ロスト・ツンデレーション
ある日、幼馴染みの水島天美が交通事故に遭った。
夕飯の材料を調達する為にスーパーへ出掛け、その帰り道に乗用車に撥ねられたという。
俺はそれを、母さんの口から聞かされて知った。天美の母親が、電話で連絡して来たらしい。
天美が運び込まれたのが市内の病院だと聞き、俺をすぐさま家を飛び出した。自転車に乗り、大急ぎで病院に向かう。
果たして、病室のベッドに、天美の姿はあった。
右足にはギプスを付けており、頭には包帯が巻かれている。
しかし、彼女は元気そうで、屈託のない笑顔で俺を出迎えてくれた。
「あっ、ダイちゃん! ひょっとして、私のことを心配して来てくれたの? 嬉しい!」
――絶対に見せるはずがない、屈託のない笑顔で。
「天……美……?」
俺は急に、ベッドの上の少女が誰なのか、分からなくなってしまった。
天美ならこういう時、俺に笑い掛けたりしない。不機嫌そうな顔をして、「別に誰も来いなんて言ってないわよ。ウザいから、さっさと帰ってくれない?」などと言うに決まっている。
笑い掛けて来るはずがないのだ。
何故なら、俺と天美は、口を開けば喧嘩ばかりしている、犬猿の仲なのだから。
それに、普段の天美は、俺のことを呼び捨てで「大地」と呼ぶ。「ダイちゃん」は、大昔の、幼稚園の頃の呼び方だ。
呆然とする俺の肩に手が置かれる。振り向くと、そこにいたのは天美の母親――美空さんだった。
彼女は真剣な表情で言った。
「大地くん、落ち着いてよく聞いて。天美は事故に遭った時、車にはちょっと接触しただけで、怪我は片足の骨折と、その他に一ヶ所だけだったの。ただ……そのもう一ヶ所に問題があって」
「まさか……」
自然と、天美の頭に巻かれている包帯に目が行く。嫌な汗が背中から溢れ出す。
美空さんは頷いた。
「車に接触した天美は、片足を骨折して、バランスを保てず、道路に倒れ込んだの。普通なら、手で身体を支えられたんでしょうけど、天美はその時、買い物帰りで、両手が買い物袋で塞がっていて、上手く使えなかったみたい。それで……」
後は、言われなくても分かる。
天美は、コンクリートの地面に頭を強打してしまったのだ。
「……天美は、記憶喪失になってしまったんですか?」
俺は美空さんに問い掛けたつもりだったが、答えたのは天美本人だった。
「ううん、違うよ。私は記憶喪失になったんじゃないんだ」
彼女は交通事故に遭った直後とは思えない程、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
下手をしたら死んでいたかもしれないのに、むしろ前よりも活き活きとしている。
……何で、そんなにも笑顔なんだ。俺には分からない。
「天美。だけど、お前、昨日まで俺と喧嘩ばかりしてたろ? 記憶喪失じゃないなら、どうして俺にそんな笑顔を向けるんだよ。あり得ないじゃないか……そんなこと」
「うん、そうだね。私とダイちゃん、いつも喧嘩ばかりしてた。だからこそ、嬉しいんだよ。今、こうして、大好きな人の前で素直な自分でいられることが。ごめんね、ダイちゃん。私、今、嬉しくて仕方がないの」
天美の声は震えていた。笑顔に涙が伝う。
「お、おい」
俺は天美の肩に手を置こうとして、躊躇われる。普段、喧嘩ばかりしていたから、どうしていいのか分からない。
そのまま動けずにいると、天美が俺の手を取った。壊れやすい、大切な物を扱うように、彼女はそっと俺の手を頬に押し当てる。
「ダイちゃん、私ね――」
天美は目を閉じて、言った。
「――心理喪失になったの」
『反動形成』という心理作用がある。
反動形成は、欲求不満などによって適応出来ない状態に陥った時に、不安が動機となって行われる自我の再適応――防衛機制と呼ばれるメカニズムの一つであり、無意識に抑圧した思いが意識に上がって来ないように、本心とは裏腹なことを言ったり、その思いと正反対の行動を取るという心理作用なのだという。
