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第一話:竜を屠る


 それは果たして、何百回目の生死の境だろうか。

 頭上スレスレを巨大な塊が貫いていく。

 恐らくは爪か何かだろうが、ゆっくりと確認している暇はない。

 足を止めてはならない――それが今、一瞬先を生き延びる為の鉄則だった。

 踏み締める。既に瓦礫の山と化した地面だが、足を取られるような間抜けは出来ない。

 一歩を確実に、けれど素早く。

 軽やかさなど微塵もなく、優雅さなど欠片もない。

 ただ地を蹴って、目の前に出来た僅かな空隙へと飛び込む。

 一瞬だけ見えた夜空は、暗雲に覆われ星の欠片も見当たらない。

 身を宙に投げ出す不確かさに総身が震えるが、それは直ぐに身体を打つ衝撃によって払われた。

 無事だ。五体のどこも欠けた感覚はない。

 その幸運を噛み締める暇もなく、可能な限り最速で体勢を立て直す。

 

『おのれッ――――!!』

 

 頭上で響いたのは、大気を震わさずに伝わる声。或いは咆哮。

 見上げれば、其処に在るのは空を塞ぐかのような巨影。

 それが何であるかを知っていた。

 それがどれほど恐るべきモノであるのかも。

 人と比較すれば、仮に数十人が集まってもなお釣り合わない程の巨躯。

 古木よりも更に太い手足に備わるのは、古今の如何なる名刀宝剣にも勝る鋭き爪。

 巨大な肉体を覆い尽くす数千を超える鱗は、この世のどんな鋼よりも硬い。

 背に負った一対の翼は、その気になれば風よりも早く千里を駆ける。

 万象を噛み砕く強靭な顎は、その上で万物を焼き尽くす恐るべき吐息さえも吐き出す。

 吟遊詩人が歌う伝承神話、そこで語られる地上の支配者。

 即ち、(ドラゴン)

 古き王(オールドキング)とも称される、この世で最大最強の魔獣。

 その大いなる一柱と今、俺は対峙している。

 

定命(モータル)風情がッ!!』

 

 暴君は吼える。そこにあるのは苛立ちだ。

 同時に、その巨体では想像もつかない――それこそ、悪夢の如き速度で竜は動く。

 そう、竜は風よりも素早い。

 故に目で追っていては間に合わない。

 来るのは爪の一振りか尾の一払いか、どちらにせよ避けねば死ぬ。

 再び地を蹴り、同時に身体を大きく下へと傾けた。

 ほんの僅かな差で、竜の振るう爪が再び頭上を掠めて行く。

 爪の一撃はそのまま地面を叩き割り、その衝撃で身体は前へと吹き飛ばされた。

 役に立っているかも曖昧な甲冑が、ガシャガシャと音を立てる。

 いや竜の爪牙の前では紙切れ同然でも、地面に裸で叩きつけられるよりかは幾分マシか。

 意識の切れ端はそんな益体もない事を考えながら、肉体はただ本能のままに動く。

 

『ッ――――!!』

 

 一撃。崩れた体勢を立て直しながら、同時に手にした剣を振るう事が出来た。

 荒れ狂う、嵐も同然の竜の猛攻の中で、たった一撃。

 それは竜の脚の辺りを捉え、纏う鱗の一枚を断ち割った。

 竜の鱗は、如何なる鋼よりも硬い。

 けれど手にした剣の切っ先は、そんな鱗も容易く切り裂く。

 だが、それだけだ。

 一撃で、鱗のたった一枚。

 竜はその巨体に、一体何千枚の鱗を纏っているのか。

 

『無駄だと言うのが何故分からんッ!!』

 

 次の瞬間、身体を強烈な衝撃が貫いていた。

 意識が飛びそうになるのを、ギリギリのところで堪える。

 何が起こったのか。考えるまでもない、攻撃を受けてしまった。

 それも物理的なものではなく、恐らくは魔導によるもの。

 竜はあらゆる魔に通じている。

 人間の魔導士が術を行使するには、仰々しい詠唱や派手な儀式が必要だ。

 けれど竜は、ほんの僅かな思念を発するだけで世界を操る。

 苛立ち紛れで吼えた念話(テレパシー)だけでも、強烈な衝撃波を浴びせかけてきた。

 

