公爵家の双子には手を出すな その4 ~ジョイスと呪いの踊り子~
文中に「キャバレー」が出てきますが、イメージはロートレックの絵に出てくるようなお店です。
空が白み始めた。厚いカーテンの隙間から、白い光が漏れ始める。
今、何時なのかしら。
眠ることをあきらめて、ジョイスはベッドに腰かけていた。
カチャ。
かすかな音がして、寝室のドアが小さくきしんで開いた。隙間から身を滑り込ませるようにこっそりと誰かが入ってきた。わかっている。夫のウィリアムだ。こんな時間まで……。ジョイスはため息を呑み込んだ。
「おかえりなさいませ」
大きな声ではなかったのに、その声は思いの外静かな寝室に響いた。ウィリアムは、大げさなほど飛び上がった。ジョイスが起きているとは思わなかったのだろう。
いやあね。まるでわざと驚かせたみたいじゃない。わざとだけど。
「たたたただいま。ま、まだ起きていたのかい?」
暗がりでも冷や汗をかいているのがわかるくらい、動揺している。
「いいえ。そろそろ起きようと思ったところです。少し早めですが」
もう使用人も起きてくる時間だというのに、この人は何を言っているのだろう。時間の感覚が狂っている。
「ずいぶん早いお帰りでしたこと」
「いやいやいや。あっ、ちょっとふろに入ってくるよ。じゃ、じゃ、じゃあ」
取り繕うように言って、ウィリアムは今しがた入ってきたばかりのドアを開けて、外に出て行った。
こんな時間にふろの準備をさせられるメイドもいい迷惑だわ。
ジョイスは閉められたドアを見つめて今度こそため息を吐いた。安っぽい花の香りが寝室の中に残された。
ジョイスがここジョーンズ伯爵領に嫁いできて、まだ一年足らず。まだまだ新婚。のはずなのに。
夫のウィリアムは新妻のジョイスをほったらかして朝帰りだ。一度や二度じゃない。しょっちゅう。今では週の半分ほどは朝帰りだ。そのうち、そう遠くないうちに帰って来なくなる。そんな予感は十分にある。
結婚生活は順調だったのだ。
ウィリアムはジョーンズ伯爵家の嫡子で、後々伯爵を継ぐ。性格は温厚で、まじめで誠実。それほど派手な容姿はしていないけれど、清潔に整えられた格好は好感が持てた。背が高くてがっちりしているから、頼りがいもありそう。
王都育ちのジョイスが田舎の領地住まいに耐えられるか家族は心配したのだが、ウィリアムならば安心して任せてもいい。そう思って送り出したのだ。
ジョイスも田舎暮らしを楽しんだ。
はじめて見る広大な農地と放牧地。馬に牛。天高く飛ぶ鳥。あと虫。動物は見ていて面白かったが、虫だけはいただけなかった。王都で見る虫と言ったらちょうちょやトンボがせいぜい。
田舎ではカマキリやバッタ、クモに蜂。アリなんて至る所に列をなしている。知らない虫が飛んできてぶつかる。外を歩けばうっかり踏んづける。
実にいただけない。
同居の義父母もずいぶんよくしてくれて、使用人たちもきちんと訓練されていて、虫さえ除けば快適な生活だったのだ。
ウィリアムが家を空けるようになったのは、結婚から数か月たったころだ。サロンに行く。そんな理由だった。
サロンとは貴族やジェントリの男性たちが集まるバーのようなものである。お酒を飲んだり葉巻をふかしたりしながら、社交をする場だ。
反対する理由はなかった。
が、徐々に帰宅時間が遅くなる。
サロンとはこんなに夜遅くまで開いているものなのかしら。ウィリアムにそんな疑問をぶつけたら「いろいろあるんだよ」という返事が返ってきた。
はぐらかされた。
義父母も少々困った顔で
「社交もほどほどにしなさい」
なんて言ってはいるが、どうも歯切れが悪い。ウィリアムも「わかったよ」と答えはするものの、社交とやらをやめる気配はまったくない。
そのうち、使用人たちもウィリアムの外出を隠すようになった。ウィリアムがいつ出かけたのか、ジョイスは知らない。気づけばいなくなっている。ウィリアム抜きの晩餐が続く。
「ウィリアム様は、今日もお出かけなのですか?」
義父に聞くと
「ああ、そうだね。きっと今日は早く帰ってくるよ」
と返事が返ってくるが、早く帰ってくることはない。適当な返事でごまかしている。ジョイスがうつむき加減で食事を続けると
「ウィリアムにはちゃんと言って聞かせますからね」
と義母は言う。いったいなにを言って聞かせるのか。
ある日の午後のこと。屋敷の中を歩いていたジョイスの耳にメイドたちの会話が入ってきた。
「やっぱり若奥様って気取っているから……」
……? 若奥様ってわたしのこと? ジョイスは足を止めた。