病院の先生が言うには、頭を打ったショックで、天美はその『反動形成』を忘れてしまったのだそうだ。
分かりやすく表現すると、天美は『素直じゃない心』を失った、ということらしい。
記憶を失わずに、防衛機制の一部だけを失うというのは、初めての症例なのだそうで、とりあえず、仮の呼称として、現在の天美の状態は『心理喪失』と呼ばれている。
元に戻す方法は、今のところ分かっていない。
交通事故から一週間が経ち、俺は今日も、高校の授業を終えた足で、天美のいる病院に向かっていた。
別に天美とは恋人同士でもなし、クラスメイトにからかわれてまで、足繁く異性の幼馴染みの元に通う必要なんてどこにもないのだが――
「ダイちゃん!」
訪れる度に、彼女は喜びに満ち満ちた表情をするし、
「ダイちゃん」
「ん、どうした?」
「その……また明日も、遊びに来てくれる?」
帰り際に、期待を込めた瞳で見つめられれば、断るわけにもいかない。
いや、そんなのは言い訳で、正直なところ、俺は戸惑っていた。
先日まで、俺と顔を合わせれば、目を鋭くし、声色を低くしていた天美。
それが今は、どうだ。彼女はとても優しい表情を俺に向ける。幸せそうに微笑んで、時折、甘えて来さえもする。
どう対応したらいいのか分からない。何しろ、つい最近まで喧嘩ばかりしていたのだ。言葉に気を遣わなければ、傷付けてしまうかもしれない。急に、極端に短くなった気がする天美との距離に、俺は慣れようと必死だった。
挨拶一つでさえ、何と言おうかと、いちいち頭の中で考えてしまう。
だから今日、病室の扉を開けて、奥のベッドで天美が眠っているのを見た時は、少し安堵してしまった。
スクールバッグを床に置いて、ベッド脇の椅子に腰掛ける。
何気なく、天美に視線をやる。
ウェーブの掛かった長い黒髪に、白く柔らかそうな肌、桃色の唇。落ち着いて見ると、やっぱり女の子なんだな、と思う。
「ダイちゃん……」
「!」
不意に、視線の先にあった桃色の唇が動いて、ドキッとした。
起きたのかと思ったが、天美の目は閉じたまま。どうやら、寝言らしい。
緊張したせいか、妙に顔が熱かった。胸はまだドキドキしている。
気付けば、俺は天美の頭に手を伸ばしていた。
そっと、頭に手を置く。加減が分からないので、極力優しく、黒髪を梳くように撫でる。
「ん……」
安心したように、天美の表情が緩む。
その時、背後で扉の開く音がして、俺は慌てて手を引っ込めた。
振り返ると、病室に入って来たのは、美空さんだった。
「あら、大地くん。今日もお見舞いに来てくれてたのね」
「ど、どうも」
「ふふっ、何かあったのかしら? 大地くん、顔が赤いわよ?」
「なっ」
こちらの気持ちを見透かしたかのように、クスクスと笑う美空さん。
思わず、俺は自分の顔を押さえる。
「べ、別に、何も……!」
「ひょっとして、私、邪魔しちゃったかしら?」
「そんなことありませんっ!」
美空さんは笑いながら、「遠慮なんてしなくても、言えば席を外すのに」などと口にするが、俺は全力で首を横に振る。
「と、というか、美空さんは何しに来たんですか! 天美の着替えを届けに来たんじゃないんですか!? 別に俺をからかう為に来たわけじゃないでしょ!」
「だって、せっかく病院まで来て、大地くんに会ったんだもの。少しはからかったり、話をしたりして遊びたいじゃない」
「俺で遊ばないで下さい!」
「でも、良かった」
美空さんがそれまで浮かべていた、悪戯をする子供のような笑みが、不意に優しい、母親の笑みに変わったので、俺は言葉に詰まる。
彼女は続けて、言った。
「大地くんが天美のこと、まだ嫌いじゃないみたいで」
「え……?」
病室の隅に置いてあるパイプの丸椅子を一つ取って来て、俺の横に席を構えた美空さんは、天美の寝顔に目を向ける。
