episode.5
それからの天使くんは私の部屋に入り浸るようになっていた。
こういう言い方をすると嫌そうに聞こえるかもしれないけど、でも、かわいいが基本の生き物が目の前にいる状態で課題が進むとお思いですか?
ローテーブルに置いていたノートパソコンを閉じた私は、正面に座る天使くんの説得を試みることにした。
「あーまーつーかーいーくん」
「どうしたんですか、なつきさん」
出たっ!
自称テンシなだけに強烈なエンジェルスマイルッ!
ぱあーっと輝く輪っかでも浮かばせているかのようなきらきら笑顔に、私の心は洗われた。やだもう、たまにあどけない感じになるんだから私のツボ押さえすぎでしょうに……じゃなくて。
うっかり緩みそうになった表情筋に力を入れて、私はそれをこらえることに成功した。
「どうしたんですかー、じゃないよ。私に付き合って部屋にこもるなんてよくないよ?」
「オレはなつきさんと一緒にいたいだけですよ」
うっ、やめなさい。そんなふうに笑いながらそういうこと言うのやめて!
「……少しでいいから散歩でもしておいでなさいな」
軽く身を引きながらお姉さんっぽく勧めてみると、天使くんはちょっと考えるような素振りをしてみせた。おっ、もしかして検討してる……?
と思ったら。
「なつきさんは、不安じゃないんですか?」
愛らしい笑顔を引っ込めた天使くんは、にじむように、表情を変えた。
ああ、この顔は知っている。だって最近、見たばかりだもの。
「不安……?」
ざわついた心をなだめるために繕ったような復唱。
不安って、何が?
「アイツに、いつ、何をされるかわからないんですよ。怖くないんですか?」
……そんな気はしていたんだ。彼は大門さんのことを嫌っているみたいだったから。
でも。
怖いとか怖くない、っていうか。
「大門さんが今まで何かしたって言うの?」
してないじゃない。
よく知りもしない人のことを疑う天使くんに腹が立った私は、語気を強めてそう言い返した。
大門さんは何もしてない。なんにも、してないじゃない。
「……してますよ」
私の予想に反して、天使くんは口を開いた。
悔しいのか悲しいのか怒っているのかよくわからないような顔をして、ぽつりと。
そんなふうに言うから、私は少し、それこそ不安になる。
「な、何を、したっていうの」
「言えません」
即答だった。
だけどそれは、天使くんがでたらめを言ったせいで答えに困ったというふうには聞こえなくて。
それでも……私の記憶の中の大門さんは、何もしていないのに。
「あ……天使くんは、大門さんのこと誤解してるんだよっ」
漠然とした焦りを感じた私は素早く立ち上がった。
「待ってください!」
玄関へ続く短い廊下へ足を踏み出したところで左手首を掴まれる。
おかしいな、私ってばどうしてこんなに動揺しているんだろう。天使くんが何を言ったって、そんなのは、私の知っていることに影響しないはずなのに。
「待ってください、なつきさん。オレも行きます」
その瞬間――どくん、と。
手首に通う血管が、奇妙に脈打った気がした。
「っあ、ゔっ!?」
「なつきさん!?」
フォークで抉ったような激痛が首筋を襲う。天使くんを突き飛ばした私は、自分で自分の手首を締め付けた。
「なつきさん!!」
体が小刻みに震え出す。立っていることもできなくて、私はその場に倒れ込んだ。
息が、できない――。
「なつきさん、落ち着いて。ほら、」
肩を掴まれた。
「やめ……っ」
「落ち着いてください!」
天使くんに触られたら余計にひどくなると思った。必死に抵抗したもののそのまま抱きすくめられ、手首と手首を押さえていた手を引きはがされる。涙のせいでぐしゃぐしゃの視界には確かに金色があって、天使くんが近付けば近付くほど首筋の痛みは増していった。
「やめて、離してっ!」
「大きく息を吸って。大丈夫だよ。痛くないから」
天使くん、天使くん。言われた通りに息を吸う。
「吸ったら吐いて。大丈夫だから、痛っ、安心して、ほら」
吐いた。
「もう一回。そう、上手。もう一回……」
*
天使くんの腕の力はぎゅうと強かった。汗に濡れた私はぐったりして、そのまま彼に身を委ねる。小さな体に回していた腕もだらりと離した。
首筋はまだ痛いけど、さっきよりだいぶ楽になっていた。どのくらい時間が経ったのか……うまく動かないまぶたをそっと下ろして、ただ、天使くんの温度を感じる。
懐かしいにおい……。かわいくて大切な天使くんのにおいだ。
まぶたを上げた。
「天使くん」
できるだけ優しい声が出るように頑張ったつもりだけど、空気を震わせたそれは思ったよりも小さく、掠れていた。
天使くんは腕の力を少しだけ緩めて、私の頭をなでた。それでも抱きしめられていることに変わりはないから、その表情は見えない。
「……なつきさん」
私と同じ。小さくて、掠れた声。
「もう、平気だよ。ごめんね、ありがとう」
静かな部屋の中、カチカチと鳴り響く時計の音。
「……オレのせいです。オレがもっと、守るってことの意味を、わかっていたなら」
どうしてそんなことを言うの? 天使くんはずっと、私を守ってくれていたんでしょう? テンシとして、危険なことから私を守り続けている。そうでしょ?
