キースの寄り道
ここで少しだけ物語の核心にソフトタッチ。
シュムハンド国の辺境。
その東部に位置する通称“ならず者の街”。
戦争孤児や戦禍を恐れた難民などが多く流れ着く場所とあって、奴隷商が盛んだったりする。
更に、自立する為に力を蓄えた者はヤクザや自警団の設立などに出る例もある。
度し難いほどに貧困と暴力に満ちることが、この街が“ならず者の街”と呼ばれる所以。
庭を騒がせる呼気。
草を払う足の忙しない動きと鈍い空振りの音。
斧の形に削った木を片手に振る俺と、巧みに避けながらタバコを吹かすガレンさん。合間を縫って、俺の顔面に平手打ちが叩き込まれる。
衝撃に仰け反ったこちらを、彼が淡々とした様子で振り上げた足が突き飛ばした。
庭の草の上を転がって倒れる。
ものすごく痛い。
動かなくなった俺を見て、ガレンさんが手拭いで手を拭いながら溜め息を一つ。
まるで手術を終えた執刀医、振りだされる拳も足もさながら鋭利な刃であった。
軽くても確実に体の芯を衝いてくる。
省みてみると、俺は始終ガレンさんの動きに翻弄され、一方的に打擲されていただけだ。
一応は鍛練という名目だが、赤子同然に遇らわれた。
「元は樵夫なだけあって耐久だし、お前さんは機動力が高い。ばか正直に正面から敵に付き合うな、裏を掻け」
「二年やっても勝てない……」
「進歩はしてる。亀の歩みだが」
褒められた気がしない。
俺が起き上がると、彼は既に背を向けて歩いていた。白衣には汚れ一つ付いていない。
清々しいほどの完敗だった。
この街に来てから約二年。
俺とシルキーは、行商人の護衛や簡単な街の警備。あと合間に酒場の配膳で日銭を稼ぐ生活である。
目的だった戦場への参加は、辺境とあって烽を遠方にすら見ぬ場所なので敵わなかった。
しかし当然、傭兵なので修羅場は幾度もあった。行商の荷物を護送中に盗賊に襲われ、彼等と一戦したり、尻尾を巻いて逃げたりもする。
その際に思い知らされるのは己の力量不足。
俺は基本的に能力に依存して、速度任せの戦術になるので、戦の技巧を持つ手練れには弱い。
シルキーは特に顕著で、能力を解放すれば大抵の敵は処し遂せるが、懐が甘くて何度か狙撃を受けたこともあった。言わずもがな、そこで俺が盾になるのだが。
いつかの交換者との戦闘に備えて、鍛えるしかない。
ガレンさんに頼み、俺は十曜に六度は彼と手合わせしながら学んでいる。シルキーを守る為にも、求められる努力は筆舌に尽くし難い。
今回の敗北を噛み締めて項垂れる。
すると、目の前に屈み込んできたシルキーの顔が視界に割り込んできた。
銀の長髪と薄く青みがかった灰の瞳。
幼少の砌から窺わせていた美の萌芽が、二年の歳月を経てぞっとさせるほど美しい少女へと開花していた。
まだ歳は一四とあって発展途上、幼さが未だ勝るが、僅かな時の巡りで見せるには心底驚嘆させる成長である。
「キース、お腹空いたよ」
「今そんな気分じゃない」
「また敗けたんだね」
「だから、そっとしといて」
「大丈夫。幾ら敗北を重ねてもわたしはキースが大好きだよ」
誰もそんなこと心配してない。
むしろ負けて愛想尽かされるなら万々歳だ。
余程の屈辱を受けぬ限りは水に流せるが、流石に二年間も手合わせをしていて一本も獲れない現状には落ち込むしかない。
世辞とはいえ、彼の言う通り戦闘での立ち回りは以前と比較して、自分でも目を瞠るものがある。
シルキーも鍛練で力を蓄えているらしいが、戦場への進出の兆しが見えず悶々としていた。
果たして、下積みの期間が長すぎるか否か、まだ傭兵として未熟な俺たちには判らない。