「確か……小学年の低学年の頃だったかしら。天美と大地くんが、学校で、殴り合いの大喧嘩をして。それまで毎日のように二人一緒で居たのに、別々に行動するようになって。中学、高校になっても一緒だったのに、顔を合わせれば互いの文句を言い合ってばかりいたから、もしかしたら、大地くんは天美のこと、嫌いになってしまったんじゃないかって、私は思ってたの」
「それは……」
「大喧嘩して以来、家にも遊びに来なくなったでしょ? せっかく家が隣で、幼馴染み同士なのに、二人が仲良く出来ないのは凄く寂しいことだなって……ずっと思ってた」
「美空さん……」
「でも、さっき、大地くんが天美の頭を撫でているのを見て、ああ、大地くんは変わってない、この男の子は、今でもちゃんと、天美を大切に思ってくれているんだって、安心出来た。二人はまだ、昔みたいに仲良くなることが出来るんだって分かって、私、本当に嬉しかったのよ?」
そう言って、天美そっくりの笑顔を湛える美空さんは、やっぱり天美の母親なんだと、改めて理解させられる。
この人は、自分の娘に対して勝手に距離を置くようになった俺のことを、今日まで変わらず気に掛けてくれていたのだ。頭の上がらぬ思いだった。
「天美はどうだったのか、分からないですけど、ただ、少なくとも俺は、天美を嫌いになったことは……一度もありません。大喧嘩をした日から今日まで、一度も。本当は、すぐに謝りたかったんです。だけど、喧嘩の理由は些細なもので、ちゃんと謝れば済む話だったのに、俺は変に意地を張って、ずっと謝らなかったんです。……いや、本当は、文句を言い合っている関係も嫌いじゃなかったのかもしれません」
「どういうこと?」
「俺と顔を合わせれば、天美は凄く不機嫌そうな顔をして、当然のごとく怒ってましたけど、今振り返ると、それが俺と天美の会話を交わす時の約束だったように思うんです。喧嘩したばかりの頃は、互いにどう接したらいいか分からなくて、目も合わさない日が続いて。でも、ある時、天美が不機嫌そうに話し掛けて来て、俺も文句を言い返して、喧嘩腰ではあるけれど、また口を利くようになったんです。だから、仲が良かったなんてお世辞にも言えませんけど、素直なんかじゃなくたって、天美は天美だって、俺は思ってました。上手く言えませんが……俺にとって、天美は天美です。俺の幼馴染みです。天美の方は、単に俺が嫌いで、気にくわないから突っ掛かって来てただけなのかもしれませんけど……」
「そんなことないわ」
美空さんに頭を撫でられる。
「天美が大地くんのことを嫌いなはずがない。訊く度に、嫌いだ嫌いだって繰り返していたけど、天美が学校のことを話す時は、いつだって大地くんのことばかりだったもの。それに、現に心理喪失になった天美は、大地くんに笑顔を見せているでしょう?」
「天美が俺の話を……」
「天美も、大地くんと同じ気持ちだったはずよ、きっと」
俺は、ベッドの上で眠る幼馴染みの少女を見やる。
美空さんの言うことが本当なら、天美には、元の天美に戻って欲しいと、俺は思う。天美はやっぱり天美だから。他の誰でもない、俺の幼馴染みだから。
ただ、元の天美って、一体どちらのことなのだろうかと、ふと思った。
俺の考えている元の天美というのは、いつもの、素直じゃない天美の方だ。しかし、それは、彼女本来の姿と言えるのだろうか。どちらかというと、反動形成を失った今の天美の方が、元の姿なのではないか。
そう考えると、どちらが正しいのか、天美がどうあるべきなのか、俺にはよく分からなくなってしまった。
「美空さん」
「うん?」
「美空さんは、天美の心理喪失について、どう思いますか? やっぱり、天美には反動形成を取り戻させてやった方がいいんでしょうか? それとも……」
「そのことだけどね」
美空さんと目が合う。
「こんなことを言うと、母親失格なのかもしれないけど、私は、天美には無理に反動形成を取り戻させる必要はないと思ってるの」
彼女は首を横に振る。
