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彼女はよく笑う人だった。
成功も失敗も希望も絶望も喜びも悲しみもまとめて全部、笑ってくれる人だった。
彼女が笑えばすべてを許されているような気持ちになれた。すべてを肯定して、受け入れてもらえたような、そんな気持ちに。
だから――だから私は必然的に、禁を犯した。
ルールを破った私の翼は穢れて、あらゆる光を失った。見えているはずのものから目を逸らし、見えないものばかりに執着した私に、ふさわしい罰だと思った。
そんな私を、彼女は見つけた。
私を唯一貶めた彼女に、私は見つかってしまった。
世界に光があふれた。
恋は神に禁じられたものだ。それは理解しているつもりだった。
かつての自分を嘲笑いながら、私は彼女のとなりを歩く。彼女の新しい守護テンシはとっくの昔に焼き滅ぼしたし、彼女にちょっかいを出す野郎どもには不幸をプレゼントした。
彼女のそばにいるのは私だけで十分だ。私だけで十分なのだ。
彼女はとても純粋で可憐な少女だった。前を向いて笑っている姿が誰よりも美しい女の子で、つらいことがあってもめげずに立ち上がり、悲しいことがあっても懸命に歩き続けるような健気な人だった。
小さい頃からずっと、一番近くで見守ってきた。
私はひたむきな彼女に恋をした。
欲に触れる機会の多いテンシほど堕ちやすいという話は私たちの間では周知の事実だったものの、だからといって一人一人に実感があるわけではなかった。
地上には欲が充満しているから、非情なまでに白いテンシはその影響をまともに受けてしまう。そして、そういったものによって堕ちたテンシはダテンシとなり、アクマと呼ばれる存在に変ずるのだ。
テンシにとって重要なのは、そうした悪は断ずるべきものだという道理だけだった。
皮肉なものだ。
悪は善を語る者がいてこそ意味を持つ概念のはずだし、アクマだって何もない場所から生まれることはないのに。
禁を犯した私はダテンシとなり、アクマの仲間になった。それまで白かったものが一度でも黒く染まると、もう元には戻れない。
それでも私はテンシが善でアクマが悪だと思ってはいないし、テンシに戻りたいとも感じなかった。恋を禁じた神を憎み、テンシの道理は悪だと信じる。
「さっきからどうしたの? 難しい顔してるよ?」
「え?」
正面に回り込んだ彼女が心配そうな瞳で私を覗き込んだ。
学校の帰り道、長く伸びる二つの影。
「ずっと上の空で……わたしの話、聞いてないし」
「あ、ああ。悪いな」
「何を考えてたの?」
少しむくれた彼女が愛おしくて、私はついつい笑ってしまった。
あなたのこと、って答えようかと思ったけど、私はもうテンシじゃない。嘘だってつける。
「今日あった小テストの答え合わせ、してたんだ」
「そんなのあとにしてよー」
どこかほっとした様子の彼女は私のとなりに移動すると、それまでしていたおしゃべりを再開させた。
好きな人のことはいつだって考えてしまうものなんだよ。心の中で苦笑して、他愛もない話に相槌を打つ。
友達のことや先生のこと、今日あった出来事を楽しそうに教えてくれるこの時間は、私にとって大切なものだった。
私は彼女が好きだった。好きで好きで仕方がなかった。
ああ、と思う。
こんなに近くにいるのに、どうして叶わないんだろう。
ふわっとして柔らかそうな横顔も、白い肌も、くりんとしたまつげも、伸ばしている髪の毛も。まだ恋を知らない瞳も、唇も、体だって。
全部、私のものにしてしまいたい――。
高鳴ったままの心臓が私を突き動かす。
「っ……」
驚いて目を見開く彼女。
私は彼女の手を取っていた。
私の望みがどれも届かないものだというのなら、せめて、体温だけでも感じてみたくて。
彼女は何も言わなかった。
ただ、どうしたらいいのかわからずに狼狽える視線とか、乱れた意識とかが私には筒抜けで、それがとてもうれしかった。
彼女が私のしたことで動揺している。そして、緊張している。
