完全栄養食の王国で、普通の給食を出したら救国の英雄が泣いた 〜前世が学校栄養士だった私は、チートが満たせなかった「おいしいね」を取り戻すことにした〜
前世の私は、二十六年間、毎日同じ質問をされ続けた。
「今日の給食なに?」
転生した先は、その質問が存在しない国だった。
最後の記憶は、検食簿に判を押したところで切れている。
公立小学校の栄養士。五十三歳。くも膜下出血。
アレルギー対応表の三重チェックを終えた直後だったことが、せめてもの誇りだ。
気がつくと、白い窓口にいた。
正面に、とんがり帽子の青年がひとり。
帽子はサイズが合わず、ずり落ちかけている。星柄のマントは肩から滑り落ち、手にはチープな杖。
胡散臭い魔法使いのコスプレ、としか言いようがない。目の下には、立派なクマ。
「転生管理局、凡人枠担当のツクヨです」
凡人枠。
チート様が世界を救ったあと、その尻ぬぐいに残る細かい仕事を、地道に拾う係――らしい。
あのクマを見るに、ツクヨ自身もよほどの激務のようだ。妙な親近感がわいた。同業の匂いがする。
「この衣装は上層部の指定なので、突っ込まないでください」
「まだ何も言っていません」
「みなさん、目で突っ込んでくるので」
ツクヨは杖の先で、宙に浮いた書類をめくった。
「チート適性を測定します。……ゼロですね」
「でしょうね」
驚きはしなかった。
二十六年、火と油と食中毒と戦ってきたのだ。奇跡に頼った日は一日もない。
「特典はありません。スキルもありません。よろしいですか」
「腕は二本ありますか」
「は?」
「腕が二本あって包丁が握れるなら、何も問題ありません」
ツクヨは少し目を見開いた。
それから、書類を一枚、こちらへ滑らせる。
前世の履歴書だった。「学校栄養士 勤続二十六年」。
「あなたの配属は、もう決めてあります」
疲れた目が、はじめて笑った。
「剣では、子どもに『おいしい』を食べさせてやれませんから」
「……どういう意味です」
「行けば、分かります。王立学院、食堂係。――凡人枠の、本領ですよ」
判が、ぽん、と押された。
「受けます」
即答だった。
食堂があるなら、そこは私の戦場だ。
――そのときの私は、まだ知らなかった。
この国の「食堂」が、どういう場所なのかを。
着任の挨拶で、学院長は申し訳なさそうに言った。
「食堂係といっても、仕事は配布数の管理だけですぞ。前任者は三日で『やることがない』と辞めましてな」
「ご心配なく。やることは自分で見つける性分です」
着任初日。
私、リーラは学院の食堂で、立ったまま動けなくなった。
二百人の子どもが、食べている。
音もなく。誰一人しゃべらず。
窓から差す光の中で、咀嚼の音だけが、さくさくと揃って響く。
軍隊の行進みたいに。
全員の手元にあるのは、味も素っ気もない、四角いパンだけ。
乾ききって、ほとんど石みたいに固い。
完全栄養食、マナブレッド。
魔力から生まれるパンだから、マナブレッド。誰が名付けたのかは、もう誰も知らない。
この国の救世主にして、国民食。
子どもたちは十五分きっかりでパンを齧り終え、列を作って出ていく。
食器はない。湯気もない。匂いさえない。
食堂というより、補給所だった。
厨房をのぞくと、いたのは配布係の青年がふたりだけ。
「お鍋はどこかしら」
「ナベ? 何に使うんです?」
「料理に」
「……りょうり」
青年は、異国の言葉みたいに繰り返した。
調理師はいない。そもそもこの国には「料理人」という求人が、もうほとんど存在しないらしい。
厨房の奥には、大鍋が埃をかぶって積まれていた。
ここがまだ「食堂」だった頃の、遺品だ。
私もマナブレッドを一口齧ってみた。
……ぼそぼそで、味がない。乾いた藁を噛んでいるようだ。
前世の防災用の乾パンのほうが、まだ夢があった。
十年前、この国は大飢饉で滅びかけたという。
救ったのが、ガロン卿。元はどこにでもいる平民の転生者だったが、この国を飢えから救った功績で爵位を授かったと聞く。
A級チートのスキルの名は豊穣。ひと握りの小麦を、栄養を余さず封じた完全食へと変える力だ。
