13、時が止まるなら
朝から藤間さんはため息ばかりついていて上の空のまま仕事も手につかない様子だった。大きなミスではないけど小さなミスを重ね続けて時間がおしていく。5分で済むことが10分になり、30分で済むことが1時間になり結局、人事課は残業になってしまった。侑ちゃんにメールをしておく。
明日は製造所の創立記念日で休みになりその次の日もリフレッシュ休暇で休みなので製造の方もいつもの半分で終わり、他の課も早めに切り上げて帰ってしまったのでまた藤間さんと2人きりで仕事をしている。なのに心は落ち着いたまま嬉しいという気持ちもさほどない。
「水野さん今日は本当にすみません。」
シュンとした表情の藤間さんを見ると少し胸がザワつく。いつもと違う表情を見られたからかもしれない。
「いいえ、お互い様ですし、まだまだ私の方が足を引っ張っています。」
「ふふ、水野さんは優しいね。いつも助けてもらってるよありがとう。」
前の席の藤間さんが薄く笑っている。いつもの素敵な微笑みに哀愁がにじんでいる。もしかしたら何かあったのかもしれないけど私に何かを言う権利はない。
「藤間さんの力になれるように頑張ります。」
そう言って作業に戻る。給与明細の印刷は休み明けの月曜日の朝に受付の裏の机に出しておかなくてはいけないので急いで封筒の中に入れていく。こちらは後、15分程で終わりそうだ。
「水野さんはいつも可愛いね。」
えっ。顔を上げると前に藤間さんはおらず視界の端にスーツが見えてびっくりして右を向くとそこに藤間さんが立っていた。
「ごめんね。びっくりさせたね。」
「あっい、いえいえ。」
「水野さんちょっとだけ聞いてもらっていいかな?」
藤間さんが私の隣の椅子をコロコロと移動させて私の近くに座る。話をするならと作業を一旦やめて藤間さんの方へ体を向ける。
「はい。」
「ありがとう。昨日ね早くあがらせてもらったのは妻がね話したい事があるからって言うから先に帰らせてもらったんだ。単刀直入に言うと話の内容は離婚してほしいだった。」
「えっ。り、離婚ですか?」
あの時、あんなに幸せそうだったのに。
「びっくりだよねほんと。僕と妻はね大学卒業と同時に結婚したんだ。だからもう結婚して10年になるのだけど子供ができなくてね。でも妻が子供は自然にできるまで待とうって。そしたら昨日、子供が居るって。」
「えっどういう事ですか?藤間さんの子供ですか?」
「ううん、僕の子じゃないって、検査してはっきりさせたらしい。ここに入る前、1年だけ他の会社で働いててそこを辞めてすぐここに転職したんだけど、その前の会社が酷くて転勤のない部署だって言われて新卒で入ったらいきなり海外勤務になったんだ9ヶ月も。妻が言うには僕が海外に行く時にはもうお腹に居て5ヶ月だったって。大学の後輩で結婚する前からずっと二股されててそのまま僕と結婚した。僕のお金で育てさせてもらったって言われた。気が付かない僕も僕だけどそんな長い期間、騙し通す彼女も酷いよ。」
泣きそうになりながら話す藤間さんを見ていられなくてそっと顔を伏せる。こういう時、なんて言葉をかければいいのか分からない。
「………。」
「それでね、出て行くんだって、本当に参っちゃうなぁ。僕もう疲れちゃった。」
震える声で話す藤間さんに視線を戻す。泣きながらいつものように微笑む藤間さんを抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫です。私が居ます。何時でも話を聞きますから。」
「ふふっありがとう。意外と大胆なんだね。」
藤間さんの言葉に慌てて体を離す。でもその瞬間、左腕で引き寄せられて右手で頬を固定されてしまった。椅子ごと藤間さんの足の間に入り込んでいる。そんな状況に心臓がうるさく跳ねる。暑くて汗をかいてきた。
藤間さんはもう泣き止んでいていつもの微笑みで私を見ている。
「ごめん、離れないで。こんなに緊張している君が大胆なわけないよね。勇気を出してくれてありがとう。」
右手をポケットに入れハンカチを取り出し汗を拭いてくれて頭の後ろを優しく持たれて耳元で小さく囁かれる。
「僕を慰めてくれませんか?」
心臓にかき消されそうになりながら私も小さく声を出す。藤間さんが私の体を引き寄せ続けとうとう体が触れ合う。藤間さんの体の熱を感じて私もより一層熱くなる。
「藤間さんを?」
「ええ、朝まで時間をかけて。」
私は藤間さんの腕の中で目を閉じた。藤間さんから薄く刺激的なスパイスとチョコが混ざったみたいな香水の匂いがしている。侑ちゃんとはまた違う大人の香りに私は顔を埋めた。
このまま時が止まれば良いのにと思った。
「ただいま。」
「おかえり伊織ちゃん。今日は残業でも早かったね。迎えに行った方が良いか悩んじゃったわ。」
ニコニコと笑う侑ちゃんが玄関で出迎えてくれる。いつもの少しよれたシャツにジャージ姿の侑ちゃん。
「侑ちゃんいつもありがとうね。」
「ううん、ええんよ。気にせんで。さあお風呂入って寝る?それとも少しはつまむ?」
「ううん、疲れちゃったから寝るね。」
「うん、おやすみ。ゆっくり入りな。僕は今日は徹夜になるから。」
侑ちゃんの優しく深い声を聞くと安心する。
「ありがとう、侑ちゃんおやすみ。頑張ってね。」
「うん、ありがとう。」
