水道 1
一冊目の本の表紙には『水道』と書いてあった。
本を開いたソフィアはまずその世界を概観する。
「剣と魔法の世界。魔導具はなし。簡易な魔方陣のみ有り…ですか。この世界だとローマ水道レベルが限界でしょうか。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
“水道とは人工による水の安定供給システムです。多くの世界では水が不足しているとは考えにくく、水が不足していない、かつ水道が存在しない世界では水道の必要性を認めてもらうことは容易ではないかもしれません。まず、その必要性を認めさせることのできるモデルケースを探しましょう――”
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昼休み。ローデシア王国王女アンはいつものように手作り弁当を持って、夫である健一の元へと向かった。
勇者を召喚したローデシア王国。その王国の姫にして、優秀な癒し手としてであったアンは、勇者健一の旅の同行者の一人であった。
当初はその能力から崇拝と畏敬の念のみを健一に向けていた彼女も、旅の中で時に動揺し、時に弱音を吐く健一と共に、数多の試練を乗り越えていく中でいつしか彼を同じ人間として愛するようになっていた。
魔王討伐前夜に告白され、相思相愛となって皆に祝福される中でゴールインした時には、バラ色の未来を信じて疑わなかったのだが…
(今日もケンイチさまはあんな昏い目をなさっておいでなのでしょうか…)
自分の夫になってくれた健一がおかれている現状は、アンにとっては非常に心を痛めるものだった。
彼女は健一の語る異世界の話が好きだった。自分で思った通りに動かせる馬車のような自動車、肥のないトイレ、汲まないで良いばかりか屋内にある井戸のようなものだという水道、電気であらゆる道具が使え、ガスというもので魔法がつかえない民も魔法のように火を使うことができる…
健一は自分のいた夢のような世界に、この世界を近づけようと色々なことを提案してくれたはずなのだ。
しかし健一の提言はこの世界の実情にあまりに即さな過ぎた。
結果として彼の言葉は異世界人の戯言として真剣に受け止められなくなり、周りの者たちは様々な言葉で彼を貶め、嘲笑うようになった。
健一も次第にものを言わなくなり、昏い目をしたまま表面のみを取り繕い、言われたことだけをするようになってしまった。
(このままではケンイチさまは元の世界に戻りたいと仰られるかもしれません…そんなことになったら私は…)
恐怖と諦観の混ざり合ったその感情を、胸の内に押し殺し、彼女は笑顔で健一の部屋の戸を叩く。
「ケンイチさま。お昼にいたしましょう?」
「おう!入ってくれよ。」
自分だけは共に旅してくれた時のような明るい声で迎えてくれる事に、彼女は安堵と喜びに自然と笑顔になって部屋へと足を踏み入れた。
「なあ、そういえばさ…」
「はい、何でしょうか?ケンイチさま。」
昼食を食べ終えて一心地つき、いつものように一時の憩いをと思った矢先に、健一は真剣な表情で切り出した。
「水不足の村とかって無いか?」
「今年は干ばつも起きていませんし、今のところそういった話は…」
露骨に落ち込んでしまった健一に、アンは彼の意図とは違う答えだったことを悟った。
しかし、無いものは無いのだ。そう答える他なかった。
「あの、申し訳ありません…」
「いや、アンが謝ることじゃないだろ。むしろ困ってる人がいないことは喜ばなきゃな!」
そう言って笑った彼の笑顔に嘘がないことを喜びつつ、アンは彼が落ち込んだ理由を問いかけた。
「ですが、なぜ急にそのような事をお尋ねになられたのですか?あ…あなた?」
いまだに仲睦まじい両親を真似て、彼に問いかけてくるアンの恥じらう様を愛おしく思いつつ、彼は正直に答えることにした。
「実は…こんな本があったんだ。たぶん俺をこっちに送ってくれた神様からの最後の贈り物ってヤツだな。」
そう言って彼が取り出したのは『水道』と表紙に書かれた『ソフィアの白紙文書』。
アンはそれに恐る恐る手を伸ばした。
「これは…?」
「どうやらあっちの世界の技術を一つだけ、教えてくれる本らしい。俺は『水道』ってヤツを選んだ。井戸でも川でもねえ水源ってヤツだ。」
「それは…!」
アンは健一の言葉に目を輝かせ、手に取ると最初のページに目を通した。
健一が元居た、夢のような世界の技術。それを教えてくれる本――アンにはこの本が、どのような宝物よりも素晴らしいものに思えた。
「でもさ、困ってもいないのに皆を動かせるとも思えねえしな。どこか困ってるところがあればって思ったんだけどな…」
そういって表情を曇らせた健一に、アンは問いかけた。