『砕け散れッ!!』

 

 視界は定まらず、頭も揺れて意識は飛びかけている。

 それでも、動かねば死ぬ。

 だから身体を無理やり動かす。

 そうしてまた一つ、生死の境を飛び越した。

 割れた地面へと無様に転がれば、すぐ背後で何かが炸裂するのを感じる。

 それが魔術か爪牙かは分からないが、まだ生きている。

 だからまた、手にした剣を竜へと向けた。

 切っ先に得た感触は、先ほどまでとは僅かに異なっていた。

 

「…………!」

 

 それは肉を裂いた感触だった。

 狙ったわけではない。偶然、鱗の切り裂いた場所を刃が引っ掛けただけ。

 けれど間違いなく、この剣が竜の命に触れた感触だった。

 だが。

 

『それが何だと言うのだッ!!』

 

 怒りを滾らせながらも、竜はその戦果を嘲る。

 竜は、この世で最も強大な生命を持つ。

 寿命は無く、仮に肉体が死したとしてもその魂は不滅。

 時間さえあれば、彼らは例え死んでも再び蘇る事が可能だという。

 故に、竜に抗う事は愚者の行いだ。

 奇跡が百重なっても人の手には届かず、例え届いたとしても一時のこと。

 この竜も、恐らくは何度も愚か者の足掻きを見てきたのだろう。

 

『大層な剣を与えられのぼせ上ったようだが、結局はか弱き定命(モータル)

 永遠に等しき竜の生に、糸クズのような傷を刻んでどうにかなると思うているのか!?』

 

 きっと、その嘲笑は正しい。

 そうやって何度も、この竜は己に挑む愚か者を踏み砕いて来たはずだ。

 見下ろし、威圧する竜の声に応える事はしない。

 変わりに一度距離を置き、それから自分の懐を漁った。

 指に引っ掛かったのは、小さな陶器製の壺。

 それを素早く取り出し、同じように素早く中身を煽る。

 賦活剤。それを呑めば疲弊した身体は活力を取り戻し、傷を塞いで血を補う。

 極めて便利な魔法の薬だが、残念なことに数に限りがある。

 ここまで何とか節約しながら戦ってきたが、残っているのはあと数本。

 それが尽きれば、後は死神との舞踏に自力で耐えねばならない。

 

『貴様……!』

 

 諦めるどころか、目の前で悠々と水薬(ポーション)を呑んでみせた人間に、竜は怒りを募らせたようだ。

 ……嗚呼、まったく。

 これほど戦ってもまだ、この竜は理解していないらしい。

 

「……それで」

『何?』

「それで、一体いつになったら俺を殺すんだ? 王様気取りの糞ジジイ(オールドキング)

 

 兜の奥で、そう笑ってみせた。

 上手く笑えたかは分からないが、効果はあったらしい。

 大気が震える……いや、()()()

 竜の怒りとは、自然の暴威にも等しい。

 安い挑発の言葉は、気軽に竜の逆鱗を撫でたようだった。

 

『殺す! 殺してくれる! 肉体だけではない、その魂魄の欠片も残さず殺し尽くす!』

「だから、やってみろっつってんだ」

 

 殺す殺すと、恥ずかしげもなく喚き立てる。

 俺が殺す気無しに剣を握っているとでも思っているのか。

 

「こっちは、竜殺しに来てんだぞ」

 

 その意思を、もう一度言葉にして。

 怒り狂う竜の足下へ、もう一度走り出した。

 既に限界に近い手足は、賦活剤の効果を受けても軋みを上げる。

 が、構う事はない。

 動かなくなれば死ぬだけならば、限界など無いも同然だ。

 ……世には剣聖と讃えられ、その剣を神業と称される者がいるらしい。

 或いは英雄と崇められ、その技を絶対と歌われる者がいるのだとか。

 そんな連中と比べてしまえば、この戦い方の何と無様な事か。

 兎に角避ける。振るわれる爪も尾も、直撃すればそれだけで死にかねない。

 避けて、避けて、避け切れぬ時は祈りながら防いで、そうして何とか生き延びる。

 それから剣を振るい、また鱗を一枚削ぎ落す。

 竜の顎から吐き出される息は灼熱の炎。竜王の吐息(ドラゴンブレス)