「いえ……違うわね。今のままの天美でいて欲しいと、私が願ってるだけ。素直じゃない天美も、確かに天美なんだと思う。寂しくないと言ったら、きっと嘘になる。だけど私は、天美には幸せになって欲しい。自分に素直な、笑顔でいて欲しいのよ。だって天美は、やっと大地くんと仲直り出来たんだもの。心で思っていたことを、ちゃんと言葉で伝えられるようになった。それは、とても素敵なことじゃない?」
「でも、それが天美にとって、正しいことなんでしょうか?」
「天美にとって、正しいかどうか……」
美空さんはしばし考えるように黙り込んだ後、再び首を横に振った。
「ごめんなさい。それを訊かれると、私にはどちらとも言えないわ。どちらが正しいのか、私には分からない」
「そうですか……」
答えがそう簡単に出るはずもない。
ただ、こんなことになるなら、ちゃんと天美に謝っておけばよかったと思う。
そうすれば、天美のことをもっと理解出来ていたかもしれない。仲直りだって出来たかもしれない。
今のように悩む必要なんて無かったかもしれない。
どうして俺は、天美に謝ろうとしなかったのだろう。
いつの間にか握り締めていた拳を開くと、手の平に四つの爪痕が出来ていた。
それからしばらくして、美空さんは病室を後にした。
俺は「天美が起きた時、隣に居てやらないと、昨日、また遊びに来るって言った約束が嘘になってしまうので」と言って、その場に残った。
「分かったわ。天美のこと、よろしくね」
ばいばい、と手を振る美空さんに、俺は上手く反応を返すことが出来なかった。
「大地くん、気負い過ぎないでね。時間はあるから。すぐに答えを出さなくてもいいの。焦らずに、ゆっくりと考えればいいのよ?」
「……はい」
頷くだけで精一杯だった。
そうしてまた、病室で、天美と二人きりになる。
天美はまだ眠り続けている。
彼女が起きるまでの間、どうやって暇を潰そうかと考えて、近くの花瓶の水を替えてみたり、教科書とノートを引っ張り出して、今日学校でやった授業の内容を復習してみたりする。
ノートをチェックしながら、ふと気付く。
(そうだ、天美の奴、もう一週間も学校を休んでるわけだから、俺達よりも一週間分、勉強が遅れてるんだよな……)
もしも、もしもだが、俺が休んでる分の授業のノートを作ってやったら、天美は喜ぶだろうか。
寝ている幼馴染みを眺めながら、ノートを渡した時に浮かべるであろう彼女の笑顔を想像しかけて、俺は慌てて首を横に振る。想像を掻き消す。
「何を考えてるんだ、俺は……」
幼馴染みってだけでそこまでしたら、さすがに変だろう。
後で天美本人が女友達にも借りて、コピーするなり、手書きで写すなりすれば、それで事足りる話ではないか。
俺がそこまでする義理も、必要もない。相手はあの天美だぞ?
(……いや、でも、今は前の天美と違うのか)
未だに頭の中で、ごっちゃにしてしまう時があるが、今の天美は、俺と喧嘩ばかりしていた天美とは、違うのだ。
それでいて、記憶喪失になったわけではなく、昔、大喧嘩した時のことも覚えている。
だからこそ今、俺は彼女に優しくするべきなんじゃなかろうか。
天美が素直に気持ちを表してくれている今こそ、変に意識して距離なんかとってないで、優しくしてやるべきなんじゃないのか。
これまで優しく出来なかった分、今、ここで。
「……だったら別に、ノートの一冊くらい作ってやっても問題ないよな、うん」
そう思い直して、一人頷いていると、室内にノック音が響く。誰かが病室に訪ねて来たようだ。
「あっ、どうぞ」
俺が言うと、扉を開けて、ショートヘアーの少女が顔を覗かせた。
「どうもー。おっす、油沢くん。天美はいる?」
「真中か。うん、天美はいるよ。とはいえ、今は寝ちゃってるけど」
「そうなんだ。今日は陸上部が早めに終わったから、お見舞いにと思って、寄ってみたんだけど……入っても大丈夫かな?」
「ああ。もう少ししたら、天美も起きるかもしれないし」
「なら、少しだけお邪魔させてもらっちゃおうかな」