卿が麦を握り込むと、手のひらが淡く光る。指の隙間から、四角く乾いた堅パンがぼろぼろとこぼれ落ちる。ひと握りが、ひと山に。それが、マナブレッドだ。
十年でも保ち、焼く手間も、配る工夫もいらない。ただ握らせればいい。その究極の効率が、一冬で国中の飢えを消し去った。
以来、食事といえばマナブレッド。それがこの国の常識だ。
栄養価は、完璧。
餓死者は、十年間ゼロ。
専門職として断言するが、これは本物の偉業だ。私の出る幕など、どこにもない。
――そのはずだった。
◇◇◇
最初の一週間は、観察に徹した。
数字を集めるのは、栄養士の基本動作だ。
配布数。食べ残し。所要時間。保健室の利用。
通えば通うほど、手元の帳面は静かに不穏になっていった。
なかでも最初に気づいたのは、隅の席だった。
いちばん小さな女の子が、いつも最後まで残っている。
齧っては、止まる。齧っては、窓の外を見る。
ミナ、八歳。
「なにを見てるの?」
「……ことり」
窓の外、植え込みの枝で雀みたいな鳥が虫をつついていた。
「いいなあって、おもって」
「どうして?」
「すきなものだけ、たべてるから」
返す言葉が、すぐには出なかった。
その翌日だ。
ミナがパンの欠片を、こっそりポケットに入れるのを見たのは。
「それ、ポケットの中で粉になるわよ」
声をかけると、ミナは肩を跳ねさせた。
「……あとで、たべるの」
「嘘ね。捨てるんでしょう」
「…………」
「怒らないわ。前世でも、苦手なものを牛乳で流し込む子をたくさん見てきたから」
ミナはしばらく黙って、それから小さな声で言った。
「ごはんのじかん、はやくおわってほしい」
ごはんの時間が、早く終わってほしい。
二十六年で、いちばん胸に刺さった台詞かもしれなかった。
翌朝、花壇の隅で乾いたパンの欠片をいくつも見つけた。
捨てているのは、ミナひとりではないということだ。
保健室で、記録を見せてもらった。
「微熱、腹痛、原因のわからないだるさ。あとは食欲不振ですね」
養護の先生が、帳面をめくる。半分以上が、その手の訴えで埋まっていた。
「薬も回復魔法も効かないんですよ。傷ならふさがるんですけどねえ。栄養は完璧なはずなのに、不思議です」
「回復魔法では、どうにもならないんですか」
「あれは、壊れたところを元に戻す魔法ですから。……『育っていない』のは、壊れたうちに入らないんです」
身長の記録もあった。
学年平均の伸びが、ゆるやかに下を向いている。
前世なら、即、職員会議ものの曲線だ。
「親御さんから苦情は?」
「まさか」
先生は笑った。
「親の世代は飢饉を知っていますから。マナブレッドさまさまですよ。文句なんて言ったら罰が当たります」
誰も悪くない。
それがいちばん、厄介だった。
試しに、市場で買った林檎を一つ、配膳台に置いてみたことがある。
市場の隅には、ごくたまに、こういう本物の食べ物が並ぶ。畑の片隅で細々と作り続ける者が、まだいるのだ。
とはいえ値は張るし、数も知れている。多くの家では、見ることもないのだろう。
「先生、それなあに?」
「林檎。果物よ」
「くだもの……」
「食べたこと、ある人?」
二百人の食堂で、手は三本しか挙がらなかった。
「好きな食べものは?」と聞けば、答えは決まって「マナブレッド」。
「マナブレッドって、おいしい?」と重ねたとき――
子どもたちは顔を見合わせて、ひとりが本当に不思議そうに聞き返したのだ。
「おいしいって、なに?」
その夜、私は宿舎の机で献立表を書いた。
書かずにいられなかった。
前世の給食室は、いつも騒がしかった。
カレーの日の歓声。おかわりじゃんけんの雄叫び。「ぼく、ピーマン食べられたよ」と報告に来る一年生。
あの騒がしさが、子どもが育つ音だったのだと、いまさら分かる。
ひとつだけ、心残りがある。
あの日、私は最後の検食簿に判を押した。
子どもたちが「おいしい」と食べたかどうか、私は見届けないまま死んだ。
今度こそ、その顔を見てから帰りたい。
