リィンの仮契約
よいお年を。
夜が明けて間も無い頃。
早起きのカラスが喧しい。
忙しない羽音と険のある鳴き声だった。
俺は目を覚まして起き上がる。
寝台の横の窓から見るが、カラス達は診療所の塀に集って騒いでいた。
日頃から餌を与えている訳でもなければ、漁る生活排出物も放置していない。ここに集合するのは不自然だ。
バタバタとカラスが舞い降りるのは、塀の外側である。
数が多いので偶然そこへ羽休めに来たのではないと判る。そこに彼等を惹き付ける物があるのだ。この位置からでは塀が遮蔽していて見えない。
朝から元気な奴らだ。
寝台から降りて、箒を片手に持つ。
診療所の表玄関から出て、騒がしい路地の方へと回り込む。
早くしないと、ガレンさんだと追っ払い方が針の投擲なので、痛いでは済まない。悲惨なカラスの姿を見るのはもう後免だ。
俺の元いた山では鷹やフクロウなどの天敵がいたので、カラスは寄り付きもしない。街暮らしならではの悩みということか。
路地の方に着いた。
驚かそうと、角から勢いよく躍り出た。
それでも、彼らは動じず何かを嘴爪で攻撃している。かなり興奮した様子だった。
背後から接近して覗き見る。
そこに金髪の少女――昨夕に助けた奴隷の少女が倒れていた。貸した俺の下着姿のままである。
痣以外に新しい傷ができていた。
「散れ、こらっ!」
箒で戦う。
半ば幼い子供じみた乱暴さで蹴散らすが、妙に執念深くカラスが舞い戻って来て、嘴で突ついてくる。
塵埃で汚れた鳥獣との格闘は数分続き、掃討したときには俺の着衣も随分な有り様になっていた。夥しい羽が散乱し、中央には人が倒れるといった、いささか物々しい現場の跡地と化す。
俺は肩に乗る羽を払い落とし、少女の傍らに膝を突いた。
腕に抱えて仰向けにする。彼女は眠っており、傷の痛みで呻くだけだった。
診療所から逃げ出そうとしたのかもしれない。
その途中で力尽きたのは想像に難くない。
仕方なく頬を叩いて意識の回復を試みた。
幾度めかで、うっすらと瞼が開く。金の睫毛の下から、同じく金色をした瞳でこちらを見上げた。
視線に警戒や怯えは見受けられない。
抱き上げようと膝に手を回そうとして、弱々しく腕で突き放される。
「診療所に戻るぞ」
「オレを……懐柔したって、意味無いぞ」
嗄れた声で少女が囁く。
意図のわからない言葉に、俺はただ顔を顰めるしかなかった。
「おまえを懐柔して、俺にどんな利得がある?」
「どうせ、奴隷だ……用途なんて、判るだろ」
それは嫌というほどに。
山村から出て二年、新鮮な刺激に満ちた外界の様相は、何もすべて快い物ではなかった。
奴隷として人を使役することもない環境で育った俺は、人間を隷属させて労働を強いる文化の存在は聞き及んでいたものの、実際に目にすると惨たらしい物に思える。
極力、それに依存しない生活をしたい。
そう切に願った。
それでも、どうしようもないほど、この世は奴隷の力で効率よく循環している部分がある。現実はただ残酷で、俺が否定して廃止できるほど甘くはない。
こうして奴隷だった少女を前にすると。
なるほど、認識からして根本から齟齬がある。
俺は奴隷を入手したところで、彼女の存在を道具然に使用することなど想像だにしなかった。
少女は、奴隷として過ごした経験則に従って、俺が何らかの底意を以て自分を救ったと合理的に自身の現状を捉えている。
俺は相手に納得させるよう、ゆっくり横に首を振った。
「正規の手段で購入していないから俺の所有物でもないし、おまえに命令なんざ出来ない」
「なら、自己満足かよ……偽善だろ。助けて悦に浸りたかっただけなんだろ!」
少女は直近にあった石を拾って擲つ。
それを躱しながら、その両手首を摑んで押さえた。
よく観察すれば判る。
彼女は俺の一挙手一投足に注視した。攻撃する素振りがあれば、直ぐに防御に入るなり、或いは逃げる積もりで気を配っている。
見たことがある、怯えたリスに似ていた。
