幕間:彼らの思惑
血色に染まった森の中を駆ける
赤い月が沈む刻限が近付きつつある頃。
既にこの森に『供物』となるべき獲物はいない。
そうなる予定だった者たちは、狩人の手を逃れ既に脱出した後だ。
この森に、得物だった相手はいない。
ならば何故、俺が森の中を駆けているのか。
そんなものは決まっている。
獲物を追いかけているからだ。
「……いたな」
木々の隙間から、ほんの僅かに見える影。
矢筒から何本かの矢を纏めて引き抜き、手にした弓に番える。
狙いがあったと感じた瞬間に矢を放つ。
矢は風を裂き、森の薄闇に銀の軌跡を残す。
――二つ当たったか。
逃げる獲物の姿は、まだ森に隠れてほとんど見えない。
が、弓手の勘は放った矢のどれが当たったかを感じ取る。
今ので仕留められた訳ではない。
しかしまともに矢傷を受けて、変わらず逃げ続けることは難しいだろう。
枝を折らぬように踏み、大きく跳ぶ。
下り立った先には、こちらの予想していた通りの姿があった。
脚と腕にそれぞれ矢を受けた黒装束。
つい先ほど獲物を取り逃がしてしまったばかりの、俺と同じ《牙》の男。
俺が目の前に現れると、痛みに蒼褪めた顔が更に恐怖で引き攣った。
「鬼ごっこはこれで終わりか?」
「ま、待て、待ってくれ……!」
「待てんよ、分かっているだろう。
そろそろ月も沈む、今宵の祭りはここまでだ」
矢を向ける俺に対し、男もシミターを構える。
だが明らかに腰が引けていて、アレではまともに戦えまい。
まったく、狩人が聞いて呆れるな。
「他の者たちは全員潔く散ったぞ」
「う、ウィリアム……!」
「赤い月が上ったならば、獲物を捧げねばならない。
お前達は獲物を狩る事ができなかった」
狩り得た獲物を捧げなければ、《狩猟祭》の意味がない。
狩人がしくじったならば、その穴埋めは如何にするか。
答えは酷く単純なものだ。
「お前達はもう狩人ではない、獲物だ。
――もしそれを拒むのならどうするか、分かっているはずだ」
「ッ……!」
未だに恐怖は拭い切れないようだが。
それでも覚悟は決めたらしい。
シミターの刃を揺らしながら、男は地を蹴り向かって来る。
俺の方もそれに合わせ、後方へと下がる。
同時に構えた矢を放つ――が。
「《風よ》!」
精霊に助力を請う呼びかけ。
《力ある言葉》は正しく発動し、男の周りで風が唸る。
急所を狙ったはずの矢は、風に絡めとられて全て明後日の方向に弾かれた。
「いいぞ、流石にやるものだな」
「戯言を……!」
この森から生きて出るには、目の前の俺を仕留めるしかない。
その事実に光を見たか、男は必死な形相で迫ってくる。
遠・中距離での撃ち合いでは俺に勝てないと、そう踏んでの突撃か。
確かに間合いを潰されれば、弓の利点の多くは失われる。
その判断は大筋は間違っていない。
「ウィリアム、覚悟……!」
とうとう剣の間合いに俺を捉えて、男は真っ直ぐ剣を振るう。
不死であるはずの狩人が、絡みつく死を振り払おうとするかのように。
見切って躱したつもりだったが、切っ先が二の腕を僅かに掠めた。
思っていたより悪くない太刀筋だ。
そこは流石に、《牙》となる程度に鍛えただけのことはある。
男は更に踏み込んで、何度も鋭い斬撃を繰り出した。
俺はただ退き、その度に刃が手や足を少しずつ削っていく。
手応えを感じた男の顔が笑みの形に歪む。
勝機はあると、そう考えたのだろう。
防戦一方――どころか後ろに退くばかりの俺を、男は逃がすまいと前に出る。
赤い月が森を染める限り、狩人は死なない。
だがそれは当然、完全な不死というわけではない。
狩人であれば、同じ狩人も殺せる。
故にその刃が俺の首を断ったならば、俺を殺す事が出来るだろう。