「そうねぇ。王都育ちの公爵家のお嬢様じゃ、若旦那様も息が詰まるわよ。だって隙がないもの」
「緊張するわよねぇ」
「なにを好き好んでこんな田舎に来たのかしらねぇ。だまって都会にいればよかったのに」
「ほんとほんと。笑っているけど、きっと心の中じゃ田舎者ってバカにしてるのよ」
「食事だっていつも残すし。都会のお嬢様のお口には田舎料理は合わないんだろうね」
「若旦那様に逃げられて当然よねぇ」
キャハハハ。
それ以上悪意に満ちた会話を聞いていられなくて、ジョイスは引き返してしばらく部屋から出てこなかった。
そんなふうに思われているなんて知らなかった。
気取ってなんかいないし、バカにもしていない。隙がないってどういうこと? いつも通りなのに。むしろ、気を抜いている方なんだけど。ウィリアム様もそう思っているのかしら。息が詰まるから帰って来ないの? 食事だっておいしいと思っている。ただ、一人分の量が多いのだ。二倍くらいある。食べきれなくて残しているだけ。
それなのに、逃げられて当然なんて……。
例の王太子の騒動の後、割と早いうちにジョイスの結婚が決まった。
ジョイスは愛し愛される結婚に憧れていたのだ。身近には両親をはじめそういう夫婦ばかりだったから、当然自分もそうなると思っていた。てっきりグレースもそうだと思っていたから、鶴亀商会に入ると聞いたときには驚いた。
「商談や買い付けのために、外国を回るのよ」
目を輝かせてそう言ったグレースが、意外でもありちょっとうらやましくもあった。
でもジョイスは結婚して子どもを産み育てる、という生活がしたかった。だからまじめで誠実そうなウィリアムと結婚出来て、うれしかったし安心もしていた。
雄大な自然が広がるこのジョーンズ伯爵領で、穏やかに暮らして、のびのびと子どもを育てるのだ。
この人となら、きっと理想の結婚生活が送れる。
そう思っていたのに。
「アンジ―」
ジョイスは侍女を呼んだ。公爵家から付いてきた侍女である。今となってはこの屋敷で信用できるのはアンジーただ一人。
「はい、ジョイス様」
「ウィリアム様がどこでなにをしているのか、わかっているのでしょう?」
「はい、情報は収集済みでございます」
アンジーは侍女兼護衛兼諜報員。どれをとっても超優秀。その彼女をつけてくれたのは父である。「何があるか、わからないから」そう言って。
「何もないわよ。アンジーの能力が無駄になっちゃう」
そう言って彼女の同行を断ろうとしたのだが、今は感謝しかない。ほんとうに、何があるかわからない。悲しいことに。
「ウィリアム様が通っているのはキャバレーです」
「きゃばれー……」
「はい。殿方の娯楽施設でございます。お酒を召し上がりながら会話を楽しんだりします。基本的には」
「基本的には……」
お茶会とはちがうのかしら。何かを飲みながらお話しするのなら、同じだと思うが。
「キャバレーには女給や踊り子がいます」
「あらまあ」
女給は聞いたことがある。殿方に愛想よく給仕をする女性だ。噂によれば、ずいぶんと距離が近いらしい。ぴたりとくっついて座ることもあるとか。
踊り子とはオペラやバレエの踊り子のことかしら。
「いいえ。殿方が喜ぶような踊りをするのですよ。大きく胸をはだけて、スカートをたくし上げて足を上げて踊るのです。あれを踊りと言っていいものか疑問ですけれど」
「あらあらまあまあ」
ジョイスの頬が真っ赤になる。
「殿方はそれをお喜びになるの?」
「そうでございます。残念ながら若旦那様も」
「ええー」
「さらに残念なことに、若旦那様は一人の踊り子に入れあげておいでなのです」
「あらー」
愛人を作ったのでは? と疑ってはいたが、まさか踊り子とは。
「サロンと言って、キャバレーに行っていたのね」
「そうでございます」
「そう。踊り子に会うために」
「常宿がございます」
常に泊まる宿と書いて常宿。それがなにを意味して、なにをするのか、ジョイスだってわかる。
それであの安っぽい香水を纏って帰ってくるのか。
「その踊り子は年は二十八。妖艶な熟女でございます」
「妖艶……」
「はい、ジョイス様とは正反対でございますね」
「そうですね」
ジョイスは十八になったばかり。結婚したとはいえ、まだまだ箸が転んでもおかしいお年頃だ。花より団子。お色気には程遠い。
「そう。ウィリアム様はそういうご婦人がお好きなのね」
「ですが、性癖と入れあげるのは違いますよ。若旦那様は度を越しておられます。その踊り子を住まわせる屋敷を探しているようです」
そうなんだ……。
「まじめで誠実な方だったのに」
