ラッセリヒの奮起
加筆しました。
申し訳ありません。
昏い空の下。
西の区画に佇む大きな娼館の地下では、松明に灯る蛍色の火で照らされる広間があった。
中心に奇妙な魔方陣を画き、車座となって黒装束が囲う。
三人は面前の合掌に額を擦り付け、瞑目した瞼の裏に言葉を囁いて念じる。
唱えるべき文句を読み終えても、飽くことなく繰り返す作業に半日を費やしていた。
だが、彼らがその姿勢を崩したことはない。
またそれを壁際にて静観する煢然とした影も、無聊を託って身動ぎすることもしなかった。
衣擦れも足音もない空間には。
ただ彼らの言葉だけが生きていた。
『闇の根幹に火を、海の底に波紋を、空に月を』
『万の命が生まれ、そこにあなたが芽吹く薫りは無い』
『祈りを捧ぐ砌に、闇を享ける黒き器が誰ぞや知れず、いつぞや知れず、何処や知れず』
滔々と紡がれる。
凪いだ水面を騒がせないほど細やかな声。
けれど三人の言葉は見守る影の心の底を熱くさせ、言葉の裏に秘めたる誰かの想いを犇々と受け取っていた。
その情念の焔が滾るのに呼応して、室内を照明する灯火の火勢が強くなる。
火花の爆ぜる音が大きく響いた。
黒装束が全員立ち上がると、魔方陣の線が煌々と地下室の闇を払う強さの光量を発する。
壁際に佇んでいた影の全貌が露になる。
長い杖を手にした黒い僧衣だった。整った顔立ちの人間の顔の形をした白い仮面は、しかし瞼と裂けた口許を糸で縫いとめている。
『それでも我々はあなたを待とう。これまでに葬り、束ねしリシテと共に、骸の嘆く暗き朝を迎えよう』
三名の声が合致する。
白仮面が魔方陣へと進み出た。僧衣の裾が床を擦っていく。
静かに魔方陣の中心に立つ。
すると、地下室の扉から黒い球体が虚空を滑って白仮面の掌中に乗った。円らな瞳でまばたきを一つ、そのまま泥状に溶けて皮膚の下に染み込んでいく。
白仮面が掌を握れば、完全に消えた。
黒装束三名が胸に手を当てて軽く前に頭を傾げて片膝を突く。彼らの風習で行う最敬礼の姿勢だった。
魔方陣の上で、僧衣が足下から燐光を放つ光子となって分解していく。
「偽りを破り、内より鮮血を導け」
『御意』
僧衣が光の塵と帰した。
魔方陣の線からの発光が途絶え、再び暗中に室内が閉ざされる。
それを見届けた黒装束が姿勢を正し、懐中から短剣や武具を取り出す。魔方陣を失った部屋に、次は凶刃の光が灯る。
音もなく部屋を出て行く。
『今宵――『天地の灯』は咲く』
*──*──*──*──*
娼館から少し離れた路地裏。
人ひとりが通過できる余裕しかない通路では、一見して不審者の集団が潜む。
銀髪の少女。
斧持ちの兎頭。
薄汚れた甲冑。
金髪の侍女服。
三人が額を寄せて、リィンが拷問で問い糺した内容から書いた娼館の見取図を見ている。
真剣に記憶しようと目を光らせるのはラッセリヒで、シルキーは中身を見ずに俺の肩に頭を乗せて寝ていた。
これから夜襲を仕掛けるのに不安にさせる調子である。日中は任せたリィンの護衛もせず昼寝をしていたらしい。……それでもまだ眠いのか。
俺は展げた紙を折り畳んで懐中に入れる。一通り内容は叩き込んだ。
「起きろ」
「んぅ……」
シルキーの肩を揺すって起こす。
俺の半外套に涎の染みを作り、普段は精緻な造形をした顔が眠りで情けなく綻んでいる。
頬を軽く叩くと微かにひくりと動いた。
瞼を薄く開いて、俺を見上げてくる。
俺は手拭いで顔を拭いてやり、戦闘で邪魔にならぬよう銀髪を黒い紐で結わえた。
大人しく従うシルキーは、擽ったそうに身を捩る。
髪を纏め終えると、シルキーは背伸びをして頭を軽く横に振った。薄闇に銀の光彩が踊る。
彼女の武装は長剣、皮の胸当て、汚れた臑当てと籠手だけの軽装だった。
俺も戦斧以外は同じ装備だ。正直、防御力に自信は無い。