俺は立ち上がって服に付いた土を払う。
体操で疲れた体を入念に解した後、診療所の裏口から入った。医療器具を扱うとあって、幾らか消毒液の臭いが鼻を掠める。
診療部屋をかわし、そのまま居間の方へと向かう。
既に椅子に座して待つシルキーを一瞥してから、俺は台所に立った。手を水で清めてから、食材を並べていく。
ガレン診療所を拠点する上で。
飯番をやるだけで家賃となるため、俺たちは彼の厚意に甘えて滞在している。
絶望的にシルキーの料理の才能が無く、実際の飯番は俺のみ。
微塵も罪悪感がなく食卓に屈託のない笑顔で待機する彼女が少し恨めしい。
しかし、寝食の過ごせる家屋があり、食事を作るだけで鍛練の面倒まで見てくれる。
俺たちには勿体無い優良な物件であった。
家主に感謝しながら台所で調理を開始しようとして。
ふと、食材が不足している事に気付いた。
以前の買い出しは、たしかシルキーが担当していた筈である。量はまだ先まで保つ見込みだった。
居間の方を振り向いて、呑気に口笛を吹くシルキーを見る。軽やかな音色には、夕飯への期待だけがあった。
こいつ、まさか盗み食いか。
白衣を脱いだガレンさんが居間に入る。
俺は逆に上着を着て、外出する準備をした。
「すみません、ガレンさん。買い出し行ってきます」
「ああ?もう無ぇの?」
「みたいです」
「わかった……次から保存庫の監理を入念にしておく」
概ねの事情を察したガレンさん。
いや、事情も何も、シルキーの盗み食いしか疑う余地は無い。眼鏡の奥から少女に注ぐ視線が鋭くなった。
さすが元暗殺者、市井に普段いてはいけない迫力だった。無論、うちの令嬢は何処吹く風と意に介さず。
俺は屋外へと出て、店の並ぶ区画へ向かう。
夕飯時とあって急がねばならない。贔屓にさせて貰っている所の閉店が間近な時間帯だ。
途中で家を囲う塀の上に飛び乗り、家屋の軒木に飛び移る。そのまま屋根上に上がって疾走した。
ここぞと交換者としての優位性を活かす。
道無き道――屋根上を跳んで最短距離を辿る。
衆目を浴びるより早く、誰かに認められない速度。夜気の気配がかすかに漂い始める街の景色を眺めつつ、店まで一気に駆け抜ける。
この街で『狡兎のキース』とは俺のことだ!……などと嘯いて。
目的の店が面する道まで出た。
俺はそこへ通じる細道に飛び降り、頭巾を被って自身の兎頭を包み匿す。
平生はこうしなければ街衢も歩けぬ身なり。
余計な詮索を避けられない身分とあって、飯番ができぬシルキーに一任していた。
これから行く店の親父は、その事情を知った上で口外しない人だ。
ガレンさんの次に信頼しているといって遜色ない。
路地裏から明るい本道へと躍り出る。
ここから百を数える内に到着できるだろう。
俺は財布の残金を再度たしかめて、人混みを進んだ。
山村の頃は喧騒の絶えない場所など見たことが無いので、当初は立ち尽くして飲み込まれていた。
すっかり町に慣れてしまった。
あれから薪割りはあっても、木を伐る仕事は請け負っていない。斧の用途は、あれから戦仕様になっていた。
「おい、聞いたか?」
「何だよ」
「シーズフリードで国家転覆が起きたらしいぜ」
飯屋の露台を通過する際、そんな会話が聞こえた。
少し興味を引かれたので、荷物を確認する様を演じながら露台に身を寄せ、卓でそんな会話をする二人組の声に耳を澄ませる。
彼らは手元に大蒜と生姜で炒めた肉野菜を平らげた皿を退けて、宅の中央に顔を寄せて話していた。
くそ、お腹空いてきたよ。