小さい頃に降ってきた、光るものは。あれはきっと、天使くんがそばにいてくれた証拠だ。
「アイツに狙われたのも、オレが過保護だったせいなんです。狙われる原因を作るなんて、テンシ失格だ……」
でも、たった今、私を助けてくれたのは天使くんだよ。それは絶対だよ。
微かに震え始めた天使くんに、私は何かしてあげたかった。小さな子供みたいなのに、涙も流さずに泣いている彼を――今度は私が守らなくちゃ、って。そう思った。
天使くんがどうして自分を責めているのかはわからないけど、天使くんはきっと悪くないよ。天使くんは十分に頑張ったはずだよ。
私は重たい腕をのろのろと持ち上げて、きゅっと、天使くんを抱きしめた。首筋に嫌な感触を覚えながら、口を開く。
「ありがとう、天使くん。ありがとう」
ちょっと力を入れたら首筋がちくりと痛んだから、思わず手を離した。
「……無理をさせてすみません」
途端に聞こえた謝罪の言葉。
「まだ、痛むんですよね……?」
そう言いながら、天使くんは私の首筋をそっとなでた。熱いものに触れたような一瞬の痛みにびくりとする。
確かに痛かった。
首筋じゃない、天使くんの悲しそうな声が心を押し潰した。
ふと、天使くんが私の体に回していた腕を解いた。ふわりと空いた距離に少しだけ肌寒さを感じた私は、両手を胸の前に持ってくると、あることに気が付いた。
爪の先が赤い。これって……血?
「なつきさん」
血って誰の……という思考を遮る、天使くんの声。天使くんがおとなりさんになったあの日にも聞いた、有無を言わせない声だ。
金色の髪の毛がふわふわと揺れている。蜂蜜色の瞳には私が映った。
どうしてそんな、今にも泣きそうな顔をしているの?
「オレにしてください」
……え。
「アイツじゃなくて。オレの手を取ってください」
差し出された右手に戸惑った。天使くんの瞳から一旦目を離して、その手を見る。
「オレは」
ゆっくり視線を戻したことを、後悔した。
「……ぼくは、なつきさんのそばにいたい」
天使くん。
天使くんはかわいいままでいてくれないと、私、踏み外しちゃうよ。
体中の血管という血管に通う血液がぐんと熱くなって、その熱がそのまま流れ込む心臓に負担を掛けた。
天使くんの表情は真剣そのもので、私はどうしたらいいのかわからなくなった。……自分がどうしたいのか、わからない。
そんな顔をされても困るよ。私は天使くんのことを弟みたいに思っている、はずなんだから、だって。
さっきも同じことを言われたのに、表情が違うだけでこんなに、こんなふうに見えてしまうなんて。それこそ詐欺だよ、ずるいよ、わからないよ。
胸の痛みに止めてしまった息。
――違う。
頭の中に響いた警鐘。
「わた、私は……」
天使くんに対する気持ちはそういうのじゃないんだよ。だから、ねえ、私。言うことを聞いて。
天使くんにどきどきしないで。
かわいくて大切な天使くんに惹かれているかもしれないなんて、一ミリも思わないで!
「私は、大門さんのことが好き、なんだよ」
警鐘は、ふつりと、途切れた。
*
時々、思うことがあったんだ。それは本当にたまにの話で、ううん、私が考えないようにしていただけのことなんだけど、実はずっと胸のうちにあったこと。
私はそれがどんなものか知らない。どんなものか知らないから、この気持ちがそういうものに当てはまるのかもわからない。
これまではそんな言い訳を通してきた。でも、本当は、逃げ回っていただけなんじゃないか、って。
私は自分の気持ちがわからなくて、こんなふわふわしたままでいられるなら、それでいいと思っていた。結論を出さなくても、望む相手に何かをしてもらわなくても、私はその相手のことを考えるだけで十分幸せだったから。
熱くはならない。だけど、絶対に冷たくもならない。そんなぬるま湯の中に、いたかった。
このままの状態でいたいのなら、私の気持ちはどうであれ、表面的にそのままの付き合いを保てばいいからって、考えないようにしていたの。
下手に動いたら崩れちゃうから。砂でできた城はとても、とても脆い。
そばにいられるのなら、踏み込む必要はない。そばにいることを望むなら、これまでと同じように接すればいい。そうしたら、私は傷付かないし、関係だって壊れたりしないでしょ?
でもね、その相手が砂の城を壊そうとするのなら、私にそれを止めることなんかできないんだよ。
だからね。臆病な私は、やっと答えを出せたと思うんだ。あの感情と、ようやく向き合うことができた。
そう。
私は彼に、初めての恋をしていた。