キースの嘆願
奴隷少女が喋るのは次回。
核心ソフトタッチ終了
路地の闇は深くなっていく。
『次を左、道なりに添って直進』
陰鬱な影に先が塞がれた細い路地を、俺は隣の声に従って進んだ。
俺の隣の中空を常に漂う奇異なるモノ。
目的はわからない、ただ指示してくる。
本道からはかなり離れていた。
きっと店も閉まっている頃である。
帰ったらガレンさんに話すしか無い。証拠として、この“黒玉”を捕獲しよう。
遠くから声が聞こえた。壁に反響して曇っているが、明らかな叱声である。
耳を澄ませば、罵倒の言葉だと判った。
『次の角の手前、止まれ』
「止まれ?何があるんだよ」
『先に在り、貴き黄色』
わからない。
貴き黄色、が示唆する物を想像する。
宝石か何かなのか、それとも人なのか。
どうして、それを俺に伝えるのかも含めて悉皆が意味不明。
俺は指示通り、角の手前で止まる。
左に伸びていく道に顔だけ出し、その行く手を窺う。黒玉が肩に乗って来るが、質量が感じられない。
二人で夕暮れの光すら届かぬ奥を観察する。
奥では、二つの影が路地にいた。
恰幅の良い男が、鞭を片手にして怒声を響かせる。ときおり地団駄を踏んだり、頭を振っており、正気で無いのが一目瞭然だった。
石畳を鋭く撓り打つ鞭の音と、小さな悲鳴が重なる。
彼の足下に、誰かがいる。
女の子だった。
襤褸みたいな粗悪な布一枚の貫頭衣に、両手を手錠で縛められ、正座のまま俯いている。垂れ下がった金の髪で遮られて横顔も見えない。
俺は肩の上にいる黒玉を見た。
黒玉の目玉も、こちらを見る。
「まさか、あれか?」
黒玉が瞬きする――肯定の意だ。
俺は改めて二人組を見る。
「奴隷の分際でッ!わっしに歯向かうんじゃねぇよ!!」
罵詈雑言を吐き散らし、鞭で打つ。
少女が横っ面を叩かれて金の髪が踊る。衝撃で細い彼女の体が地面に倒れた。
冷たい路地の床に踞り、呻き声を上げる。
男がそこを何度も踏みつけた。
この惨状に、俺は唸るしかなかった。
道端の喧嘩ならば思うところはあるが、これは奴隷商による奴隷への暴力。
助けようとしても、彼女の身分は商品であり、迂闊に手を出せばこちらが被害請求を免れない。
実際、助けたところでガレンさんやシルキーにも迷惑である。殊勝な正義漢でもないので、損得を合理的に考えれば看過するのが穏当。
されど。
肩の上で、黒玉が促してくる。
『為せ、そこに意義はある』
「駄目だ」
『踏み出せ、それは大義』
「動機にならない」
『この逸機は万の損失に価する』
「他を宛がえよ」
『おまえだからこそだ、偽りの赤』
頑に俺に求める。
何を以てして、この黒玉は俺を選んだ。
赤とは何だ?
ともかく。
あの奴隷の少女に、何か深い意味でもあるのだろう。或いは俺より先……シルキーに関連するのか。
黒玉は求める、否、命じる。
従う道理はない。
俺の意思に揺らぎはない。
すると、黒玉が足下の石を口に含む。
もごもごと、口内で転がす。
角から出て、単眼が一直線に男を見据えた。
嫌な予感がする、こいつは何かを仕出かす。
俺が捕まえようと手を伸ばした瞬間、黒玉が石を吐き出した。
直線を描いて飛び、男の手を強打した。鞭を持つ手元に命中し、石畳に戞々と音を鳴らして転がる。
やりやがった!
