リィンの拷問師
事態の大きな推進(次回)。
ご主人が深い呼気を口から溢す。
器具を盆に置いて、体を揺らした。今にも倒れそうな危うさがある。
椅子に縛られた黒装束――『体信者』は、右の五指の爪を剥がされ、あまつさえ第二関節まで断たれる苦痛を味わいながらも口を割らない。
いや、正確には質問に応えない。
発狂じみた暴れ様で、独り言を捲し立てる。
その内容は要領を得ず、質疑応答すら成していなかった。
その所為で、ご主人の精神ばかりが無為な辛苦ばかりを受けて疲弊する一方である。
オレはご主人の肩を叩いた。
異形の頭部がこちらを見遣って傾けられる。
自分の手元にあった手拭いで彼の顔を拭う。水を含ませた物に替えて、拷問で指先を濡らす血などを丁寧に清める。
ご主人の訝る視線を無視した。
その眼には平時の怜俐さが無い。
これ以上の作業は危険だと判断し、オレは背中を押して退室を促す。
「ご主人、後はオレにお任せを」
「いや、危険人物だからお前一人を残しては……」
「心配ありません。予め踵の腱と、剣を握れぬよう量の親指の筋を切りました」
オレの済ませていた準備に驚いた顔をする。
監禁室で拷問を始めるより先に、黒装束の身動きを完全に封じるべく下処理をした。闇医者に同伴を頼んだのは一応の護身。
何せ、大陸中に悪名を轟かせるヒルド教。
僅かな隙を衝いて拘束を破り、牙を剥いてくるだろう。
余念の無い行動がどれだけ危地を免れるかは、普段のご主人の心構えから学んでいる。
「リィン、お前は平気なのか?」
「はい。ですので、オレが継続して尋問を再開します。後で部屋に報告しますから」
ご主人が閉口する。
言葉を探して沈黙した彼は、しかし諦めて深い溜め息を吐くと、オレの両肩に手を置いた。
「……わかった、頼む。だが、お前も無理だけはするな」
気遣いの言葉。
不意に受けて、驚くと共に胸がきゅっと締め付けられた。
初めての感覚だ。
不思議な苦しさに胸元に伸びかけた自分の手を意思の力で押さえ付ける。
ご主人が蹌々と退室した。
オレはそれを見送り、改めて黒装束に対する。
やはり。
彼は甘過ぎる。オレを救ったように、徹底して人を痛め付ける行為に抵抗感を覚えてしまう質なのだ。
強い精神力で自分の弱さを組伏せているが、中身はやはり真っ当で優しい人間だ。
オレが支えてやらないと。
あの狡猾さが、不安定さが、オレの視線を奪って放さない。ずっと目を惹き付けられてしまう。
自覚すると少し、いやかなり顔が熱くなる。
全く、変なご主人様だ。
さて。
オレの為に、彼の為に、こいつから情報を搾取せねばならない。狂気の奔流から、一つずつ必要な物を掬い取る。
困難な作業だが、相手も所詮は人間だ。
オレが奴隷として生活し、感じてきた人生の中から人が最も憎み、嫌い、厭う痛みと言葉を総活用して吐かせる。
オレは鑢を取り出す。
黒装束の手背(註、手の甲)に油を垂らした。
その行為の意図を推し量る黒装束の視線に一瞥を寄越してから、燧を切ってそこに点火した。
発火によって皮膚が焦げる。
焦熱の発生で、一瞬だけ黒装束の足が浮いた。当然だ、痛覚の無い魚でも無い限りは体が反応するだろう。
急いで、オレは沈下する。
被害規模は、手背のみに収まった。
さあ――ここからだ。
オレは真新しい火傷に、鑢を押し当てる。
黒装束に顔を近付けた。
「訊こう。アンタの雇い主は何処にいる?オレを買った理由は?ヒルド教は何を企んでる?」
「ふはひひっ!我らの崇高なる任務を、賤しき奴隷風情に語るなどヒルド教の信徒は柔では――」
手元を動かした。