豆と鶏のスープ。やわらかいパン。芋の甘煮。
ごく普通の、どこにでもある給食。
この国の、どこにもない給食を、私は書いた。
◇◇◇
宮廷栄養局への申請は、十日で却下された。
『現行支給品目の変更は認めない。マナブレッドは王国栄養基準を唯一満たす完全食である。――栄養局長』
通達は、素っ気ない一枚きり。
なるほど、「変更」は駄目らしい。
私は規定集を最初から読み直した。
お役所の文書なら、前世で嫌というほど読み慣れている。
そして役所の文書には、必ずどこかに隙間がある。
……あった。
支給品目の「変更」は禁止。
けれど「追加」を禁じる条文は、どこにもない。
「マナブレッドは今までどおり配る。一枚も減らさない。その横に、お椀をひとつ置くだけ」
これなら規定の内側だ。
文句があるなら、条文を直してから来てもらおう。
準備は、聞き取りから始めた。
食べて発疹が出たもの、息が苦しくなったものはないか。一人ずつ確かめて、台帳を作る。
「たまご? たまごって、なに?」
……そうだった。
全員、生まれてからずっとマナブレッドなのだ。この国には、アレルギーの記録そのものが存在しない。
つまり全員が、何が出るか分からない「人生初の食事」になる。
だから初日は、豆と野菜と鶏だけ。量は少なめ。様子を見ながら。
冒険は、専門職の仕事ではないのだ。
幸い、小麦そのものは手に入った。マナブレッドの材料として、畑では今も麦が育てられている。
ただ、それを粉に挽き、生地をこね、窯で焼く――そんな当たり前の手間を、この国はまるごと忘れていた。
足りないのは食材ではなく、料理する手のほうだ。
予算はないから、最初は自腹だった。
市場の終わり際に出る、形の悪い芋。くず野菜。安い鶏の骨。
マナブレッドがあれば、本来こんなものは要らない。それでも辺境には、昔ながらに鶏を飼い、わずかな畑を耕す者がまだいる。
育てた鶏は、いまも食事を楽しむ一部の好事家へ売られていく。形の悪い芋やくず野菜は、家畜の飼葉に。
肉を取ったあとに残る鶏ガラは、ただ捨て置かれるだけ。だからこそ、捨て値で手に入った。
「あんた、そんなもの何にするんだい。家畜の餌かい?」
「ええ。育ち盛りのね」
肉屋のおかみは、鶏ガラを紙袋に詰めながら首をかしげた。
「ガラで出汁ぃ? 聞いたことないねえ。スープなんて、飢饉の前の年寄りの話だよ」
「そのスープを、もう一回やるんですよ」
「物好きだねえ」
言葉は呆れていたが、おまけに骨を二本、多く入れてくれた。
埃をかぶっていた大鍋は、半日かけて磨いた。
骨と野菜くずを水から入れて、灰汁を取りながら、弱火でことこと半日。
厨房に、十年ぶりに出汁の匂いが立った。
夜中に守衛が血相を変えて飛んできた。
「な、なんだこの匂いは!」
「夕飯の匂いです」
「……ゆうはんの、におい」
守衛は鍋の前から、しばらく動かなかった。
帰りぎわ、小声で「明日も焚くのか」と聞かれた。焚きますとも。
学院長には、検食をお願いした。
責任者が三十分前に先に食べて、安全を確かめる。前世の鉄則だ。
スープを一口すすった学院長は、長いこと黙りこんだ。
「……これは、何の出汁かね」
「鶏の骨と、くず野菜です」
「あの鶏が……こんな味になるのか」
しみじみと椀の中を見つめてから、学院長は咳払いをした。
「……おかわりは、規定違反かね」
「検食は一杯までです」
前夜は、正直よく眠れなかった。
二百人分の「人生初の食事」を預かるのだ。前世の初出勤より、よほど緊張した。
枕元で献立表を三回見直し、アレルギー台帳を二回数えた。
そして、初日。
献立は、豆と鶏のスープ一杯。以上。
配膳台に食缶を据えて、蓋を開ける。
ふわり、と湯気が上がった。
最初に反応したのは、子どもたちの鼻だった。
列の前のほうで、誰かが鼻をひくつかせる。
ざわめきが、さざ波みたいに後ろへ広がっていく。
私は知っている。
あれは、「いい匂い」に初めて出会った顔だ。
「マナブレッドはいつもどおり配ります。スープはおまけです。飲みたい子だけ、どうぞ」