俺は手を止めて、唖然とする。
「ぐあッ!……な、何だ!?」
男は悲鳴を上げて鞭を取り落とし、手を押さえた。涙目になってこちらを向く。
そこに、中途半端に身を乗り出し、手を伸ばした俺がいる。まるで、石を投擲した直後の姿勢で。
なるほど、相手に誤認させるには充分過ぎる光景だった。
奴隷商の男の顔が、みるみる熟れた林檎じみた赤さに変わる。対する俺の顔色は、きっと蒼白くなったに違いない。
「おい。自分が何したか、判ってるのか?」
いえ、俺じゃ無いです。
責任追及は黒玉に願いたいが、そんな言い訳が通じる筈もない。
俺は批難の眼差しを注ごうとして――はたと止まった。
気付かぬ内に、黒玉が忽然と消えていた。
もしや、俺に濡れ衣を着せ、先んじて避難したのか。石を投射した直後、奴隷商が目を向けるよりも早くに。
取り残された俺へ、自然と責任が回るように自分は姿を消した。
「や、やられた……!」
奴隷商が鞭を再び手に。
矛先を変えて、こちらへ歩み寄って来る。
この隘路では鞭を避ける事は困難。
尋常な対話を求めても、先刻まで正気を失うほど憤慨していた彼には理を説いても徒労になる。むしろ逆効果にしかならない。
相手の敵意と怒りは、大人しく鞭で打たれる以外に解消されることはない。
しかし、俺がそれを甘受する道理もまた皆無。
俺は黒玉に導かれた経緯を顧みる。
「ああ、本当に最悪だ」
「ぅ……ぁ……」
路地に踞っていた少女が顔を上げた。
宝石を填めたような金の瞳が、前髪の隙間から覗いている。どこか縋るような眼差しは、真っ直ぐ俺に注がれていた。
傷だらけの体が震えている。
もう声も出ないのか、唇や舌は動くが何も聞こえない。音のない声は満身創痍な己を嘆く哀訴、それとも助命を乞う願い。
どちらにしても、悲痛な叫びである。
俺は頭を抱えて長嘆の息を吐いた。
考えても無駄だ。
黒玉に嵌められたといえど、その場で即座に踵を返さず、少女の惨状を注視してしまっていた時点で退路は失っていた。
黒玉による責任転嫁を待つまでもない。
ここは“ならず者の街”である。
つまり暴力沙汰は日常茶飯事なのだ。路地裏での小さな諍いなんて、笑い話の種にもならない些事。
「仕方無い……ごめん、おっさん」
「謝っても遅いわ!!」
鞭が振るわれる――前に飛び出した。
高速で前進する体、凶悪な慣性を味方にしたまま踵を奴隷商の顎に叩き込む。
巌を鎚で打ったような轟音の炸裂。
足を突き出した方向へと、男の体が宙を舞って回転する。路地裏の壁面を跳ね返って地面に落ちた。
彼に駆け寄って、意識の有無を確かめる。
顎が拉げている、かなり痛そう。
腰に下げてある鍵束を取り上げて、俺は少女の方へと向かった。傍に膝を突き、手首を摑んで持ち上げる。
重量のある手錠だった。
一つずつ穴に射し込んで確かめていき、八本目で開錠に成功する。地面にごとり、と手錠が石畳を打つ。
「ど……して……助け……くれたの?」
「喋るな。先ずは手当てできる場所に移動する」
少女を両腕に抱えた。
身を屈め、足を発条にして跳び上がる。体か一気に屋根上の高度まで上がり、棟木の上に着地した。
間髪入れずに発進し、ガレン診療所を目指す。
その道中、驚愕で顔を歪めていた彼女が、こちらを見上げていた。
庭で俺は正座し、ガレンさんが目の前にいる。
隣ではシルキーが腕を組み、険相を作ってこちらを睨め下ろしていた。
「買い出しね。俺ァ、てっきり食材かと思ったが、奴隷を購入とはな」
「すみません」
「私では満足できなかったんだね」
不満しかない。
そもそも、お前の所為で買い出しに出たんだ。
声を大にして訴えたい思いを押し殺す。
ガレンさんの眼光に頭が上がらない。