そんなふうにしていたら、本当に食べちゃうよ。
その日の私たちは、となり合う家に着くまでずっと手を繋いでいた。
彼女の心臓の音が聞こえるみたいだった。
満たされない気持ちを慰めるためにしたことが、彼女をもっと欲しがってしまう原因になるなんて、愚かな私に予想できるはずもなく。
手を繋いだ日から私の気持ちは膨らみ続けて、おなかだけは空いてきた。彼女を食べてしまいたいという衝動と、彼女と一緒にいたいという願いの板挟みにあって、私は弱り切っていた。
彼女にはささやかな贈り物をしたり、週末にはデートに誘ったりして、私たちは学校のみんなに隠れて抱き合うくらいの関係になった。その頃には彼女は十七歳の誕生日を迎えていた。
抱きしめたらキスしたくなるし、キスしたらそれ以上のものを求めてしまうこともわかっていたから、私は彼女を自分の腕に閉じ込めることでそういった気持ちも押し込めようとした。
それが逆効果だったことは言うまでもないけど、それでも私は耐えた。
テンシやアクマはヒトのように物体としての食事を取る必要はない。そもそも、加護を受けているテンシは空腹を感じること自体ないものだけど、翼の穢れたアクマはそうもいかないのが現実だった。
アクマはヒトの感情を食べる。食べる感情はアクマによって、ダテンシになった理由によって様々で、私のように恋慕を望んだダテンシはヒトの恋慕を食べることでしか存在を維持できなかった。
そして、その中でも私が彼女に求めたのは――「初恋」だった。
アクマに感情を食べられたヒトは、その感情を記憶とともに永遠に失う。
そして、感情の欠けたヒトは、ヒトとして成り立たない。
空腹に耐えかねた私は、彼女以外のヒトに初恋の感情を抱かせてこっそり食べていた。
だってそうでもしなければ、彼女のそばにはいられなかったから。
大学受験を終えた彼女を部屋に招いたある日。
私のとなりに腰掛けた彼女の様子がおかしかったから、不思議に思って気持ちを探ってみると、そこにあったのはあまりにもまっすぐな「不安」だった。
「あのさ……」
口を開いた彼女の心は揺れていた。どんなときも明るい笑顔を絶やすことなく、いつだって前向きで、太陽みたいに朗らかな女の子が。私に何かを伝えようとして、その笑みを無くした。
「わたしたちって――付き合っている、のかな」
私はたとえ自分がアクマでも、彼女を守れるのは自分だけだと思っていた。それなのに、そんな私が彼女の笑顔を奪っている。
私は彼女を抱きしめた。
「そうやって、誤魔化さないでほしいよ。わたしは、わたしは大門くんのこと……!」
その続きは言わないで。何もかも、終わってしまうから。
「んっ……!」
アクマにとって、ヒトへ与える口へのキスは、感情を食べるための行為でしかない。
だから避けてきたのに。そんなことをしてしまえばきっと、私は彼女を食べてしまう。
そうなる前にと、私は必死で彼女から離れた。しかし、一度閉じさせたはずの彼女の唇は、私の願いを無視して開いてしまう。
「大門くんのことが好きだよ……!」
どうしようもなかった。
神を捨てたアクマには、神の示すルールなんて関係ないと思っていたのに。
私は彼女に何度も口付けて、じわじわと彼女を食べて、抜け殻になっていく彼女を、彼女を抜け殻にしていく自分を、そこで嘆くことしかできなかった。
恋は禁じられた罪なんだ。
そうじゃなかったら、私はこんな気持ちになるはずがないんだよ。
アクマにならなければ。
私が彼女に恋をしなければ。
愛だけを知るテンシのままでいたならば、終わりまで彼女を守り、そばにいられたはずなのに。
恋なんてしなければよかった。罪なんて犯さなければ、よかった。
ねえ、見たこともない神よ。
私はやっぱり、あなたを憎むよ。
彼女はずっと、好きだよ、大好きだよと言いながら、泣いていた。
私もずっと、好きだよ、大好きだと言いながら、泣き続けた。
そうして彼女は、私のことを忘れた。
彼女はもう二度と、私を見つけない。
私はとても幸せだった。
――ああ、これは。
これは私の、記憶じゃない。