最初に手を出したのは、列の先頭のやんちゃ坊主だった。
ひとくち。目が、まんまるになる。
「……なにこれ」
もうひとくち。
「なにこれ!」
語彙はそれだけだった。けれど充分だった。
列が、どっと動いた。
途中、勢いよく流し込んでむせる子が続出した。
無理もない。この国の食事は十年間、「齧って飲み込む」だけだったのだ。
「ゆっくり。ふうふうして、よく噛んでね」
匙の持ち方から教える食堂が、世界のどこにあるだろう。
ここにある。今日から、ここにある。
全員が、飲んだ。
ミナは両手でお椀を抱えて、一口すすって、止まった。
「あったかい……」
お椀の中を見て、私を見て、もう一度お椀を見て。
それから、ぽろっと言った。
「……おいしい」
言ってから、自分でびっくりした顔をした。
生まれて初めて口にした言葉だったのかもしれない。
「ねえ、おいしいよ」
「おいしいね」
隣の子と顔を見合わせて、もう一度すする。
「もういっかい、いっていい? ……おいしい」
ミナの目のふちで、なにかが小さく光った。
濡れたまつげを、本人が不思議そうに見ていた。
その日、食堂に音が戻った。
お椀の鳴る音。すする音。笑い声。それから――
「おかわり!」
「おれも!」
「先生、お豆! さっきより大きいの入ってた!」
「いいなあ。大きいのって、えらべるの?」
「選べません。お玉の気分です」
行列は、食缶の前で折り返して伸びた。
食缶は、夕方を待たずに空になった。
最後尾に、検食を済ませたはずの学院長がしれっと並んでいたことは、見なかったことにする。
残食、ゼロ。
帰りぎわ、やんちゃ坊主が振り向いて聞いた。
「これ、あしたも出る?」
「出るわよ。明日はお芋も入れる」
「おいも!」
二十六年と少々の栄養士人生で、いちばん嬉しい食缶の軽さだった。
それからの三週間で、献立は少しずつ育った。
二日目、芋の甘煮。三日目、やわらかいパン。
竈に火が入ったのは十年ぶりだそうで、配布係の青年ふたりは、いまや立派な調理補助だ。
「係長! おれ、お玉の返しを覚えました!」
「上出来。明日は灰汁の取り方ね」
「あくって、なんですか」
道は長い。でも、悪くない長さだ。
苦い野草の和え物を出した日は、さすがに残るかと覚悟した。
ところが、やんちゃ坊主が真っ先に完食して、誇らしげに皿を掲げたのだ。
「先生! おれ、にがいの食べられた!」
「えらい。それ、大人の味よ」
嬉しさが過ぎて、ひやりとした日もある。
二日目だ。小柄なルカが三杯目を空にした直後、すとんと黙りこんだ。
顔が白い。額に冷や汗。息が浅く、肩で吸っている。
「ルカ、しゃべらないで。横になろう」
「かいふくまほうを!」と誰かが叫んだ。
「いらない。これは壊れてない。お腹がびっくりしただけ」
あの魔法は、壊れたものしか戻せない。育ちが追いつかないのは、その外だ。
台帳のルカの欄には、私の字で一言――「胃、小さめ。要観察」。
初日に量を絞ったのも、こういう日のためだった。
白湯を一口ずつ。背中をさすって、しばらく安静。
四半刻もすると、ルカは「もう、げんき」と起き上がった。
「次から、おかわりは二杯まで。よく噛んでね」
「えー。……はい」
大事には至らなかった。守ったのは魔法ではない。
絞った匙と、一冊の帳面だ。地味なものだと、我ながら思う。
おかわりが一杯分しか残らない日には、自然と勝負が要るようになった。
じゃんけんという遊びを教えたのは、私だ。
雄叫びが響くたび前世の給食室と重なって、少し、目の奥が熱くなる。
ミナは、配膳当番に立候補した。
「せんせい。とうばん、わたしもやりたい」
「お玉、重いわよ?」
「だいじょうぶ。……せのび、する」
背伸びでどうにかなる重さではないのだが、その意気やよし、だ。
白い帽子は大きすぎて、ずり落ちて目まで隠れる。それでも誰より背筋を伸ばして、おたまを構えている。
「おもいの、もてるもん」
体重八百グラム分、確かに強くなった腕だった。
夜勤の守衛までもが、厨房に顔を出すようになった。
「すまんが、一杯頼めるか」