俺を名字で呼ぶ彼女は、俺のクラスメイトで、天美の友達の、真中風香という。
快活なスポーツ少女で、普段、むすっとしていることが多かった天美に対し、嬉しいことがあると、見ているこちらまで元気になるような笑顔で笑う女の子、それが彼女――真中風香である。おかげで、男子だけでなく、女子にも人気がある。
そんな彼女と俺が、こうして比較的親しく話せているのは、彼女が天美の友達であることが大きい。でなければ、俺の彼女に対する呼び方は、せいぜい「真中さん」止まりだっただろう。
「じゃあ、寝ている天美には悪いけど、油沢くんの隣、失礼するよー」
真中は、にかっと白い歯を見せて笑いながら、手に持っていたスクールバッグと、肩に掛けていたスポーツバッグを足元に下ろし、美空さんが置きっ放しにしていった丸椅子に腰掛ける。
と、彼女がいきなり端正な顔をこちらに近付けて来たので、俺はぎょっとしてしまった。
「な、何?」
「んー」
真中の大きい瞳が、じっと俺の目を捉えて離さない。
それが長時間続き、さすがに気恥ずかしくなって来たので、俺は視線を逸らしながら尋ねる。
「えっと……俺の顔に何か付いてる?」
「いや、素直になった天美とは、何か進展があったのかなと思ってさ」
「進展!?」
唐突に言われたので、声が上擦ってしまった。
「そ、進展。油沢くん、事故から一週間、毎日欠かさず天美の見舞いに来てたんでしょ? だから、どうなのかなぁと思ってさ。あ、別に、私が油沢くんのことが好きとかどうとか、そういう話ではないから、あしからず。というか、私が油沢くんを好きだとか言い出したら、天美に殺されそうだし。あくまで天美の親友として訊いてんの。分かった?」
「どっちにしても、進展なんてねぇよ! 俺と天美は、あくまで幼馴染みで――」
「そういう照れ隠しは別にいいから。まぁ、でも、その様子だと、仲良くやってるみたいだね。油沢くんの顔、真っ赤だし」
「嘘!?」
「嘘」
「おい!」
反射的に顔を押さえてしまったじゃないか。逆に恥ずかしい!
真中が破顔一笑する。
「あははは!」
「笑うな!」
「ふふっ、ごめんごめん。何にしても、これでようやく仲直り出来たんだからさ、油沢くんも変な意地を張らないで、天美に目一杯優しくしてやんなよ?」
「う……」
「そうすりゃ、天美の反動形成を取り戻しても、仲の良いままでいられるよ、絶対に」
「え?」
少し驚いて、真中の顔を見る。
彼女もまた、驚きの表情を浮かべて、瞬きする。
「あ、ひょっとして油沢くん、天美の反動形成を取り戻すべきなのかどうなのか迷ってたりする? んー……でも、そうか。必ずしもそれが正しいとは言えないのか」
「真中としては、前の天美に戻って欲しいのか?」
「前の天美に……ってわけじゃないけど、反動形成は取り戻して欲しいかな。今の天美と油沢くんの関係はさ、確かに素敵だと思う。でも、友達としては、やっぱり少し寂しいんだよ。もちろん、今の天美も好きだし、私は親友だと思ってる。だけど、私は何だかんだで、素直じゃない天美も好きだったからさ。……ああ見えて、素直じゃない天美って、実は結構優しいところがあったんだよ? 知ってた?」
「うん。それは、昔から知ってる」
「何だよ、分かってんじゃん」
真中は「うりうり」と肘で、俺の脇腹を小突いて来る。
それから、彼女はベッドの少女に目をやり、「これをバラすと天美に怒られちゃいそうだけど、私としては油沢くんに知って欲しいから言うんだけどさ」と断った後に、
「天美はさ、心理喪失になる前だって、油沢くんのこと、大好きだったんだよ?」
俺は真中の言葉に、反応することが出来なかった。
一瞬で、頭の中を色んな考えが過ぎったからだった。
頷くことなんて出来ないし、首を横に振るのも何か違う気がした。
「そう……だったのか?」
だから、長い沈黙の後に、曖昧な返事しか出来ない。
真中は頷く。