「ジョイス様、まじめな方ほどいったんタガが外れると、暴走するものでございます」
「まあ、ウィリアム様は暴走しているの?」
「そうでございます。あれを暴走と言わずしてなんと言いますか? 新妻どころか仕事すらを放り出しているのですよ。無責任にも程があります」
アンジーが辛らつだ。
「お義父様とお義母様もご存じなのね」
「はい。注意はしているようですが、聞く耳持たずと言ったところでございます」
「まあ。打つ手は無し。かしらね」
アンジーは深く頭を下げた。
別にアンジーのせいじゃない。
それからしばらくして、ウィリアムはとうとう帰らなくなった。
義父母も使用人たちも、ジョイスを腫物を扱うように接する。
そのくせ、メイドたちの悪口はエスカレートしていく。
「嫌だわ。もう帰りたい」
ぽろりと本音がこぼれた。あれほどおいしかった果物や野菜やお肉やミルクが、今では全く味がしない。チーズたっぷりのグラタンなんてもはや嫌がらせ。
もう本音を言えるのはアンジーしかいない。ジョイスにとって、この屋敷は針の筵だ。
「荷物をまとめましょうか」
アンジーがそう言った。きっとアンジーはこの状況を公爵家に伝えているはずだ。帰っても何も言われないだろう。むしろ温かく迎えてくれる。
でも! ジョイスはふんすとこぶしを握る。
しっぽを巻いて帰るなど言語道断。やられたらやり返す。それがグランヴィル公爵家の双子のモットー。こちらにも矜持はある。
「グレースならどうするかしら」
そう言ったら、アンジーが「待ってました」とばかりに、ニヤリと笑った。
なんというタイミングか、グレースから手紙が届いた。
「南洋諸島からの帰りに寄るわ。おみやげがたくさんあるの」
そんなメッセージからは、ふわりと南国の甘い花の香りがした。安っぽい香水とは全然違う。
領主館のあるこの町は宿場町でもあるので、この地方一番の大きい町だ。鶴亀商会の支店もある。
その支店へとたくさんの荷馬車が延々と連なってきた。人々は何事かと沿道でその列を眺める。これでも積み荷の半分は王都へ向かったのだ。残りの半分をこの地方の各都市へ振り分けて発送する予定である。その中継地点がこの町である。
***
「ジョイス~」
とうとうグレースがジョーンズ伯爵邸に降臨した。
「グレース~、待っていたわ~」
再会の熱い抱擁である。伯爵夫妻も温かく見守る。しばらく抱き合って再会を喜んだ二人だったが。
「さあさあ、長旅でお疲れでしょう。中でお茶にしましょう」
伯爵がそう声をかけた。
「そうよグレース。バターたっぷりのマドレーヌがとってもおいしいのよ。朝からシェフが腕によりをかけて作ったのよ。ぜひ食べてみて」
ジョイスがグレースの手を引いた。
「まあ、楽しみだわ。ジョイス」
「あなたにとっては、珍しくもないんでしょうけれど。ねえグレース」
「そんなことはないわ。やっぱり馴染んだ味が一番よ。ねえジョイス」
ふふっと、見つめ合って笑う二人。
「ところでジョイス。あなたの旦那様はどちらに?」
ほわほわとし空気がピキッと凍り付いた。
そう、この日もウィリアムは不在だった。ジョイスは彼と愛人の踊り子が住む家を知らないが、夫妻は知っている。グレースの訪問を知らせたにもかかわらず、来なかったのだ。
アンジーは公爵家にはもちろん、グレースにも報告を上げている。超優秀な侍女兼護衛兼諜報員なのだから当然だ。今日ちゃんと迎えに来ていれば、少しは手加減したものを。
伯爵夫妻だって、次期伯爵である息子を御せないのならば同罪である。
問答無用。天誅だ。
「さあ、どこにいるかわからないのよね。帰ってこないし」
ジョイスがあごに人差し指を当てて、こてんと小首をかしげた。
「あらそうなの。じゃあ、お土産はいらないわね。南洋諸島のお酒を買ってきたのに」
「まあ、ステキ。さわやかそうね。グレース」
「ええ。サトウキビからつくられたお酒で、とってもいい香りがするのよ。ジョイス」
「あらあ、せっかく買ってきてくれたのに残念だわぁ。グレース」
「しかたがないわね。王都へ帰ったらおじさまにでも差し上げるわ。ジョイス」
阿吽の呼吸で続く会話。え? そのお酒、うちに置いて行ってくれるんじゃないの? と思っても口を挿む隙も無い伯爵。
「ねえグレース。おじさまってどのおじさま?」
王都の上級貴族をなべて「おじさま」と呼ぶ双子である。
「あらやだ。陛下よ陛下」
「ああ、そっちのおじさまね」
ちょっと待て。へーかって誰だ。伯爵家一同はぎくりと動きを止めた。
へーか。へえか。へいか。陛下?
ま、まさかね……。
国王陛下をおじさまと呼ぶ?