男はそうするために剣を振るい――。
「これで……!」
構えようとした弓を、シミターの一撃が弾き落とす。
俺は崩れかけたバランスを、後方にあった木の幹に背を預けることで支えた。
そこに生じた隙を逃さず、男は大きく剣を振り被る。
後は最速でこの首に刃を打ち込むだけ。
己の勝利を確信し、男は獣の如く吼えた。
「……惜しかったな」
もう少し冷静だったなら、誘いに気付けただろうに。
赤い月を背負い、影になった俺の動きを男の眼は見落としていた。
シミターを振り上げた姿勢のまま、その表情が驚愕に凍り付く。
男の腹部には、一本の短刀が突き刺さっていた。
「月の鱗の一枚たる守り刀だ。
これで死ねるならば、森人としては名誉だろう」
かつては、大族長であった父を葬った一刀でもある。
男は剣を取り落とし、赤く染まった腹を抑えながら数歩後ずさる。
長くはない。が、徒に苦痛を伸ばす事もない。
このまま速やかにトドメを刺してやるつもりだったが……。
「ま、ってくれ」
男の唇から漏れたのは、己の命を請う弱い言葉。
恐怖と絶望に染まった顔で、狩人であったはずの男は膝を付く。
「た、のむ。しにたく、ない。たすけ、て」
「止めろ、それ以上は口にするな」
それは俺にとって、完全に善意から出た忠告だった。
しかし、死に怯えた男の耳には届かない。
「ま、まだ死にたくない。
たの、む。たすけてくれよ、ウィリアム……!」
「…………」
俺は何も応えなかった。
弾かれた弓は拾ったが、それを構えることもしない。
男はそれを都合よく誤解したことだろう。
自分が助かるかもしれないと、そんな希望を表情に浮かべて。
「……あ……?」
すぐに、絶望に染め変えられた。
苦し気に呻きながら、男は刺された腹ではなく胸元を抑える。
衣服に隠れて見えないが、そこで何が起こっているかは分かっていた。
醜い狼の刻印が浮かび上がり、男の生命に喰らいつこうとしているはずだ。
真っ赤な血を吐き出し、供物と成り果てた男は崩れ落ちる。
生死は、確認するまでもなかった。
魂ごと心臓を噛み砕かれて、男は絶命していた。
「…………」
最早かける言葉もない。
手を伸ばし、せめて見開いた瞼を閉じてやる。
今の俺にしてやれるのは、それだけだった。
「――救い難い程に愚かだったな」
耳障りな声が、前触れもなく背後から沸いて出る。
それが誰であるかは振り向かずとも分かった。
「《牙》となった代償を忘れて助命を請うなど、本当の愚か者だな。
心弱ければ狩人足り得ず、供物として果てる他ない。
そんなこと、十分言い聞かせておいたはずだが」
「それで、何の用だ。ウェルキン」
「用も無しにお前に話しかけたりするかよ」
嘲るようにウェルキンは笑っていた。
それは俺と、既に事切れた同胞だった男に向けられていた。
底無しの傲慢さを隠しもせず、《爪》は俺に託宣の如き言葉を告げる。
「一先ず、狩りに失敗した無能者どもの血肉で王は喉を潤した。
――が、折角の極上の獲物を取り逃がした事実は変わらん。
故に、《爪》たる私がここからの《狩猟祭》を取り仕切らせて貰おう」
「そうか」
まぁ、そういう流れになるだろうな。
予想はしていたことで、別段驚くような事でもない。
そんな俺の反応が気に食わなかったか、ウェルキンは小さく舌打ちして。
「お前がヘマをしなければ、私がわざわざ出る必要もなかったんだがな!」
「件の客人方は、ことの予想以上に強かった。
認識を改めねば、また同じ轍を踏むことになるかもしれんぞ」
「……ふん、本当にそれだけか?」
「何が言いたい?」
面倒だが、ここでウェルキンの方に向き直る。
果たして《爪》の男は、舌なめずりをする蛇の顔で俺を見ていた。
「赤帽子の娘が、また現れたのだろう?
