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「ウイルヘルムマイスター」  wilhelm meisters lehrjahreゲーテの教養小説。研究序説。試論

作者: 舜風人

ウイルヘルムマイスターの修行時代(第1部)1796年

ウイルヘルムマイスターの遍歴時代(第2部)1821年



ドイツロマン派の淵源は


ゲーテのウイルヘルムマイスターと

フランス革命、

そしてシューベルトの『自然科学の夜の側面』だといわれている。




この論拠はさるドイツロマン派の評論家の言だから、私は必ずしも納得しないが、

しかし一つだけ納得することは、

ウイルヘルムマイスターがドイツロマン派に与えた影響だ。

この小説がなかったら、おそらくドイツロマン派も成立しなかっただろう。


これはゲーテの独創ではなく、ドイツの偉大な先輩小説家グリンメルスハウゼンにも拠っていることは明白だろう。


その「ジンプリチウスの冒険」(阿呆物語)岩波文庫は教養小説として偉大な先駆者だった。


さてしかしゲーテはさすがに、一面荒削りなストーリーテラーであるジンプリチウスを遥かに超えて、

主人公ウイルヘルムに近代的な内面性と精神性を付与したのである。


そして心理的発展性と成長性を基軸に、精神の発展小説という新ジャンルを確立したのである。

これを後世、ドイツ教養小説(ビルドウンクス・ロマン}と呼ぶ。


ここにストーリー性と心理描写と、ロマンの香り高い情調と、主人公の魂の成長を兼ね備えた

偉大な長編発展小説が誕生したのである。


それまでもこうした一人の主人公が冒険流転の生涯を送り様々な経験をするという小説は確かにあった。


「マリアンヌの生涯」1741年  マリボー作  仏

「トム・ジョーンズ」1749年   フィールディング作 英

「ジル・ブラース物語」1735年  ルサージュ作  仏

「モル・フランダース」1722年  ダニエル・デフォー作  英

「ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯」 作者不詳  西班牙 など、幾つでもあった。


しかし決定的に違うのは、これらの主人公に何の変化もないことだった。


というか、主人公は世間の荒波にもまれてただ、悪賢くなっただけ、世間知を身につけただけ。

精神的に成長したとか、心理的に円熟したとか、人生観世界観が変わったとか全くないのだった。


それに対してゲーテは主人公のウイルヘルムが、さまざまな出来事、、人物に出会うことで

精神的に成長を遂げるという発展小説ビルドウンクスロマンという新形式を


作り出したのだ、


それがゲーテの偉大さとそれまでのロマンピカレスク小説との決定的な相違だろう。


さてこうして、ウイルヘルムマイスター第1部は当時のシュレーゲルやノヴァーリスに圧倒的な支持を

持って

受け入れられたのだった。


彼らはその断章、「アテネウム」や「花粉」などで常にマイスターを論じかつ賛嘆した。


といっても彼らはそのロマン性だけを賛嘆したのであり、

一面的な熱狂でもあった。


したがって、マイスター第二部が発表されるや、彼らは見向きもしなかったのである。


なぜなら第二部ではウイルヘルムは塔の結社に入って現実世界での社会奉仕が強調されたからである。


これはロマン派の情調重視からは遠いものになってしまった。


ゲーテもまた、『ロマン派は病的だ』として批判したのだった。


ウイルヘルムマイスター第2部はウイルヘルムたちが新大陸へ移住を決意することで終わっている。

空想から現実へ。無為から労働へ。それがゲーテの結論だった。


ロマン派たちががすきなのはあくまで第1部である。


謎の老竪琴弾きと不思議な少女ミニヨンが織り成すあのファンタジーワールドこそ本領だったのだ。


憧れと郷愁、そして、あえかな憧憬、まだ見ぬくにイタリアへの想い、


運命の転変にもてあそばれる薄倖の少女ミニヨン。


そしてウイルヘルムへのほのかな愛に生きたミニヨンはその短い生涯を閉じる。


こうしたお膳立てはまさにロマン派の最も好むところだった。


それが第二部では「さあ、もう夢見ることはやめて手仕事で汗を流して働きましょう、」


というのではこれは、もうノヴァーリスなどは拒否反応だろう。


しかしこのウイルヘルムマイスターは以後絶大な影響をドイツ小説界に及ぼし続けたのである。


ジャンパウルの「巨人」1803年

ノヴァーリスの「ハインリッヒフォンオフターディンゲン」(青い花)1802年

ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」1799年

ホフマンの「悪魔の霊液」1815年

アイヒェンドルフの「予感と現在」1815年

ケラーの「緑のハインリッヒ」

メーリケの「画家ノルテン」1832年

シュティフターの「晩夏」

ティークの「フランツシュテルンバルトの遍歴」1798年

ブレンターノの「ゴドヴィ」


などなど、みんな大なり小なり影響を受けている。


「ウイルヘルムマイスターの修行時代」は


ドイツロマン派を生み出した産みの母といって過言ではないだろう。




そしてとくに、、


そのとうじょうじんぶつのなかで、、


老竪琴弾きと謎の薄倖の少女ミニヨンは


ドイツロマン派の象徴的なシンボルともいえる存在だったのだ。


ミニヨンはまさにロマン派のシンボルそのものだった。



彼女は憧れに生き、、あこがれに死んでいく。。


彼女は謎の歌を歌い南の国へとウイルヘルムをいざなう。


まさにドイツロマン派を象徴する少女像をゲーテは描いたのだった。






君知るや南の国


レモンの木は花咲き くらき林の中に


こがね色したる柑子は枝もたわわに実り


青き晴れたる空より しづやかに風吹き


ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く


雲にそびえて立てる国や 彼方へ


君とともに ゆかまし


          (森鴎外の訳)


*


君や知る、レモン花咲く国


暗き葉かげに黄金(こがね)のオレンジの輝き


なごやかなる風、青空より吹き


テンニン花は静かに、月桂樹は高くそびゆ


君や知る、かしこ。


かなたへ、かなたへ


君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ。


君や知る、かの家。柱ならびに屋根高く、


広間は輝き、居間はほの明かるく、


大理石像はわが面を見つむ、


かなしき子よ、いかなるつらきことのあるや、と。


君や知る、かしこ。


  かなたへ、かなたへ


君と共に行かまし、あわれ、わが頼りの君よ。


君や知る、かの山と雲のかけ橋を。


ラバは霧の中に道を求め、


洞穴に住むや古籠の群。


岩は崩れ、滝水に洗わる。


君や知る、かしこ。


  かなたへ!かなたへ


わが道は行く。あはれ、父上よ、共に行かまし!


(高橋健二の訳)


*


君よ知るや南の国


レモンの花咲き オレンジのみのる国


空は青く 風はさわやか


(かつら)はそびえ ミルテかおる


君よ知るや かの国


はるかに はるかに


恋人よ 君といこうよ


君よ知るや 南の国


そこにある わがすみか


広間あかるく 花の香みちる


「おまえは しあわせ?」


やさしく といかける ふるい胸像


はるかに はるかに


恋人よ 君といこうよ


       (三木澄子の訳)


           *


       ミニヨン


あこがれを知るひとだけが、


私の悩みを知っている。


すべての喜びから


ひとり離れて、かなたの


大空を私は眺める。


ああ、私を愛し、知っているひとは、


遠い所にいる。


目はくらみ


私の心は燃える。


あこがれを知るひとだけが、


私の悩みを知っている。

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