episode.3
天使くんが笑っている。
テーブルに置かれているのは出来たてほやほやのシーフードカレーだ。海鮮の旨みがたっぷり染み出た、天使くんご自慢の一品。
そのとなりに並ぶのはトマトの赤が鮮やかなサラダだった。ふんわり広がるレタスに包まれて、まるで天蓋下のお姫様のよう。
どうぞ、なつきさん。コック泣かせの天使スペシャルです。
天使くんが笑っている。
あれ? 天使くんは食べないの?
オレはカレーの代わりになつきさんを食べるので気にしないでください。さあ、どうぞ。
そんなところで目が覚めた。
「うわーっ、私はなんという夢を!」
飛び起きたのは自分の部屋のベッドの上だった。きっちり閉められたカーテンを開ければ刺すような朝日が目にまぶしく、枕元の時計はまだ七時を示している。
二度寝をする勇気はまったくなかったので、さっさと着替えを済ませた。
ふと、部屋の真ん中にあるローテーブルを見ると、そこには二枚のお皿が置かれていた。
ラップの掛かったカレーとサラダ。横に書き置き。
【温めても美味しいですよ 天使】
「これはまさか」
天使くんの、コック泣かせスペシャル。
とりあえずレンジに入れて二分、その間にサラダを摘まむ。コンロの上に鍋はないし、彼は一体どこでこれを作ったのだろう。
……自分の部屋か。
すっかり失念していたけど、私は天使くんの部屋を見たことがないのだった。
「お礼がてら行ってみようかな」
レンジがチン、と鳴る。
「いただきます」
なるほど確かに、天使くんのカレーは絶品だった。マイルドな舌触りで、辛すぎず甘すぎないその味はちょうど私の好みに合っていて……起き抜けにも関わらず、私はあっという間にそれを完食した。
すごく美味しかった。これは間違いなく、コックも泣きますね。
おなかも満たされたところで、まだ八時前。
今朝見た夢のせいでちょっと気まずいけど、おとなりの203号室を訪れてみよう。
慎重に息を整えて、私はゆっくりチャイムを押した。
部屋の中に響くピンポーンという音がくぐもって聞こえてくる。
……返事はない。留守かな?
念のためにもう一度チャイムを鳴らしたけど、天使くんの返事はなかった。タイミング悪いなあ、という気持ちの中に、少しだけ安堵する自分を見つけて表情を歪める。
「いないんだ? 天使」
「わひゃあ!?」
背後から掛けられた声に慌てて振り向けば、そこには普段通り真っ黒な服を着た大門さんが立っていた。
「そんなに驚くなよ」
「す、すみません」
「柊木が天使のところに用なんてめずらしいな」
私よりはるかに身長の高い大門さんは、そのままの姿勢で203号室の扉を押した。ふわりと香る大門さんのにおい。くらりとする私。
視界の端で金色が揺れる。
「?」
天使くんかと思ったけど、それはただの羽根だった。金色に見えたのも気のせいで、それはふわふわと真っ白に輝いている。
でも、天使くんじゃないけど、天使くんみたいな雰囲気の羽根だ。天使くんがテンシみたいだから、そう感じるのかもしれない。
大門さんのそばを離れて宙に浮いていたそれを取ると、ほんのりとした温かさが広がっていく。愛らしい笑顔を浮かべた天使くんに、優しく名前を呼ばれたときのような――。
「柊木?」
ぼんやりしていると、扉を押し開けた大門さんが小首を傾げていた。
……押し開けた?
「だ、大門さん! 開いちゃってるじゃないですか!?」
「ああ、鍵が掛かってなかったみたいで」
「えっ?」
なんて無用心なんだろう、天使くん。
「もしかしたら中で倒れてるかも」
そんなことあるわけない。あるわけないけど、大門さんが言うと不安に駆られた。
「私、見てきます!」
「よろしく」
大門さんの微笑なんて気にも留めずに、私は203号室へ飛び込んだ。それと同時に無くなる足場。えっ?
確認できたのは、空のようにどこまでも広がった青色で。
「……きゃああああああっ!?」
どうして!?
足場が無くなったと思ったら、それが当然だと言わんばかりに体は落下していく。どこへ!?
そんなの地面に決まってる!
「……っ!」
悲鳴すら上げることができないまま、私はぐんぐん、白い雲を切って落ちる。何がどうなっているの!? 私は天使くんの、203号室に入ったんじゃなかったの!?
やだ、私ここで死ぬの!?
「なつきさん!!」
よく知っている声が聞こえた。
光る羽根は星に似ていたけど、でも、星なんかよりもっとずっと近くにあったもの。
私のテンシ。
「なつきさん! なつきさん!?」
「うう……」
目が覚めたのは、明らかに私のベッドの上ではなかった。ふかふか具合が全然違うし、第一、私のベッドには屋根なんて付いていないはず。
これってまさか、幻の天蓋付きベッドってものじゃあ……?