「うん。私、天美から何度も恋愛相談されてたもん。『どうしたら油沢くんと仲直り出来るのかな』ってさ。でも、その度に失敗して、いつも通り油沢くんと口喧嘩になっちゃって、『何でいつも喧嘩になっちゃうんだろう』って、涙目になってたんだよ? ……それくらい、油沢くんのことが好きだったんだよ、前の天美も。素直じゃないから、油沢くんの前では、言葉にも態度にも絶対に表さないけどね」
俺は幼馴染みの寝顔に視線を向ける。
今の天美は、事ある度に、俺のことが好きだと口にする。
俺はそれを、反動形成を失ったことによる一時的な感情に過ぎないと決めつけていた。
反動形成の意味は調べたし、理解しているつもりだった。
しかし、天美は以前から俺のことが好きだった、という事実はどうしても信じられずにいた。
自分は大喧嘩をしたあの日から、天美に全く優しくして来なかった。現状に不満を抱かず、謝ろうとも思わなかった。天美が俺のことを嫌いでも仕方がないと、どこかで諦めていた。
だから、天美が自分のことを好きだなんて考えたこともなかったし、簡単には事実を受け入れられなかった。
「だからさ」
そう続ける真中に、俺はいつの間にか俯いていた顔を上げる。
「私個人としては、油沢くんには、素直じゃない天美と仲直りして欲しいんだよ」
「天美の反動形成を取り戻して、ってことか?」
「うん。それが正しいのかどうかは、私には分からないけど」
「じゃあ、今の天美にはどう接したらいいんだ? やっぱり、仲良くしたらまずいんだろうか」
真中は慌てて、首を横に振る。
「違う違う。言ったでしょ? 今の天美には目一杯優しくしてやればいいの。私の主張は、最終的に天美の心理喪失を直した上で、改めて仲直りして欲しいってだけ。いいじゃん、ひたすら天美に『好きだ!』って叫べば」
「な、何言って……!」
「ひたすらに愛を叫び続ければいいんだよ。今の天美にも、反動形成を取り戻した天美にもさ。平等に愛してあげればいいの。どっちにも贔屓せずに、全身全霊で愛してあげれば、ずるくなんかない。第一、天美はどうひっくり返ろうが天美なんだから、油沢くんが天美を好きなのは変わらない。そうでしょ?」
「お、俺が天美を好きかどうかはひとまず置いといて、まぁ、そうだな……」
「あはは、素直じゃないなぁ」
真中の笑顔を見ていると、何だか無性に元気が湧いてくる。
そりゃあ、人気もあるわけだ、と改めて納得する。
「真中」
「ん?」
「ありがとう」
突然言われて驚いたのか、彼女は目を丸くする。
それから何故かそっぽを向き、後ろ頭を掻きながら、言った。
「勘違いしないで欲しいんだけどさ……私は別に、感謝される為にやったわけじゃないから。ただ、天美と油沢くんにはちゃんと幸せになってもらわないと、納得出来なくて、腹が立つから、やったの。そこら辺、ちゃんと分かってる?」
「ああ、分かってる。真中のおかげで、今後どうするべきか、俺自身の答えが見つかったよ」
彼女がこちらを振り返る。何故か、ジト目だった。
と、次の瞬間、俺の額にデコピンをかます。
「あ痛っ!? えっ、何?」
額を押さえながら顔を上げる俺に、真中は、あっかんべーをしながら一言。
「ばーか」
――何だろう、以前にもどこかで、似たような光景を見たことがある気がする。
俺が中学三年生だった時、休み時間に、教室の席に着いて、志望校調査表を書き込んでいると、天美が近くへやって来た。
彼女の片手には、同じく志望校調査表が握られていた。もう片方の手でシャープペンシルをくるくると回しながら、何を考えているのかいまいち読み取れない表情を、こちらに向けて来る。
目が合ったまま、しばらく沈黙が続き、俺は口を開く。
「……何だよ、天美。何か用か?」
「いや、別に。ただ、私さ、特別行きたい高校ってないから、オススメの高校を皆に聞いて回ってるんだけど、大地みたいな頭の悪い奴の志望校って、どこなんだろうなぁって思って」
