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episode.8

挿絵(By みてみん)


 あの日の私はあの人に口付けられて、感情を――心を食べられたはずだった。

 心を食べられたヒトは普通、その感情とそれにまつわる記憶を失う。

 記憶はまだしも、感情の欠けたヒトはヒトとして成り立たない。


 私は……私の心はあの人に食べられて、あの人の心と同化した。


 アクマであるあの人が元はテンシだったこと。

 テンシのルール。アクマのルール。

 あの人の記憶や彼女たちの気持ち。

 いろいろなことを知った私は、そこで目を覚ました。


 テンシたちの間では、心を食べられたヒトはまず助からないというのが常識だった。アクマを追い払う方法についても、高位のテンシの力を借りた上で正しい手順を踏む必要があると。

 だから、どっちの話も一気に引っくり返ったあのときに、天使あまつかいくんは混乱したのね。

 でも、それは天使くんがテンシだったからで、アクマ側の事情さえ知ってしまえば答えは簡単。


 あの人は中毒・・を起こしたのだ。


 自分に合わない感情を誤って口にしたアクマは、最悪の場合、その存在を維持できなくなる。

 それだけのことなのだ。


 九死に一生を得たのはよかったけど、この事情を天使くんに教えるのは気が進まないなあ……。


 とにかく、あの人に食べられることであの人の記憶に触れた私は、それまで抱いていた多くの疑問を解決することができた。

 天使くんはテンシで、あの人はアクマ。テンシはアクマを忌み嫌うもの。アクマは守るべきルールを破った悪だから。


 それでも私はあの人を嫌わないでって、言いたかった。

 今でも言いたいけど。





 天使くんの質問に答えないまま眠ってしまった私は今、出来立てほやほやのクリームリゾットを前に瞑想していた。

 起きたら置いてあったんだよね、天使くんお手製のリゾット。優しいかおりだけで十分わかる、絶対美味しいやつだ。

 大きなスプーンはお皿のとなりに並べてあったけど、正面に座る天使くんにすっかり気後れしていた私は、それに手を付けられずにいた。

 これを食べたいなら洗いざらい吐いてしまえってことなのね!?

 天使くんの料理の腕を知っている私には効果てきめんだ。


 動きのない天使くんを盗み見ると、ちょうどまばたきをした彼と目が合った。美少年って息をしているだけで価値があるんだなあ……じゃなくて。

 まずは何を話せばいいんだろう。天使くんが聞きたいことって何だっけ?


 何はともあれこの沈黙、空腹以上のつらさだ。

 無言で見つめられるだけとか、時間が経てば経つほど説明しにくくなるんじゃないかと。


 ……よし!

 天使くんは私を急かしているんじゃなくて、待ってくれているんだ! そういうことにしよう!

 さすれば早く切り出すべし!


「あのね、天使くん!」


 勢い任せに口を開くと、天使くんはにっこり笑った。うぇい!?


「おはようございます、なつきさん」

「お、おはよう……」

「リゾット、作ったんです。食べてください」

「あ、ありがとう……」


 いつ見ても至高の癒しとしか言いようのないエンジェルスマイルを浮かべた彼に、私はしずしずとスプーンを取った。意味がわからないよ、天使くん……。

 それはそれとして、一口すくっていただきます。


「……!」


 私は衝撃を受けた。コクのあるクリームは想像通りのまろやかさだけど、それに加えてほんのり感じられる和風のテイスト! とんでもなくキノコに合う……!


「どうですか?」

「すっごく美味しいよ!」


 即答した私は二口、三口とクリームリゾットを味わった。五臓六腑に染み渡るとはまさにこのことだ。


「ああ、よかった。なつきさん、ずっと口を利いてくれないのかと思いました」


 え、と目をしばたく。私、そんなことしたっけ?

 ほっとした様子の天使くんは愛らしい笑顔を穏やかに緩めて、私の心をぐちゃぐちゃにかき乱した。いけないいけない、こんなときこそ平静を……。


「無事で、よかった」


 ……ダメだ。

 平静とか保てるわけがない。


 そもそも、天使くん相手に動揺しないほうがおかしいんだよ。慈愛に満ちた眼差しを受ければわかる、私がどんな苦行を強いられているかってことがね!


 こういうやり取りは前にもあったはずなのに、ぼわーっと上がり始めた体温に右往左往してしまった。

 この熱、頭にだけは響かないでほしいよ。


「教えてください。なつきさんに何が起きたのか……アイツはどうして、消えたのか」


 わかってるよ、教えるよ。真剣な質問には真剣に答えないといけないもんね。

 あいかわらず気は進まなかったけど、私はアクマ側の事情をかいつまんで説明した。

 ……あの人の心に同化していたことも。


 あの人に関する私の記憶はなくなっちゃったけど、好きだったことは忘れない。刺すような気持ちも覚えてる。だって私は……あの人を好きになれて、幸せだったから。

 ……だから、いなくなって悲しいのは別として、その気持ちを抱いたこと自体に泣きたいなんて思わない。


「なるほど……」


 天使くんはふむふむと私の説明を聞いていたけど、頭の中で納得したら、きっと気付いてしまうんだろう。


 本当は私だってよくわからない。

 もしかしたら違ったのかもしれない。だって初めてなんだもの、確証なんてないよ。でも、よくわからないからって向き合わないのはやめたんだ。光にくらんだ瞳では何も見えなくても、それは確かにあるんだから、認めてあげなきゃ。

 だってそれは決して、禁じられた罪じゃないはずだから。


「あれ? でも、アイツの目的はなつきさんの『初恋』だったはず……その感情をなつきさんが抱いていなかったから助かったんですよね」


 不思議そうな顔で天使くんはつぶやく。


「おかしいな。なつきさんはこれまでに恋をしたことなんてないのに」


 断定の仕方が勢い良すぎない?

