キースの奮闘
束の間のシリアス、第二波。
注・本作はバッドエンドではありません。
御守りを贈った翌日。
今日もきょうとて、勤勉な私めは村長宅へと足を運んでいた。扱き使われる日々に敵愾心を剥き出しで訪問したいが、そうなると親父共々この村から追放されかねないので、穏やかな笑顔を装う。
最近は怒ろうとすると、どうしてか笑顔になってしまう。これも我儘なお嬢様に躾けて貰った成果でしょうか。
なんて歪んだ矯正でしょうか。
そんな事を口にしながら、俺は村長宅に辿り着いた。どうしてこんなテンションが可怪しいかというと、昨日の彼女の言葉もある。
少し面を合わせにくいのもあるが、午前の樵夫の仕事も済ませたし、やることがこれしかない。
暇を作るのが人間、いちばん危険だ。
有意義に時間を使おうと考えるのは、常に思考、行動を滞らせぬ多忙な日々にあるヤツだけ。
たとえば人の金で飯食い、昼夜とわず夢現の狭間をさ迷う暇人が、そんな事を企画して実のある生活を過ごせた例は少ない。
大抵が明日なら、その次も明日なら。或いは今日できなかった、まあ自分には無理だったんだ。
要は努力の一端にすら該当する行動も起こさぬまま妥協して寝る。
働き続けなければ、人間は駄目になる一方だと山里の生活で学んだ。
特に、働かず遊ぶだけのシルキーとか。
もう甘やかされ過ぎて堕落の一途を音速下降中だし。最近は俺も一因になりつつあるが、それは別に心理的に痛痒はないので気にしない。一応悪例として取り上げただけ。
兎も角、俺は自分の仕事をするのみ。
村長宅の戸を叩いた。
二、三回で扉が開いて隙間より強面が迎えるのがいつもだ。数月前から異様に馴れ馴れしくなったけど、顔の迫力だけは変わらない。
俺は戸を叩く拳固を下ろし、しばらく待つ。
何なら、村長じゃなくて忙しくないシルキーに出迎えて欲しいくらいだ。それくらいの誠意を見せて貰わないと、子守りとして鬱憤溜まるばかりである。
「……あれ?」
合図してから一分。
やけに長い間隔である。誰もが応答しないとは奇妙だ。
もう一度、戸を叩く。
応えない。
何処かに外出しているのか。でも、もしそうならば予て親父経由で連絡が届く。最近の村長は妻の目を忍んで人の親との密会に興じている。連絡が早いのも、こういう訳だ。
だから、連絡を怠るとかはない筈である。
いや、親父の事情なんかどうでもいい。
問題は、誰も応えない怪異な現状だ。
今度は回数制限なしで叩扉。
鼕々と叩く音に、やはり反応がない。取手を摑んで捻り、ゆっくりと奥側へと押し遣った。
すると、何の抵抗力もなく蝶番が軋む音を鳴らして扉は開いていく。普段は施錠すら欠かさず、些末な事にも気を配る注意深さで村を導いてきた者の家には有り得ぬ無用心。
もし理性を失った俺の親父が乗り込んできたら如何とする積もりだったのか。
やめよ、吐き気がしてきた。
俺は玄関を過ぎて、居間の方へ向かう。
この数月を含め、今まで村長宅の中を歩いたのは、これで二度目だ。娘の傍に寄り付く虫と見られていたし、屋内に招かれた経験は食卓に列席したあの日の夜だけ。
内部構造を把握していないので、知っている所から虱潰しで探索する。……意外と清潔感に溢れた綺麗な内装だ。
一応、二階建てなのは知ってる。もしかしたら扉の音も気付かない上に居るのかもしれない。
それでも、念には念を入れて。
不躾に居間への通路の途上にある部屋一つずつ開放して確認したが、やはり人はいない。それでも、つい先刻まで人のいた気配がする。
居間に居るかもしれない。
果たして、居間に着くが誰もいなかった。
三人で食膳を据えるであろう矩形の卓と、台所が見える様相。足元に敷かれた剥製にした獣の皮。
俺は室内を念入りに検めた。
台所に調理中の野菜がある、ニンジンだ。包丁で切られたそれの断面を撫でてみると、滲み出す水分が指先を濡らした。
