ラッセリヒの悔恨
朝の食卓に奇観が広がっていた。
俺の隣にはリィンとガレンさんがいる。
そして、対面にて陽気に食事を摂るシルキーは、昨夜から泊まっているユーナに食事のマナーについて注意されている。
ユーナと卓を囲うのは、確かに日常にない光景だろう。
だが、異常の最大点は一つだ。
それは、シルキーの左手に座を占める男。
食事中さえも甲冑を外さず、庇の中に匙を突っ込んで啜っている。外観及び立場がどれも異物感を放って止まない。
それでもガレンさんが容認しているのなら、俺が口出ししたところで見苦しいだけだ。
昨晩はシルキーの申請で夜食を提供したが、それ以上は互いに不問で、踏み入る行為もしなかったので初対面に等しい。
薄汚れた鎧兜。
長身に、鎧の下でも分かる発達した筋骨。明らかに鍛え抜かれた肉体がそこにあった。
シルキーがこちらを見ていた。
俺が視線を合わせると、幸せそうに顔を綻ばせる。擽ったいというか、居心地悪くなるのでやめて欲しい。
隣の甲冑に注目していてが、彼女は俺の目が自分に向いていると勘違いしていた。
「キース、そんなにわたしが気になる?」
「隣の甲冑について説明しろ」
「嫉妬かい?」
意思の疎通が不可能だとわかった。
俺は本人に直截問うことにする。
甲冑は俺たちに目もくれず、スープにありついていた。怪我の影響で手元は震えているが、食事の所作はどこか気品がある。
飯屋で働いていることもあり、ならず者たちの食事の仕方も見てきた。この騎士は普段から見る奴等とは異なり丁寧である。
自分とは階級差のある人間を前にした気分だ。
「アンタ、何者なんだ?」
甲冑が手を止める。
ゆっくりと匙を皿の縁に置いた。不調を訴えるのは、匙を握る左手。おそらく利き手なのだろう。
彼を連れ立ったシルキーに深遠な理由は無いにせよ、ならず者の街にて甲冑姿で歩く姿には並々ならぬ事情が窺える。
冑が食卓を囲う全員の顔へと視線を巡らせた。
「私はラッセリヒ・ルナ・クーズリム。元シーズフリード騎士団三番隊分隊長だ」
その肩書きに。
ガレンさんが水を飲む手を止める。
ユーナが目を見開く。
俺は思わず驚いて肩が跳ねた。
そして、シルキーは変わらず食事を続けている。既知事項ではなく、話が耳に入っていない顔だった。
甲冑姿の騎士ラッセリヒは震える左手を卓上で握り締めた。
シーズフリードは国家転覆が起きた国。
昨日では、その国境を侵攻する兵力を募っていた。
堅固な大国の崩壊に付け入る隙とあって参加する兵数も規模も尋常ではない。大きな戦端が開かれる。
当然、そこに『交換者』が何名か混じっているので好機と断じて、俺も参加する心積もりであった。
開戦はまだ先だが、それでも敵国の元騎士が眼前に居るとなれば気まずい。彼の愛する国を侵犯する人間と食事を共にしているのだ。
この居間が修羅場になる。
隣では、リィンが袖口からナイフを取り出し、机の下で器用に持ち変えていた。
昨晩から別人とさえ思えるほど雰囲気が変わっていた。
そのナイフの扱い、鮮やかな捌きが、拷問で遺憾なく発揮されたのだろうか。
ガレンさんがコップを卓上に置く。
眼鏡の鼻をくい、と指で小さく持ち上げてからラッセリヒに目を細くさせる。
「三番隊分隊長……『血平線のラグ』の部下か」
「地平線のラグ?」
「シーズフリード騎士団は十二の部隊で構成されるが、末端に至るまでどいつもこいつも化け物じみた手練れだ。その中で、一騎で敵兵百以上を血の海に沈めた怪物ラグ、それが三番隊の長」
呑気なシルキーの疑問に、ガレンさんが懇切丁寧に回答する。
ラッセリヒが重々しく首肯した。
籠手に保護された左手は、先程から神経を毒に冒されたような震え方。彼の振動に合わせ、机上にある食器なども音を立てて揺れる。
俺は机の下にて、片手でリィンのナイフを持つ手元を握った。
こちらを見た彼女に、武装の解除を目で促す。
ラッセリヒに顔の正面を戻すと、そのまま袖の中に素早くナイフを仕舞った。
「ふーん。そうなんだ」
「そうなんだ、って。おまえ、知らなかったのか」
「うん」
あっけらかんと答える。
シルキーは馴れ馴れしくラッセリヒの肩を叩きながら笑っていた。
「昨日は病室で錯乱状態だったから、一度失神させて眠らせたんだ。直ぐ起きて来たけど、空腹で苦しんでいたからキースにご飯を頼んだんだよ」