王都ではみんな知っているが、ジョーンズ伯爵領では知られていないらしい。
「あ、あのジョイス?」
おそるおそる伯爵が二人に割って入った。
「へーかとは、まさか国王陛下のことで?」
「そうですわよ?」
それがなにか? みたいな顔でジョイスとグレースはきょとんとしている。
な、なんてことだ。
伯爵家一同が青ざめた。
「でも、お酒はきっとおばさまが嫌な顔をなさるわ。飲みすぎなのよ、おじさまは」
おばさま? この流れでおばさまと言ったら……。
「ジョイス、おばさまとは……」
「王妃様ですわよ」
やっぱり。
この嫁、とんでもなかった。今さらながらに伯爵家一同が恐れをなした。
「まあ、おじさまのことはどうでもいいわ。早くマドレーヌをいただきましょう? ねえグレース」
「そうね、そうしましょう。ジョイス」
ジョイスがグレースの手を引いて応接室へと歩き出した。
どうでもいい? 国王陛下のことを?
冷や汗が止まらない。伯爵は家令に、ウィリアムを呼んで来いと命令した。今すぐに。首に縄をかけても、引きずってでも連れて来い。
同じく冷や汗ダラダラの家令は「はっ」と短く返事をすると、外へ飛び出していった。
グレースがジョーンズ伯爵邸に滞在して一週間、いまだにウィリアムとは会っていない。
これって、どうなのかしら。
静かにグレースは思案する。
ふざけるんじゃないわよ! と一刀両断もできるけれども、それはグレースがすることじゃない。やるならジョイス自身だ。そのジョイスは、どうするか決めかねている。
ならば待つしかないのだが、グレースだっていつまでも待つつもりはない。仕事だってあるのだから。
「舐めてんのかしら」
「これではジョーンズ領の行く末が不安だわ」
「いっそおじさまに訴えようかしら。ジョイスの危機ですもの」
独り言のようにグレースの口から飛び出す不穏なことばに、伯爵夫妻は恐れおののく毎日だ。
「お、おじさまとは……」
ここらへんで夫妻をはじめ使用人たちも、この双子にとっては王都の上級貴族がみんな「おじさま、おばさま」なのだと理解したところだ。
「ああ、宰相よ」
なんて恐ろしい。伯爵の額にじわりと脂汗が滲む。
そんなにビクビクするなら、さっさとウィリアムのバカタレを連れ戻せばいいのに。グレースは思う。
けっきょく、嫡男だからと甘やかしたのだな。それで甘やかしは継続中だ。ウィリアムのおおらかさは、ただの無頓着だ。
「後継ぎがまともに後を継がないのなら、代官を派遣してもらいましょうか?」
いえいえいえ、と伯爵は青ざめながら引き下がっていった。
「甘いわ。なにもかも」
アンジーが「ごもっとも」とうなずいた。
それから数日後、アンジーがこっそりと耳打ちした。
「お嬢様方、近々寄子の男爵家で夜会が開かれるそうなのですが」
うんうんとグレースとジョイスがうなずいた。
「ウィリアムが例の踊り子を連れて出るようです」
…………。
「伯爵夫妻もご存じですが、止めきれないでいるようです」
「そう」
ジョイスは静かに、一言だけそう言った。
止める方法はいくらでもあるはずなのに、しない。する気がないと思っていいのかしら。ならばやるわよ。
「そろそろかしら、グレース」
「そうね、遅いくらいよ、ジョイス」
「堪忍袋の緒が切れるとは、このことね。グレース」
「公爵家をバカにした落とし前、きっきりつけてもらいましょうね。ジョイス」
アンジーが、わきわきと指を曲げ伸ばししていた。
そうして迎えた男爵家の夜会当日。
宴もたけなわ。とはいえ田舎の男爵家の夜会である。王都のような華やかさは一段劣るが、ジョーンズ領の貴族や名士たちが一堂に会していた。
ウィリアムが、例の踊り子を連れて現れると、周囲がざわついた。踊り子の件は周知のことではあったが、公の場に妻ではなく愛人を連れてくるとは。夫人たちは一様に眉をしかめ、遠巻きにしている。夫たちも対応に困っている。うかつに話をしてしまえば、愛人を妻代わりだと認めてしまうことになる。しかもウィリアムの妻は王都の公爵家のご令嬢だ。粗相をして、目をつけられたらどんな仕打ちを受けるかわからない。まったくもって迷惑千万。ウィリアムにも困ったものだ。
親がなんとかしろよ、と思う。ところが伯爵夫妻はあいさつを済ませると、さっさと帰ってしまったのだ。寄子の夜会だ。顔出しさえすれば義理は立つ。
それを見越したウィリアムは、夫妻と鉢合わせしないように時間をずらしてやって来たのだった。
まったく、余計なことには気がまわるんだな。これも愛人の入知恵かもしれん。
その愛人は、真っ赤な派手なドレスでこれでもか、というくらい着飾っていた。胸元も背中も大きく開いていて、一面に刺しゅうされたビーズがギラギラと光る。眩しいくらいだ。
ごろっと大ぶりなネックレスとイヤリング。石も赤。ルビーのようだが、色が薄い。ルビーとしてはランクが落ちる。
髪を高く結い上げ、化粧も舞台のようなけばけばしさ。ぷんぷんと放つ香水は、やはり安っぽい。
その女が我が物顔で夜会を蹂躙していく。
「なーんかみすぼらしい女ばっかりねぇ。貴族なんて言うからもっと豪華なんだと思ってわぁ」
大きな羽根の扇でばっさばっさと扇ぐ。その度に安い香水の匂いが振りまかれる。みんなが顔をしかめる。
「やっぱり田舎はダメねぇ。ダッサイわぁ。王都と大ちがい。ねえ、ウィルぅ。あたし王都に行きたいわぁ。あたしレベルは王都じゃないと合わないのよぉ」
ばっさばっさ。みんなが顔をしかめる。
ウィリアム、あれのどこがいいんだ? 疑問も漂う。まじめで温厚な、次期領主として期待されていたのに。まじめな人ほどいったん落ちたら歯止めが利かなくなるのだな。非常に残念だ。
領主の嫡男であるウィリアムに物申す人はいない。主催の男爵も彼らの扱いにほとほと困った時だ。
玄関が大きくあけ放たれた。鼻の曲がりそうな安っぽいにおいが一陣の風に吹き流された。
会場中の視線がホールの入り口に向けられた。
しゃんしゃんしゃん。
鈴の音がする。なんで?