私は結局、藤間さんを置いて帰ってきてしまった。
「おはよう、侑ちゃん。」
「おはよう伊織ちゃん!お誕生日おめでとう!!」
「うわっ。」
パンっと音がして侑ちゃんがクラッカーを鳴らす。リビングにはパーティー風の飾り付けがしてある。まめだなぁ。
「ごめん、ごめん。朝からびっくりしたね。でも早く祝いたくて!久しぶりやから伊織ちゃんの誕生日祝えるの!嬉しくて嬉しくて!」
私の誕生日を祝えるだけでこんなに喜んでくれる人は果たして他にいるのかな。
「もしかしたら午後は予定があるかもしれへんし朝やったら良いかなって思って!さあ座って。」
テレビの前の机に小さめのホールケーキがありそこにロウソクが刺さっている。侑ちゃんがニコニコとマッチで火をつけていく。何故か5本刺さっているだけなのが不思議だけど。私じっと見ているからかロウソクの説明が入った。
「あっ、女性は年齢があれっていうから。本数は適当の方が良いかもって。」
「私は気にしないけど。そこまで気遣ってくれてありがとう。」
「さあ伊織ちゃん火を消して。」
「うん。」
ふうっとロウソクの火を消すとパッとプレゼントが現れた。実際には机の下から出てきただけなのだけど、なんか可愛い。
「じゃーん!これプレゼント!」
「うわぁ、ありがとう!開けてもいい?」
「どうぞ。」
可愛い薄いピンクの包装紙を丁寧に剥がすと中身は色んな種類のハーブティーのティーバッグだった。箱に入っていて全部で30袋もある。
「うわぁ、嬉しい。お茶好きだし。」
「良かったぁ。もうほんまにめちゃくちゃ悩んだけど、消えものが良いかなって思って。それに最近、伊織ちゃんお疲れ気味やったからリラックスできるのが良くて。このハーブティーそんなに癖がなかったから飲みやすいし。」
「ありがとう。めちゃくちゃ嬉しい、一緒に飲もうね。」
「うん、あっこれも。どうぞプレゼント2です。」
今度は縦に長い箱に入ったプレゼントをもらう。
「え2つもいいの?ありがとう。」
水色の包装紙を剥がすと中身は魔法瓶の水筒だった。柄も何も無いシンプルな黒の細身のボトルでとても軽い。
「消えものって思ってたんやけど伊織ちゃんこういう水筒持ってない気がして食器棚にもなかったし持って行ってるのも見なかったから。寒なってくるとこういう水筒は保温がきくからあったまるし、あげたお茶の中に水だしのやつもあるから冷たいお茶も持って行けるしええかなって。」
「侑ちゃんって本当に……ありがとう。」
「いいんやけど、その文章の繋がりおかしくない?絶対に途中から違う言葉が滑り込みしてきたよね。横から。」
「とにかくありがとう。今日は昼から用事があるからちょっと出かけるね。」
「たくさん遊んでおいで。」
「うん、遅くなるなら連絡するね。」
「はいはーい。さあケーキ食べよ!」
「うん!」
「「「乾杯!!!」」」
「「伊織、誕生日おめでとう。」」
「ありがとう。」
「俺からはこれ。」
葵がノートサイズ位の赤の紙袋を渡してくれる。葵は毎年決まっている。
「出た。靴下だ。嬉しいけど毎年一緒だね葵は。」
中身はストッキングが2足と膝下のストッキングが1足、パンプス用の靴下が黒2足、レース生地のくるぶしより上の丈の靴下が白、黒1足ずつ、スニーカー用のくるぶしソックスの黄色と青色とオレンジ色が1足ずつ、くるぶしより上の丈の靴下が白、黒、灰色1足ずつ、冬用の部屋で履くモコモコの靴下がピンクと黄色1足ずつ。
「俺の靴下で1年もつようにってあげてるからな。」
「確かにストッキングはやっぱり買い足すけど他は全く買ってないかも。いつもありがとう。なんだかんだで本当に嬉しいわ。」
今日はロックバンドのロゴがプリントされた黒のTシャツにカーキ色のワイドパンツで靴下は去年、葵からもらったスニーカー用の靴下だ。
そんな葵は別のロックバンドの青のTシャツに黒のジーンズを履いている。今日の服装はロックバンドのロゴTなと決めた張本人の湊はまた違うロックバンドの白のTシャツに白黒チェックのシェフパンツ履いている。何故、ロックバンドのロゴがプリントされたTシャツに縛ったのかはきっと永遠に答えは出ないんだろうな。
「じゃあこれは俺からだ。」
なんか大きな箱だなぁ。重いし。
「お1人様用鍋出汁セット。すごい何これ。」
「10種類の鍋の出汁がパウチになって入ってるんだ。小さめの土鍋とかにそのまま注いで適当に野菜とか入れて炊けばすぐに本格的な鍋が食べられるって事だ。奥さんにも相談して選んだんだ。」
「えぇーすごい。鍋好きなの覚えててくれたんだありがとう。嬉しい!さすが湊!」
「おい、俺と喜び方が違うぞ。靴下ももっと喜べ。」
「喜んでるって!靴下めちゃくちゃ嬉しいし。」
「ならよし!」
私は藤間さんじゃなくていつもの日常を選んだ。あの時、このまま藤間さんの腕の中で消えてしまいたいと思ったけど、勿論そんな事は起きなくて生きるしかないなら藤間さんとは違う道な気がしてもう一度目を閉じた。色んな事が頭をよぎったけど1番最初に思い浮かんだのは侑ちゃんだった。
藤間さんみたいに一緒に居てそのまま消えてしまいたいと思う人じゃなくて一緒に居ると楽しくて穏やかで安らげるそういう人、一緒に生きたいと思える人が侑ちゃんなんだと気がついた。そういう人と一緒に居たいと思った。