幕間:アリスに何があったのか?
……随分と、長い夢を見ていた気がする。
忘我の狭間から浮き上がった時、『私』が己が何者なのか分からなかった。
眠りは深く、『私』の中の記憶は酷く曖昧なモノになっていた。
先ず、『私』がいる此処は何だ?
見渡せば、其処は月日によって朽ち果てた霊廟のような場所。
幾つもの石棺が置かれ、『私』自身も同じ棺に横たわっていた。
棺に刻まれた名前は……知っているような、知らないような。
思い出そうとしても、頭から浮かび上がって来ない。
頭痛が酷い。『私』は誰だ?
あやふやな世界に一人だけ残された『私』の耳に、誰かの声が届いた。
いや、彼らは最初から其処にいたんだ。
ただ『私』がこの瞬間まで認識出来ていなかっただけで。
「目覚めた、本当に目覚められたぞ……!」
「あぁ、伝承は真実だったんだ……!」
「偉大なる《始祖》、正義の剣を掲げる御方よ……!」
……一体、彼らは何を言っているのだろう?
それは『私』の事か――いや、本当にそうなのか……?
頭痛が酷い。私は何を忘れているんだ。
視線を向ければ、『私』の棺の前で頭を垂れる人間達の姿があった。
彼らは一様にボロボロで、一目で敗残兵と分かる有様だった。
何かと死闘を演じながらも、力及ばずに逃げ出す以外になかった。
その事実だけは、直ぐに理解する事が出来た。
胸の奥に燃える感情が何であるのか、今の『私』には分からない。
戸惑う『私』の様子を、気に掛ける余裕すら無いのだろう。
罅割れた床に手を付いて、彼らは『私』に懇願した。
「久遠に眠りにあった貴女様を目覚めさせた事。
それがどれだけ罪深い事かは分かっております……!」
「ですが、今の我らには他に縋るモノがない。
どうか、どうかお許し願いたい」
「そして叶うならば、お力添えを賜りたく……!」
……一体、彼らは何を言っているのだろう?
ワケの分からぬままに一方的に捲くし立てられては『私』も困る。
故に先ず、事情を説明するように促した。
『私』自身が曖昧である事は、その時点では伏せたまま。
すると彼らは涙を流し、己の不甲斐なさに震えながらも語り始めた。
恐るべき災厄の訪れと、危難の時を。
その内容の半分も『私』の頭には入って来なかったが。
心の深い場所に、刺さる話も混じっていた。
「……そして、我らは『決死隊』。
多くの仲間と、託された《竜殺しの刃》と共にこの地に入りましたが……」
「あの恐るべき竜の王、その暴威の前に余りにも無力でした」
「切り札である刃を振るい、王を討ち取る予定だった者もあっさり命を落とし。
それ以外の仲間達の大半も殺されてしまった」
「我らの内、生き残ったのはこの場にいる者達だけです」
恐るべき、竜。
その単語が何故か、心を妙にざわつかせる。
熱く炎が滾るような、不可思議な高揚感を『私』に与えた。
竜。竜……恐るべき、竜の王。
それを『私』は知っているはずだ。
知っている……そうだ、知っている、覚えている。
『私』は、荒ぶる竜を鎮める事を望んで、戦いに出たはずだ。
その日の事を、『私』は鮮明に思い出した。
「最早打つ手無しと、そう諦めた時。
この地には、遠い昔に眠りについた《始祖》の伝説がある事を思い出したのです」
「強大なる竜の王すら屈服させた、偉大なる聖女。
正義の剣を掲げたというその方が、今も眠っているだけならば……」
「私達はその可能性に賭けて、この霊廟を見つけ出しました。
そして――伝説は、真実だった。貴女はこの時代にお目覚めになられた……!」
口々に語る彼らの眼には、希望の火が灯っていた。
自らが知る伝説にある通り、『私』ならば恐ろしき竜に打ち勝って見せると。
心の底から信じ――いや、絶望に対して縋れる希望が、もうそれしかないのだと。
己の無力から顔を背けるように、『私』に対して平伏していた。
……分からない事が、未だに多い。
彼らが口にした伝説とやらも、どうにもピンと来ない。
それは本当に『私』の事なのか?
分からない――分からないが、真実だと何故か確信出来る部分もある。
竜と戦った事。『私』はその為に、剣を取ったのだと。
この頭は欠片も覚えていないはずなのに、それだけは《《間違いない》》と思ったのだ。
だから、『私』はごく自然と頷いていた。
今の状態でどれだけ力になれるかは分からないが――出来るだけの事はしよう。
そんな『私』の言葉を聞いて、彼らは感極まったように泣き出した。
「ありがとう御座います、ありがとう御座います聖女様……!」
「偉大なる《始祖》よ、感謝します。
そしてどうか、無力な我々をお許しください……!」
「我らの戦いで、竜だって傷付いています。
あの御方より授かったこの《刃》ならばきっと……!