ホールの人々は左右に分かれ、道を開けた。
入場してきたのはジョイスとグレースである。あでやかな異国の衣装を身にまとっている。
薄絹を幾重にも重ねた軽やかなスカートにキャミソール。王国のようなコルセットで締め付け、パニエで膨らませたスカートとは違って、体に沿って流れるようなスタイルのドレスだ。丈は足首の上まで。ビーズをあしらったサンダルに、キラキラのアンクレット。のぞくつま先は赤く染められている。
髪は結わずにおろして、腰までの長いベールをかぶっている。ベールのすそには細かい宝石が縫い付けられて、光が当たるたびにキラキラと光る。
二人ををエスコートするのはやはり異国の少年である。そろそろ少年から青年へ移ろうかという危うさを秘めたお年頃。
すらりと伸びた手足。丈の短いシャツと、大きく膨らみすそがすぼまったバルーンのようなパンツ。プラチナブロンドの長い髪は緩く三つ編みにして胸元へと垂らす。頭に巻いた金の鎖。額に光る青い宝石。
そこはかとなく香る南国の花の香。実に上品。
殿方もご婦人も、その麗しさに「ほうっ」と息を吐いた。
ウィリアムは焦った。あれはジョイスだ。だがジョイスが二人いる。ジョイスは双子だから、片方はグレースなのだろう。どっちがどっちだ? まずい。区別がつかない。
ウィリアムがグレースに会ったのは、結婚式のとき一回だけである。そっくりだなぁ、二人並んだらどっちかわからないなぁ、と思った。でもそのときは、ジョイスはウェディングドレスを着ていたし、グレースは礼服だったから間違えることはなかったのだ。
ところが今、二人は同じ服を着ている。これではわからない。
どうしよう。こっそり帰ろうか。
愛人で踊り子のローズは、ぎりっと奥歯を噛んだ。
誰よ。なに? あのドレス。あたしより目立つなんて許せない。今日はあたしがヒロインなのよ。
あんな小娘、痛い目に合わせてやる! なにしろあたしは領主の後取りの恋人なんだから。泣いて帰るがいいわ。
ローズはウィリアムの妻の顔を知らない。
「よ、よくおいでくださいました。お嬢さ……ま?」
圧に呑まれながらも主催者としてあいさつをしようとした男爵だったが。
「あらやだ。お嬢様じゃございませんことよ。これでも新妻ですわ」
「ジョ、ジョイス様ぁ?」
男爵がのけぞった。気づいてくれてよかった。「ほほ」とほほ笑むジョイスとは反対に男爵は、気づいてよかったと安心したのと同時に、これから起こるなにかに血の気が引いていく。
最悪だ。若旦那様と愛人と鉢合わせだ。どう取り仕切ったらいいんだろう。こんな修羅場など、遭遇したことはない。となりでは同じく夫人が青ざめている。
「こちらは双子のグレースですわ」
そんなことには構いもせずに、ジョイスはグレースを紹介した。
「こ、こ、これはこれは。お二人そろって麗しい。ようこそいらっしゃいました。ごゆるりとお楽しみください」
男爵は息も絶え絶えながら、ようやく歓迎の言葉を述べた。
「まあ、ありがとう。よろしくね」
グレースはすっと手を差し出した。男爵はダラダラと汗をかきながら、その手に口を寄せた。
「と、ときに。そちらのお坊ちゃま、お嬢様方は、どちらのお方で?」
そうそう。それが聞きたかったのよ。男爵グッジョブ。これはギャラリーの心の声。
「ああ、この子たちは西方の砂漠の国のギャングだったのよ」
ぎゃ、ぎゃんぐ……?
「浮浪児だったの」
なんと、浮浪児!