焼き上がって剥き出しになった部分を、鑢が仮借ない摩擦で削った。細かく粗く、肉の繊維が虐められる。
黒装束の口から声にならない苦鳴が上がる。膝が左右に踊り、残った左手の指先が痙攣した。脳が拒絶反応すら示す激痛の炸裂だ。
黒装束は、先刻までと表情を一変させる。
「……余計な事は喋んな。オレは人の嫌がる事ってのを知り尽くしてるからな」
「ひぎっ……ぎっ……ぎぐぅぃ……!」
「オレの言葉がお前を救う。ヒルドじゃなく、オレの質問に正確に応答してこそ、お前の生が認められる」
「な、な、な、ななななな……!」
「ここではオレが神だ。吐けよ、全部」
鑢が再始動。
監禁室に苦しみの血臭が充満した。
俺は監禁室を出てから自室に直行した。情けない事に、覚悟を決めても精神的疲労は凄まじい。
初めて人を徒に虐げる意図を実行した。
平時の無駄のない思考であっても、いざ現場に立てば躊躇うほどに人道を外れた行為だ。本来の俺ならば忌諱していた。
望まない事がこんなに苦しいなんて。
シルキーの為と弁えていても心に堪える。
寝台に腰かけた。
報告は明日にする積もりで、先ず情報の整理を始める。
冷静さを欠けば、誰があの自由奔放なシルキーを御せるだろうか。彼女の生態を知悉した俺以外には務まらない。
結果、黒装束は何も語らなかった。
雇い主及び使嗾した本部の所在について。
魔力と『黒いお化け』、『交換者』の謎。
ただ狂乱に身を震わせ、自身の体の負荷すら気にせず暴れた。落命すら有りうる暴挙に唖然とさせられる。
どんな神が、信義が、アイツを怪物にまで仕立てあげるのか。
恐慌の硬直で動けぬ俺を見かね、リィンが素早く麻酔を射ったお蔭で事なきを得た。俺よりも尋問に得意なのかもしれない、存外肝が据わっている。
その後の処理もリィンが担当した。
俺には心労が重いと慮って、彼女が自任を申し出たのである。それに甘んじて、先に部屋で休憩を摂っている。
疑問は山積み、問題は増えてしまった。
敵の全容が見えなければ、まず明日の安全の確証すら得られない。『交換者』云々の謎よりも、リィンや俺たちを害する連中の排除が先決だ。
俺はそのまま寝台に倒れる。
指先に疼くのは、黒装束の指を切ったときの感触だ。首を伐ったときとは、まるで違う。
甚だ不快な手応えだ。
瞼が引き攣って、眠る事さえままならない。
我ながら満身創痍であった。
「キース、入るね」
数回の叩扉の後、ユーナの声がした。
扉が開けられ、間隙からコップを持った彼女が室内に滑り込む。その所作は気品があって、シルキーに見倣って欲しいところだ。
寝台の傍まで来ると、仰臥する俺の隣に腰を下ろす。
「お疲れ様、大変だったよね」
「いや。それよりも、変な依頼をして済まん」
「別に良いよ。困った時はお互い様だよ」
ここまできても優しかった。
尋問の一端にさえ付き合わせられたのにも拘わらず責めたりしない。
そして尋問を実行しながら後悔と罪悪感に打ち拉がれている情けない俺を蔑まない。慈しむ眼差しは不快どころか依存を誘う甘い効果があった。
人ではない俺に、こうも尽くしてくれる。
シルキーといい、周囲は俺を許容してくれる人間ばかりだ。
環境と縁に恵まれたと、つくづく痛感させられる。
「後でシルキーに報告しないとな」
「明日にしよう。今日は早く休んだ方が良いよ」
「でも顔が疲れてる」
ユーナの手が額の上に乗せられる。
強引に押さえ付ける力はないが、不思議と俺の体は寝台から起き上がらない。気力そのものを失っていた。
ユーナが微笑む。
それだけで見慣れた天井が幻想的な彩りを得た。どうしようもない安堵と懈さが体を重くする。
いよいよ本格的に体が動かなくなった。