「大人は銅貨一枚いただきます。食材費です」
「安いもんだ」
その銅貨が、明日の鶏ガラに化ける。台所の経済は、ちゃんと回りはじめている。
このごろ食堂では、「おいしいね」が挨拶みたいに飛び交っている。
――ただ、噂が広がるのは、いいことばかりではなかった。
「王立学院は贅沢を教えているらしい」
「飢饉を知らない世代は気楽なものだ」
市場では、そんな声も聞こえはじめていた。
学院にお叱りの手紙が届いた数日後、私は宮廷栄養局に呼び出された。
◇◇◇
通された部屋には、長机がひとつ。
その向こうに、栄養局長。
白髪をきっちり結い上げた、岩のような老婦人だ。
飢饉のあと、マナブレッド配給制度を組み上げた張本人だという。
「食堂係。あなたのしていることは、配給制度への挑戦です」
「規定内の『追加』です。条文の写しをお持ちしました」
「屁理屈を」
局長は書類を脇へ押しやった。
「調理には人手がかかる。燃料も、食材も。栄養効率はマナブレッドより一割五分も落ちる。衛生事故の危険まで背負って――あなたが倒れたら、誰がその鍋を引き継ぐの」
正しい。
ぐうの音も出ないほど、全部正しい指摘だ。
だから私は、紙の束で答えた。
「献立表。調理手順書。衛生点検簿。アレルギー台帳。誰が引き継いでも回るように、全部文書にしてあります」
「……」
「給食は名人芸ではありません。制度です。局長が配給で、それを証明なさったように」
局長の眉が、ぴくりと動いた。
「子どもに鍋を運ばせているそうね。食堂は遊び場ではありません」
「配膳当番は遊びではなく、衛生教育です。手洗いの記録もあります。当番の白帽子は、いまや学院でいちばんの人気の係ですよ」
先週など、おたまの取り合いで喧嘩が起きた。
仲裁した身としては自慢にならないが、食の現場に喧嘩が戻ったこと自体、私には吉兆に見えた。
「……味とは、何です」
局長は、吐き捨てるように言った。
「腹の足しにもならない感覚に、王国の燃料を割けと? 定義なさい、食堂係」
「また食べたいと思う力です」
即答できた。前世から何百回も、自分に問うてきたことだから。
「明日を楽しみにする力、と言い換えても結構です。子どもは栄養だけでは育ちません。楽しみで育つんです」
「食事の時間が倍になったそうね。十五分で済んでいたものが」
「はい。その分、授業中の居眠りが減ったと報告が出ています」
「……食中毒が出たら、誰が責任を取るの」
「私です。そのための検食と、点検簿です。基準がまだ無いのなら、これから私が書きます。前世の分まで」
局長の指が、机を一度、こつりと叩いた。
「それから、こちらを」
保健室の記録の写し。
原因不明の不調での利用が、三週間で半分になった。欠席も減った。残食はゼロが続いている。
ミナの体重は、八百グラム増えた。
局長は老眼鏡の奥で、長いこと数字を見ていた。
やがて、低い声で言った。
「……飢饉を、忘れたのですか」
空気が、変わった。
「私はこの目で見たのです。道端で、子どもが痩せて動かなくなるのを。配給名簿を作ったのは私です。一行も漏らすまいと、五千の村まで数えた」
「……」
「あの名簿のいちばん上に、書けなかった名前がひとつあります。私の孫の。配給が、ひと月だけ間に合わなかった」
「……」
「だからもう、一行も落とせないのです。あのパンが初めて配られた日。この国で初めて、誰も死ななかった。あれは奇跡なのよ」
「忘れていません」
私は頭を下げた。
「忘れないために、申し上げます。マナブレッドは、飢えから命を守る盾です。あれを超える保存食を、私は前世でも見たことがない」
「……」
「でも局長。盾の下で、子どもは育たないんです」
顔を上げて、続けた。
「マナブレッドは命を守る。給食は、守った命を育てる。仕事が違うだけで、敵ではありません」
長い、長い沈黙のあと。
局長は判をひとつ、押した。
「条件付きで、継続を認めます。ただし――」
老婦人の目は、笑っていなかった。
「来週、ガロン卿が学院を視察なさいます。卿が『不要』と一言おっしゃれば、その鍋は終わりです」