きっと、あの狂える竜王を討ち取る事も不可能ではありません……!」
そう言いながら、彼らが『私』に差し出した一振りの剣。
鈍い輝きを放つ飾り気の少ない長剣。
『私』はそれを手に取った。
刀身には見覚えのない術式が刻まれ、手にした『私』の魔力で脈動を始める。
この刃ならば竜を殺せると、彼らは歌う。
不死不滅であるはずの竜を、本当に殺す事など出来るのか?
分からない。『私』には何一つ分からない。
分からないが――請われた以上は、それを果たすのが『私『の役目だろう。
疑問は直ぐに泡と消えて、『私』は剣を片手に立ち上がった。
そうだ、竜と戦わねば。竜を討たねば。
無辜の人々を傷つける、その勝手な所業を見過ごしてはいけない。
きっとそれが、『私』にとっての『正義』なんだ。
そう気付くと、何故か晴れやかな心地になれた。
さぁ、竜と戦おう。竜を討ち取ろう。
弱い人々が『私』を頼り、そうする事を望んでいる。
ならば『私』は『正義の剣』によって、その期待に応えなければ。
「……あの狂った竜の縄張りに関しても、私達なら案内出来ます」
「竜との戦いは、貴女様にお願いせねばなりません」
「どうか、どうかお願いします。
奴の炎で燃え落ちた街や村は、一つや二つではないのです……!」
彼らの懇願は、『私』の中の義憤を駆り立てるには十分だった。
最早、己の使命に迷う事など一点も無し。
自分の名前すらもロクに出てこない状態で、『私』はのぼせ上っていた。
地下に造られていた霊廟を抜け出し、荒れ果てた山を行く。
……此処は、こんな景色だっただろうか?
何故かそんな事を考えながら、今や不毛と化した大地を眺める。
かつてはこれよりはマシな状態で、その後は人々の暮らす街もあったはず。
……あったはず? どうだったろう、良く分からない。
少なくとも今、この地には乾いた土と砂以外のモノは見当たらない。
いや、少し訂正する。
それ以外にも、翼を生やした歪な獣の群れがいた。
「奴が放った飛竜の群れです!」
「聖女様! どうか御力を!」
弱い彼らは悲鳴混じりにそう叫んだ。
見たところ、数は多いが大して強くもない。
生きているだけで死んでしまう彼らでは、確かに荷は重いかもしれない。
だが、『私』にとっては物の数ではなかった。
故に即座に蹴散らした。
預かった剣を振るっただけで、飛竜どもは虫のように落ちて行く。
一時は戦えるかどうか不安だったが、これなら問題ない。
記憶が曖昧でも、『私』の身体は戦い方は克明に覚えているようだった。
そんな『私』の戦いぶりを見て、弱い彼らは歓声を上げる。
これ以上ないぐらいの希望に声を弾ませて、自分達の勝利を確信していた。
「やっぱり伝説は本当だった……!」
「これなら、あの竜だって恐れる事はないぞ!」
「あぁ、最初は不安だったけど――」
……ほんの少し。
ほんの少しだけ、『私』は不快感を感じていた。
理由は分からない。何がそんなに癇に障ったのか、自分でも不明だ。
その感情もごく僅かなもので、胸の奥にしまうのは容易だった。
だから『私』はおくびにも出さず、彼らに先へ進むように促した。
最初の悲壮感など欠片も無く、明るい声が返ってくる。
何故だろう、不快だ。
それはまるで、肌の上を幾つもの蟲が這い回っているような――。
「……! 出た、出ました!
アレです、あの竜です!」
「嗚呼、なんて悍ましい姿だ……!
狂った怪物め! どいつもこいつも同じだっ!!」
「聖女様、どうか我らをお守りください……!」
その場所に辿り着いた時、彼らは一転して弱々しい悲鳴を口にした。
『私』の耳は、それを雑音としか捉えなかった。
其処は巨大なモノが暴れ回ったかのように、複雑に引き裂かれた大地。
砕け割れた地の底から、「ソレ」は這い出して来た。
さながら、大きな竜が人の形を無理やり模したような。
肉体の構造はところどころ歪で、その眼には理性の色は殆ど見られない。
ただ飢えた獣の敵意だけが、炎となって燃え上がっている。
これが、彼らが言うところの『恐るべき竜王』か。
……違和感があった。言葉では説明出来ない。
しかし『私』の中で、目の前の怪物が『恐るべき竜王』という言葉と合致しない。
違う。違うはずだ。竜とは、こんなものでは――。
『■■■■■――――ッ!!!』
『私』が思考の迷路を彷徨っていると、歪んだ竜が大きく吼える。
その咆哮だけで風が荒れて大地が震える。
どれだけ見た印象とは違っても、それは『恐るべき竜』と呼ぶに相応しい力だ。
弱い彼らは、そんな竜の一声だけで戦う意思を失っていた。
ただ無様に地を這って、『私』に哀れな声を叫ぶのみ。
「お願いします! お願いします、聖女様!」
「どうか、あの醜い怪物を――!!」
言われずとも、『私』は己の使命を自覚している。
竜と戦う。竜を討つ。そうしなければ鎮める事は出来ない。
だから『私』は剣を構えて地を蹴った。
疑問も違和感も乱雑に拭い去り、芽生えた「正義」の衝動のまま。
『私』は、恐るべき竜へと挑んだ。
あの日の――ように――?
