昨日は、大切な貴方と出会った日。
昔から物語を書くのが好きだった。
幼い頃から漠然と、お話を作る人に憧れていた。
小説家、脚本家を目指しはじめたのは、親元を離れ、大学に進学してからだ。演劇の仲間が集まるところに、私もまた、脚本を描く一人として入団した。
私の作る脚本は、高い評価を得た。
四年生になってから、雑誌のみならず、テレビの片隅にも取り上げられた時は、この道でやっていけると信じたものだ。
おかげで、就活せず、家にひきこもった。毎日、脚本ばかり書いていた。
単位が足りなくなって、自主退学を勝手に決めてしまうと、父から初めて殴られた。母には泣かれた。
私はますます、文章に没頭した。自分の物語と向き合う日が続いた。それがある時、自分でもびっくりするぐらい、筆が止まってしまったのだ。
書けなくなることは、幾度も経験してきた。けれど、その時はまったく違う、なにか別の予感を得た。
(さよなら?)
言葉にすれば〝別れ〟だった。
私の中でふくらみ、想像に形を与えてくれるもの。気配や、雰囲気といったもの、あるいは匂い。幼いころから自然に根付いたものが、そっくりそのまま、私の中から抜け落ちてしまったのだ。
憑き物が落ちたように、私は毎日、ぼんやり過ごしていた。
大切なものを失うきっかけは、どこかに転がっていたのかもしれない。しかし思い当たる節はなく、ただ漠然と悟っただけだ。
(あかん。こりゃもう、書けないわ)
努力だとか、才能だとか、文才の有無だとかじゃない。物語を生みだす能力が、丸ごと、どこかへ消えてしまったのだ。
そしてそこまでいくと、逆に、綺麗さっぱりあきらめが付いた。
翌日から職安を回り、自分ができそうな仕事を探した。だけどまぁ、これが中々ダメなのだった。元より要領が悪く、日々をパソコン様に頼ってばかりで、履歴書の字さえも小汚い人間を、世は必要としてくれなかった。
できた軌道修正といえば、両親との和解ぐらいだった。それでもおかげで、ずいぶんと気持ちが楽になった。おかげで今度は、ずっと顔を合わせていなかった彼に連絡をとる気になれた。
最後は確か「もう勝手にしろ。君はこのまま死ね」と言われた。
実際のところ、踏んぎりが付く前の私は、そこまで言われるぐらいには酷かった。
毎日、子供が甘いお菓子をねだるように、精神安定剤と鬱病の薬を合わせて飲んだ。さらには法律で禁止されているお薬にも手を出しかけた。
いざ、お金を払って、手にいれようとした時に、止めてくれたのも彼だった。うん、思い返しても「もう勝手にしろ」と言われても仕方のない気がする。
そんなわけだから。電話して、もう一度だけ顔を合わせてくれると聞いた時は、とても嬉しかった。彼の部屋で頭を下げて「今までごめんなさい」と言えた。
「君は、これからどうするんだ」
彼は聞いた。私はみっともなく笑った。実家に帰って、今はアルバイト中だから、そろそろ仕事探そうかなと思ってるんだけど中々ね、頑張らなきゃね。じゃあね。
早口に言葉を並べた。頭の中で、口元は息を吸うように軽く、吐きこぼしていた。
「本当は、貴方のお嫁さんになりたいの」
「そうか」
「うそ、ごめん」
「なんで謝る。違うのか」
「だって、うん、いや、だって、ごめん、ごめんなさい」
「謝らなくてもいいだろう」
「ごめん、ありがと。うん、ごめんね」
言ってしまってから、わんわん泣いた。
「まだ貴方のこと、好きだから。誰よりも、好きだって、気づいたから、ごめん」
物語を書く力を失ってから、私は素直になった。薬を飲む代わり、誰かに謝るのと、お礼を言ってばかりの毎日だった。
「だったらいい。俺も、君が好きだ」
彼は、口と眉毛をへの字に曲げた。どこか怒ったような、悲しんだような、複雑そうな顔を浮かべて「とりあえず結婚するか」と言った。それは学食で、今日の昼は「サバの味噌煮定食にするか」と告げたのと、まったく同じ発音だった。
