prologue
となりの部屋に変わった名前の人が引っ越してきた。それまで空っぽだった表札入れに、真新しいネームプレートが出ていたのだ。
【203 天使】
テンシ。
そういうわけで、私のおとなりには「天使」さんが住んでいる(らしい)。
*
「天使」さんは、入居したその日に私の部屋――まあつまりは202号室にやってきた。
ピンポーンと鳴り響くチャイムの音。家賃相応に設置されたテレビモニター付きインターホンを確認した瞬間、レスト・イン・ピース、雷に打たれたような衝撃が私を襲った。
「柊木さーん! 柊木なつきさーん! 留守ですかーっ?」
「は、はいっ! すぐ出ますっ!」
あまりのことに脳が処理落ちしていたらしい。我に返った私は大慌てで玄関に向かった。
でもね、聞いてほしいんだけどね。
特に身構えずに覗いたモニターに【美少年 金髪】で検索した画像結果が表示されてたら、フリーズしてもおかしくないんじゃないでしょーか?
激しい動悸に見舞われながら金属の扉を開けた私は、二次元から三次元に顕現なされたその姿に心の中で合掌した。
猫の毛みたいにふわっふわの髪。
ぱっちりした大きな瞳は綺麗な蜂蜜色で、長いまつげとピンク色の唇はお人形さんのよう……。
透明感のある白い肌はもっちりしっとり艶めいて、赤ちゃんにも負けない瑞々しさだ。
「……あの?」
おっと、絶世の美少年を前に惚けている場合じゃないぞ、私!
こほんこほんと咳払い。
「初めまして! オレ、天使って言います。今日からとなりの部屋に暮らすことになったので、挨拶に来ました!」
あまつかい……。
テンシじゃ、なかった。
「これ、よかったら」
差し出された紅茶の詰め合わせを「ありがとう、よろしくね」と受け取れば、天使くんはほっとしたようにうなずいた。動くとかわいさ増し増しだ。
外見的には十五、六歳くらいなのかな? 身長は私より頭半分低いし、声だって男の子にしてはハイトーンだ。そうなると中学生っていう可能性も出てくるけど、一人暮らしなんてなかなかしないよね。
「それであの、なつきさん。出端で悪いなとは思うんですけど、」
「うん?」
本人を前にあれこれ妄想していた私は、さっきとまったく同じ轍を踏んで度肝を抜かれることになる。
私を見上げた天使くんは形の良いお口をゆっくり開くと。
「オレのお願い、聞いてくれませんか?」
にこりという効果音が聞こえてきそうなその笑顔は――おやじギャグとかそういうのじゃなくて――本当にテンシみたいだった。
私がお世話になっているアパートは築十余年の二階建てで、各階三戸ずつの計六戸という作りをしているんだけど、これまでは四戸しか埋まっていなかったのね?
101号室の大家さん。
102号室のおじいさん。
103号室のサラリーマン。
そして、202号室の私。
というわけで、203号室に越してきた天使くんは私の初めての「おとなりさん」になるのです。
……ちょっぴり憧れていたおとなりさん。しかも、どんなミラクルが起こったのか、奇跡みたいな美少年……。
そう、ゆえにですよ。そんなおとなりさんに「街を案内してほしい」なんて頼まれたら、断れるわけなくないです?
「ありがとうございます。他にお願いできる人もいなかったので、助かりました」
「これくらいお安い御用だよ!」
「何かお礼をしないとですね」
「そんなの別にいいよー」
かわいい男の子にお礼を言ってもらえるだけで十分、身に余る幸せです。
それにしても、天使くんはどこにいても目立った。
まずはほら、食料品を買える場所とか知りたいだろうから、近くのスーパーに連れていったんだけど。
「なつきさんはいつもここで買い物してるんですか?」
「たまにねー」
「たまに?」
「私、そんなに料理しないから」
「体に良くないですよ? オレ、何か作りに行きましょうか」
「有り難いなあ……」
とか何とか話しているけど、すれ違う人たちの視線が気になるったらないです!
そりゃあ、天使くんの容姿に二度三度と振り返ってしまうのはわかるけど、そもそも、着てる服が着てる服だからね!
背中に白い羽が付いたニットって! どこで売ってるのそれ!?