「盗みを働いたり、ケンカをしたり、人に迷惑ばっかりかけていたのよ。それをまとめて拾って鶴亀商会で雇ったのよ」
さもない風に言ったが、とんでもないことでは? 人々がこのお嬢さん、ただ者じゃないぞ、と警戒する。
「あらグレース。海賊の次はギャングを手なづけたのね」
「うふっ。そうなのジョイス。手駒が増えたわ」
海賊も手なづけたの⁉ やっぱりとんでもないお嬢さんだ。敵に回したら何をされるか……。みんながそーっとウィリアムを盗み見た。青くなって震えていた。
だろうな。
実はこの少年少女、鶴亀商会のスパイ兼ハニトラ要員である。エキゾチックな彼らが金色の瞳でじいっと見つめて、ニコッと微笑めば大抵のものは口を割るのだ。まだ幼さの残る面立ちも気を許すのだろう。
もちろん、危ないことは絶対に許さないのだが。
今だってポーッと見惚れている紳士淑女がそこここにいる。
「これも西方の国の王族の衣装ですの。すてきでしょう?」
ジョイスはひらひらとベールを振ってみせた。
「え、ええ。とても個性的で、エ、エキゾチック? ですな。はは」
引き攣り気味に男爵が言った。
双子は「ほほ」とそろって微笑んだ。
「今日は南国のお酒をお持ちいたしましたの。皆様とお近づきの印ですわ」
給仕たちが鮮やかなオレンジ色のお酒が入ったグラスを配り始めた。
「ココナッツで造ったお酒ですの。たいそう強いお酒ですから、今日はオレンジジュースで割ってみました」
ココナッツの甘い香りがあたりに漂う。
「まあ、いい香り」
「うん! まろやかでうまいな」
評判は上々だ。
「甘いのがお好みでなければ、サーラの天然水(サーラ地方に湧く微発泡天然水)で割るのもよろしいかと存じますわ」
「おお! それはいい!」
賛同を得た。もちろん「サーラの天然水」は鶴亀商会の独占販売だ。
そんな魅惑のお酒をいただいたのなら、きちんとごあいさつをせねば。しかも公爵家のご令嬢で、王国最大の鶴亀商会の役員も務めるのだ。ぜひこれを機にご縁を結びたい。そんな思惑で、一同が双子の前に列をなす。
大勢にとり囲まれた双子を横目に、面白くないのはローズである。大きな羽根の扇子をぎりっと握った。
「なんなの、あの小娘。生意気だわ。身の程を知らせてやる」
鬼の形相で居並ぶ貴族たちを蹴散らして双子の前に進み出た。ウィリアムが、引き留めようと必死に縋っている。
「ちょっとあんた!」
ひえー。本妻しかも公爵家のご令嬢に向かってなんという言い草。
「後から来て、大きな顔をするんじゃないわよ。今日の主役はあたしなのよ!」
「やめろよ。やめるんだローズ」
ウィリアムがいくら止めたところで、暴走ローズは止まらない。
「だいたい生意気なのよ。小娘のくせに。あたしはジョーンズ伯爵の身内なんだから、あんたたちはわきまえなさいよ。さっさとお帰り!」
となりでウィリアムがだらだらと脂汗を流している。ジョイスはふっと彼に目を向けた。目が合った。ウィリアムは、わざとらしいほど飛び上がった。
「「あら、旦那様。お久しゅうございます」」
二人の声がそろった。シンクロ率百パーセント。
シーン。周囲はお葬式のように静まり返った。本当にお葬式かもしれない。ウィリアムの。もう黙祷しよう。下手に口を出さない方がいい。みんな一斉にうつむいた。
っていうか、どうして二人同時に言ったのだ? これじゃあ、どっちがどっちだかわからない。
「えっと、えっと」
ウィリアムの視線がさまよう。いったいどっちが正解だ?
