episode.2
アパートを出て、大門さんに町を案内した。天使くんにしたように、まずはスーパー。
天使くんは容姿の愛らしさだけでなく羽付きニットも手伝って目立っていたけど、大門さんは純粋にそのルックスだけで注目の的だった。
黒い革ジャケットを着こなして、雰囲気はあるし、顔も小さく整っている。細身だけどひょろひょろした印象は与えず、タレントか何かに間違えられてもおかしくない見た目をしているから。
スーパーをざっと回ってもう出口に近いけど、となりにいる私が恥ずかしく感じるくらいだ。
「どうした、柊木?」
もじもじしているのがばれたのか、大門さんが楽しそうに覗き込んできた。長身なので腰を大きく折り曲げている。
表情は優しいけど、意地悪はやめてください!
「えっ、えっと。大門さんっていくつなんですか?」
「俺? 二十一だよ」
いろいろなことを誤魔化すために繰り出した質問は前々から気になっていたことで、私はほうっとした。二個上かあ。
ついでだから、この勢いに任せてもう一つ。
「彼女さんとか、い、いるんですか?」
大門さんがぴたりと足を止めた。彼がついてこないことを不思議に思った私は無防備に振り返る。
「なんで、そんなこと聞くの?」
見上げた先の大門さんはひどく真面目な顔をして、私をまっすぐ見据えていた。……瞳の奥、私の知り得ないものがちらついている。
その怖さから逃れるために私は髪を耳に掛けて、大門さんから目を逸らした。
「だ、大門さん、すごく格好良いから。モテそうだなって」
触れちゃいけない話題だったのかな。そんなふうには思えないけど……。
息の詰まるようなじりじりとした間が空いて。
「ふうん」
大門さんは軽く相槌を打った。
「いないよ。俺、恋人とか作らない主義だから」
「えっ」
聞き捨てならない言葉に私は思わず食い付いた。逸らしていた目を合わせるために顔を上げる。
大門さんはくつくつ笑っていた。
「嘘だよ」
嘘って? 何が嘘なの?
彼女がいないこと? 恋人を作らない主義のほう?
「柊木が俺を忘れないなら。そういうふうになってもいいって思うけど」
――えっ。
あの後、私たちはお互い何事もなかったように振る舞った。
スーパーを出て、いろんなお店を巡って、たくさん歩いた。
いやまあ、実際何にもなかったんだけどね? 私が一人で動揺していただけですし?
でも、大門さんみたいな人にあんなことを言われたら、期待しちゃうよ……。
そんなふうに上の空な私に呆れたのかもしれない。大門さんは日が傾き始める前に、もうアパートへ帰ろうと、私の手を取った。
!?!
ちょっと待って、大門さんは何をしているの!?
どっと手汗が吹き出たような気がして、私は握られた手をもぞもぞと動かした。無理無理無理無理!
大門さん、何を考えているんだろう。私のこと、どう思っていたらこんなことができるの?
もしかして、妹みたいで放っておけない……とか?
五秒ほどで出た結論に妙に納得して、私はその手を振り解こうとした。
妹みたいに手を繋ぐなんて、そんなのは嫌だ。私は大門さんの妹じゃない。
しばらく頑張ってみたけど、半歩前を歩く大門さんは涼しい顔をして私の手を強く引く。
……こんなに抵抗しているのに離してくれないなんてどうかしているんじゃないですか?
いくら私がさっきまでぼーっとしていたからって、勝手にはぐれるとでも思ってるの?
大通りを折れて路地に入ったとき、私は意を決して口を開いた。
「大門さん!」
「ん?」
ちょっとだけこちらを向いた大門さんに、ごくりと生唾を飲む。
「あの……手……」
その顔の角度が、何とも言えず、大門さんの魅力を引き出していたから。
「手?」
「えっと、その……」
「ダメ?」
ダメだ。
この大門さんには敵う気がしない。
「……そうか」
一瞬躊躇ったのがわかったのかもしれない。あっさり離れた手に名残惜しさを感じた私は、ちらっと見えた笑顔に思わず呆けた。
「ダメじゃないだろ?」
視界が急に暗くなる。
「柊木、おかしいよ」
気が付いたときには大門さんの腕の中にいた。
男の人の……何だろう、コロンではないだろうけど、でも、いいにおい……。
「ほら、こうすれば他のものは見えなくなる。余計なことは考えなくていいんだよ」
間近に聞こえる甘い声に、脳の芯がじわりじわりと痺れていく。思考がどろどろに溶けていく。
ああ、そうだよね。他のことはどうだっていいから、私はこの温かさを手に入れなくちゃいけない。
ねえ、大門さん。私、
(ごめんね。無事でいてほしいんだ)
混濁していた意識に、誰かの声が鮮やかに蘇る。
金色の髪、蜂蜜色の瞳、愛らしい笑顔。
……泣いている。
音も立てずに、涙も流さずに、天使くんが泣いている。
(つらいのは本物だってわかっているのに、こうすることしかできないのは、とても、つらい)
いつの間に日が落ちたのか、大門さんの肩越しに夜空が見えた。ああ、こんな時間なのに私はまだ、路地にいる。
「柊木?」
大門さんの腕の中は気持ち良かった。大門さんは優しい手付きで私を抱いてくれたし、間違っても、天使くんがしたときみたいに苦しくならなかったから。
でも、私の気持ちはそんなところにはなかった。
「柊木。誰のこと考えてるんだよ」
ぼんやりしていた焦点がはっきりと定まった。浮わついていた気分が現実に引き戻されて、私は我に返った。
「だ、だだ大門さん、離してくださいっ」
もがいたかいあってか、大門さんは腕の力を緩めてくれた。けど、代わりにいきなり首筋を噛まれた。
「ひやあ!?」
「ふうん。あれ、やっぱり、テンシだったんだ」
「な、なにを……」
何を。
私は何をしているんだろう。
憧れの大門さんに抱きしめられて、とろけちゃうような声でささやかれて身を委ねて、それなのに彼を拒んでいる。天使くんのことなんか考えて。
会ったばかりだから? まだ、大門さんのことをよく知らないから? それとも……昨日の、が、原因?
