episode.1
天使くんがとなりに引っ越してから一か月、私たちはめっきり仲良くなったように思う。
白状しちゃうと、夕飯を作るって言って聞かない天使くんに押し掛けられて、毎日顔を合わせていたからなんだけどね!
天使くん、料理は上手だしかわいいから目の保養になるし、一緒にいると楽しいから、甘やかしちゃってるんだろうな。
ピンポーンとチャイムを鳴らして、天使くんは私を迎えに来てくれる。これが日々の楽しみになっていた。
「なつきさん、買い出しに行きますよ」
「はーい」
時間に合わせて支度をしているから、彼を待たせるようなことはない。
「オレもそれなりに懐いてもらえましたかねー」
いつものように、スーパーへ向かって二人で歩く。
「天使くんは私のお抱えシェフだからね」
「なつきさんはオレのペットですよ」
「餌!? ご飯はただの餌なの!?」
「はい」
にっこり笑う天使くんは今日も最高にかわいかった。そして、今日もあのよくわからないニットを着ている。
最近では細かく聞かないようになったけど、天使くんがおとなりさんになった日のことを、私はあまり覚えていなかった。
スーパーを出てからの記憶がかなりあやふやなんだよね。何をしていたんだっけと尋ねても、近くをぶらついていただけですよの一点張りで、その曖昧さは今も晴れないままだ。
何かとても大切な出来事があった気がするんだけどな。
その日はいつの間にか部屋にいて、ベッドできちんと眠っていた。そこまでは百歩譲っていいとして(本当はよくないけど)、妙なのは、そのそばに天使くんがいたことと――彼と出会って三日は経っていたということだ。
熱を出してずっと起きなかったんですよと教えられてはいるんだけど、納得なんかいくはずなかった。面倒を見ていたと言われてもしっくりこないのに、私はこのもやもやを抱えたまま天使くんと仲良くなってしまったのだ。
ここまできたら忘れるべきかと思ったりもするんだけど……表面上は気にしないふりをしていても、脳の芯に違和感みたいなものが残っていて、そうさせてはくれないのだった。
「今日はカレーにしますね」
「カレーかー。いいね、天使くんのカレー初体験!」
「コック泣かせの天使スペシャルです」
「やったー!」
具材やルーを買い込み、私たちは私たちの住処へ帰った。
夕飯は私の部屋で作ることになっていた。
小さなキッチンに立つ天使くんの背中をぼんやり眺めながら、あの向こうに何かあったような、なんてことを考える。
とっても素敵な何か。虹の根元に眠る宝物みたいに特別なものが、あの向こうに。
「柊木ちゃーん」
「? 大家さん?」
チャイムを鳴らさないで私を呼ぶ人なんて大家さんしかいない。何かあったのかな。
「ちょっと出るね」
「わかりました」
エプロン付けたらもっとかわいいのになあ、とか言ったら怒られるんだろうか。
「大家さん、どうしたんですか?」
パッと開けた金属の扉。
心臓が、一際強く打った。
「あ、なた、は……」
大家さんのとなりには、黒いスーツに黒い髪、吸い込まれるような黒い瞳をした男の人が立っていた。
背負うのは、快晴とは呼べない夜空。
でも、そんなことは関係なくて、関係なんかなくてね。
「あら。柊木ちゃん、大門さんと知り合いだったの?」
「し、知り合いっていうかえっと、その」
心拍数がね……!
「ああ、この間の! へえ、奇遇」
大門さんというらしいその人は、やあと手を挙げて気さくに挨拶をしてくれた。
そうだ。私、天使くんをスーパーに案内したとき、この人とぶつかって転んだんだ。どうしてそんなこと忘れてたんだろう?
でも、思い出せたからいいや。大門さん、私のこと覚えててくれた。うれしい。
「こんな時間に悪いな。俺、今日から201号室に厄介になるから挨拶に来たんだよ」
「柊木ちゃん、夜、突然となりに明かりが点いたらびっくりするでしょう? だから、今のうちに紹介しておこうと思って」
「お気遣いありがとうございます……!」
大門。大門さん。絶対、忘れない。
はにかんだ私を見て、大門さんも笑ってくれた。ううっ、格好良い。スーツでぴしっと決めてて、この前のラフな格好と違う魅力があって素敵だなあ。お仕事、何してるのかな?
ああ、私、にやにやしすぎて変な顔になってないかな!?
「これからよろしくお願いしますね!」
目が合うのが恥ずかしくて少しだけ視線を下げた私の前に、真っ黒な包装紙でラッピングされた箱が差し出された。
「こちらこそ、よろしく」
黒は大門さんの色。大人の色だ。
よく似合うなあ……。
「なつきさん? 201号室に新しい人がって聞こえましたけど、オレにも紹介――」
声のしたほうを向くと、キッチンから顔を出した天使くんがその場で固まったところだった。
カレーのいいにおいがしてきた。天使くんのカレー。
……ん? あれ?