「ひ、久しぶりだね」
結局二人の中間に立って、あらぬ方向を見ながらそう言った。アウトだな。全員が思った。
「あら、ウィルの知り合いなの? どこの小娘なの?」
ローズが腕を組んでふんぞり返った。
「こっちは次期領主なのよ。わかってる? まったく無礼だったらありゃしない」
あんたがな! 一同総ツッコミ。
「えーっと、えーっと。つ、妻だよ」
「えっ⁉ この小娘が?」
はじめは驚いたローズだったが、やがて意地悪く笑った。
「あらあら、まだお子ちゃまじゃない。これじゃあ、夜のお勤めもまともにできそうにないわねぇ。つまらなかったんでしょう? あたしと違って。ねえ、ウィル」
意味深に上目遣いでウィリアムにしなだれかかった。今度は婦人たちばかりじゃなく男性陣もしかめっ面になった。
汗をかくのはウィリアムだけである。
「で、どっちが妻なの?」
知らずローズは核心をついた。もちろん双子は知らん顔で立っている。
「えっと。えっと」
えーい、もう破れかぶれだ。
「こっちだよ」
ウィリアムは右側を指した。
「あらやだ。しばらく会わないうちに妻の顔も忘れたの? ひどいわ、ねえグレース」
左側のジョイスが言った。しまった。でももう遅い。
「ほんとねジョイス。わたし、こんな浮気者とは結婚しないわよ。しかも相手がこんなセンスの悪い方なんて。こっちの品格まで下がるわ」
「「やあねぇ」」
二人は顔を見合わせて、小首をかしげた。
「ちょっと! 役立たずの嫁のくせに!」
ローズがキーキーとヒステリックにわめきたてた。
「というか、わたしが来てから十日ほど経つのですけれど、一向にごあいさつができませんでしたわ。どういうことかしら。ねえジョイス」
「ええ、ほんとうにねグレース。何度もメッセージを送ったのに、ことごとく無視されたわね」
「「やあねぇ」」
そう言って二人は再び小首をかしげた。
「いやいや。それは。ほんとに。……申し訳ない」
「こんな基本的な連絡のやり取りもできないなんて、次期領主がこれじゃあ、領民も安心できないわねぇ、グレース」
「ジョーンズ伯爵家に問題ありっておじさまに教えて差し上げた方がいいかしらね、ジョイス」
「そうねぇ、そのほうがいいかもしれないわ。放置して取り返しがつかないことになったら大変だものね、グレース」
「ちょ、ちょっと待って。おじさまって誰のこと?」
ウィリアムは、この双子が国王夫妻をはじめ、並み居る大貴族たちをみな「おじさま、おばさま」と呼ぶことを知らない。
「だから、国王陛下だってば。何回言ったら覚えるのかしら、ねえグレース」
「脳みそまでイカレたのかしらね、ジョイス」
今聞いたばっかりなのに、ひどい言い様だ。いや、国王陛下と言ったか? 言ったな。マジで?
ウィリアムはもちろん、男爵夫妻、その他の参加者たちも青ざめた。
国王陛下を「おじさま」と呼び、海賊とギャングを手なづけるこの双子、マジでヤバい。触らぬ神に祟りなし。全員が一歩下がった。
「あ、あれ? ローズは?」
しばらくぎゃんぎゃんと喚いていたローズがいつのまにかいなくなっている。
「あら、さきほどうちの子と一緒にどこかへ行きましたけど」
うちの子? 言われてみればグレースのエスコートをしていたエキゾチックボーイが消えている。
「え? 一緒に?」
ウィリアムが慌てだした。
「ど、どこへ? ローズ!」
ちょうどその時だ。
「ぎゃあーっ‼」
断末魔のような悲鳴が上がった。同時に掃き出し窓からエキゾチックボーイが飛び込んできた。襟元が乱れている。
「まあ、どうしたの? だいじょうぶ?」
グレースが抱きとめて、乱れた襟を直してやる。
「グ、グレース様ぁ」
涙目で彼はおびえていた。
「愛人が一緒だったのではないの?」
「はい、一緒でした。でもあの人は『業突く張りの呪い』にかかってしまったのです」
業突く張りの呪い⁉ それはなに?
一同が目を見張った。
「なんですって? あの『業突く張りの呪い』に⁉」
エキゾチックボーイは涙ながらに説明を始めた。
双子とウィリアムの攻防の陰での出来事である。ぎゃんぎゃんとわめくローズに、彼は魔法のランプをちらりと見せた。
「なんでも願いをかなえるランプなんですよ」
意味深に目配せしたら、ローズは並々ならぬ興味を示した。
「なんでもかなえるの? なんでも?」
「ええ、なんでも」
「ちょっと貸しなさい」
そう言ってローズは彼からランプを取り上げ、掃き出し窓からテラスへ出て行ってしまった。エキゾチックボーイはあわてて後を追った。
「待ってください。ちゃんと用法容量を守らないと大変なことになりますから!」
そんな言葉はまるっと無視して
「使い方を教えなさい」
居丈高にローズは言った。
「……撫でればいいんですよ。ほら、こうやって」
彼はローズの手を取ると、やわやわと握り込みながらランプを撫でさせた。
「ほらね、こうやって」
ぴたり寄り添って、耳元で息を吹きかけるようにささやいてやる。
「そして願いを言うんです」
「金よ、金が欲しいの」
散々たかっておいて、まだねだるのか。つくづく強欲だな。ちょっと呆れた。呆れながらも、すりっとすり寄る。
「あ、あら。あなた、かわいいじゃないの」
「そんな。おねえさまの前では僕なんかただの小僧ですよ」
