解でもない気がする。
ビックシルエットの白いシャツに紺のストレートジーンズ、黒いスニーカーでスーツ姿とはまた違うラフな藤間さん。会社の慰安旅行の時とも違った雰囲気でよりカジュアルだ。
そして横の可愛らしい女性に目を向けた。ああきっと奥様だ。黒字に白い大きな花柄の半袖のワンピース、白の編上げのサンダルはほっそりとした足を強調させている。
「こちら妻のさくらです。彼女は水野さん。」
「ああ!いつも夫がお世話になっています。」
奥様は名前の通り、花が咲くようにふわりと笑う。私はまたすぅーっと心が冷えていくのが分かった。笑顔をつくり落ち着いて挨拶をした。
「こちらこそ、いつも藤間さんにはお世話になっております。」
そして会釈程度だが頭を下げた。藤間さんは侑ちゃんの方を窺うように見て私に視線を戻した。
「えっとこちらの男性は?」
この瞬間、私の脳裏に1つの考えがよぎった。もしも侑ちゃんを彼氏だと言ったら藤間さんはどんな顔をするのだろう。ちょっとでもあの笑顔が崩れるのだろうか?横に奥様が居るのに、でも言わずにいられなかった。
「彼は恋人の田口さんです。」
藤間さんの表情は変わらなかった。眉1つ動かさなかった。そして奥様の方を見てまたにっこりと笑う。
泣きそうだ。こんな事言わなきゃ良かったのに。自分が悪いのに。私はすぐに侑ちゃんの方を見てじっと瞳を見つめた。侑ちゃんも私を見つめ返してそしてすぐに笑顔で藤間さんの方に顔を向け挨拶をした。
「いつも彼女がお世話になっています。意外とおっちょこちょいだからご迷惑をおかけしてないか心配です。」
私は侑ちゃんの方を向いたまま腕を引っ張る。なるべく高く弾んだ声を出す。表情はどうなっているか分からない。
「ちょっと侑ちゃんやめてよー。」
侑ちゃんはよりいっそう優しい表情で私を見ている。その表情に余計に泣きそうになるのを堪えて侑ちゃんの腕に掴まる。侑ちゃんは私が掴んでいる手の上に優しく手を置いて、
「ごめんねいらんこと言ったね。」
と深く優しい声で言う。侑ちゃん、本当にありがとう。
「おっと邪魔しちゃ悪いですね。さくら行こうか。」
見つめ合っていると勘違いした藤間さんが気をきかせて私たちから離れて船の前の方へ移動して行った。私は景色どころではなくなって船内に入り窓のない席に侑ちゃんと移動した。
園内を水上から見ようという船なので船内には誰もいない。私は椅子に深く座り目を閉じて背もたれに背中を預ける。目を開けたらきっと泣いてしまう。
「伊織ちゃん、泣かないで。」
「泣いてない。侑ちゃん嘘つかせてごめん。ごめんね。」
「大丈夫よ、気にしてないから。大丈夫。」
「ごめんね。」
「伊織ちゃんはあの人が好きなんやね。可哀想に。」
「うん、そう好きだった。」
「そっか偉かったね。泣かへんかったね。」
侑ちゃんが背中をさすってくれる。私は黙って目を閉じている。頬を涙がつたうのがわかる。その涙をまたあのガーゼが拭う。もう保冷剤は入っていない。船に乗った時、曇ってきて太陽が隠れたので冷やさんでいいかと小さな保冷バッグに戻していた。
「伊織ちゃん、今日はもう帰ろか。もう充分やから。」
私は微かに頷く。クルーズ船が園内の港に戻るまで私はずっと目を閉じていた。
侑ちゃんが気遣ってくれて最後に船を出た。園内は賑やかなままでついさっきまでこの雰囲気を楽しんでいたのが嘘のように悲しかった。そんな中ふと1つのアトラクションが目に入った。
「侑ちゃん。」
「ん?どうしたん?」
「あれ、乗りたい。」
私が指さした方を見てすぐに慌てて言う。
「だめよ!伊織ちゃんどんなけ暑い日にプールに入ってもすぐに熱出てたやん!炎天下の中でプールに入って熱出すのに、こんな曇ってて少し冷えてきた中で水に濡れるアトラクションは絶対にだめよ!」
そう私が乗りたいのは水に濡れる急流すべりのようなアトラクション。乗る場所によっては全身がびしょ濡れになる。
「もー本当に最悪。5分位だったけどずぶ濡れだよ。」
「急に降ってきたもんね。外のアトラクションだったからびしょ濡れになっちゃったねぇ。」
「通り雨だといいけど、まだ降るかな?」
「えーーやだぁ!」
私と侑ちゃんの前をずぶ濡れの女性が歩いて行った。船内に戻った間、通り雨があったようだ。船は外でも天幕があったのでなんとかなったのだろう。
「雨やって!雨の後は水の量も増えてるから余計に濡れんねんで!」
私は分かっていて見当違いの答えを出した。
「車が濡れるのやっぱりダメだよね。ごめん。」
「そうじゃなくて!」
「じゃあいいよね!ありがと!」
私はずんずん進みアトラクションの列に並んだ。雨の影響か20分待ちで乗ることができそうだ。
「侑ちゃん20分待ちだって!」
「伊織ちゃん!!」
「乗りたいの、今これに乗りたいの。」
「うーん、あぁーもう。知らんよ熱出ても。」
結局、おれてくれる。
「ありがとう侑ちゃん。」
「熱出ても知らんからね。」
「はーい。」
急流すべりはとても濡れた。全身びしょ濡れになるまで濡れた。シャツは体に張り付き髪はビターっとなっている。侑ちゃんも同じように濡れているので満足だ。
「あーあーもうこんなに濡れて。とにかく車まで我慢して。」
「うん。ありがとう。あっでもお土産買ってない。」
「あーじゃあこれ使って。ちゃちゃっと行っておいで。」
とフェイスタオルを肩にかけてくれる。私は同期会の2人にミスト付きの扇風機と事務所内の人全員に行き渡る数の個包装のクッキーの箱を買った。後、ネットで調べて美味しいと噂のチョコを2つ買って店を出た。
「お待たせ!ありがとう。」
「さあ帰るよ。」
家に着いたのは18時30分頃で、侑ちゃんは慌ててお風呂を沸かし始めた。私はもうこのまま寝てしまいたかったが侑ちゃんにしっかりと起こされ駄々をこねるとみっちり説教をされて仕方なくお風呂に入った。侑ちゃんは私に1番風呂を譲ってくれてその間どこかに出かけているようだった。私がお風呂を出た時には居なかったけどすぐに10分程で帰ってきた。
私は遊園地での色んな事を思い出して気まずくなり声をかけて部屋に戻る事にした。
「侑ちゃん今日は本当にありがとう。お風呂も入ったし寝るね。」
「うん、おやすみ。しんどくなったら夜中でも僕を起こしてくれてええからね。」
未だに熱を心配してくれている侑ちゃんに申し訳なくて私はまたごめんねとしか言えなかった。
そして侑ちゃんの顔を見ずに部屋に戻った。風が直接当たり続けないように調整して扇風機をまわしベッドに入り眠りについた。
そして次の日、案の定、私は熱が出た。