「顔、カオ……ね」
俺は自分の顔を手で覆った。
人間への回帰を望んでいたが、今は求めていた元の顔すら思い出せない惨状である。
これではいつか、目的すら見失うのではないかという不安が心底から擡頭していた。
俺が俺で在る為には、自我を強く保たなければ。そうでなければ、こんな不条理を覆せないのだから。
シルキーは俺が守らなくちゃいけない。
リィンは俺が庇わなくちゃいけない。
顔を思い出せば戻れるのか。
それとも、手段の完遂を経て戻るのか。
ヒルド教が鍵になると考えたが、それは速了に過ぎなかった。尋常な対話が不可能な相手に、問答の余地などない。
その分、ユーナと話している今は気が軽くなった。
「そういえば、ユーナも奇妙な事言うよな」
「えっ、可怪しいこと?」
「俺はウサギなのに、何で表情なんて判るんだか」
ユーナは、いつもそうだ。
店働きを志願する際、厳格な店長に素顔を匿す人間を側には置けないと言及され、やむをえずに頭巾を取った。その現場には、彼女も同席していた。
俺の兎頭に愕然とする店長の隣で、ユーナは驚きすらしなかったのだ。取り乱す店長に、俺の就職に問題ないと助太刀してくれたのも彼女である。
普段から俺を珍妙な物のように見たり扱ったりしない。
不思議で、それがユーナの魅力でもある。
俺の言葉に、ユーナは小首を傾げた。
まるで、然るべき常識を疑われ困ったように。
「ウサギって、何?」
「はっ――――?」
ユーナの言葉に、次は俺が当惑させられる。
思わず上体を起こし、体の正面を向けた。コップを手渡される。中には温かい牛乳が水面から湯気を立てていた。
落ち着く為に一口啜った。
舌先に触れた熱は、まだ口にするには早かったが、体内に入れば満腔を綏撫する熱気が広がる。今欲している物に充たされた気分になった。
さて、考察しよう。
ユーナの言葉の含意は何だ。
その『ウサギ』という生物名に対する無知ではない。会話に出てくる事自体を疑うような、否、『ウサギと俺』の関連性についての疑念を感じさせる。
俺の素顔を見た者とは明らかに一線を画する異質さ。
前例にない異常な反応だった。
「いや、俺は長い獣の耳あるし、顔面そのものがウサギだし……」
「え、何を言ってるの?」
ユーナは困り気味な笑顔で応える。
それは、彼女の性根から疑いたくなる言葉だった。
そもそも俺の耳を、正気を疑う言葉だった。
「キースは普通の人間だよ。赤い髪の、私と歳の変わらない、普通の男の子でしょ」
「――――――え?」
まるで、俺の『本当の顔』が視えている。
そんな、口振りだった。
数瞬の沈黙。
俺はその意味を問おうと口を開いて。
「キース!」
騒々しく開け放たれる扉の音と、聞きなれた声に遮られた。
ユーナから視線を外してそちらを見た。
シルキーが笑顔で胸を張り、俺を真っ直ぐ見据えている。切迫した表情ではないので、緊急事態ではないのだ。
それでも何事かまでは読めない。
突き放されたのに、俺の前に笑顔で戻ってこられるとは。
だが、それを見て安心してしまった。やはりシルキーに甘いのかもしれない。
「どうした?」
「お腹が空いた」
下らない――が、一笑に付す気力もない。
俺は立ち上がって扉の方に歩く。リィンが尋問に充てられている今、確かに俺しかいない。
「了解。何が良いんだ?」
「何でも良いよ。それを二人前で」
「は?二人前って、そんなに食う――」
シルキーの直近まで寄って気付いた。
彼女の背後にもう一人いた、重甲冑を着込んだ奇態な風貌である。
誰だ、こいつ。
探るような俺に対して、重甲冑が軽く一礼する。
「恩に着る」
図々しいな、コイツ。
次回へ続く。