「あ、頭が悪いって……! ああ、そうですよ、どうせ俺はお前みたいに、どこの高校選んでも合格出来るような成績じゃありませんよ!」
ちなみに、天美はめちゃくちゃ頭がいい。中学の成績は常に学年五位以内であり、そこより下に落ちたことは一度もなかった。
対する俺の成績は、中の中。だから、志望校は慎重に選ばなくてはならない。
と、彼女は突然、机の上にある俺の志望校調査表を奪い取った。
「おい、何やってんだお前!?」
「ふーん、県立青夏高校ねぇ。アンタにしては随分とまともなところを選ぶじゃない。ただ、大地の成績で行けるのかしら? 正直怪しいわね」
「うるせぇな! 俺がどこに行こうが俺の勝手だろ! 返せよ、俺の調査表!」
手を伸ばすが、天美はそれを上手く避ける。
「えーっと、その他には、赤坂に緑川……まぁ、妥当なところよね。大地程度のレベルなら、ちょうどいいんじゃない?」
「喧嘩売ってんのか! 早く返せっつーの!」
今度こそ志望校調査表を取り戻す。
俺は「腹の立つ女だな、全く! デリカシーの欠片もねぇのかよ!」と聞こえるように愚痴を吐いてから、怒りに任せて、彼女に人差し指を向ける。
「どっちにしても、お前とは無縁の高校だよ! 小学校から中学校までずっと同じクラスで、ウンザリしてたけど、それもあと半年の辛抱だ。腐れ縁もここまで! どうせお前は、私立鷲宮か何かを受けるんだろ? 推薦で何でもさっさと合格して、どっかに行っちまえ!」
「……言われなくてもそうするわよ。私だって、たかだか調査表を見られたくらいでキレるような気の小さい男と、いつまでも同じ空気なんか吸いたくないもの」
「このアマ、勝手に人の調査表を見ておきながら、好き放題言いやがって……!」
天美はこちらを見向きもせず、自分の席へと戻って行く。
……思い返すと、俺も素直ではなかった。本音を言えば、天美と同じ高校に行きたかったが、俺の成績では私立鷲宮高校なんて、無謀もいいところだ。
だったらせめて、天美に笑われない程度には偏差値の高い高校に行こうと思った。
県立青夏高校なら、凡人の俺でも、あと半年間必死に勉強すれば、可能性はあるはずだ。
それから半年、俺は両親に頼んで塾に通わせて貰い、とにかくがむしゃらに勉強した。
結果的に俺は、青夏高校に合格した。もともとは天美に少しでも近付けるようにと始めた受験勉強だったけれど、いざ合格してみるとやっぱり嬉しくて、達成感があった。
ただ、もっと嬉しいことがあった。
入学式の日、教室に入って、自分の席に着こうとすると、隣に天美の姿があったのだ。
紛れもなく青夏高校のセーラー服を着ている幼馴染みの少女に、俺は最初、驚きを隠せなかった。
「あ、天美!? 何でお前がここにいるんだよ!?」
「何よ、私が青夏高校に居ちゃいけないわけ? 大地、アンタ、何様よ?」
頬杖をつきながら、眉間に皺を寄せている天美。
「居ちゃいけないも何も、お前、鷲宮高校を受験したんじゃねぇのかよ!?」
「は? 誰がいつ、そんなことを言ったのよ? 私は、鷲宮には『推薦』で『学費免除』で行くつもりだったの。けど結局、落されちゃったし。私はあんな固っ苦しい高校、高い学費払ってまで通おうとは思わないわよ」
「受験当日、俺、お前の姿なんか見てないぞ!?」
「単に大地が気付かなかっただけでしょ。アンタ、端から見ても分かる程に緊張してたみたいだし、休み時間は食い入るように参考書を見つめてたし」
「いや、でも、何で青夏なんだよ!? お前ならもっと他に偏差値の高い高校を幾らでも選べただろ!?」
「だって、ここが家に一番近いし」
「はぁ!?」
俺は、ぽかーんと口を開けるしかない。
絶対に無理だと諦めていたのに、何の巡り合わせか同じ高校に合格し、更には一組から五組まである中で同じクラスになり、その上、一クラス四十二席ある中で、隣の席。
これは一体、どれほどの確率だろう。
「……とことん腐れ縁だな」
もはや、その一言しか出て来ない。