ラッセリヒほど固めても、俺の特性を活かしきれず愚策になってしまう。
戡定は世の常だが。
平穏の為に血腥い手段で応じるしかない現状に、改めて溜め息しか出なかった。
腰から抜いて両手に斧を持ち、俺もシルキーの傍に寄る。
夜襲の作戦での打ち合わせは済んだ、手筈通りに実行できるかはやや不安だ。
主に――こいつの所為で。
「よし!この兵団の試運転だよ」
「作戦内容に従え」
「勿論さ」
「臨機応変といえど気紛れを起こすなよ」
「わたしに任せて」
「ああ、頼む」
「はは、大丈夫」
余計に不安になってきた。
彼女が重ねて安心させようと口を開く都度、憂いが増えていくのは何故だろう。
いつになっても慣れない。
さて、今回の喧嘩。
そもそも、事の発端は黒装束だ。
リィンに貴重さを見出し、わざわざ財力のある娼館の主を介して購入を図った。
事情が伏せられたまま彼女の存在を彼らの伝で知った娼館の主は、リィンを好ましく思って奴隷商から買い取ったらしい。
俺の横槍で契約が反故になったのは言わずもがな。
娼館の主は、がんらい幼児虐待の趣向があり、リィンを好適な人材として捉える、それを利しているのだろう。
彼は未だ、真実を知らず体信者を自らの衛兵と誤認しているようだ。
ルイド教徒の名義での購入は拙いので、他人を利用した遣り口。
恐らく彼らはエフネが明かした『一色の人間』を是が非でも手にしたい所存である。
俺の指名手配は娼館が主動で出しているので、娼館の主が取り下げるか、不祥事で死ぬかで破綻する。
作戦内容は極めて単純――地下に潜伏する体信者を逃がさず仕留める。且つ、リィンを購入せんとし俺を目の敵にした変態も成敗だ。
こちらは対集団戦力ならば破格のシルキーがいる。
相手が魔法という技を使うのなら、こちらは異能力で対抗するのみ。
俺はリィンの方を斜視した。
本来なら診療所に秘匿すべき身柄だが、彼女が提案した方法なら館の主が迅速に捕らえられる。
捷つ為なら致し方無しと了承した。
一応だが、俺が主人らしいので。
「リィン、本当に……良いんだな?」
「ええ。オレとしても効率的で良いので。それに……決着をつけ、晴れてご主人の従僕になれます」
それは別に不要だ。
寧ろ人件費で逼迫した俺の経済が退転する可能性が大きくなる。
頑固者な人柄と、導かれた先に育んだ奇妙な縁とあれば、今さら捨て置けない。
この甘さが後の大事を招かねば良いが。
リィンの意気は十分、危地に臨むに価する覚悟と、気負い過ぎない心構え。
戦闘面を覗き、どこか心強く感じる。
問題は――。
振り返った先。
背後では、ラッセリヒが踞っている。
剣を掻き抱き、その全身を震わせていた。兜の下から荒く乱れた呼吸が曇って聞こえる。
シルキーがその肩に触れると、彼の体が大きく跳ねた。
「怖い?」
「……嫌でも想起してしまう。我が剣の罪無き者を殺める絵図。手に貼り付く血糊と、斬った重み、膚に沁みる体温の名残りが」
ここに来てか。
深く根を残す傷跡は、簡単な理由で刺激を受けると、罪悪感という毒で本人の精神を冒し、恐怖の鎖で体を雁字搦めにする。
戦場に出陣する兵としては致命的な深傷だ。
その瑕に喘ぐ心では戦いなど危険すぎる。
「そっか」
シルキーの目が細められる。
その瞬間、路地裏の気温が下がった気がした。
能力は発動していない、なのに体の底から凍てつくモノを感じる。恐怖以上の何かが、この宵闇を支配していた。
潺湲と流れる水のような空気が息苦しい重みを帯びる。路地裏の隘路に蟠る闇さえもが質量を持って、ゆっくり迫る強さで胸を押し潰した。
ラッセリヒの冑を白い手が挟み込む。
そこに厚い金属を拉げさせる程の膂力は無い。されど、その奥にあるラッセリヒの頭蓋を言の葉に乗せるには難しい圧力が襲った。
正面から見えるシルキーの瞳。
俺からでは見えないが、ラッセリヒの呼吸が止まった。