これは奥さんがいた証拠である。まだ数分もしない内に、彼女はここにいたのだ。
ふと、爪先に何かが触れた。
視線を下に移すと、前掛けとシャツ、ズボンが床に重なっていた。持ち上げてみると、前掛けはシャツの上に、そのシャツの下にズボンが入り込んでいる。
脱いだ、というより、まるで服からすり抜けた後、そのままにの残されたかのような感じだ。
何とも奇妙な脱ぎ捨て方か。
机の下にしまわれた椅子、上には男物の脱衣が残されている、こちらも奥さん同様だった。
二人して服を捨てた裸で何して……まさか叩扉に応答しなかったのは、最中という訳か?いや、まさかそんな事は無いだろう、こんな昼間から。
余計な創造力を働かせてしまった。
二人が残した痕跡、どれも奇々怪々に過ぎる。
どうして、こんな真似をする必要があるのか。
思索しても解答は見つからない。
頭を捻って負け惜しみに思考をまだ働かせてみせるが、俺の頭脳には手に余る難物らしい。結果として、意味不明である。
「これ、シルキーの悪戯か?」
独りごちて、未確認の部屋も捜索する。
けれども、俺を迎えるのは無人の部屋ばかり。どれも生活感はあるのに、肝心の住人が不在だった。
結局、一階にはいなかった。
俺は階段の段差を静かに上がる。
さすがに無いとは思うが、奥さんとウンタラカンタラしている可能性も否めない。ここで不許可での侵入が露呈したら、確実に追放沙汰になる。
二階の廊下に出た。扉の数からして、部屋自体は下階よりも少ない。
シルキーの部屋はどれだろう。
探して直ぐ、左手に延びていく廊下の突き当たりに、拙い字で「しるきー」と刻んだ札が掛けてある。
いやあ、読書の勉強しといてよかった!もし意味を知らなかったら、危うく消去法で探る博打になっていた。
俺は「しるきー」の部屋を訪ねる。
ここで注意、如何に俺にとってクソガキとはいえど、世間では十二歳の淑女。叩扉も無しに入室する無礼はしない。
玄関同様に二、三回叩く。
「シルキー、いるか」
「き、キース!?」
おう。
大声で応えてきた、居るなら玄関来いよ。
こちとら危険な冒険して肝冷やしてんだぞ。
しかし、まさかの無人は免れたらしい。
「開けても良いか?」
「来ちゃ駄目!!」
「……着替え中か」
「逃げて!!」
あれ、会話が成立していない。
いや待て、「逃げて」とは何だろうか。
入室を拒絶、こちらの確認内容を否定するよりも優先して口にした言葉が現場からの逃避を促している。それに声色は必死、昨日の帰宅を強いてきた時の声にそっくりだ。
見られてはならないモノがある。
というより、何かに巻き込みたくない、そんな意志が感じられた。被害の波及を未然に防ごうと、注意を喚起する様子と捉えられる。
嫌な予感がする。
きっと、怯えた彼女を一度見た所為もあるだろう。
直感が、危険が差し迫っていると叫ぶ。
「悪い、シルキー。――入るぞ!」
扉を肩で破る勢いで開け、俺はシルキーの部屋に踏み入る。
室内では、シルキーがベッドに身を小さくしていた。胸に自身の拳を抱き――否、御守りを握り締めている。それに縋らねばならない状況にある証左だ。
何が彼女を恐怖に追いたてているのか。
その答は、考えるまでもなかった。
ベッドに向かって、『黒い何か』が這い上がっていた。視界の一部にだけ異常を生じたような、ただ靄状の黒いヤツが、シルキーに向かって移動する。
人の形にも見えれば、後肢を引き摺る大きな獣にも見える。不定形、輪郭が曖昧に過ぎるゆえに印象も変幻自在だった。
俺は床を蹴って、黒いヤツの背後から飛び掛かる。形而下の物なのか疑わしい、幽鬼の様にすら感じるが、得物もないし体当りしかない。
突進を敢行して、しかし俺の体は靄をすり抜けてベッドの上を転がった。不覚にもシルキーの脚に頭を打つ。
すり抜けた!
物理的手段が通じない!