「おまえを救出したのは偶然」
「嘘だ、じゃあ何で……!?」
「成り行きで悦に浸る暇も無かったし、そもそも俺は人命救助を率先して行える殊勝な人間じゃない」
「……人間、じゃないだろ」
「今そこを突くのかよ」
今さらといえば、今さらだ。
兎頭の人間なんて、十中八九見たことある人間なんていない。同類がいるなら、寧ろ出会ってみたい。
彼女は俺の顔を見て怪訝な表情になる。
そういった視線を受けると、耳介を失った方の傷口が疼く。痒みにすら似た疼痛が嫌いだった。
せめて奇異の眼差しよりも、可愛いと言われた方が気休めになる。……求めてないが。
「ちょっとした奇病だ。安心しろ、感染拡大はしない」
「本当に、人間なのかよ」
「どうだろうな」
「オレを食う積もりじゃないのか?」
「いよいよ想像が化け物じみてきたな」
「化け物だろ」
「……ご尤もな意見」
痛み入る言葉であった。
直截な言い方をされた事がなかったので、俺としては有り難い。
傭兵として仕事するときは常に頭巾で顔を隠しているし、街でも努めて素顔を晒さぬよう努めて生活する。
間の抜けた話であった。
彼女に化け物と形容されて、微かに心を痛めた自分がいる。世間一般からすれば、俺の容姿は獣と人が混ざった、世の混乱を示す凶兆にさえ捉えられてしまう。
いちばん混乱してたのは俺なのに。
俺は彼女を強引に引き寄せて担ぐ。
弱々しく抵抗し、俺の背中を握力のこもらない拳固で叩いている。こんな衰弱している状態なら、なおさら野放しにするのは気分が悪い。
「偶然とはいえ、自分で助けた命だから責任を持つ」
「いつか逃げてやる」
「安静にしてろ、頼むから」
「……優しくしたって、何も出ないぞ」
「期待してない」
「き、期待するほど美味しそうじゃないって意味かよ!」
知らんがな。
意味がわからない事を喚かないで欲しい。
寝起きで保護した相手がカラスに蹂躙されている様を見て、こちらも穏やかではないのだ。ゆっくりしたい。
手を煩わせられるとは予想していたが、些か度が過ぎる。
管理方法の再検討をする必要がありそうだ。
「そういや、アンタ……名前は?」
少女に問われた。
そういえば、俺も彼女の名前を知らない。
「キース、元樵夫で傭兵やってる」
「弱そう」
「戦うの嫌いだしな。……おまえは?」
「……リィン」
大人しくなった少女を肩に乗せて、診療所へと戻った。
そして後刻。
俺と少女は床に正座させられている。
正面には医者もとい元暗殺者の男が、煙草から紫煙を吐いて睨め下ろしてきていた。隣では、寝起きのシルキーが欠伸を洩らしつつ、寝ぼけ眼で静観する。
昨日の焼き直しに思える状況だった。
金髪の少女――リィンなんかは、毅然とした面持ちではあるものの、片手は俺の服の裾を摘まんでいる。手は震えていた。
……たぶん、俺も震えてる。
「患者のくせに新しい傷作って来るたぁ、よほど診療所の床が気に入ったらしいな?――あ?」
「ひっ」
鼻先に威圧的なガレンさんの顔。
リィンが悲鳴を上げる。
怪我人がならず者の街を彷徨することを危ぶんでのこと。労っている積もりなのだろうが、威圧感が強いあまり萎縮させていた。
リィンを突き刺していた彼の視線が俺へと回る。
ほら来た。
「昨日、自分で管理するとか抜かしておいて、早速これか。テメェの放任主義の所為で、これも普段からだらしねぇんじゃねぇか?」
「ん?何だい?」
ガレンさんが片手にシルキーの頭を鷲摑みにしながら問う。
何故だろうか。
リィンの事のみならず、平時のシルキーについてまで俺が言及されるなんて理不尽すぎる。
後者は明らかな自己責任なので、俺が責められる立場には無い。……筈なのに。
俺は頭を床に着けて、謝罪する他にない。
リィンの隣から心配する眼差しが痛いほど伝わってくる。
シルキーに関しては、朝食を頬張って幸せ心地。ガレンさんの手は血管が浮き出るほど強く頭を摑んでいるのに、意にも介さぬとはどんな体なんだろうか。