 まともに浴びれば消し炭になる。だから形振り構わず逃げ回る。

 甲冑の一部が焼け焦げ溶けかけるが、肉や骨に届かなければ問題ない。

 むしろ派手派手しく吐き出された炎は、竜の視界を遮る壁となってくれる。

 その隙を突いて、また一枚。

 今度は鱗と一緒に、ほんの少しだが肉も削り取った。

 まだまだ。そう、まだまだだ。

 まだ戦いは、竜殺しは始まったばかりだった。

 

『……ッ! 何故……!』

 

 竜が何やら狼狽えた思念を発しているが、それに付き合っている余裕はない。

 こうしている瞬間にも、命が流れ出しているのを自覚しているから。

 時間は少ない。限界に意味はない。

 ただ走って、転がって、立ち上がって、また走って、剣を振るう。

 爪が地面を砕くのを避けて、剣を振るう。

 噛み合わされる顎をギリギリで躱して、剣を振るう。

 振り回される尾に転げ回りながら、剣を振るう。

 吐き出される炎を潜り抜けて、剣を振るう。

 魔術による熱線に身を削られながら、剣を振るう。

 剣を振るう。その度に、竜の鱗を一枚削ぐ。

 一枚。一枚。また一枚。剣を振った回数は、千を超えただろうか。

 数える余裕はない。なくなりそうな手足の感覚を、賦活剤で無理やり呼び戻す。

 過剰な投与は、死を遠ざける代わりに命を縮めると聞いたが、今はそれで構わない。

 仮にその一つの支払いが十年分の命だとして、一秒先の死を避けられるならば上等だ。

 

『何故だ……!』

 

 削がれた鱗が、また地に落ちる。

 この世で最も強靭であるはずの鱗が、さながら落ち葉のように散らばっていた。

 竜は、それを見ているのだろうか。

 己の不死を約束する竜鱗、落ちたのは無限に等しい中のほんの一部。

 そうだ、それは竜の命の如く無限にも等しい。

 だが等しいだけで、本当に無限ではない。

 竜の命が、真に永遠ではないのと同じように。

 

『何故、こんな事が出来る……!?』

 

 竜の驚愕に意識を割いてる暇はない。

 一つ、一つ、その積み重ねだ。

 竜のように高く遠く飛ぶ事の出来ない人間に、出来る事はその繰り返しだけだ。

 一つ、一つ、河原で石を積むように。

 一つ、一つと、その鱗を削り取る。

 果たして愚鈍な竜は、理解しただろうか。

 どちらかが終わるまで、この戦いが終わらない事を。

 

「ッ…………!」

 

 最早、声の一つ出す事さえ困難だった。

 或いはもう、呼吸すら満足にできなくなっているかもしれない。

 生と死の境界は曖昧で、それでも身体は動いている。

 剣を握っている、その感触だけは確かだ。

 ――それならば、戦える。

 

『あり得ぬ、あり得ぬだろう、こんな事……!!』

 

 天地の支配者たる竜が、何かを吼えていた。

 人など、竜にとっては地べたを這いずる蟲にも等しいだろう。

 事実、最初からその翼で空高く飛ばれてしまったのなら、ハッキリ言って勝ち目はなかった。

 こちらの手札は上等な剣と、あとは教えて貰った多少の魔術だけ。

 とてもではないが、飛び回る竜は仕留められない。

 けれどこの竜はそうしなかった。

 絶対的な格差を、己という天の高さを地に知らしめるかのように、竜は立ちはだかった。

 かつて何度も繰り返したように、愚かな人間を屠るために。

 

『何故、何故竜たる我が、王たる我が……!』

 

 繰り返す。星や太陽の巡りが、どれほど回っただろうか。

 賦活剤はもう尽きたが、命だけはまだ尽きていない。

 尽きていないから、まだ繰り返す。

 己の全てを薪として燃やすように、ただ剣を振るい続けた。

 一枚、一枚、また一枚。

 削がれた鱗は、竜自身の血に染まって地を埋め尽くすほど。

 竜の命もまだ尽きない。尽きなければ終わらない。

 