……でも、人のファッションにどうこう口を出せるほど、私のセンスはよくはない。
「さっきからどうしたんですか、なつきさん。オレの話、聞いてるようで聞いてないですよね」
ちらりと上目遣いをされて、そのあまりの破壊力に私はぶっ倒れそうになった。こんなにかわいい男の子が私のとなりにいていいの!?
動揺を隠すために話題転換を図る。
「そっ、そういえば天使くん、天使くんはどこの学校に行くの?」
「学校?」
「言いたくないならいいんだけど、えっと、せっかくおとなりさんになったんだし、」
「オレもう働いてますよ」
……空耳?
聞き間違い?
ハタライテル?
「そういう反応されても仕方ないってわかってるんですけどね」
ということは、何か。この子はもう大学を卒業したのか。じゃあ年上ってこと?
いやいや。中卒、高卒と、いろんな人がいるのが世の中だ。
……外見から年齢が読めない。
「まあ、そんな話はいいじゃないですか」
どうフォローしたものかと目を回していた私は、自分で自分が恥ずかしくなった。見た目だけで年齢とか立場とかを推し量ろうとするなんて失礼にも程があるし、穴があったら入りたい……。けど、そんなことできないから、消え入りそうな声で「そうだね」と答えた。
嫌われちゃったかな。そう思いながら天使くんの様子を窺うと、ばっちり目が合った彼はこの上なく優しく笑ってくれたから――私はその愛らしさに救われた気持ちになった。
ああ、本当にかわいいな。弟とかがいるなら、こういう子がいいなあ。
そんなふうになごんでいると。
「それよりオレは、なつきさんの好みのタイプが知りたいなー」
急転直下、ピンポイントで地雷を踏み抜かれた。
スーパーを出たところでその質問の答えをはぐらかす方法を考えてみたけど、真っ白な頭では何も思い付かなかった。
「どうしてそんなことを聞くの、かな?」
お姉さん、つらいです。その手の話をして楽しかったことなんて一度もないし、そんなものこそ気にしなくたっていいじゃない。
すがるように尋ねると、天使くんは「んー」と唇に手を当てて。
「参考にと思って、です」
恐ろしいことを仰いますね。
「わ……わお、もしかして天使くんってば、私に一目惚れでもしちゃったのかな?」
「天変地異が起きてもそんなことは起こらないですね」
くっそー、本当にかわいいなこの子!
わざと茶化すような態度を取った私は諦め混じりにため息をついた。
そうだよね。ハタライテルうんぬん言ってるけど、そういうのではしゃぐ時期ってあるよね。
共感はできなくても理解はできます。
「好きなタイプ、ねえ」
「はい」
小学生のときは、運動ができる男の子っていうのが定番だったから、私もそんなことを言っていた覚えがある。 格好良くて、体育の授業で目立って性格が良くて、もちろん頭も良い。
そんな物件、世界の果てまで探しに行っても見つからないということは、中学生にもなればわかることだったけど。
その中学生のときは清潔感重視だったかな。運動部の子の人気は根強かったものの、爽やかな子がモテた。小学生の頃に比べてみんなの好きな人が分かれてきたのもこのタイミングだったかもしれない。
高校では面白い人が注目を集めていた。テストの点が低くても冗談を言うのがうまくて笑いを取れる子が覇権を握っていたなあ。
だけど、どの記憶を辿ってみても、そこに「私」という個人の気持ちは組み込まれていなかった。
いつだって流されるばかりで、いいないいなって思うだけで、自分は一度も。
急かさずに返事を待ってくれている天使くん。
いつもみたいに曖昧に笑って誤魔化せばよかったのに、私は――。
「……あー、天使くんは?」
私は正面から逃げてしまっていた。
だって、恋なんてしたことないからわからないよ。
私の言葉に天使くんはきょとんとして(これがまた小動物みたいで半端ないかわいさ)、そっと自分を指差した。オレですか、と言うように。
もちろんそうなのでうなずいた。
「オレは恋なんてしないから、よくわからないです」
少し困ったように眉を下げて、ぽつりと答える。
私は震えた。
おんなじ。同じだ。ハタライテルって言っても、恋しない人だっているよね。いても、おかしくないんだよね。そう、だよね?
