ラッセリヒの決闘
朧に見えていたリィンの奮戦。
肩の傷は間歇泉のように血を噴く。
重たくなる瞼の裏に、あの慕ってくれた笑顔が投影される。今や『狂戦士』などと畏怖される鬼気など微塵も無い優しさ。
私が見捨て、私が狂わせた剣。
鞘を失って、探す為に出陣し、血錆で傷めるしか自らを実感できない憐れな正義の徒。
それを我が指先が如く扱う白夜卿。
守らねばならない、戦わねばならない。
眠るには、死ぬには早い。
新たな主君を得て、ようやく剣の意義を見出し時に、憎きリシテの凶徒に敗れ、膝を折って守るべきリィンすらも危地に陥れる。
これ以上、騎士として忸怩たる醜態はない。
『私は隊長のような正義の騎士になりたいです』
――お前の憧れる理想の騎士として。
『戦乱の混迷、その最中だからこそ我々が道を示さねばなりませんね、隊長!』
――今こそ人を救う正義の剣として。
意識が覚醒した。
瞼を閉ざそうとしていた抵抗が消える。
肩の傷口から全身へと駆け巡る激痛が緩和されて、関節を苛んでいた懈さが掻き消された。
床に伏せていた面前、その直ぐそばにリシテの足が立つ。
私は手を伸ばし、その足首に縋り付いた。掌から伝わる、怨敵の体温と脈。
それらをすべて握り潰さんと握力を込め、転がって仰臥になると同時に、摑んだ足を持ち上げて壁際へと投げ放った。敵は全滅したと油断していた所為か、踏ん張りもなく容易に飛んだ。
壁面に激突し、そのまま床へと倒れる黒装束。
私は肩の傷を片手で圧迫しながら立ち上がり、リィンの傍に近付いた。
「無事か、リィン」
「オレの状態を見て判らない?」
気丈に口の端を持ち上げてみせるリィン。
私も笑って――冑でわからないだろうが――応えて、倒れるカフスの死体を退ける。下から這い出る彼女に手を差し伸べた。
リィンもまた手を伸ばして――途中で止まる。
その意中を察し、私も身を翻して構えた。
壁際では咳き込み、顔面を片手で覆いながら壁伝いに起き上がる。
「未熟、ルイドを信ずる者にあるまじき油断だった」
「さて、貴様の処分は審議の余地もない。――ここで首を断つ!」
私は剣を執る。
しっかり柄を摑んだ左の利き手から、脳髄へと衝撃が奔った。脳内が沸騰する感覚に胃の腑ごと吐き出しそうになる。
無辜の民を斬り伏せた過ち。
部下の狂喜と悲泣の声が耳の奥で弾ける。
私が目を背け、まだ終わっていない戦場。確かに、もうそこから先に正義も悪も消えた。命を奪い合うだけの地獄に堕ちた。
『それでも正義を掲げて戦いたいなら――』
それでも。
我が寄す処となる正義はある。
この地獄に人を救う為に戦う意義を生む。
『私が君の正義になる』
彼女の為に剣を揮う。
それが邪悪を打ち払う為の――正義になる!
私は鞘を払って、長剣を抜き放つ。
黒装束に向かって切っ先を向け、腰を低くして構える。芯を据えて、剣を中段の高さに持つ。
剣は水平に後ろへ、腰元に引き絞る。
黒装束が懐中から刀身の曲がった剣――湾刀を取り出す。肉厚な刃は、なるほど手合わせをして判ったが、己が膂力を恃みとする戦法のヤツには好適な得物である。
受け太刀は危険か。
私の長剣、間合いの長さのみ。太さは同等、重量と機敏さは敵が上手。
長丁場にすれば劣勢は必至、一刀必殺の手以外に無い!