それから私は、お母さんになった。
どこにでもいる、ちょっと抜けた感じのある、そそっかしい、お母さんである。娘からは「もっとしっかりしてよ」と 怒られない日はない。
そんなだから、生きることは、だいたいつらかった。毎日のように、隣の芝生は青いなぁ、いいなぁと。指をくわえ、羨んで生きた。
それでも幸いなことに、主人と娘が、そろってできた人たちだったので、一週間に一度ぐらいは、うちの芝生も、これはこれで素敵なんだなぁ。と浸った。
そんな風にして生きてきた。
思い返せば、あっという間だった。記憶の節々には、いつも主人の誠実な手が映っていた。私は出来た人間ではなかったけれど、彼の手がつらい時、苦しそうな時には、真っ先に、その手を握り返すことだけは出来るようになった。
そんな風にして生きてきた。
「俺は直に死ぬ。延命は必要ないからな」
「イヤ。一人は嫌だよ」
「君はもう、一人じゃないだろう」
繋いだ手には力がなかった。
「君には、言っておく事がある」
先月、彼の胸の中に、末期の腫瘍が見つかった。
年齢はちょうど、六十を超えたばかりだった。入院してから二週間。近しい人が、こんなにも早く、あっけなく死んでしまうはずがないと、枯れ木のようになった手の側に付き添った。昔のように、みっともなく泣きそうになる。
「これが、見えるか?」
「……なに?」
こけた頬。病院のベッドに横たわった主人はもう、生きる色が消えかけていた。
「俺の手の中に、時を戻す時計がある」
こちらに向けてきた左の掌には何もなく、代わりに、自分の掌で包み込むようにした。
「これを使えば、愛した人間と、最初に出会った時に、戻る」
「なんのこと?」
「いいから、聞くんだ。大事なことだ」
この時ばかりは、てっきりおかしなことを言い始めたと思った。けれど、主人の目は、こちらをまっすぐに捉えていた。
「君は、かつて、一度死んでいる。俺が、針を巻き戻したからだ」
主人は、ある話を聞かせてくれた。
それはなんとも都合の良い、時を巻き戻す力を持った時計の話だ。
主役は普通の女性。人の優しさを顧みることなく、だらしのない母親にすらなれなかった、悲しい女の話だった。
「彼女が残したのは、素晴らしい話だったよ」
遠い昔、私も知っているはずの過去は、けれど、結末が異なっていた。
「部屋には、印刷された紙があった。あわせると、五千枚を軽く超えていて、辺りは物語の大海原のようだった。広がる紙の中央には、同じ色の錠剤が山を作っていた。彼女は口から泡を吹き、息をしていなかった。頬を伝っていた涙も、まだ乾き切ってなくてな。急いで救急車を呼んだが、間に合わなかった」
異なる記憶を結ぶように、彼は時を引き寄せた。
「それから、病院近くの公園で、一人ぼんやりしていると、同じ年頃の男が声をかけてきた。誰か大切な人を亡くされましたか、とな。そして現れた男は、こう言った。この時計を使えば、貴方は記憶を継いで、愛する人と、最初に出会った時間に戻ることができる。そして、その相手は〝寿命以外では死ななくなる〟」
(さよなら)
主人は、時計の針を巻き戻した。私を愛して、蘇らせてくれた。
「俺は君が好きだったよ。君の書いた本も好きだった。けど、俺は時を巻き戻すことで、君から物語を描く力を奪いとったんだ。……部屋の机の中を調べてみてくれ。古い、大量のテキストファイルを詰め込んだメモリがあるはずだ。もちろん、一字一句、そっくりそのままとはいかないが、できる限り、再現したつもりだ。今まで黙っていたが、もしかすると、君がまた、物語を書けるようになるかもしれないと思って……」
「ねぇ」
「なんだ?」
「どうして。私なんかのために、そこまでしてくれたの」
「うん?」
「貴方、ちょっとおひとよし過ぎるわ」