「め、飯番と掃除もやります」
「飯番は、この小娘がやりゃあ良い」
「任せてよ、わたしにだって飯番は務まるさ」
務めたこと無いだろう。
尤も、おまえを台所に立たせれば一貫の終わりである事は把握している。飲食店の非常勤で配膳だけ可能なのが救いだ。
シルキーにはどうせ出来ないので、俺としてはいつもの仕事に掃除がまた加わるだけか。
「ま、いいか。小言はこれだけで解散だ」
ガレンさんのお咎めが終了。
背を向けて診療所の受付に向かう彼を見送ってから、俺とシルキーは準備に取りかかる。
俺は窓の外を覗き、日の高さから時間を推定した。
今日は午前中に町内郵便、午後に飲食店の仕事が入っている。そろそろ集合場所に行き、今日の分を受け取らなければならない。
俺は着替えだけ済ませ、軽い荷物のみを携えて診療所の裏口から出た。
リィンの面倒を見なくてはならないので、また仕事を一つ増やすことを見当しなくてはならない。
自身で背負い込んだ厄介事、やれるところまで遂行してみせる。
石畳を靴の爪先で軽く叩いてから走り出す。
先ずは町内郵便。
シルキーはあの様子だと遅刻が見えているので、彼女の分も取っておかなければ二人とも解雇処分を受けてしまう。
「――待てよ!」
背後から制止を図る声。
驚いて振り向くと、リィンが追走していた。
俺の脚力に敵う筈もないので距離は長くなる一方だが、それでも諦めが悪く追い縋る。
慌てて身を翻し、彼女の方に戻った。
粗雑に組まれた石畳の隙間に足を取られて倒れる寸前を抱き留め、同時にその頭頂に手刀を落とす。
「怪我人が走んな」
「うぅ……あ、アンタは何処に行くんだよ」
「仕事」
「は、働いてるのか!?」
「俺のこと舐めてるのか」
十六になって働かない人間がいるのか。
そもそも林業や山で事とする生業に限らず、十二を境に誰しも労働を環境から課せられる。早ければ五つから始まる職能だってあるのだ。
リィンは俺に抱えられているのを漸う自覚すると、ばっと離れた。
兎頭で怯えられるのは判るが、そこまで忌避されると傷付く。対照的に馴れ馴れしいシルキーは苛立つけれど。
「い、いつ帰って来るんだ?」
「まあ、日付が変わる前には」
俺の返答に、リィンは頷きもしない。
思案げな顔で見上げてくる。
不安に揺れる金の双眸から、その意中を察するのは難しい。
シルキーの機微を読み取るのなら、掌を見るが如く簡単なのに、それ以外となると途端に困難になる。
俺が首を傾げてみせると、リィンが嘆息する。
はやく仕事に向かいたいのだが。
暫く待って、彼女が口を開く。
「じゃあ、飯番やっとく」
「……作れるのか」
「一応、アンタが蹴り倒した男の給仕やってたからな」
忌々しげに、けれど心做しか誇らしげに語る。
俺としては仕事が減るので嬉しいが、患者を働かせるなどガレンさんの怒りを買うので、遠慮したい。
「患者に作らせると、また俺が怒られ――」
「作るから黙れ」
「ええ……?」
「現在オレはアンタの物。――仮契約中だ」
半ば強引にリィンが言葉を紡ぐ。
圧倒された俺は、黙って聞くしかなかった。
仮契約とはいえど、我の強い従者を意図せず得てしまった始末。正直、放棄したい想いもあるが何処ぞの輩に寄越すのも気が引ける。
リィンは俺の鼻先に指を突きつけた。
その所作があまりに鋭いので、思わず攻撃かと体が反射的に身構える。
「飯作って待ってるから、さっさと行けよ!」
「止めといて、その言い草かよ……」
「キース、わたし先に行くよ」
「えっ」
隣を轟然とシルキーが通過していく。
俺は呆気に取られ、しかし直ぐ様その後を猛追した。ヤツより後に到着するということだけはプライドが許さない。
けれど最後に、一度だけリィンの方を顧みる。
彼女は路上で仁王立ちのまま、俺たちを見送っていた。
「安静にしてろ、良いな!?」
「うるさい!さっさと行け!!」
早期解約を検討しておこう。
次回へ続く