 まあ、天使くんは私の守護テンシだから、そういうのがわかるのかもしれないけど……わかるん、だよね?


「アイツじゃないなら、なつきさんの初恋の相手って誰なんですか?」


 ……お姉さんは寛大だから、そんなことを責めたりしないけど。


 私は笑った。

 いくら私が自分の気持ちと向き合ったって、変わらないこともある。求めてはいけないものがある。臆病風に吹かれてそうするんじゃないなら、及第点だ。

 エゴの可能性を怖がらないで相手のことを思えたら、諦められたら、きっと誰も傷付かない。


「天使くんはさ。私とその人との恋、応援してくれる?」


 リゾットから立っていた湯気は落ち着いている。

 私の気持ちもこんなふうに、少しずつ見えなくなって、空気に溶けていくのかもしれない。あの人に対する気持ちと同じように、心の中にしまって、甘酸っぱいとかそんな味のする思い出に変わるのかもしれない。

 それはきっと、失われた恋が辿り着きたい理想の場所の一つだ。


「もちろんです。オレはなつきさんのテンシですから」


 ああ、なんて運命的な言葉だろうと思った。


「今度こそ、その思いの行方がどこであろうと、見守ります」


 ……少女漫画みたいな展開を現実で目にすることになるなんて。

 稀少体験だ……。




 天使くんは嘘をつくことができない。

 だから、彼の言葉に偽りはない。


 恋をしないということも。

 私を好きだということも。

 私のそばにいたいということも。


 全部、決して嘘じゃない。

 天使くんの中に恋という感情は存在しないから。天使くんの中にあるのは、ただひたむきな、ヒトへの――私への「愛」だから。


 愛をもって私の恋を応援するなら、天使くん、困るでしょ?


「なつきさん……?」


 私が天使くんに恋をしちゃったら、困るでしょ?


「どうして泣いて、いるんですか……?」


 そんな狼狽えたような声を出さないでほしい。かわいくて仕方なくて、困らせたくなる。


「なつきさん」


 私のとなりに移動してきた天使くんは、私の様子を窺うように声を掛けてくる。


 今ならあの人の気持ちがわかる。

 好きなのに好きって言えなくて、好きになってほしくないけど、それでも一緒にいたいから、ぎゅって閉じ込めて我慢していたあの気持ち。

 あの人はとても優しいから、そこにいるために食べてきた女の子たちのこともすごく申し訳なく思っていた。自分の存在が忘れられたとしても、自分は彼女たちのことを覚えていたいって、大切なことを忘れて泣いていた。

 罪だって、泣いていた。


 ……私は、天使くんが私を愛してくれていることを忘れない。私はその愛に応える。


「ごめんごめん。ほら私、あの人に食べられたときに記憶無くしちゃったから。だから、よくわからなくて」


 そのために、私は嘘をつく。

 天使くんがどんな顔をしていたって、嘘をつくよ。


「でも、天使くんが応援してくれてるなら、新しい恋もすぐに見つかるよね! 私、頑張っひゃう?!」


 急に抱き着かれて変な声が出た。

 いや、あの、このタイミングでそんなことされると、冷静になったときに心臓がフル稼働するからやめてほしいんですけど!

 ここは茶化して引きはがす!


「どどどどうしたの天使くん! さては私の新しい恋を阻むつもりだな!?」


 天使くんの頭はぴくりとも動かなかった。

 ……。


「え、ええっと? どうしちゃったの、天使くん?」

「わかりません」

「え?」

「これが正しいと思ったんですけど……」


 言い淀んだ天使くんはのろのろと私から離れていく。


「うーん……」


 自分のしたことの意味がわからないらしい彼は、視線をうろうろさせながら、そんなところには落ちていない答えを探しているようだった。

 じわりと脳に達した熱のせいで、口が滑った。



「……好きだよ」



 蜂蜜色の瞳がこちらを向く。


「私は天使くんのことが好き」


 どこか呆けたような天使くんが笑えるくらい愛おしかったから、私は笑った。好きって伝えられただけで十分な気がした。ほんの少しでも何かが動いたっていうのなら、私。

 そう、十分だ。


「……天使くんは、私の守護テンシで、おとなりさんでしょ。もちろん好きだし、だから、そうやって励まそうとするのは正しいってこと!」


 天使くんには笑っていてほしい。私のとなりでずっと、ずっと笑っていてほしいんだ。

 天使くんの笑顔は私のオアシス。日常とか環境が砂漠ってわけじゃないけど、あるのとないのとじゃあ、かなりの差があるからね!

 だから……私は天使くんと一緒にいたいから、この気持ちは押し込めて昇華する。きっと、きっと綺麗な愛になる。


 小さい頃から私を見守っていてくれた守護テンシ。恋を持たないあなたはやっぱり鈍いけど、私も相当だったよね。


 本当はずっと好きだったんだよ。

 初恋の人はあなただよ。



「……オレもなつきさんのこと、好きですよ」



 そう言って微笑んだ天使くんは、何にも知らないままでいい。


 私の嘘も。

 私の本当も。


 そのまま気付かないでいて。




 そっと顔を近付けてきた天使くんを優しく避けるために、私は彼を抱きしめた。思い切り、ぎゅうっと、天使くんが何もできないように。さっきの言葉が嘘に聞こえないように。


 だって私はわかっているもの。

 テンシがヒトに行うくちづけの意味。天使くんが今、そうしようとしたこと。


 私が隠したものを、そんなふうに暴かないでほしいから。


「天使くん、あったかーい」

「なつきさんも温かいです」

「ふふふー」


 私の恋の行方なんて、知らなくていいよ。

 天使くんが私のおとなりさんでいてくれるなら、それで。

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