シルキーの覚醒
途中から視点変更。
オッサン一人は撃破した。
急場は凌いだにせよ、焦眉の急を未だ脱したとは言い難い。
だが、これから逃げ果せる自信は付いた。子供二名の無謀な脱走にも思えたが、存外我々が有する武器は多い。
俺の能力。
尋常ではない、それこそ人離れした脚力で可能となった高速移動にも視力や思考は即応していたので、身体能力全般が向上している。
これが『契約』の恩恵、皮肉にもシルキーの黒髪を犠牲にした対価。
これまでを顧みれば、オッサンの姿を確かめてから背を向けて走り出し、行く手を塞がれて再び正対するまで距離が開いていた。
大人と子供の脚力の差など語るべくもない。
それでも、俺は彼を引き離す速度で行動していたのだ。攻撃に転用すれば、相手を遠くまで吹き飛ばす威力がある。
何処かへ吹き飛んだオッサン。
樵夫の仕事で幾度も世話になったが、自身の命と天秤の針にかけて見れば、その価値の重さは俺にとっては量るまでもない。
恩があろうと、情があろうと、合理的に判断すれば、彼を退けるのに躊躇いは不要だ。俺の蹴りを受けて飛んだオッサンの無事を祈らなくていい。
最重要事項は、俺とシルキーが無事。
それ以外は些事に変わり無い。
俺はシルキーを抱え、倒木の障害を跳び超える。遮蔽物が高木ほどあろうと、前進を阻止するには足らない。
つい先刻に力を認知しただけなのに、力加減も把持し、それを用いた状況の切り抜け方も次々と思い浮かんできた。能力自体が、さも生来備わっていた物の如く、異物感が無かった。
シルキーを守り、森を抜けて本道との合流を目指す。
前途多難、しかし希望は見えてきた。
俺は頭巾を被り直す。
斜面を駆け下り、その途中も周囲を見回しながら進む。オッサンみたく親切に声の後で襲撃する連中はいない。
これから本格的な多勢対無勢の対決が始まる。
オッサン打破で俺への警戒心を高める筈だ。
「シルキー、最悪はおまえ一人で逃げろ」
「死ぬときは君と一緒だ」
「嬉しくない」
「だったら一人にしないで」
了解ですよ。
それならば、別の方策を採らなければ。
迂回といっても、相手は本道脇に包囲網を展開しているので、直線だろうと曲線だろうと、本道を目指せば彼らとの衝突は必至。
なら、いっそのこと真逆に進む。
本道とは全く別方向、彼らが逃走経路の予想を裏切ってやる。この山間部は国境付近に属する、別の国に移動するのも悪くない。
如何に特別な能力があろうと、それは相手も同じだし、何より戦闘経験が薄い。戦場で活躍する為に訓練された『交換者』相手に素人で歯向かうのは難しい。
俺は急旋回して、本道と真逆の方へ。
北ではなく、ひたすら南下する事を目指す。
包囲網から遠ざかれば追手が後で気付いても、この脚力と距離感を保てば巧く撒ける。
「キース。こっちは南だよ、本道は……」
「何処だって良いんだよ。逃げられるなら」
「そう、愛があれば万事良し。君となら何処でも」
「冗談が上手くなったな」
「これって愛の逃避行、なんだろう?」
冗談も休みやすみ言え。
生存こそ勝利だ。逃げてみせる、シルキーと二人で。愛よりも、今は逃走への演算だけが必要なので、彼女の冗談は流しておこう。
私を支える腕が逞しい。
樵の仕事で鍛えられた体、わたしがいつも傍で見てきた彼の体である。薄情なことを口にしながらも、決して離さないでいてくれる。
本当に、そこが大好きだ。
小さい頃から、叱られることなんてなかった。
生まれついての本能が、誰かに指摘されるより先んじて危険を察知できた。危ない事を滅多にしない。
良い子の評判が出来たのは、ここからだったと思う。
環境はわたしを拒絶しない。
大人は可愛いと褒め尽くし、子供たちは謙った態度で来て対等に接してくれない。
わたしの要望は大抵が信を帯び、言葉には愛嬌が付きまとう。長閑で、どこもきらきらしていて、そして退屈だった。
そんな折、わたしは細やかな悪事を働こうと意気込んだ。
シルキーの悪戯、それは変革になるはずだ。
だから村の隅に建つ家の犬に、少しちょっかいを出した。ただ老犬だったのか、抵抗する様子はなく怯えていた。
途中から罪悪感で手を止めてしまった。
そこへ、一つの怒声が響く。
「おい、モンスケに何してんだッ!」
喫驚して、勢いよく振り向く。
そこには、綺麗な赤い髪の少年がいた。
険のある顔が、わたしを厳しい眼差しで射竦める。初めてわたしに向けられる、怒りの感情を目にした。
斧を家に立てかけ、こちらに闊歩して来る。
その剣幕に圧されて黙っていると、直近まで来た彼はわたしを叱り始めた。
「この犬、モンスケは年寄りなんだぞ。労ってやるんだ。枝で突っ付かれて嫌がってただろ!」
老年の犬の身を慮ってだった。
当然のお叱り文句だろう。
しかし、次の言葉はわたしを再び驚愕させた。
「それにな、犬は顔も知らん相手には吠えたり、最悪は噛み付いて攻撃する!幸いにもモンスケは気性が穏やかだから良いけど、もし怪我したりしたらどうすんだ!」
唖然とした。犬の事だけでなく、わたしの安全まで案じていたなんて。