奴があの生贄どもを森から逃がしたとか」
「それがどうした」
「《牙》の筆頭であるお前が、これまで何度も取り逃がした反逆者だ。
しかし、それは本当に偶然か?」
「相変わらず回りくどい男だ。
言いたいことがあるならさっさと言ったらどうだ?」
声と表情は、乾いた鉄であるよう努める。
ウェルキンにこちらの真意を悟られぬよう、最大限の注意を払う。
蛇そのものな顔を、目の前の男は無遠慮に近づけてきた。
「本当は、お前が赤帽子を操っているんじゃないのか?」
「……何を言い出すかと思えば、酷い妄想だな。
正気で言っているのか、ウェルキン」
「正気だとも、冗談でこんなことを口にするものかよ。
私はな、ウィリアム。お前を心底信用していないんだ」
「……ほう」
それは何とも今さらに過ぎる言葉だった。
まさか今までの態度で、俺への不信を隠しているつもりだったのか。
愚かなウェルキンは、こちらの胸辺りを指で叩く。
「お前は昔からそうだ。自分が誰より賢いと思っている」
「仮にそうだとしても、それはお互い様じゃないか?」
「戯言は止めろ、ウィリアム。
かつて実の父であった大族長を殺し、森の実権を握った時のように。
今度は私や真竜様の寝首を掻く腹積もりなんじゃないのか?」
「ウェルキン」
疑心のまま睨んでくる男を見下ろして。
俺はただ、嘘偽りのない言葉だけを口にする。
「俺は、お前や王の寝首を掻こうなどとは考えていない」
「ハッ! 口では何とでも言えるだろう」
「仮にそれを試みたとしてどうなる?
《牙》に過ぎん俺の力は、王は勿論《爪》であるお前にも届かない」
この場に虚偽は不要だ。
必要ならば嘘偽りも幾らでも弄するが、今は真実だけで事足りる。
「何より、この身には“森の王”の呪いが宿っている」
それは先ほど、ウェルキンが指で触れた辺り。
丁度心臓がある位置の上ぐらいか。
其処には真竜サルガタナスによる『呪い』が刻まれていた。
材料は真竜自身の血肉と、魂の一欠片。
森人の多くに与えられたソレは、強靭な身体能力と更なる長命を種にもたらした。
それだけならば祝福と言えなくもないが、残念だがこれは呪いだ。
狼の印を刻まれた者は、真竜の意思一つでその命を奪われる。
さっきの狩人のように意思が弱った場合も、真竜の魂は牙を向けてくる。
魂を、そこから流れ出す生命の火を、あまさず喰い尽くされて死ぬ。
弱いモノは、より強いモノに喰われる。
弱肉強食を体現するその呪いは、当然俺の身の内でも脈打っている。
「《爪》であるお前は、王の代理としていつでも呪いを発動できる。
ほんの少し念じるだけで、俺の命は王に喰われて果てるのみ。
それはお前が一番良く知っているはずだ」
「……あぁ、その通りだ」
「ならば、今の俺などお前には取るに足らん存在のはずだ。
それとも――王が嵌めたこの枷を、《爪》であるはずのお前が疑うのか?」
「ッ、黙れよウィリアム! 不敬が過ぎるぞ!」
王である真竜への不信。
《爪》であるウェルキンにとって、これほど許し難い罪もない。
声を荒げて睨む蛇に、俺はわざとらしく跪いてみせた。
頭を垂れて、あくまで服従を態度で示す。
「もし俺に罪があるとお前が判断するのなら、その呪いで俺を殺せばいい。
お前にはその権利があり、同時に義務もある。
“森の王”の《爪》たるウェルキン、お前はどう考える?」
「……お前を容易く殺しては、不都合が多い」
「そうだろうな」
お飾りはお飾りなりに、都市の運営には力を尽くして来た。
気分だけで俺を殺すのは、流石にデメリットの方が大きいはずだ。
それを理解できるだけの頭をウェルキンは持ち合わせていた。
故にどれだけ不愉快でも、今は俺の生存を許すしかない。
「……忘れるなよ、ウィリアム。
お前の生命は“森の王”が握っている。
それは私がお前の生殺与奪の権利を持っているのに等しい」
「無論、承知している」
「繰り返すが、明日からの《狩猟祭》は私が取り仕切る。
だがお前も《牙》として動いて貰うぞ。当然、異論などないよな?」
「仰せの侭に、忠勇なる《爪》よ」
顔は伏せたまま、ウェルキンの決定に唯々諾々と頷くのみ。
こんなことを言っているが、恐らく俺を前面に出すような真似はしないだろう。
それではウェルキン自身が《狩猟祭》を取り仕切る意味がない。
俺が取り逃がした獲物を上手く誘き寄せ、供物として自らの手で王に捧げる。
ウェルキンの目論見はそんなところか。
或いはその過程で、俺を物理的に排除しようとする可能性もある。
何にせよ、明日からの《狩猟祭》は一段と騒がしいモノになるだろう。
その為に可能な限り備え、打てる手は打っておく必要がある。
だが、どうなるにせよ――。
「――最後に勝つのは、俺だ」
ウェルキンの耳には届かぬよう。
小さく囁くように、俺は己に対する誓いの言葉を口にした。