「君の、その躊躇いが仲間を破滅させるよ。相手にするのはわたし達を害する敵」
「し、しかし、我々が正義とは限らない。善悪の無い戦争など――」
「戦場に善悪も無い。正義なんて所詮、自分の殺しを肯定する為の逃げ口だから。人の数だけ正義と悪が存在するの。
そんなものに一々構ってると気がおかしくなる。
ただ互いの信じる道が対立して、譲れないから戦が起こるんだよ」
俺は思わず唖然とする。
シルキーにしては理のある言葉で、残酷な事実といえど彼女の口からそれが説かれるなど想像だにしなかった。
ラッセリヒを酷烈に貫く理。冑の眉庇に秘められた瞳が、路地裏に凜然とたたずむ美に釘付けだった。
果たして、深傷を負う心には如何様に届いたのか。響きの色は彼を奮い立たせられるのか。
傍観者となってしまった俺とリィンも、固唾を呑んで見守る。
戦前に余計な心労だと思う邪念すら湧かない。俺達も視線が二人に縫い付けられていた。
暫しの逡巡。
ラッセリヒは、両手の上に横にして持った剣を見下ろす。
いつしか呼吸は穏やかな調子を刻んでいる。
「……私に、正義を棄てよと?」
「そんな物に拘泥するのは無駄だよ。……それでも、正義を掲げて戦いたいなら――」
シルキーの白い手がラッセリヒから剣を取り上げ、勝手に鞘から抜き放った。
抜き身の白い刃先を、再び彼の肩に乗せる。
意図を測りかねて呆然と見上げる冑の前で、シルキーは昂然と胸を張った。
「今日から、わたしが君の正義になる。戦う理由になる。君が剣を振って、わたしを守る事こそが至上の善」
「……私の、正義が……貴女を守ること……?」
「立て。――剣を執れ、わたしの為に」
ラッセリヒの微弱な震えが止まる。
俺にも、リィンにも判った。
シルキーの発した言葉に、不安に動悸していた胸が、漲る活力で異色の鼓動を刻み始める。
やがて、すっくと立ち上がってラッセリヒは恭しく敬礼した。
突然の変化に、だがシルキーは驚きもせず嫣然と微笑んでいる。俺は捲るめく変わる展開に顔が引き攣っていた。
「ならば、この剣を貴女に捧げます」
「うん、貰っておくよ」
返答が失礼なほど軽い。
人の忠信ほど軽んじて危ういものは無いが、その意味をシルキーは理解していない。
兎も角。
ラッセリヒの様子が吹っ切れたと見えた。覘いていた怯懦の影が失せている。
作戦の見直し予感させたが、片付いたようだ。
いつの間にか、路地裏の空気も弛緩している。
大分遅くなってしまった。
仕切り直しにも時間を使いたくない。
「それじゃあ、行こう。キース」
「はいよ」
よし、始めよう。
俺が先頭で路地裏から動いた。
娼館を囲う塀を伝って、正面玄関付近まで行く。塀の陰から玄関の様子を覗くと、門前に構える二人の衛兵。
後方に後ろ手で二本指――兵士の数――で示し、シルキーに報せる。
彼女は頷いてから、俺の肩を叩いて塀の陰から躍り出る。警戒の素振りすら見せず、悠揚とした歩みであった。
忽然と玄関に現れた美しき銀の貴影。
衛兵たちが身を固くし、当惑に互いの顔を見た。見目麗しい少女、腰に佩剣をしているが全く危険性を感じさせない。
路地裏の陰鬱な闇が澄んでいくような笑顔の持ち主は、そのまま衛兵の直近まで歩み寄る。
「こんばんは、二人ともお疲れ」
「お、お嬢さん、ここに何の用だい?」
「実はお金に困っていて、ここに来れば稼げるって聞いたんだけど」
無垢(嘘)なシルキーの瞳に、衛兵が諸手を横へ振って否定する。
彼女の肩を摑んで、後ろに退かせようとした。
「やめとけって!ここの主は変態だぞ!特にお嬢さんみたいな可愛い子を痛め付けるのが趣味な最低野郎だ!悪い事は言わねぇ、他を当たりな?」
どうやら、この衛兵。
自分達を雇用している人間の残虐性と性癖を把握している。