『――――……ッ!!』

 

 竜の思念は、最早言葉になっていなかった。

 もしかしたら、それを言葉と認識する余力が自分にないだけかもしれないが。

 何にせよ、終わらないなら続けるだけだ。

 大地を蹴り、瓦礫と鱗の上を転がり、血肉を焼かれながら、竜の命を剣で削ぎ落す。

 天高く、果てしなく石を積み上げるような感覚。

 それはまるで、子供の戯言のようだった。

 あり得ない、荒唐無稽な法螺話のようだった。

 人が一本の剣を手に、竜の命に届かせる。

 その、あり得ない御伽噺に向けて、ただ繰り返す。

 

「――――!」

 

 日が昇り、星が咲いて月が過ぎる。

 それを幾度繰り返したか。剣は幾度振り続けたか。

 終わるまでは終わらない――だからやがて、終わりは必ず訪れる。

 

『ぁ――ガ、ぁ……!?』

 

 剣が伝えてきたのは、確かな手応え。

 天地の差を、己の手で埋め切った感覚。

 手にした剣は、鱗の大半を削ぎ落とした竜の首を確かに捉えていた。

 信じられぬものを見た表情で、竜の巨体が崩れ落ちる。

 ……嗚呼、終わりが来たのだ。

 

『呪われるがいい、愚かな戦士よ……!』

 

 鱗を失い、首も半ば以上断ち切られてもなお、竜は死んではいなかった。

 けれどもう、そこには戦う力は残っていない。

 あるのはただ、怨嗟の呪詛を吐く程度の寿命だけだった。

 

『なるほど、その剣ならば、不死たる竜を殺す事も出来るだろうよ……!

 だが、心得ているのか、そうすることの意味を!』

 

 ……竜はまだ死んでいない。

 竜殺しを果たすには、その首を完全に断たねばならないようだ。

 もう満足に動かぬ足を引き摺り、赤く染まった腕でどうにか剣を振り上げる。

 竜の呪詛は止まらない。

 

『分かっているのか! 貴様は死ぬ! 人が竜に挑むとはそういう事だ!

 一体どのようにたぶらかされたかは知らぬが、貴様は最初から……!」

「知らんよ、そんな事は」

 

 あまりに煩いので言い返したが、まだ声が出るとは驚きだ。

 それすら命の一滴かもしれないが、今さら出し惜しむ事もないだろう。

 言われっ放しというのも趣味ではない。

 

「全部、俺が決めた事だ。――だからお前は、ここで死ね」

 

 こっちが勝って、お前が負けた。

 だから結果は一つだと、そう言葉で告げて。

 

『ッ、呪われるがいい! あの淫売ともども――!』

「うるせぇよ」

 

 振り下ろす一刀が、ここまで積み重ねた終わりだった。

 剣は竜の首と、それ以上のモノを断ち切る。

 ……これで本当に終わりだ。

 

「ッ…………」

 

 完全に屍となった竜の最期を見届けてから、ようやくその場に膝を付いた。

 もう二度と、立ち上がる事は叶わないだろう。

 それは十分に理解していたが、悔いはなかった。

 

「……ギリギリか」

 

 全て、全てギリギリのスレスレだった。

 人が竜を討つという奇跡は、文字通り死ぬほど大変なことだった。

 できれば二度とはやりたくない。

 

「……っ、は……」

 

 意識が薄れる。視界はもう殆ど霧の中だ。

 死ぬ。あの竜の言葉通りだ。人の命は竜ほど強くはない。

 それはいい、最初から分かっていた事だ。

 成し遂げたことを考えれば、対価としては安すぎるぐらいだろう。

 だが、もう少しだけ。もう少しだけの猶予を。

 

「――――」

 

 声。頭上から落ちてくるそれは、先ほどの竜のものではない。

 目は殆ど役に立たないが、耳はまだイカれてはいなかった。

 その冷たく鈴を鳴らしたような声を、何度聞いたか。

 すぐに返事をしてやらねば、また不機嫌になりかねない。

 だから聞こえた声に、応える為に。

 俺はどうにか、顔を上げて。

 

 それから。

 それから。


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