リィンを背にして下がれない。
幸いにも背後に扉がある、リィンにはこの場を離脱してもらうしかない。傷を言い訳にするのは恥ずべきだが、手負いで無理をして取りこぼす命を見捨てられない。
「リィン、部屋の外で待っていろ」
「オレは足手纏い?」
「そ、そうは言って――」
「本音言え」
「…………すまない」
リィンが摺り足で後退していく。
後ろ手に扉の取手を摑んで――そこで黒装束が横へと跳んだ。
直線上から私が消え、視界には離脱寸前のリィンが露見している。最重要事項だけは取り逃す積もりは無いらしい。
横へと移動する姿勢のまま、黒装束が腰から縄を擲った。
咄嗟に私が右手を出して妨害すると、縄が前腕部に巻き付く。引き寄せられる力に抗い、こちらも力を入れて腕を振り戻す。
後ろでリィンの退室する音が聞こえた。
縄を剣で断ち、再度正対する。
「さあ、存分に果たし合おう」
黒装束が前に飛び出した。
私も長剣を中段にして迎え撃つ。
間合いに入ったと踏んで、全力で横薙ぎに斬り払う。敵が飛び越えられない高さ、潜れぬ低さを案配した我ながら絶妙な初手だった。
だが、それも自惚れである。防がれる場合もあるだろう。
それを黒装束は、よもや受けもせず潜り抜けた。紙一重で黒頭巾の頭頂を切るのみに終える。
黒装束がそのまま低く潜り込んできた体から、湾刀が床を撫でるとような低い位置から振り上げられた。
人が武器を扱うとき、切っ先に最大の威力を発揮させるには速度を要する。
そこで最高の速度を出す為には、全力で腕を振ること。特に剣は腕ごと振るため、その切っ先の描く軌道は須く弧となる。
しかし――下から押し寄せたのは。
顎めがけて、途中で直角を作って撥ね上がってくる湾刀の刃である。予想だにしない、否、如何に多くの戦場を経験しても見ない剣技だ。
私は上体を後ろに退いて躱す。冑の顎を掠めていった。
どこまでも珍奇な戦技である。これが人殺しの手練れ、その真髄か。
湾刀を振り抜いた後の腕を片手で捕まえる。
左肩から血が噴き出す。……構うものか。
寸陰の間を置いて次々と押し寄せる死を掻い潜り、そこに剣を叩き込むことだけに自分の芯を集中させる。
黒装束の動きを止め、膝で横腹を蹴った。
それを割って入った掌に寸前で止められる。そのまま私の脚を横へと投げるように弾き、片手に新たな湾刀を摑んだ。
――まだ仕込みが!?
この距離では躱せない。
足を払い退けられた後では、剣を振る体勢にも戻れなかった。
「所詮は騎士だ。呆気ない結末だったな」
湾刀が逆袈裟に斬り上げられた。
今の私には無事に防ぐ術はない。先に剣を突き込むには遅い。
そう――無事には、だ。
私は右肩で受け止めた。
鎧で防護されている部分を狙って差し向ける。湾刀の刃先がめり込み、鈍い音を立てる。貫通して腕に突き刺さる。
右腕全体を火で炙られるような痛みに神経が高熱を帯びた。指先まで力が抜けそうになる。
……だが、その程度だ。
腕が断たれるまでには至らなかった。鍛えた筋肉が最後の防壁の役割を担い、見事に刃を凶刃たるしめる速度を殺してくれた。
私は相手の片手を捕らえた右手の握力を強める。
絶命、切断、或いは右腕の機能停止にすら届かなかった成果に黒装束が瞠目する。
刃を引き抜こうにも、筋肉に挟まれて動かない。
黒装束の目がこちらに向いた。
当惑と、そして戦慄が見てとれる。
だから、私は――。
「これが騎士だ、舐めるなよ」
私は剣を以て応える。
左半身を引き絞って、無防備になった黒装束の胸に長剣を突き放つ。鋒から皮膚を、胸骨、心臓、そして背を貫き抉る感触が鮮烈に伝わる。
さも剣先に目を得たかのように、その描写すら克明に浮かんで見えた。
それでも。