帰り道は、胃のあたりがずっと重かった。
救国の英雄が首を横に振れば、終わり。
……でも、考えてみればおかしな話だ。
あの子たちの「おいしい」を、この国を十年食べさせてきた当の本人が、まだ知らないでいる。
それは、あんまりじゃないか。
◇◇◇
視察を翌週に控えたある夕方、食堂に若い母親が訪ねてきた。
ミナの母だった。
「あの……苦情では、ないんです」
言い訳みたいに、何度もそう繰り返した。
「私たちの世代は、マナブレッドに育てられました。文句を言うなんて罰当たりだって、ずっと思っていて……。でも」
母親は、深く頭を下げた。
「あの子、家で笑うんです。きょうの給食はね、って、ごはんの話をするんです。……ありがとうございます」
飢饉の影は、親の世代の心にまだ濃い。
その影ごと、ゆっくり温めていくしかないのだろう。
鍋と同じだ。強火は、焦げる。
視察の前日、食堂は軽い騒ぎになっていた。
「えいゆうさまが、くるの?」
「えいゆうさまって、おうちより大きいんでしょ」
「お椀、ふたつ出したほうがいい?」
「スープ、きらいだったらどうしよう」
配膳当番は緊急会議を開き、「おもてなし」の段取りを真剣に話し合っていた。
献立の相談には、ミナが小さな手を挙げた。
「おまめのスープがいい。……わたしの、いちばんだから」
「いちばんって、なに?」
「いちばん、すきってこと」
「じゃあ、おれもいちばんでいい!」
「わたしも!」
いちばん、をもらった。
異論は出なかった。
そして当日。
救国の英雄は、噂より大きかった。
扉をくぐるとき、頭を屈めた。
古い火傷の痕が、首筋から袖の奥へ続いている。
付き添いの栄養局長が小さく見えるほどの巨躯に、食堂はしんと静まり返った。
卿はまず、無言で厨房に入った。
大鍋。竈。洗い場。
それから、台帳の山に手を伸ばす。
献立表、衛生点検簿、アレルギー台帳、検食簿。
分厚い指が、意外なほど丁寧に一枚ずつめくっていく。
「これは、誰が」
「私です。引き継ぎ用に。私がいなくなっても、給食は止まりませんから」
「……止まらない、か」
卿は何かを確かめるように、低くその言葉を繰り返した。
それから配膳台の前に立ち、私を見下ろした。
「あんたが、鍋の係か」
「はい」
「チートなしの転生者だと聞いた」
「窓口で、適性ゼロと言われました」
「ゼロで、これをやったのか」
「専門職を二十六年やりますと、大抵のことは段取りで何とかなります」
卿はわずかに目を細めて、それから、本題を静かに置いた。
「マナブレッドでは、駄目だったか」
責める声ではなかった。
ただ静かで、底のほうが少しだけ、かすれていた。
答えるより先に、当番の列が動いた。
白い帽子の子どもたちが、おっかなびっくり、お盆を運んでいく。
最後にミナが、両手でお椀を持ってきた。
緊張で、スープの表面が小さく揺れている。
「ど、どうぞ。きょうのは、おまめのスープです。……わたしの、いちばんです」
当番長が、緊張で裏返った声を張り上げた。
「て、てをあわせてください! いただきますっ」
「「いただきますっ!」」
卿は一拍遅れて、ぎこちなく大きな両手を合わせた。
たぶん、生まれて初めて唱える呪文だった。
英雄は巨体を折り曲げて、子ども用の椅子に座った。
椅子が、みしりと鳴いた。
その手の中で、木の匙はおもちゃみたいに小さく見えた。
一口。
手が、止まった。
二口目は、来なかった。
ガロン卿はお椀を持ったまま、動かない。
「……卿?」
「妹が、いた」
ぽつりと、言った。
「飢饉の冬だ。最後の晩に言ったんだ。『あったかいおつゆが、のみたい』と。……翌朝には、もう冷たくなっていた」
誰も、何も言えなかった。
「あの冬の俺には、何もなかった。今は、いくらでもパンを生み出せる。国じゅうの腹を満たせる。……なのに、あったかいスープの一杯すら、自分の手で作ってやれない」
「俺はあの日誓った。もう誰も飢えさせないと。腹さえ満ちれば、それでいいと。……味なんてものは、俺が最初に捨てるべき贅沢だと思っていた」