そう言いながら、ますます体を寄せていく。
「あっちは取り込んでいるみたいだから、ちょっと楽しみましょうよ」
ローズはするりと彼の腰に手を回して引き寄せた。
「あん♡おねえさま♡」
エキゾチックボーイは超優秀なスパイ兼ハニトラ要員である。
今まさにローズが覆いかぶさろうとした瞬間。
ぷしゅっ。
ランプから何かが吹き出した。そしてローズは、それをまともに顔に浴びてしまった。
「ぎゃあーっ‼」
ローズは両手で顔を覆うとうずくまってしまった。それを確認して、エキゾチックボーイは、よし! とうなずいた。それからおもむろに肩をはだけて掃き出し窓からホールへ飛び込んでいったのである。
「いきなり襲い掛かって来たものですから、僕びっくりしてしまって、ランプを落としてしまったんです。それで『業突く張りの呪い』が発動してしまったのです。ごめんなさい、僕が落としてしまったばかりに……」
彼はさめざめと泣いた。
「いいえ、あなたのせいじゃないわ。あれもこれもと欲張るから呪いが発動したのよ。身の程をわきまえていればよかったものを、ねえジョイス」
「そうね。愛人で満足できずに欲を掻いちゃったからね、グレース。自業自得だわ」
「そ、そんな……。ローズがそんなことを……」
ウィリアムがショックを受けているが、ローズならやりかねない。大方の人はそう思った。
「気づかなくてごめんなさいね」
「辛い思いをしたわね。もう帰りましょうか」
双子が慰めていた時だ。テラスからヨタヨタとローズが入ってきた。
「きゃあっ」
婦人たちが叫び声をあげた。彼女の顔は真っ赤に爛れていたのである。
「危ないっ! こら! 近寄るなっ! うつるっ!」
男性陣もパートナーを守るように盾になる。その間をローズはふらつきながら歩いていく。
「顔が、あたしの顔が……」
さすがにウィリアムも手を出せなかった。自分が人生最大級に焦りまくっていた時に、こともあろうにこんな少年に手を出そうとしたのだ。
ローズはそのままふらふらと屋敷から出て行った。
「あらまあ」
双子がため息を吐いた。
「追いかけなくてよろしいの」
ジョイスがウィリアムに問いかけた。ウィリアムは半べそで返事もできなかった。
「情けないわね」
ぼそっと言ったら、ウィリアムは急におどおどし始めた。
「愛人を囲うなら、それなりの覚悟をしなさいな。妻も守れない、愛人も守れない。これで領地と領民を守っていけるのかしら」
まったくもって、そのとおり。みんながうなずいた。
「まあいいわ。今夜のことはお義父様とお義母様に報告します。あなたは今後どうするか、ちゃんと考えた方がいいわ」
言い負かされて、ウィリアムはうなだれた。
「ねえグレース」
「なあにジョイス」
「思ったのだけれど、わたしそれほど結婚したかったわけじゃないみたい」
「あらそう」
「ねえグレース。わたし、あなたと一緒に行くわ」
「まあジョイス。歓迎するわ。次は北方の山岳地帯に行く予定よ。お茶の買い付けに行くの」
「じゃあ、ウールのコートがいるわね、グレース」
「手袋と帽子もいるわよ、ジョイス」
くすくすと笑いあう双子の横で、ウィリアムは今にも倒れそうだった。
この双子に手を出したらいけない。滅ぼされる。
それはあっという間に領地中に伝播した。
ローズの顔が爛れたのは、呪いでもなんでもなくただ毒草の汁にかぶれただけだった。ランプに仕込んであったのだ。タイミングを見計らってスイッチを押すと、汁が吹き出す仕組みだ。超優秀なスパイグッズだ。
かゆくて痛いだろうが、一週間もあれば治るはず。あれだけ爛れたら、痕が残るだろう。踊り子に復活できるかどうかは甚だ疑問である。でもそんなことはジョイスの知ったこっちゃない。なにせ、自業自得なんだから。
あれからウィリアムはローズと別れ、家に戻ってきたそうだが、その時にはすでにジョイスは旅立った後だった。せっかく公爵家からもらった嫁に、跡継ぎもないままに逃げられてしまったウィリアムは、両親に顔を見るたびため息を吐かれ、寄子一同からは「若旦那様」ならぬ「バカ旦那様」と呼ばれている。でもそんなことはジョイスの知ったこっちゃない。自業自得だ。
伯爵家を出る、と言ったならば。
「ま、待ちなさい、ジョイス。ちゃんと話をしてからの方がいいだろう?」
伯爵がおろおろしている。
「そうよ。ウィリアムは今度こそ連れ戻すから。ね?」
夫人もおろおろしている。何度も聞いて何度も裏切られた言葉だ。もう信用しない。
「おじさまたちには、ジョーンズ伯爵家に問題ありって連絡しておきました」
ジョイスは冷たく言い放った。
「ちょっ、ちょっ、おじさまたち? たちって?」
「陛下と宰相ですわ」
「なにかしらの沙汰があるでしょう」
……終わった。がっくりと膝をついた伯爵夫妻だった。
「ねえ、グレース。すごい山ね」
鶴亀商会の馬車に乗って、双子は北部高地のお茶農園に向かっている。行く手には天を突くような険しい山々が連なっている。
「真夏でも雪が融けないのよ、ジョイス」
「まあ、そうなの? じゃあ今度は夏に来たいわ。グレース」
「ええ、夏にも来ましょうね。ジョイス」
「楽しみだわ、グレース」
「そうね、ジョイス」
楽し気な話声を乗せて、馬車は進んでいく。
おしまい