触れられないんじゃ、勝機がない。
俺は起き上がって、咄嗟にシルキーを抱き寄せる。縮こまる彼女を抱えて、黒い靄の隣を過ぎて廊下に飛び出した。
接触不能なら、逃げの一手しかない。
取り敢えず、先ずは考える時間を作れる場所まで避難する。対処法の考案は、その後だ。
ベッドに上がる速度から鑑みて、行動速度はかなり鈍重だと見える。単純な駆け足なら、距離を作るのも容易だろう。
俺は後ろを見ながら、階段へと向かった。
黒い靄が、振り返ったような気がした。
輪郭が無いから判らないが、身を翻してこちらを確認している。本来、目も形もないそれから『視線』を感じた。
突如として、黒い靄の一部が縄状に変形する。床を撓り打って伸長し、いざ階段の一つ下の段差を踏み下ろさんとしている俺へと迫った。
黒い先端がひらめき、俺は反射的に顔を逸らした。
こめかみから眦にかけて鋭い痛みが奔る。右の視界が、熱い血で赤く染まった。
体勢を崩して、俺は階段を転げ落ちる。シルキーの頭と首を守るように抱えて、下階まで階段を跳ねた。
床に叩き付けられ、全身を段差の角に強か乱打した痛みで思わず悲鳴が洩れる。腕の中にいるシルキーが、胸の上で顔を上げた。
かつてない怯えた面相。
無事の確認と同時に、やはり助けて良かったと安堵する。
「キース、君の右目が……!」
「血で見えないだけだ。目ん玉まで切れて無い」
「でも……!」
「取り敢えず、早く逃げろ。俺が相手するから、おまえは他の家に助けを求めるんだ」
鈍痛に苛まれて震える体を叱咤し、俺は立ち上がった。山の岩場で足を滑らせ、そのまま転げ回った時よりは痛くない。
いや、それよりもアイツだ。
あの黒い靄、俺からは触れられないのに、一部を鋭利な刃物にして攻撃した。額の右の裂傷は深くないが、あちらからの物理的干渉は可能らしい。
これでは、一方的に嬲られる未来しか浮かばない、殺される。
そんな状況、庇いながらなんて尚更だ。
「キース!来た!」
「げっ」
階段の中程で、そこだけ影が蟠っているかのように、黒い靄が立ち止まっていた。俺を攻撃したと思しき縄状の物を垂らしている。
間合いが長いのは、先刻の一撃で知った。次は俺だけじゃ済まないかもしれない。
黒い靄が、一瞬震えた。
俺は攻撃の合図だと思って構えたが、縄は飛んで来ず、代わりに声が聞こえる。
『大切なモノって、なぁに?』
「え?」
あれ、その台詞はどこかで……。
俺が思考を巡らせて、気を取られた僅かな瞬間。
それを衝いて、黒い靄が躍動した。縄の先端が擲たれ、俺の横っ面を叩きながらシルキーの脚に搦み付いた。
俺は弾かれて床を転がり、シルキーが階段へと引っ張り上げられていく。
立ち上がろうとするが、意識が朦朧とし、視界が明滅して気分が悪い。足が全く意思の通りに駆動しない。
『はやく、答えろ』
「いや……助けて、キース」
『それが大切なモノ?ならわかった』
シルキーが怯えながら首を横に振る。
黒いヤツの正体が何か、判りかけてきた。
でも、それを追及する猶予はない。
俺は廊下の隅に寝かせてあった箒を手にし、柄に縋って立ち上がる。あれだけ直立するのも苦慮したのに、いちど立ってしまえば体勢を維持するのは楽だった。
箒を振り上げて、俺は階段を駆け上がる。
「不許可で侵入しやがって、成敗してやらぁあ!!」
あ、それ俺もじゃん。
『――――じゃあ、貰うね』
黒い靄が大きくなった。
階段の天井まで包むほど膨らみ、シルキーのみならず前景を飲み込んでいく。彼女の姿が漆黒の波の中に消えた。
そして、次の瞬間。
俺の視界が回転して、床に転がった。
何だか首が熱いし、体の感覚が無い。
目の前に、何かが倒れる。目を動かしてそちらを見ると、首を失った胴体だった。うわ、怖、てか俺と同じ服着てるよ。
あれ?……それ、俺の体じゃない?
次第に視界が暗くなる。
それは靄に包まれたからか、それとも……。
あれ、死んじゃうのか、俺。
真っ暗だ、周り一面が黒い。
暗いなぁ。
シルキーの黒髪に比べたら、汚い黒だ。
『大切なモノって、なぁに?』
最後に、そんな声が聞こえた。
次回へ続く