この十年、卿自身もマナブレッドしか口にしていない――付き添いの従者が、後でそう教えてくれた。
大きな肩が、震えていた。
救国の英雄は、お椀一杯のスープを前に、声もなく泣いていた。
「……これだ」
絞り出すような声だった。
「俺が守りたかったのは、腹じゃない。これだったんだ」
ミナがそっと近づいて、自分のハンカチを差し出した。
「えいゆうさま。おいしいと、なみだが出るんだよ」
えへん、と小さな胸を張る。
「わたしも、出たの」
卿は匙を置き、私に向かって深く頭を下げた。
「教えてくれ。あのパンに、足りなかったものを」
「足りなかったんじゃありません」
私は首を振った。
「卿のマナブレッドは、命を守り切った。十年間、ひとりも死なせなかった。……ここから先は、育てる仕事です。それは、凡人の領分ですよ」
◇◇◇
翌月、王国に「学院給食令」が公布された。
起草したのは、あの栄養局長だ。
条文の最後には、こうある。
『マナブレッドは王国非常食および遠征糧食として備蓄を継続する。これは王国の盾である』
この一条を入れさせたのは、ガロン卿本人だったという。
卿は今、週に一度、学院の厨房に現れる。
その手が生み出すのは、もう味気ない堅パンじゃない。
こんがりと焼けた、ふっくら温かいパンだ。
「パンは俺がいくらでも出す。味をつけるのは、あんたらの仕事だ」
「はい。……卿、今日も並ぶんですか」
「並ぶ。今日こそ、じゃんけんに勝つ」
救国の英雄の当面の目標が、ずいぶん身近になったものだ。
パンは英雄が、味は私たち凡人が。
悪くない役割分担だと思う。
ちなみに卿は、あの日からおかわりの列に並ぶようになった。
子どもたちはもう慣れたもので、英雄相手に平気でじゃんけんを挑む。
負けた英雄が本気でうなだれ、当番たちがけらけら笑う。
国でいちばん強い人は、うちの食堂では、ただの大きい常連さんだ。
王都も、すこしずつ変わっている。
市場には野菜の屋台が増え、先日はとうとう「料理人見習い、求む」の貼り紙を見た。
この国に、料理人の求人が生まれたのだ。
肉屋のおかみには、会うたび文句を言われる。
「あんたのせいで、鶏ガラが値上がりしたよ」
そう言いつつ今日もおまけを二本入れてくれるのだから、世話がない。
養護の先生は「このごろ保健室が暇で困ります」とこぼしていた。
結構なこと。帳面の白さは、この世界では誇っていい。
栄養局長は月に一度、「衛生監査」と称してやって来る。
帳簿を隅まで検めて、難しい顔で判を押して、それから必ず、一杯だけスープを飲んで帰る。
おかわりをしないのは、たぶん意地だ。
今日も食堂は騒がしい。
お椀が鳴って、おかわりの列ができて、当番が転びそうになって笑われている。
残食ゼロ。本日も継続中。
帰りぎわ、ミナが駆けてきて、私の白衣を引っぱった。
「せんせい! あしたの給食、なに?」
――生まれた。
この国に、あの質問が生まれた。
二十六年間、毎日聞かれて、それでも一度も聞き飽きなかった。
世界でいちばん、好きな質問。
「明日はね」
私は笑って、献立表を開く。
明日の献立は、もう書いてある。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「凡人枠」シリーズ、今回は“学校栄養士”でした。今日もどこかで、誰かの温かいごはんを作っているすべての方に、敬意を込めて。
冒頭の転生窓口にいたツクヨは、この「凡人枠」シリーズの常連です。ほかのお仕事の物語にも、たいてい疲れた顔で座っています。
同じ世界の、子どもと命を守るお話もどうぞ。
・『前世が産婦人科医だったので異世界で「安全な出産」を広めたら聖女より崇拝された』
・『チートの回復魔法で治せない病が流行ったので、前世が小児科医だったから普通の診察で子供たちを救うことにした』
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ごちそうさまでした。