「それは昨日の内に聞きたかった。多少なりとも警戒しろ。俺が不安になる」
「……了解、次から気を付けるね」
やはりか。
卑怯と謗られるかもしれないが、俺が身を案じていると露骨でも言葉で表すと、シルキーは真面目に受け止める。
シルキーがまた幸福に充ち満ちた笑顔を食卓に咲かせた。
ガレンさんにはその遣り取りが滑稽に思えたのか、鼻で笑って水を飲み干す。
ラッセリヒが首を横に巡らせる。
前面が錐形に尖った冑が、ユーナの方を正面に据えた。庇の奥から光る眼差しが、彼女の容姿を眺める。
俺の背筋に冷や汗が流れた。
シーズフリード皇国と聞いて、まだ危険視すべき点は他にもあることを失念していた。
かの国は大陸でもリシテの民の迫害に対する注力の具合が違う。徹底的に排除し、処刑を行っているとの風聞だ。
遠縁といえど、容貌ならば立派なリシテの血を体現するユーナは、ラッセリヒには怨敵にすら母国に禍根のある憎き一族として映る。
「そこな娘。君はリシテの民か」
「と、遠い親戚がリシテの民とあって、別に私は……」
「貴様らの所為で、いま我がシーズフリードがどれ程苦しんでいるのか、それを知らぬ口か」
ユーナの喉から、ひゅっと音が洩れる。
顔面蒼白となって、苦しげに襟を強く握った。瞳は恐怖で揺れ、甲冑を震えながら見上げる。
ラッセリヒの気配が変わった。
明らかな殺意と怒気が居間の空気を圧倒していく。外では日が雲に隠れ、室内を仄かに暗くさせる。
ラッセリヒの剣幕に圧され、ユーナの眦に薄く涙が溜まる。
「罪深い、業の深い獣の一族め」
「わ、私は……違う、違うの……」
「惚けるな。性根は皆同じだ。また『ガンダヒュンデ巡礼』と宣い、無辜の民を虐げる積もりか!そうはさせんぞ!貴様らに受けた報いを、私は必ずや――」
「うるさいよ」
世界の凍る音がした。
室内の温度が急激に下がり、足下から底冷えする冷気が居間の中を這いずる。さしものガレンさんも顔色を変えた。
シルキーの灰蒼の双眸が、甲冑を睨め上げる。手にしたフォークを、既にラッセリヒの首に突きつけていた。先端は正確に鎖帷子の無い部分を狙う。
ラッセリヒが口を止めた。
文字通り凍り付きそうな食卓で、発言するのはシルキーのみ。
「ユーナは違う。――わかった?」
有無を言わさぬ圧力。
ここで否と応えれば、その命は氷の中に封じ込められ、シルキーの掌の上となる。ラッセリヒの生死は、眼前に彼女が裁量する物になっていた。
冑が数度揺らぎ、その後に一礼する。
「済まない、醜い心の内をお見せしてしまった。どうか我が愚挙を許して欲しい」
卒然と変化した態度に、ユーナが固まる。
発散される冷気が止まり、室内の気温が平常時に戻った。何枚も重ねられた戸板が迫るような圧力を醸していたシルキーの雰囲気も和らいだ。
弛緩する空気に、ユーナは慌てて首を横に振る。
「い、いえ。よくある、事ですから!」
我知らず俺は胸を撫で下ろした。
愕然とするユーナの傍で、食事を終えたガレンさんが食器を流し場に持って行く。リィンが俺の分も持って続いた。
奴隷の少女、暗殺者教団からの刺客、シーズフリードの兵士。個性の色濃い面子が集結している。
そういえば、黒玉が見当たらないが。
俺は頭の隅に引っかかる黒玉の所在から目を逸らし、眼前でスープを再び啜るラッセリヒに問いかける。
「それで、シーズフリードの兵士が辺境で何をしていたんだ?」
ラッセリヒが押し黙った。
シーズフリードから離れた辺境、それも治安の悪いことで有名な街に、どんな用件があって訪れるのか。
恐らく、彼本人の最大の要点に抵触する質問だった。
ラッセリヒは、隣で満腹になって眠気に舟を漕ぐシルキーを見遣る。
「現在、シーズフリードを支配する白夜卿。彼は宰相として長く国を支えていた。誰もが認める人格者として慕われていた」
白夜卿――。
数十年前からシーズフリードで摂政として権威を揮い、そして二世代に及ぶ皇帝を傍で支えた忠臣である。
その名は国外でも公然と広く知れ渡っており、他の追随を許さぬ明晰な頭脳と機転、相手の癖や所作から心の底まで見透かす慧眼で数多の政敵を返り討ちにした。
自他共に認められる賢人、それが十四年前に病に倒れて死んだ。葬儀は三日に亘って行われ、皆がシーズフリードの先行きを案じた節目でもある。