それが可笑しくて、わたしは笑ってしまった。
余計に気に障ったのか、少年の顔がより険しくなる。
睨まれているのに、それが新鮮で、何よりもきらきらして見えた。
その後も面白くて少年に絡んだ。
村長の娘と判った後も、彼はわたしを鬱陶しそうにしながらも対応してくれる。
この人だけ。
わたしを、一人の人間として対等に。
村長の娘でもなく、シルキーとして見てくれる。
過ぎていく林の景色。
上には、力走しつつ毛を逆立てて全景に視線を巡らせるウサギの顔。
不祥事につき、あの愛しい顔は失われた。それでも、大好きだった『彼』だけは、まだここにいる。
いま、わたしを支える腕を撫でた。
訝しげに、ウサギがちらりとこちらを見る。
「何だよ。揺れが激しいからって減速できないぞ」
「不安定だから、もう少し強く抱き締めて欲しいかな」
「そうか、すまん」
力が込められる。
彼の存在を強く感じられて安心感が増す。心置無く、全身を委ねられる。
わたしの好意を、彼はどう受け取っているのだろう。大好きだと言った言葉に、応えてくれているのかな。
いや、考えなくて良い。
こうして、危険を冒してわたしと一緒に逃げようとする。それが証明になっている、返答になっている。
きっと、何だかんだで。
彼はわたしから離れられない。
いいや、離さない。
わたしも彼の襟を握って、その胸に縋りついた。
それと同時に。
キースの行く手を回転する斧が過ぎ去った。人の投擲ではあり得ない軌道を描き、自由自在に林間を飛行している。
何処かに落下せず、宙で回りながら滞空した。
急停止した彼が、前方を睨め付けた。
すると、複数の敵影が木陰から身を躍り出る。鉈や斧を手に笑顔で草を掻き分け、こちらに向かって歩く。
どれも、日頃はわたしに親しみがあるはずなのに、どこか壊れた人形の顔みたいで不気味だった。
「シシリーちゃんを置いて行け」
「断る」
キースが峻拒に、村人が顔を曇らせる。
それを合図に、斧が滑空した。
頭巾を外すと、身を低くして走り出し、途中でわたしを置いてキースが馳せる。そちらへ全員が追走した。
わたしを腕に抱いたように見せながら、彼は自分の方へと引き付ける積もりだ。
斧が樹間を縫うように飛び、キースを執拗に追う。背後に回り込むと、後頭部めがけ加速した。
キースは頭を屈めて避ける。
――が。
顎を振り下ろす勢いだったため、後ろに撫で付けたはずの耳介が上に跳ね上がった。長い耳の片方が、斧の鈍い凶刃に切断される。
ウサギ由来で長いのが災いし、血煙が立つ。
片耳から感じる激痛に、彼が倒れた。
空かさず、突如として頭上に鉈を持つ村人が出現した。あれは瞬間移動というものなのかもしれない。
痛みに怯んだキースの背に覆い被さろうとする。
村人は下に鉈の刃先を向けたまま落下した。
あれでは刺されてしまう!
「キース!」
「ちッ」
「な、ごふっ!?」
キースが頭を横に振って、鉈の先端を躱す。
驚いた村人は、背中にそのまま乗しかかった瞬間、苦しそうな奇声を上げた。キースの背に乗ったまま、震えている。
何が起きたんだろう。
目を凝らして見ると、村人の服に血が滲み始めていた。キースが逆手持ちにしたナイフで、背中にいる村人の腹部を刺していた。
「おらっ!」
キースはナイフを相手の腹から抜き、相手の鉈を持つ手を摑んだ。そのまま体を傾けて相手を傾斜した地面に転がり落とすと、間髪入れずに乗しかかって胸元にナイフを叩き込む。
村人が吐いた血と、垂れたキースの流血が混じる。
相手が動かなくなったのを確認してから、キースは片耳の傷口を押さえながら木の影に隠れた。
駆け寄って、安全を確かめたい。
でも、わたしは足手まといになる、
もどかしい。
わたしの所為で、二度も彼を失うかもしれない!
村人がキースに走って迫る。
木に凭れて傷に小さく苦鳴した彼を、旋回した斧が再び強襲した。今度は首を狙っていた。
村人の一人がロープを投げた。
無造作に放たれたそれは、先端が斧同様に自由自在に動き、樹幹にキースの胴を縛り付ける。
手負いな上に、拘束されてしまった彼へと容赦なく村人が武器を掲げて走っていく。
「いまだ、殺せッ!」
「シルキー、今のうちに逃げろッ!!」
村人たちの勝利を確信した蛮声。
それを打ち破る、キースの声が重なる。
彼は頭を前に下げた。
斧がそこへ突き刺さる。樵が幹を打ち鳴らす丁丁とした音とは違う、凶悪な響きの乾いた音が聞こえた。
まだ彼の首は繋がっている。
だが安心できない。
もう村人の魔の手はすぐそこだ。
「やめて」
わたしの声は届かない。
「わたしから」
虚しい――なんで無力なの、わたしは。
「キースを奪わないで」
そうだよ。
どうして、みんなは彼と一緒に居させてくれないの。
みんなよりも、ずっと価値があるのに。
「許さないから」
絶望よりも。
腹の底から湧き上がる怒りに染まる。
「キースをわたしから奪うヤツら」
その熱が足の先から頭頂まで、体の芯を焦がす。
「みんな――」
キースを傷付けるヤツ全員。
「――死んでしまえ」
いなくなってしまえば、良いのに。
次回へ続く。