「マジかよ。内乱の気配なんざ無かっただろ」
「いんや、仕方無ぇよ……二年前に『戦魔』が逃げ出した時点で、奴等の命運は決まってたのさ。新体制であっちはまだゴタゴタがあるし、近々、戦がまた起こるな」
「へへ、腕が鳴るぜ」
二人が円卓から立って勘定を済ませる。
俺はその間に露台から離れ、再び店の方へと向かった。
道中、俺は脳内でその内容を反芻していた。
シーズフリードの名はよく耳にする。
史上最大国家とされるシーズフリード皇国。
数世紀に亘り大陸の強国として名を連ね、戦争でも敗戦を知らず、その商圏は世界中と交流があることで広範に及んでいる。
彼らがそうなったのは数世紀前の戦争。
ガンダヒュンデ戦役。
シーズフリード建国の起源となった戦争である。
かつて北にいた遊牧民が、北国によって大量虐殺された。
伝承によれば、彼らは“人の魂”を魔力というエネルギーに変換する異能力があったらしく、それらを用いて自らと、死んだ同族の魂を束ねて一体の生命体を産み出した。
それが――戦魔と呼ばれる怪物。
空を覆うほどの黒い巨躯と、一息で一国を滅ぼす威力。何より天候を操り、人を死滅させる雨を降らせるという。
後に愛憎の涙と呼ばれた化け物は、さらに七体の戦魔を産み出し、少数で人類を脅かした。
災厄と見なされ、討伐の為に世界規模で共同戦線を展開した。
圧倒的戦力に苦戦を強いられたものの、人類は戦魔を率いていたザークヒルデン、そして残り一体の部下まで追い詰めた。
それから終戦までの経緯は諸説あるが、ザークヒルデンの部下摘まれた花が後のシーズフリード皇国の初代皇帝と契約を結び、ザークヒルデン討伐にしたというのが最有力。
戦後、ヲンクは代々皇帝に仕える戦魔となり、今度は領土争いを繰り広げる大陸中を平定すべく、皇国の発展と領土拡大に貢献した。
以降は戦魔ヲンクの存在を示威として、数世紀以上の平和を維持してきた。
それが二年前、皇帝の崩御に際してヲンクが姿を消し、国中が荒れたという。
先刻の国家転覆も、その延長線上だろう。
いまシーズフリードは脆い。
そこを突きたい国々が戦争を起こす積もりなら、きっと多くの傭兵も参加する。……その中には、交換者もいると予想できる。
この辺境にも、参加者を募る動きがある筈だ。
俺とシルキーは、間違いなく参戦する。
「……帰ったらシルキーに報告だな」
俺は足を急がせた。
夕暮れの空の下、店を閉めるのが風景の中に一つ、二つと増える。閉店間際に失礼だが、どうにか滑り込めるだろうか。
『次の角に右折、奥に在り』
突然、左の耳許からそんな声がした。
立ち止まって首を左に巡らせると、傍に黒い球体が浮かんでいた。宙で静止した拳大の玉のようなそれは、心臓のごとく断続的に跳ねる。
何だ、この奇っ怪な物は……?
指で小突く寸前で、球体に目と口が現れた。
小さな単眼、牙の並んだ大きな口。
不気味さに一歩退いたが、球体がその分詰め寄って来る。
明らかに尋常な生物ではない。
『往け。次の角、右折』
「な、何があるんだよ」
『貴き黄色、愛しき黄色』
要領を得ない。
閉店の時間が直ぐそこまで迫っている。
しかし、こんな珍妙な物の出現に意味が無いはずがない。
俺はその“黒玉”が示す、次の角――木賃宿の横にある路地裏に続いた細道を見る。
薄暗い闇に包まれたそこへ、俺は恐る恐る踏み込む。
風が吹き抜ける音と暗がり、それだけで恐ろしいというのに、不気味な物に催促されては恐怖も一入である。
躊躇いながらも深呼吸して、一歩ずつ前進した。
ごめん、二人とも。
夕御飯は遅くなりそうだ。
次回へ続く。