彼の死は国の平和を少なからず揺らがせた。
そして月日が流れ、二年前の事である。
皇帝の崩御と入れ代わるように、白夜卿を名乗る人物が現れ、再び中枢で活躍し出した。最初は嫌疑と当惑に満ちた国政は、しかし過去の彼を彷彿とさせる振る舞いに信頼を寄せていく。
やがて、皇帝亡き国を支える最有力者となった。
そんな折である。
皇帝の子息が殺害され、白夜卿率いる兵団に中枢政権が乗っ取られた。
これが最近の国家転覆。
シーズフリードは、いま白夜卿の支配下にある。
変貌した白夜卿に不安の声を上げ、国中が混乱に陥った。
当然、武装蜂起を促した勢力も発生する。騎士団は白夜卿が得た情報を恃みに、危険だと判断された地域の制圧へと向かった。
ラッセリヒもその部隊に所属していた。
国家転覆の衝撃に震撼する国中の不安を平定する為の走狗として、たとえ疑い深き白夜卿にも今は従う所存で挑んだ。
ところが――情報は誤りだった。
相手は戦意すらない無辜の民だった。武装蜂起を促す連中に戦いを強要され、やむを得ず武器を持っただけの一般市民。
ラッセリヒは無害な人民を斬り斃した。
既に一人目を殺める前から微かな疑問を抱いており、実際に剣を交わしてから確信に変わった。
周囲にも、その事実に感付いた者が多数いた。
だが、彼らは何かに駆られたように無差別な殺戮を開始する。
武装していない女や子供も標的とし、騎士団らしからぬ槍で相手の首級を掲げる猟奇的な行為まで見受けられた。
彼らを攻めようとして――ラッセリヒは、己もまた罪無き人を斬った愚者だと悟る。
「それ以来、私は国を離れ……剣が握れなくなった」
居間が静寂で包まれる。
彼の左手、利き手、または……剣を握る手が震える理由は、その所為なのか。強烈な罪悪感によって心的傷害を受け、剣を執ることを身体が強く拒絶する。
それは、匙やたとえ関係の無い物を握ることでさえも身体が発作を起こすほど重篤な症状なのだ。
ガレンさんは、眉を顰めて甲冑を見詰めた。
「昨晩は暗殺者教団が居ると知って我を忘れてしまった。シルキー殿には感謝している」
「ん、いいよ」
シルキーは顔を向けずに答える。
その素っ気ない反応に叱声を飛ばしかけて、キースは口を噤んだ。
ラッセリヒは震える左手の手首を摑んだ。それでも震えは止まず、余計に激しくなった。
「私がここに居るのは……国を取り戻す為に戦いたい一心で、戦士を募集するこの街に来た。だが、私の剣は誰かに捧げなければ戦う意義すら持てない脆弱な刃だ」
「……仕えるべき主君がいなければ戦えないと」
ラッセリヒは頷いた。
しかし、今の彼には誰かに剣を預ける事すら恐怖なのだろう。何故なら、信じた白夜卿によって裏切られ、更には心に癒えない傷を負わされるほどの仕打ちを受けたのだ。
人間不信になっても仕方がない。
そんな彼を横目に、シルキーは席を立った。
さすがに薄情だと思って制止しようとすると、彼女は俺の背後に回って兎頭の上に自分の顎を乗せてきた。
「ねえ、キース」
「何だよ」
「今度参加するやつの戦果ってさ、どういう配当になるのかな?」
急に何の話だ。
訝る俺に、回答を催促してくる。
ラッセリヒで沈痛な雰囲気になっている居間には、非常に場違いだと弁えながらも、渋々とシルキーに答えた。
「個人参加だと報酬が殆ど無いって食堂で傭兵が話してたから、俺とシルキーの二人組で申請する積もりだぞ。数が増えるほど、配当が多くなるって話だし」
「ふんふん、そっか。――よし!」
シルキーが掌に拳を打ち付ける。
彼女に全員の視線が募る。俺としては頭上にいるので見えない。
「ここに居る全員で、兵団を作ってしまおう!」
「「「「………………は?」」」」
全員の声が重なった。
呆れと戸惑いしかない声色である。
それでもシルキーは意に介さず続けた。
「闇医者さんは医師兼基地の管理」
「人の家を勝手に兵団の基地にすんな」
「ユーナは炊事係」
「えっ、わ、私やっぱり入ってるんだ!?」
「リィンは……事務兼尋問官」
「ご主人以外の指図は受けない」
「わたしが団長で、キースは副団長ね」
「わーい、凄ーい」
全然喜べない。
そして、シルキーはラッセリヒを指差す。
「騎士さんはわたしの近衛?」
「なっ!?わ、私は剣が振れないのに、どうして近衛が務まる!?」