連れ帰った少女は治療を受け、いま患者用の寝台に寝かせられている。容態は暴力による内出血が複数ヵ所、左足の捻挫だった。
適切な処置を受けたので、傷の回復には十曜を一回りする頃に完治する見込み。
駆け込んで直ぐにガレンさんが対応し、俺は傍で見るしかなかった。
そして現在。
奴隷の少女を助けた事に関する事情の説明を終えて、説教の時間に突入していた。
黒玉の存在は伏せ、道中で倒れていた奴隷の少女を介抱した、と取り繕った。手錠は破壊されており、なぜか自由の身だったとも虚偽を添える。
「あの娘、どうする?」
「それは……」
「悪ィが、三人も面倒見る気は無いぞ」
言葉が出ない。
当然の結果である。
道端で出会した奴隷を拾う。
そんな無責任な行為に、他人が付き合う是非など問うまでもない。傭兵二名に寝床を提供する以上の施しを期待するのは無理な話であった。
黒玉に促されたが、最終責任は俺にある。
少女の身は、俺の一存に懸かっている。
だが、保護した奴隷をまた突き放すなんて真似も出来ないし、彼女を匿いつつ独立するほどの経済力も無い。
ガレン診療所以外に寄す処もなく、路頭に迷う結末しか想像できなかった。
俺は庭の草に額を擦り付ける。
今はこれしかない。
「彼女の分の生活費は俺が払います。寝床も、俺のを使わせます」
「…………」
「俺が責任を持って管理するので……お願いします」
庭の空気が静寂に包まれる。
依然としてガレンさんの視線は冷たい。
隣のシルキーは狼狽えて、俺と彼を交互に見遣って忙しい。場違いな自覚が漸く芽生えたらしく、少し身を引いている。
遠くからの喧騒が聞こえた。
「今は患者だからな、処遇は後だ」
重い沈黙を、ガレンさんが破った。俺に背を向けて歩き出す。
彼の視線が外れて、俺は面を上げた。
重圧から解放されて、胸を撫で下ろす。心臓がまだ動悸していた。
隣にシルキーが座り、肩を小突いてくる。
見れば、口を尖らせていた。見たことは無いが、話に聞くタコの口のようだ。
空腹に不機嫌なのかと疑ったが、様子から異なる理由であると察せられる。
「何で助けたのさ」
「いや、まあ……」
「可愛かったから?」
「は?」
シルキーの真剣な眼差し。
物珍しい表情に、俺は柄になく狼狽えた。
最近は成長したのもあって、シルキーの一挙手一投足に必要以上の感傷に浸ってしまう。故郷の村中を手込めにした頃よりも凶悪だ。
視線を逸らすので精一杯だった。
「いや……顔を意識して見てないから知らん」
「わたしとあの子、どちらが大事?」
「……シルキー」
「えへへ、なら良し」
満足げにシルキーが立ち上がる。
少女を助けた理由に拘泥していたときと違って上機嫌であり、軽い足取りで先に診療所の中へと戻って行った。
よもや嫉妬では無いだろう。
村から続く俺への好意は、おそらく兄弟間のそれに同じ。独占欲云々を抱くには足らない。
俺も立ち上がって深呼吸する。
ひどく喉が乾いていた。
『虹を待て。集い、束ねる七色の橋』
またあの声がして、振り返る。
背後に黒玉が浮いていた。
「何なんだ……お前は一体」
『渡れ、谷底を見下ろしながら』
「また何かの暗示か?」
『大切なモノは、なに?失いたくないのは、どれ?』
「……おまえ……!」
『私の愛しき黒は、動いた』
黒玉が牙を剥き出しに笑う。
手を伸ばして摑むと、泥状になって掌中から地面に垂れ、そのまま消えてしまった。
庭に一人取り残されて、俺は茫然自失とする。
黒玉が最後に放った一言が頭を離れなかった。
「キース」
別の方からの声。
振り向けばシルキーが立っている。
彼女は暫くこちらを見ると、小首を傾げて微笑んだ。
「お腹空いた」
今そんな気分じゃない。
次回へ続く。