ひょっとしなくても、この状況って。
「ああああ天使くん! 大門さん、この子は203号室に住んでる天使くんで、私の友達の天使くんです!!」
まずいよねー!?
大門さん、というか普通の人なら一緒に暮らしてるって思うよこれ! 違うんだけど! まったくもって違いますよ大門さん!
目をしばたいて私を見る大門さん。大家さんはいつの間にか姿を消していた。
「えーと、柊木。この間もそいつと一緒にいたよな?」
そうだったあ!
もしかしてデートだったと勘違いされてる流れ? だよね?
それに、あのときの天使くん様子がおかしくて、私と大門さんの間に割って入ったりしてたし、今でもあれよくわからないんだけど、はたから見たら恋人同士の図です、って感じだったんじゃあ……!?
平静を失いつつあった私は、大門さんがくつくつ笑っていることに気付かない。
「柊木、落ち着けよ。話ならこれからいくらでもできるだろ? おとなりさんなんだから」
今日はこのへんで、と言って、大門さんは私の視界からいなくなってしまった。
えっ、もしかして私と天使くんが付き合ってるとかいう確証を得て? えっ、そんなまさか。
「……っ」
黙って突っ立つ天使くんを勢いだけで睨み付ける。
「天使くん! どうして何にも言わないの!?」
後から説明しても、まともに取り合ってもらえるかわからないよ。
悲しいのか悔しいのか、とにかく泣きたくなってきた。
「なつきさん」
というか、泣いているんじゃないのかな、私。鼻の奥が痛いし、天使くんの姿はぼやけてよく見えない。
ぼろぼろと頬を伝っているのは、まぎれもなく、私の涙だ。
「なつきさんの好みは、彼ですか?」
こんなときにそんなことを聞いてくる空気の読めない天使くんに恨み言の一つでも叩き付けてやりたかったけど、しゃくり上げるばかりで気持ちは言葉にならなかった。
輪郭を持たない天使くんは一人でうなずいて、すっと私に近付くと。
「オレ、明日は留守にしますから……すみません」
いきなり左腕を引っ張られて、体勢を崩した。前のめりになったところで抱きすくめられる。
そして、そのまま。
「ん……っ!?」
びっくりするほど、そんな感触はなかったけど。
――キス。
天使くんの力は愛らしい容姿にそぐわないほど強くて、口を塞がれた私は呼吸もできなくて、長い長いキスは続いた。
体の力が抜けるほど、投げやりな気持ちになってしまうほど。でもそれは、それはなぜだか、拒むことができなくて。
余計に涙が出た。
ようやく離れたと思ったら、額を髪にうずめるようにして、きつくきつく抱きしめられた。
肩が震えている。天使くんが、音も立てずに、涙も流さずに泣いている。
「ごめんね。無事でいてほしいんだ。つらいのは本物だってわかっているのに、こうすることしかできないのは、とても、つらい」
それから惜しむ様子もなく私を放すと、部屋を出ていってしまった。
曇った夜空にあのニットの羽が揺れて、背中はちっぽけ。
残ったのは、バタンと扉の閉まる音と、私。天使くんの特製カレー。
また、涙があふれてどうしようもなかった。一人でいるのが寂しかった。だけど、一人にしてくれてよかったとも思った。
だって、そんなに嫌じゃなかったから。
私は洗面台で何度も口をすすぐと、大量のカレーをゴミ箱に捨てて、においが漏れないように蓋までした後でベッドに身を投げて眠った。眠れないと思った。涙が止まらなかった。その理由もわからなかった。
丸くなって、眠った。
*
祈ったことがある。
そのとき見ていたドラマか何かの影響で、祈っていたことがある。
大人になるまでに素敵な恋人を作って、幸せになりたいとか。
運命の出会いをしたら、それが絶対に実りますようにとか。
何にも知らない頃の私は無邪気に瞳を輝かせて祈ったのだ。
王子様を信じていた。
あの頃のほうが、私は恋愛に対して興味があったと思う。
あの頃はよく星が降ってきた。祈りも、神様に届きやすかった。ただひたすらに信じていたから、叶った願いの数は多かった。
……あれ?