「テンシのくちづけ……」
私が原因に思い当たったのと、大門さんのそのつぶやきが同時だったので、びっくりして肩を揺らしてしまった。これは大門さんが鋭いとかそうでないとか以前に、誰にでも勘付かれてしまう反応だ。
「へえ。天使とキス。ふうん」
「いっ、いや、あの! あれは事故っていうかなんていうか」
「じゃあ俺とも事故ろうか」
だ!
大門さんの顔が近い!
とっさに避けようとした私は、しかし、身動きを取るどころか声を上げることもできなかった。
嫌だよ。
私、こんなふうにキスしたくない……!
「なつきさんに触るな!」
夜なのに――明るくなった。
今にも触れそうだった大門さんの唇や、夜空、視界に映るものすべてが何かの光に照らされて、真っ白になった。私もそのまぶしさに目をつむる。
さっきの声は天使くんのものだった。じゃあ、この光は一体。
まぶたの裏側で、妙な既視感を覚える風景を見た。
星の降る夜、空に手を伸ばした。祈りが届いたことを伝えるみたいに、星が降っていた。光る星は温かくて、私はうれしい気持ちになった。
幼い頃の記憶。
だけど、今ならわかる。あの温かな光は星などではなかったのだと。
羽根だ。
あれはテンシの羽根だった。
「……てんし、くん」
光が収まると、目の前には天使くんの背中があった。ふわふわ光る羽の生えた、華奢な背中。私にはもう、それがニットの飾りだとは思えない。
「なつきさん、おかしなことされなかった?」
「だ……いじょぶ、だよ」
「オレから離れないで」
「う、ん」
淡く輝く羽がゆっくり動いて、また、あたりを照らした。
「あっ、大門さんは!?」
寸前まで迫っていたはずの大門さんが見つからず、私は路地に彼の姿を探した。一帯は天使くんの羽のおかげでほのかに明るかったけど、大門さんはいない。
その状態からしばらく経つと、天使くんはようやくこちらを見てくれた。肩の力を少し抜いて、へにゃへにゃと地面にへたり込む。
「天使くん!? どうしたの!?」
「安心したんだ。なつきさんに何かあったら大変だから」
「わた、私に?」
息をついた天使くんの何気ない台詞にどぎまぎしてしまう。こんなかわいい子にこんなかわいいことを言われて動揺しない人はいない……よね?
「とにかく、早いうちに洗ったほうがいいですね。首」
「首? どうして?」
「……化膿しますよ」
「見てたの!?」
「まあ」
うおわーっ、恥ずかしい! 顔から火が出るってこういうことなの!?
そのついでなのか何なのか、大門さんに噛まれた首筋まで熱くなってきた。押さえようと思って持ち上げた手が、天使くんに掴まれる。
「触らないほうがいい」
そのまま立ち上がって黙々と歩き始めた。
近くにある公園へ、天使くんは迷わず案内してくれた。屋外灯の下、薄暗い手洗い場で、私は何故か天使くんに首を洗ってもらっている。
洗うというか、濡らしたハンカチで拭いてもらっていたんだけど。
「天使くん、これなら私、自分でできるよ」
「この傷、なつきさんには触ってほしくないんです」
「どうして?」
「察してください」
そう言われても……。
二回通りうなじを拭くと、天使くんの指先が傷口をなぞった。私には傷がどんなふうになっているかわからなかったから、ちょっと恥ずかしかったけど、それよりもくすぐったさが勝った。
「もう、やめてよ」
「消毒代わりです」
「そんなのより絆創膏出してよー」
「わかりました」
無理難題だろうと繰り出した要求にあっさりうなずいた天使くんは少し大きめの四角い絆創膏を貼ってくれた。
どうしてこんなところで頼りになるのやら。
「えっと、ありがとう」
「どういたしまして。あの、絆創膏の見返りにしたいことがあるんですけど、いいですか?」
「へっ?」
さっきの絆創膏は有料サービスだったのか。
「う、うーん……何をするの?」
見返りに「してほしいこと」ではなく「したいこと」を申し入れるあたり、妙ちきりんだ。
しかし、当の天使くんはそんなことお構いなしといった様子で目を細める。
「簡単なことですよ。もう一度、キスさせてください」
……。キ?
「なつきさん、相当危ないですからね。今のうちにしておかないと」
「い、いやいやいや、意味わかんないよ!?」
「アイツに取って食われちゃいますよ?」
……アイツって、大門さん?
私には、大門さんより先に天使くんに取って食われそうな気がしますけど!
「嫌ですか?」
にっこり微笑んで首なんか傾げた天使くんはこの上なくかわいくて、私は思わず嫌じゃないよ!と叫びそうになった。
だ、ダメよ、柊木なつき。しっかりなさい!
「あ、あのね、天使くん。キスっていうのは好き合ってる人たちがするもので」
「オレはなつきさんのこと好きですよ?」
「ふえっ!?」
どうしたの天使くん、今日はその形の良いお口からとんでもない言葉ばっかり出てきますけど! 惚れ薬でも飲んだの!?
「……なつきさんが嫌って言うなら、無理強いはしませんが」
その代わり、と続けて、天使くんは自分の唇を軽くなぞった。
そう。私の首筋をなぞったときみたいに、軽く。
「ひとまずはこれで」
そして、その指でそのまま、私の唇をなでた。
私は恐らく、失神した。