ならず者の街の風土とあって、身形は兵士と呼ぶには粗末だが、この外見だけ愛らしく、無知な体の少女シルキーを変態の館に招くのには気が引けていた。
必死に塀の外まで追いやろうとする。
シルキーは首を傾げ、うんと唸った。
不審に思わせない達者な演技力を披露した。
「そっかー、残念だなぁ」
シルキーを押していた二人。
それが塀の外まで出てきた瞬間に、俺とラッセリヒが飛び掛かる。
俺が一人を片手の斧頭で殴打する。悲鳴も上げられず、塀の壁面に打ち据えられて倒れた。
もう一人の鳩尾を、ラッセリヒの剣の柄頭が痛打する。
衛兵は急襲に対応しきれず、その場でか細い息を洩らして地面に頽れた。
颯爽と二人で玄関から隠れた場所に移動させて縛り上げる。縄は堅めに、武装は取り上げ、手が届かない位置に結び目を調整した。
警備を路地裏に放ってから戻る。
シルキーとリィンは館を見上げ、獰猛に目を眇めた。
「館の主は三階、だっけ?」
「そうだな」
「如何致しますか、我が主」
シルキーの傍に素早く跪く甲冑。
ラッセリヒの機敏な動きに驚かされるが、「我が主」という称呼でシルキーが調子に乗らないか心配である。
さて。
シルキーは案の定に上機嫌だった。
油断しないよう、俺がその頭を後ろから小突く。
諌める行為の積もりだったが、恨めしそうにラッセリヒから睨まれる。これは面倒な人間を作ってしまったかもしれない。
溜め息を一つ吐いた。
「ラッセリヒとリィンは館の主がいる三階へ。俺とシルキーで地下の連中を叩く」
「しかし、主の傍を離れるわけには……」
「相手が魔法を行使するとなれば、対抗するには『交換者』の異能力でないと難しい」
冑の庇の下で唸るラッセリヒ。
その胸甲を、シルキーの黒い手袋をした手が軽く叩いた。
視線を向けた彼に、シルキーの凜とした笑みが向けられる。
「頼んだよ」
「……御意!!」
それを横目に。
隣に立っていたリィンが、俺の手を強く握った。指先には微かな震えが兆している。
顔を見ると、不安に金の双眸が潤んでいた。
「必ず、生きて戻って下さい」
「お前もな」
リィンの手を解いて、敷地内に忍び込む。
玄関を開けると、左右に伸びていく廊下――左手には上り階段、右手に地下への傾斜路。
見取り図通りの構造。
情報の真偽について憂慮は要らないようだ。
そして。
俺たちは互いに見合ってから、二手に分かれて走り出した。
傾斜路を駆け下りる。
地下の暗がりが行く手に待ち構えていた。
その中には、当然あの体信者が潜在している。
もう弱音を吐く時間もない。再度、気を引き締めて斧を手に取った。
前を見据えようとして、妙な視線を横から感じる。シルキーがやや批難するように睨んでいた。
「何だよ」
「リィンと仲良しだな、って」
「大事な従者だからな」
それを言うと、なおさら不機嫌な面。
戦闘前に変なことはやめて欲しい。
「じゃあ。キースにとって、わたしは?」
不吉な問が浴びせられた。
俺とリィンが仲良くする事に不都合があるという態度。自分の遊び相手が盗られる些細な理不尽を呪っての紛糾なのか。
返答次第では。
後日も面倒な絡みを受けると予想される。
「俺にとって、シルキーは……」
言葉を慎重に選んで。
俺は並走する幼馴染に最善の言葉を告げる。
「大事な家族だ」
沈黙。
傾斜路の終端、ほの暗い通路に辿り着いた。
敵の警戒を行いつつ、俺は隣を見る。
すると、そこではシルキーが笑顔で口許に両手の指を交差させていた。
どうやら機嫌は直ったらしい。
さて、集中しよう。心置きなく、落ち着いて戦う気持ちを作る。
そんな集中力を打ち崩すように、シルキーは俺の前に小さく飛び移った。
俺は何事かと顔を見遣る。
先ほどと同じ姿勢のままだ。敵の位置を示す信号か、これ以上進むなという注進……?
勘繰る俺に、シルキーが囁いた。
「不正解。恋人、でした」
それも不正解。
次回へ続く。