初恋なんて、正直なところ、まだ経験してない。もう大学生だから、まわりの子たちには散々疑われたけど。
なつきちゃん、それって普通じゃないよ。
何度も聞いたし、何度も言われた。
だけど、それでも私は恋なんてしたことないし、しようと思ってできるものだと考えてもいなくて。
そんなことを口にしたらまた、変だって責め立てられるような気がして……同じような人はもういないから、わかってもらえなくていいと諦めていた。
だから。
「天使くんもそうなんだ! あのね、私も本当は恋とかしたことなくてね……ひえっ!?」
感極まってしゃべり出した途端に何かにぶつかった私は、コンクリートの上に転んでしまっていた。
驚いた様子の天使くんが見える。さっきまで前には何もなかったっていうのに……ぶつかったって、状況がわからなかった。
「なつきさ……」
「悪い! 怪我してないか?」
天使くんの声に被さったのは、知るはずもない男の人のものだった。
黒いパーカーに黒いジーンズ。髪の毛も黒、瞳も黒……真っ黒な男の人が、申し訳なさそうな顔をしてその場にしゃがみ込む。
謝られたってことは、私、この人にぶつかったのかな。だったら、こっちも謝らなくちゃ。
「平気です。こちらこそすみませんでした――えっ?」
真っ黒な男の人は私の腕をぐいと掴むと、地面に擦って血が滲んでいた小指をぺろりと舐めた。えっ?
「なつきさん!」
呆気に取られる。
私の名前を呼んだ天使くんはどことなく怒っているみたいだった。
「なつきさんに触るな」
真っ黒な男の人に向き合う形で割って入ってきた天使くんの表情は見えない。でも、その声には明らかに刺があった。
「ああ、そうか……邪魔して悪かったな。俺も今度から気を付けるよ」
いきなり噛み付かれたにも関わらず、その男の人は甘やかな笑みを残して去っていった。
しばらく微動だにしなかった天使くんは、不意に私を睨んで、詰問するようにこう尋ねた。
「さっきアイツに舐められたところ、見せて」
有無を言わせないその雰囲気に気圧されて、私は左手を差し出した。
そこは既に乾いている。天使くんは私の手首を掴んで、じっと、穴が開くんじゃないかって思うくらい例の指を眺めてから、私が立つのに手を貸してくれた。
「一応、洗っておいたほうがいいですね」
「そんなひどい傷じゃないから大丈夫だよ」
「なつきさんは……破傷風とか、知らないんですか?」
天使くんは心配性らしかった。
渋々スーパーに戻ってお手洗いを借りると、これでもかというほど綺麗に洗っておいた。
「他にこの街で案内してほしいところってあるかな?」
「いいえ、なつきさんのおかげで十分わかりました。夕飯の買い出しでもして帰りましょう」
「えっ、作ってくれるって本当だったの?」
「オレは嘘がつけないんですよ」
ふわあっと、それはもう穏やかに爽やかに、ニットに生えてる羽より柔らかな、今日一番にランクインするくらいの笑顔で、天使くんは私の左手を引いた。
かわいいって言っても、男の子だもんね。手は結構頼りがいがあるかも。
それにしても、さっきの人……格好良かったな。黒で統一されたあのファッションとか、あの人だから着こなせるコーディネートで、ポリシーみたいなものを感じた。
急に舐められたときは何事かと思ったけど、そんなに嫌じゃなかったし……というか別に、あのままでも私は……。
思考の真ん中がぼんやりしてくる。痺れるとでも言うのだろうか……でも、心地良くて妙にどきどきして、あの男の人の背中が脳裏をよぎった。
ああ、胸が苦しい理由なんか全然知らないよ。だってこんなふうになったのは初めてのことで、それで。
目に入ったのは、繋がれた手。強い力。
足元がおぼつかなくなってきた私には、その手が何を意味しているのかはもちろんのこと、誰がそうしてくれているのかさえ、わからなくなっていた。
ただただ満ち足りて、体は軽くって、でもたまに泣きたくなったりして。
それが巡り巡ると、きっと何か良いことが起こるはず! なんてね、根拠はないけど自信を持って言えるような気になった。
なつきさん――。
声なんて聞こえない。
あの、真っ黒な彼の声だけがあればいい。
なつきさん――、アイツのことを考えちゃ――、
ダメだ――。
意識が、途切れた。