「剣なんて握らなくて良いよ。わたしを守る盾になって欲しい。体格は良いし、耐久そうだし。大盾なんて装備したら、絶対に強そう」
「な、何故……」
呆然とするラッセリヒ。
当然だ、こんな飛躍したシルキーの話に何者も付いて行けていない。実質、俺は既に諦念で物事を淡々と見ているだけだ。
端から理解することは止めている。
嫌そうなガレンさん、当惑のユーナ、凶相になっているリィン。
彼らに見守られる中、シルキーが俺から離れ、ラッセリヒに手を差し出した。
「ここで会ったのも何かの縁だし、シーフード国を取り戻す為にわたし達で戦おう。白夜卿を討ち取って」
「シーズフリード皇国、な」
シーフード国って何だ。
あの国は海に面していないから海産物が有名だなんて話も全く無いぞ。
「今回の戦争でシーズフリード?を攻めて行けば、必然的に白夜卿を倒す流れになる。わたしとキースも、ある目的で傭兵をやっているからね。戦ってく内に組織として大きくなれば手の届く範囲も広がって達成に近付くし、君も国を守れる。
一石二鳥じゃないかい?」
シルキーの提案。
従来の『交換者』の捜索から人間への回帰の手段を調査するには、やはり戦に臨むしかない。彼等は戦場にしかいないからだ。
しかし、俺達二人では手の届く範囲も限られ、二つの視点だけでは視野狭窄に陥りやすい。
その打開策として、組織として成立し、多方面から情報を収集。これによって目的までの捷径を見付けやすくなる体制が完成する。
その中で。
シルキー達が戦に積極的に参加すると、戦場は現在の情勢からしてもシーズフリードに偏る。その大体が、白夜卿を討ち取って国土を略奪するまでにある。
そこで、ラッセリヒの目的となるシーズフリード奪還への道も切り開かれる……?
シーズフリードの被害が甚大な気がするが、ラッセリヒに悪くはない話かもしれない。
尤も、創設の際の構成員として挙げられた面子が誰も賛成すると言っていないけれど。
それに――。
「リィンを狙う暗殺者教団の事があるぞ」
「そ。だから、先ずは復讐も兼ねて、兵団初の仕事だよ皆」
巻き込まれた全員が、細やかな拒否の意を顔に示す。
だが、先ほどの威圧的な強制ではなく、誰もが彼女には意見する事を諦めた空気だった。
「だが、奴等の所在は――」
「ご主人。奴等は街の西の区画、その娼館に潜伏しているようです。街で最有力者とされる奴隷商カフスが協力しております。暗殺者教団の残る勢力は三名だそうです」
「……まさか」
「吐かせました」
心做しか誇らしげなリィンの顔。
あの狂信者に教義を捨ててまで情報を吐露させるなど、余程の手練が無ければ不可能だ。つまり、この自慢気な彼女は裏で途轍もなく非道な行為を働いて成果を上げたと暗に語っている。
しかし、そうさせたのは俺なのだ。
責める道理も無ければ、寧ろ評価すべき功。
「……あー、リィンが聞き出してくれた情報を元に、奴等を叩きのめす積もりなんだが」
「わたしとキース、あとラッセリヒで行こう。闇医者さんはリィンの護衛ね?」
「帰ったらテメェだけ飯が無ぇと思え」
ガレンさんの言葉にシルキーは頷く。
恐らく、彼の目を盗んで俺に作らせれば解決だと強かに考えているのだろう。
俺は軽くシルキーの後頭部を叩いた。
撫でられたと勘違いして微笑むだけだった。
ラッセリヒは自失していたのか、我に返って頭を抱える。
国を取り戻す、その目的には添う。
しかし、実力も未知数な少女と少年を基幹とした兵団で、どうやってシーズフリード奪還までの道が切り開けるのだろうか。
彼の不安は正しい。
そこへ、シルキーが再び手を差し出す。
「さ、行くよ。先ずはお手並み拝見だね」
それでも。
ラッセリヒは自然とその手を取っていた。
思考とは違う、別の部分が彼女に従いて行くべきだと判断したのだ。
立ち上がったラッセリヒを隣に、シルキーは俺の方へと振り向く。
「キース、行こうか。兵団初の戦だよ」
「戦というか小競り合いだけどな。……因みに、兵団の名前って?」
シルキーは渾身の命名だと語る笑みで。
その名を繰り出した。
「――『ディアブロ兵団』!」
それは。
彼女自身の名に縁ある地方で、『悪魔』を意味する名だった。
それが大きな運命の歯車を動かす呪文となっていた。
次回へ続く。