『………………』
決着は、一瞬でついた。
天高く吼えた竜は、『私』を迎え撃つ事をしなかった。
剣を、《竜殺しの刃》を掲げる『私』を前に、ただその両腕を広げただけ。
疑問を持たずに振り下ろされた剣は、あっさりとその首を断ち斬った。
深く、深く。その魂の本質にまで届くように。
意味が分からなかった。
理解出来なかった。
「狂ってしまった私」の頭では、目の前の現実を直ぐには認識出来なかった。
背後で意味の分からない雑音が聞こえてくる。
「やった! やったぞ! やっぱり伝説の通りだった!」
「かつて、あの恐るべき竜を打ち倒した偉大なる《始祖》……!
永遠に生きるはずの聖女が、この地で久遠の眠りについていると……!」
「伝承は正しかった……!
本当に、あんな恐ろしい怪物を一瞬で屠ってしまうなんて……!」
うるさい。一体、お前達は何を言ってるんだ?
竜は、古き竜は不死だ。その魂は不滅で、その存在は永遠のはず。
『私』は――そうだ、『私』は、耐えられなかった。
人間は竜と違って、長すぎる生に抗えるほど心が強くなかった。
穏やかで幸せだったはずの日々が、『私』の心を徐々に削り始めた。
このまま完全に狂ってしまう前に、どうか『私』を殺して欲しいと――。
そう、願って、けれど優しい『彼』は。
そうだ――『私』を、『私』の心がこれ以上狂ってしまわぬようにと。
あの石の棺に、『私』と『彼』を支え、この地に豊かな街や村を築いた者達。
そんなかつての友だった者達が眠る、霊廟へと。
『私』を、長き眠りにつかせて――。
『……ア、リ……ス……』
その声は、酷く乱れていたけれど。
間違いなく――優しい、『彼』の声だった。
たった今、『私』が《竜殺しの刃》で首を断ってしまった竜。
その転がった頭から、力なく開かれた口から、漏れ出していた。
不死であるはずの竜が、不滅であるはずの竜が。
まるで今にも、死にかけているみたいに。
『すま……な、い……私、は――――』
……嫌だ。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
どうして、何故?
戦いの王と恐れられながらも、誰よりも優しい心を持っていた貴方。
そんな貴方が何故、こんな姿になっているのか。
狂える竜の王? 貴方がそんな堕落を己に許すはずがない。
どうして、私達の庇護したこの地がこんなにも荒れ果てているのか。
何故――何故?
どうして『私』が、貴方を殺しているのか。
狂った頭では、もう何も理解する事が出来なかった。
「――――ッ!!」
「―――! ――――ッ!」
「――――――!!」
後ろから雑音が聞こえる。
もう、音としても認識出来ない。
お前達は、知っていたのか。
『私』が誰で、『彼』が何者であったのか。
全てを知っていて、『私』にこの刃を握らせたのか。
全て分かっていて、『私』に『彼』を殺させたのか。
……何だ、それは。何なんだそれは。
この世には『正義』があるのだと信じていた。
正しい行いには良き結果があるのだと、そう思っていた。
『私』はどんな過ちを犯した?
『私』はただ、永遠に耐える事が出来なかっただけ。
『私』は弱き人々の助けとなり、いつだって善き事を行おうと心掛けていた。
『私』は――『彼』を愛し、そしてたった一人の娘を愛していた。
そんな『私』は、こんな目に遭わねばならないような罪人か。
だとしたら――この世に、私の信じた『正義』など、何処にもありはしない。
もう魂を感じぬ『彼』の首を掻き抱き、燃えるように熱い刃を握り締める。
虫ケラが何か騒いでいるが、知った事か。
『私』は叫んだ。喉が破れて血が噴き出すのも構わずに。
それは断末魔の声。
一人の哀れな女が死に逝く前の、最後の声。
後に残るのは、一匹の獣だけ。
己の狂気を夢として、燻り狂える獣が一匹。
それで良い――『私』はもう、『私』でいる事すら耐えがたい。
愛する者の亡骸と、愛する者を斬った剣。
それだけを胸に掻き抱いて、私は狂った夢へと身を投げた。
嗚呼……けれど、最後に心残りがあるとすれば。
愛しい『あの子』の顔が、思い出せない。