私の手は震えない、もう柄を放さない。
溢れる血反吐に床を汚す黒装束。
断末魔の痙攣を残して、そのままくずおれた。過たぬ絶命の一刺しであった。
私は右手の湾刀を取り除き、その死体となった黒装束へと返す。
「無害な子を陥穽に嵌め、その悪辣さを恥じぬ貴様の掲げる教義は、所詮我が正義に勝てなかったな」
剣を鞘に納めた。
久しい命の遣り取り、それこそあの戦場とは違う意義のある闘争。
漸く、“私”を取り戻した実感がした。
その感覚を噛み締めていると、扉が開いて隙間からリィンが顔を出す。
「終わった?」
「危ないだろう、私が合図するまで――」
「我が正義に~とか、決め台詞が聞こえたから」
「……すまん、傷の手当を手伝ってくれんか」
「了解」
リィンが呆れながら入室した。
……もう一人、カフスによく似た男性を連れて。前で両手を縛られ、縄で引き摺られている。
その与り知らぬ連行された面に、私はただ絶句した。彼を縛る縄をカフスの死体の首に結び付けてから、私の鎧を剥がしていく。
丁寧に留め具をはずしていく彼女に問うた。
「あの、彼は……?」
「カフスの一人息子。事業を継ぐらしいから、有効活用しようと」
「無関係な人間を巻き込――」
「依頼人のカフス死亡。その事後処理を息子にさせる。次いで仇討ちなんて阿呆な真似ができないように『ディアブロ兵団』に誓わせる、いや脅す。あとは兵団への資金援助などをさせるとか.
他にも――」
閉口必至。
落ち着いた手元と怒濤の勢いで話しながら応急処置を施してくれるリィン。
そして縛られ、あまつさえ自身が脅迫される前途を耳にしながらも恍惚と彼女を見詰めるカフスの息子。
私はキースほどの処理能力が無いので、もはや思考放棄した。
その頃。
私――ユーナは、彼らの帰りを待っていた。
診療所前でこちらに向かう影が何処かにないかと探し続けた。
傭兵業で度々怪我をしてくるが、キースはまた無理をしてないかな。シルキーの為だって自分を殺す癖があるし……。
二年前から。
戦には不向きな性格をしていると思った。
争い事は嫌いで、優劣に拘泥せず、寧ろ穏やかに配膳や料理をしている時の方が楽しそうだったから。
それとお調子者。
後で冗談と判るけれど、真顔で「かわいい」、「良い嫁になる」、とか恥ずかしげもなく言う。
どうしようもない人。
でも、それほど心は強くなさそうだった。痛みに慣れているだけで、いつか決壊しそうだ。
だから、目が離せない。
それに変わっている。
誰にも自分の顔が見えていない、そんな口振りだった。店長やみんなも、彼をウサギ顔とか言う。
最初は酷いとは思ったけど、何か理由があるのだと流してしまった。
何か贈り物をしたいと受かれて、頭巾にウサギの刺繍をしてしまったけれど。それでも、困ったように笑いながら喜んでくれた。
私は……その、彼の笑顔が好きだった。
だから、傷付いて帰って来るのを見ると苦しくなる。
どうか。
どうか……。
「おーい、ユーナ!」
「……シルキー?」
私は声のした方に振り向いた。
街路の闇の中で、こちらに手を振るシルキーがいた。赤髪の少年、きっとキースを担いでいる。
まさか……。
急いでそちらに駆けた。
「大丈夫?怪我してない?あ、あと、き、キースは?」
「うーん……無事とは言い難い」
言葉を濁すシルキー。
肩で持ち上げるようにして、キースを示す。右腕全体に包帯を施していた。まさか、大怪我だろうか。
私も屈んで顔を覗き込んだ。
お願い、どうか苦しむ顔だけは――。
「……え」
私の目の前に、キースがいる。
それは確かだった。
けれど。
顔は見えなくなっていた。
「キース……?」
その、奇妙な仮面に阻まれて。
次回(二章完結)へ続く。