「なつきさん!」
「ひゃあっ?!」
とか何とか考えていると、耳元で名前を叫ばれてびっくりした。
その勢いでがばっと起き上がる。
「いっ!」
「いたあっ!」
正面衝突。天使くんのおでこと私のおでこがぶつかって、見事なハーモニーを奏でた……。
「そ、それだけ元気なら、大丈夫ですね」
額を押さえた天使くんがほんのり微笑んだ。ああ、もう、それだけでかわいくてほっとして、すごく懐かしい気持ちになるんだから。
でも、ここって一体どこなんだろう。最初は天蓋付きベッドに驚いてまわりに目がいかなかったけど、かなり広い部屋にいるみたいだ。
赤い絨毯が敷き詰められた床に、複雑で精緻な模様の描かれた白い壁。大きな花瓶には綺麗な花がたくさん生けてあって、天井もすごく高いし、縦に長い窓もおしゃれだ。至るところに絵まで飾ってある。
洋館、しかもとんでもないお金持ちのお屋敷ってイメージがしっくりくるかな。
「ところでなつきさん、どうやってここまで来たんですか?」
「どう、って……」
考えてみればそうだ。わたしはいつ、こんなところに来たんだろう。
確か、天使くんの絶品カレーを食べて、お礼を言おうと……そう、お礼を言わなきゃ。
「カレー、美味しかったよ。ありがとう」
感謝の気持ちを込めて笑うつもりだったのに、表情を浮かべるのが難しかった。顔の筋肉が引きつっているような感じで、天使くんも眉をひそめる。
「カレーのお礼を言うために、天使くんの203号室に入ったら」
「オレの?」
「いきなり空に、落ちて……」
何が起こったか思い出して、血の気が引いた。嫌な汗が全身からぶわりと吹き出す。
叫ぶこともできないほどのスピードで急降下。そうだ、私は。
しぬかとおもった。
意識して初めて、それがどんなに恐ろしい状態だったか理解した。こうして天使くんの前にいられることは奇跡なのかもしれない。
この気持ちを、怖かったという気持ちをどうにか伝えようと思ったけど、私は何も言えなかった。
つうっと、何かが頬を流れる。
「なっ、なつきさん?」
「私、生きてるよね? ここ、天国とかじゃないよね?」
「いえ、天国ですけど」
!?
「じゃあ私って死んだの!? えっでも天使くんは生きてるから天国になんているはずないし、えっどういうこと? 天使くんも死んじゃったの? ねえ!」
「落ち、着い、て」
混乱した私は天使くんの肩に手を乗せてぐらぐらと揺すった。
「ここはなつきさんの思ってるよーな場所じゃない、っうう、ちょっと酔ってきた」
天使くんの顔色が悪くなってきたのに気付いた私は彼の肩からぱっと手を離し、ベッドを抜け出すと大きな窓へ駆け寄った。
ここが天国なら、広がる景色はきっと空のはず。
外開きの窓を勢いよく押して、開いた。
「なつきさん?」
――青。
そこには確かに青が広がっていたけど、それは空なんかじゃなくて、もっと深い……真っ青な山、真っ青な森、静まり返った草原だった。
「き、れい……」
これが天国。
私の知っている言葉で表現することがはばかられるほど、その風景は素晴らしかった。
すごい。もうとにかく、すごい。
さっきまで私を支配していた恐怖なんて吹っ飛んだ。
「……すごい、すごいよ天使くん!」
振り向けば、天使くんは真っ赤な絨毯に片膝をついて苦笑しているところだった。
「気に入ってもらえたなら、よかったです」
立ち上がろうとするたびによろける天使くん。よく見れば、蜂蜜色の瞳にはどことなく疲労感がにじんでいた。
……そういえば、空から落ちた私はどうして生きているんだろう。あのときは光る羽根と星が降って……声が聞こえた。あれは間違いなく天使くんの声だった。
天使くんが私を助けてくれたんだ。天使くんは……。
「……怪我、したの?」
彼は取り繕うように笑って、立ち上がろうとした。窓から離れた私は正面から天使くんを支えようとして――息を飲む。
背中の羽が一つ、無い。
「……みっともないところをすみません」
ニットから生えていたはずの一対の羽が、片方だけになっている。根っこのほうからごっそり、無くなっている。
「……なつきさん?」
私は天使くんを抱きしめた。私より小さくて華奢な体を抱きしめた。
今まで頼もしく思えていたその背中に傷を付けたのは私だ。私が天使くんをこんな姿にしてしまったんだ。
「なつきさん。オレ、なつきさんを守ることができて幸せですよ。だから、泣かないでください」
そう言って私を見上げた天使くんは、ほんの少しだけ背伸びをして、額にそっとキスをした。
一つしかない羽は痛々しくて、苦しい気持ちになるけど、天使くんはそんな私を見ているときにばかり悲しげな顔をするから。
私を守ったって。だから無くしたんだって。
それをわかっているのなら、私は笑顔を見せなくちゃ。
天使くんに笑っていてほしいと思うのは、結局、私のためでしかないのかもしれない。それでもやっぱりそう思うことは止められないし、止めたくなかった。
それをエゴと呼ぶのなら、私はエゴイストでいい。
額へのキスの後、私はそんなことを考えながら天使くんをぎゅうっとして、ぱっと離した。
目が合った天使くんはぼんやりしていて、とてもあどけなかった。ああ、本当に、たまらなくかわいいんだから。
よろめきながらもどうにか立ち上がった天使くんは、ふわりと微笑んだ。
「そろそろ帰りましょうか」
ちょっとだけ、胸が痛いけど。
そんなものは押し隠して、私はうなずいた。
「では、失礼します」
断りの文句を入れた天使くんが急にしゃがみ込むと、私の体は宙に浮いていた。
「え……えっ!?」
これはあれだ。俗にいうお姫さま抱っこだ。
「あ、あま、天使くん! 私、自分で歩くから!」
にこにこしている天使くんは私の開け放った窓に向かって歩いていくばかりで、私の言葉にはちっとも答えてくれなかった。
ど、どういうこと? 天使くんの暮らす文化圏では、お姫さま抱っことか平気でしちゃうものなの? 漫画の中の話じゃなくて?
「いきますよ。しっかり掴まっていてくださいね」
「へ?」
窓枠を飛び越えた天使くんはしっかり地面に着地した――かと思いきや、次に襲ったのは身に覚えのある浮遊感。
どこまでも続くような青い草原を幻のようにすり抜けて、私たちはまっすぐ落ちていく。
「……にゃああああああっ!」
変な悲鳴を上げながら、私は再び気絶した。