「うるさいな」
私が言うと、主人は咳き込みながら、笑った。
「なぁ」
「うん」
「今度は死ぬなよ」
「わかってる」
「きちんと、生きてくれ」
「わかってる。わかってるわ。貴方と生きられて良かったもの。だから」
「そうか……」
「待って」
「……良かった……」
主人は言って、不意に目を閉じた。掌から力が抜けて、表示された生命線は起伏のない直線に変わる。それなのに繋いだ主人の手には、不意に重みが増していた。
「本当に、もう。バカなんだから」
重ねた掌を覗けば、そこには、黄金色の懐中時計が現れている。
私は、喜んで、針を巻き戻した。
「君はバカだな。いくつになっても、人の話を聞かない」
「そうね。ごめんなさい、あっ、あそこのベンチで休憩しません?」
私たちは、大学の校内を歩いていた。付き合い初めてすぐ、周りの人間から「熟年夫婦かお前らは」と言われることもあったけど、事実だから、仕方ない。
「どうして、時間を巻き戻したりしたんだ」
「だから何度も言ったじゃないですか。貴方と一緒に、生きたかったんですよ」
「まったく。昔から後先のことを考えないのは、君の悪い癖だ」
「そうですね。お父さんの言う通りです。それよりも、新しい脚本はまだですか」
「明日にはなんとかする」
「今日中に終わらせてくださいね。帰ったらすぐ、原稿に向かってもらいますよ」
「君は鬼だ」
「いいからはやく原稿を書きなさい。とにかく書いて。書け」
「……やはり余計なことを言わず、墓の下まで持っていくべきだったな」
私たちは、かつての記憶を引き継いでいた。
蓄えた財産はすべてを失い、また、小さなアパートで二人暮らしだ。
変わったことといえば、以前は堅実な道を歩んでいた主人が、私のために、毎日暇を見つけては、せっせと物語を書いていた。
「私が死ぬ気で書いた物語の権利、ぜんぶ貴方に譲ったんですからね。今度は貴方が死ぬまで書く番ですよ」
「君は甘やかすと、すぐ調子にのる」
「はいはい、ごめんなさいね。さて、今日のお昼は何を食べましょうかね」
「ん、そうだな」
そして変わらず、物語を描く力を失った私は、主人の手を取り、隣に座っている。
「サバの味噌煮込みにしよう」
「またそれですか」
「べつにいいだろう。好きなんだから」
主人が眉と口元をへの字に曲げる。思わず、私とサバの煮込み定食、どっちが好きなんですか。と聞きたくなったけれど、ここで「バカか。比べられるはずないだろう」とか言われたら、いよいよ愛想が尽きかねないので、ここは黙る。
「それじゃ、学食の方へ行こうか」
「わかりました」
お互いに立ちあがった時だった。
ふと、視界の隅に、暗い顔をした女性が歩いていくのが映った。
「どうした?」
「〝見つけたみたい〟。ごめんなさい。ちょっと待っていて」
「わかった」
予感があった。私は上着に手を入れて、持っていたそれを取り出した。
この時計が、世界にとって正しい物であるかは分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。
「待って! そこの貴女!」
「……?」
薄暗い瞳をした女性が振りかえる。胸の内にはきっと、一つの想いがあるだろう。
「……なんですか……?」
「私ね、良い物を持ってるのよ」
笑顔を浮かべる。手にした時計を見せながら伝えた。
「これは、今この時、凍りついた人の時間を、ふたたび進ませてくれる物なのよ」
時間と呼ぶべきもの。その価値。
見えざる〝形〟を決めるのは、いつだって、人間だ。
「私には、もう必要ないの。だから、次は貴女が使って」
愛する人に、初めて出会った日。それは新しい物語が始まる日。
私たちは繰り返す。想いを幾度も巡らせる。時には誰かの手に委ね、形を変えて、新たに成して、進むのだ。
未来は、ひとつきりじゃ、ないのだから。