空から降ってきたのは、確かに星だったろうか。きらきらと輝いてはいたけれど。形あるものではあったけど。
光を撒いて手の中に収まったのは、ふわふわと揺れるような。
優しい感触の。
私は夢の中でその光に溺れた。必死にもがいて夜空に近付こうとしたけれど、ただただ流されてゆく。
流されるようになってからは、願いなんて叶った覚えがない。
*
翌日、大学に行くのは止めた。友達に代返を頼む気力もないし、時間が時間だ。もうすぐ正午になる。
部屋には微かにカレーのにおいが残っていた。ぐうと鳴るお腹をさすりながら浴室へ向かい、壁に取り付けられた温度調節機の電源を入れて、温度を設定する。蛇口を捻ると、浴槽へ湯が溜まっていった。
まずは顔を洗って、壁に取り付けられた鏡を覗いてみた。
「うわあ腫れてる……」
ある程度わかっていたことだけど、目元がひどいことになっていた。応急処置としてマッサージを施す。
シャワーを浴びて湯船に浸かるという一連の動作に意思はあまり必要なかった。ああ、あったかい……。
大門さんがとなりに住むことになったって知ったばかりの昨日はどきどきして、うれしくて、風船みたいに飛んでいきそうな気持ちだったのにな。今はもう、大門さんのことを考えても取り乱したりしない。これって変じゃない?
やっぱり天使くんの……あれが、原因なのかな。
あんまり思い出したくないけど、ぼーっとしてしまう。
それに、天使くん、おかしなことを言っていたよね。私には理解できなかったけど、彼の思いが直接流れ込んできたように感じたときはびっくりした。
責められなかったのは、きっと、そのせい。
大きく息を吸い込んで、顔を半分湯船に沈めると、ぶくぶく吐いた。空気の玉は水面に浮かんでぱちぱち消えてしまった。
無音の世界だと思い込んでいた浴室の中、小鳥のさえずりが聞こえて、そういえば今は昼なのだと実感する。
おなか、空いた。
急にやってきた空腹に任せて、私は浴室を出た。
髪の毛を乾かしていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。
今は普通に無理なんだけどな。居留守、使っちゃおうか。
なんて考えていたら、聞こえてきたのはあの人の声。
「柊木? いないの?」
「大門さんっ!?」
知らず知らずのうちに私は叫んでいた。しまった!
「いるじゃん。今、大丈夫?」
ど、どうしよう。
ああ、ううん、どうしようもないよね。そのままのことを言おう。
「あの、ごめんなさい。今はちょっと」
「ん? ああ、じゃあ、ここで待ってるから」
「えっ、そんな、急ぎの用なら後で伺います……!」
「ふーん、そう? 了解」
爆速でブローした。
大慌てでまぶたの腫れを治して身なりを整え、部屋を飛び出すと、そこには大門さんがいた。あれ?
この、黒で統一された服を着ている背中にシックな雰囲気……大門さん、だよね?
空を見上げていた彼は、振り向きざまに私へと目を移した。細身で、すらっとしていて……洗練された動きにどきっとする。でも、どうして部屋の前に?
「大門さん、あの……」
「昨日さ。あまつかい? が出ていったの見て変だなって思ってさ。何かあったのかなって」
気遣うような瞳。彼は私を、私と天使くんのことを心配して、ここで待っていてくれたんだ。
……でも、この口振り。
何もなかったわけじゃないけど、あんなこと言いたくないから、私は話をすり替えると同時に誤解を解くことにした。
「大門さん、勘違いしてるかもしれないですけど、私と天使くんはそんな関係じゃないですよ?」
「へえ? そんな関係って、どんな関係?」
な……にを言わせたいんでしょう、この人。微かに浮かべた笑顔が意地悪だ。
もごもご言い淀むと、今度はくしゃっと顔を崩して笑われた。
「わかってるよ、そんなこと。にしても、よかった」
「よかった、ですか?」
反射的に返してから、はっとする。一瞬にして真顔に戻った大門さんの瞳の中に、何かがちらついていた。
私の知り得ないもの――。
「これで柊木に地元案内デート頼めるなって思ってさ」
「……え」
ぞくりとしたのは束の間で、大袈裟なくらい明るく言われて呆気に取られた。
もしかして、私が怖がったの、わかっちゃったのかな。大門さんの今の仕草はどう考えても取り繕ったものだ。
ちょっと、心が痛い。
「いいよな? 天使にもしたらしいし、俺も」
ぐっと覗き込まれる。
「柊木と歩きたいし」
ああ、真っ黒だ。星のない夜みたいな瞳に吸い込まれてしまいそう。……ひょっとしたら、私がそうなりたいだけなのかもしれないけど。
肌は天使くんと同じくらい白かった。そこでふと脳裏をよぎったのは、ふわふわ優しい金色で。
ちょうど顔も火照ってきたから、その恥ずかしさに乗じて目を逸らした。
「い、いいですよ。でも、ちょっと支度してきますね!」
大門さんと一緒にいると不意打ちが多すぎて気が狂いそう!
昨日ほどじゃないけど、心臓は早鐘を打ち始めたし、その一拍一拍が大きくて、熱を持っている気がした。
このまま半日とか過ごしたら、オーバーヒートして壊れちゃうよ。
支度と称して挟んだ小休憩の間に、なるべく呼吸を整えておいた。