「水の安定供給…ということは困っているところに水を送れるだけではなく、必要なところに水を大量に送れるということではありませんか?」
アンの問いかけをしばし脳内で咀嚼したのち、健一は首肯した。
「そうだけどよ…それなら心当たりがあるのか?」
「はい!確認は必要ですが心当たりがあります。午後にお父様に聞いてみますね。」
その言葉を聞いた健一は小さく拳を握って「よっしゃ!」と言った後、悪戯っぽく笑って言った。
「じゃあ、王様に確認してきてくれ!頼んだぜ、奥さん!」
「はい!」
顔を花のように綻ばせ、アンは政務室に戻って行った。
「お父様。少しお時間をいただけますか?」
その日の政務も終わり、晩餐まで自室で妻と寛ごうとしていたローデシア王国国王ジェームズは、真剣な表情をした娘アンに呼び止められた。
「構わぬが…良いのか?ケンイチ殿のところに行かなくて。」
このところ勇者にベッタリだった娘から呼び止められたジェームズは、何かがあったのではないかと危惧とともに足を止めた。
ローデシア国王ジェームズ。魔王の侵攻に対して前面に立つことはない地にあるローデシア王国の国王でありながら、前線となった各国への後方支援を積極的に行うとともに、諸国の連携強化のための連合を立ち上げた傑物である。
むろん純粋な善意のみによって動いたわけではなく、戦争特需や借款などによって戦中戦後を通じて自国の影響力を拡大し、かつ民衆からの支持を拡大したその手腕は見事という他ないだろう。
そんな彼が勇者召喚まで行い、かつ娘を娶らせて勇者を王族に取り込んだのである。当代に比類のない、盤石の地位を持った人類の盟主といって過言ではない。
そんな彼にとっても、治世の現状における勇者の扱いは慎重を要する案件だった。
「それともそのケンイチ殿と何かあったかな?仲直りの仕方なら私からよりも…」
「ケンカをしたわけではないのですけれど…ケンイチさまと無関係でもありませんから何と言ったらよいのでしょうか…」
「ふむ。話してみなさい。」
今一つ煮え切らないアンの様子に、ジェームズはひとまず先を促すことにした。
「魔王城付近の荒野の開拓はどのような状況でしょうか?」
「うむ?どうといって…相変わらずという他あるまいな。湧き水はかろうじてあるが、川が無いから水が引けん。あの状況では収量が期待出来んから、開拓の進展は遅々としたものになろうな。」
この世界の農業は川や湖、湧水から水を引くか、雨水のみで行うかの二択である。
当然のように雨水だけだと作物も麦などに限られ、収量も低くなる。結果として農家の収入は低くなるため、川などの無い地の開拓などまず行われてこなかった。
唐突な話題の転換に困惑しつつも、話を進めるためにひとまず質問に答えたジェームズに、アンはさらに畳みかけた。
「問題は川がないことですね?お父様。」
「うむ。そうなるな。」
「放棄することはかなわないのでしょうか?」
「それは出来ん。魔物の地を制圧しうるこの好機に可能な限り魔物の地は制圧しておかねばならん。森林地帯や湿地帯、砂漠、氷雪地帯などと比べて、魔王上付近の荒野は魔王城を拠点として活用可能な上、地形的困難も少ない。あの地は最低限人の住む、人類側の地にせねばならん。」
人類の盟主としての父の発言に、アンは我が意を得たりと提案した。
「わかりましたわ。では、お父様。私とケンイチさまをその地に派遣してくださいませ。」
「……何をするのだ?アンよ。」
「ケンイチさまの提案を実現することで、かの地に水をもたらそうと思います。ですがケンイチさまのお言葉だけでは動かぬ者も多い現状、ケンイチさまだけでは出来ることも出来ない可能性があります。私も同行し、ケンイチさまをお助けしたく存じます。」
単にアンがまた健一と旅に出たいだけなのではないか、と一瞬疑ったジェームズだったが、健一の現状を思い出し言葉を紡いだ。
「失敗は出来んぞ。わかっておろうな?」
「はい。」
「よかろう。ケンイチ殿とおぬしを魔王城付近の荒野、現名ニサヤランドへ派遣することとする。ケンイチ殿にもそう伝えよ。」
「はい!」
アンは一刻も早くこの朗報を健一に伝えようと、一礼ののち身を翻した。
三日後。現在各々が受け持っていた政務・公務を整理した健一とアンは、謁見の間でジェームズに朝見した。
「勇者ケンイチよ。そなたは不毛の地ニサヤランドに水をもたらすことが可能とわが娘アンより聞いた。まことか?」
「はい。」
「では、そなたに命ずる。見事ニサヤランドの地に水をもたらし、かの地の開拓を進展させよ!」
「はっ!」
勇者田中健一による水道建設。後世“この世界の水利用に革命をもたらした”と語られる事業がここに始まったのである。