俺は、自分の席に座る。
天美が手元で、軽快にシャープペンシルを回しながら、ため息を漏らす。
「全く、冗談じゃないわ。私は、大地が不合格になると予想して、ここを受けたのに」
「おい、聞き捨てならんぞ、その台詞! お前、俺がここに受かる為に、一体どれだけ勉強したと思ってんだ!」
「耳元でギャーギャー騒がないでくれるかしら。思わず横顔を殴り倒したくなるから」
「入学初日から暴力事件!?」
天美は、俺とは正反対の、開け放たれた窓の方に顔を向けて、
「本当――」
もう一度、ため息をつく。
「最悪よ」
教室内にゆるやかに流れる春風に、彼女の黒く長い髪が、ふわりと揺れた。
誰かの声が聞こえる。
聞き慣れた、少女の声だ。
「ダイちゃん」
けれど、呼び方は夢の中の彼女とは違っていた。
温かくて、柔らかな感触が頬を撫でる。
「ダイちゃん、私、起きたよ?」
あるいは、こっちが夢の中なのだろうか。
分からない。
でも俺は、目を開ける。
「おはよう、ダイちゃん」
病室のベッドの上で、幼馴染みの少女が微笑んでいた。
「天美……?」
「うん!」
喜色満面で頷く天美。
彼女は俺の頬に触れていた手を、そっと離す。
「そっか……天美が起きるのを待ってる間に、俺の方が眠っちまってたのか……」
天美の居るベッドの横で、丸椅子に腰掛けて、教科書とノートを開いたまま。片手にはシャープペンシルが握られている。よくもまぁ、上手い具合に落ちなかったものだ。
どれくらい眠っていたのだろうかと、病室の窓の外に目を向ける。
日が落ち始めたようで、空は夕暮れのオレンジ色に染まっていた。携帯電話を開いて、時刻を確認する。
「眠ってたのは、一時間とちょっとってところか。天美は、いつ頃起きたんだ?」
「私もついさっきだよ。ダイちゃん、私が起きるの、ずっと待っててくれたんだね」
「それは……まぁ、遊びに来るって約束してたしな。途中で帰っちまったら、約束を破ったことになっちまうだろ? だから、仕方なく……」
「うん、ありがとうね、ダイちゃん。私、凄く嬉しい」
天美は頬を朱に染めて、「えへへ」と照れ笑いをする。
そんなを彼女を見て、俺は自分が何をすべきなのか思い出す。
「あー、えーと……」
がしがしを後ろ頭を掻く。
――落ち着け、俺。
そう自分に言い聞かせて、大きく深呼吸する。
「ん? どうしたの、ダイちゃん?」
不思議そうに小首を傾げる天美。
俺は彼女と目を合わせて、言う。
「俺も……その……嬉しい」
「え?」
「天美の笑顔が見れて……凄く嬉しい」
十年以上の時を経て、素直な気持ちを言葉に出来た瞬間だった。
天美が驚いたように瞬きをする。
素直な気持ちとはいえ、少々ストレートに表現し過ぎたかもしれない。顔は焼けるように熱いし、心臓の鼓動は先程から加速する一方だ。
ふと、天美が俺の手を取る。
「ダイちゃん、お願い。……もう一度、言って?」
期待に満ちた瞳だった。
俺は恥ずかしさが込み上げて来て、今すぐにでも「さっきの言葉は冗談だ」と否定したくなる。
だが、それを跳ね退ける。彼女から目を逸らさずに、声が震えても、はっきりと口にする。
「天美が喜んでくれて、俺も嬉しい」
「ダイちゃん!」
俺が言い終わるとほぼ同時に、文字通り、天美がベッドから飛び起きた。足のギプスなんて物ともせず、ベッド脇の椅子に腰掛けている俺に対し、飛び着いて来る。
「おわっ!? 何やってんだ天美! お前、足のギプスを忘れてる! 痛くないのか!?」
「めちゃくちゃ痛い! でも、それ以上に嬉しいの!」
天美の全体重が俺に掛かる。顎を肩に乗せ、俺の背中に手を回して来る。
「ダイちゃんと同じ気持ちで、凄く嬉しいの……!」
「天美……」
何でもっと早く気付けなかったのだろう。
素直に気持ちを伝えただけで、彼女はこんなにも喜んでくれる。
俺は天美の頭に手を置いて、撫でる。
これからは、目一杯優しくしよう。心からそう思った。
一度本心を言えるようになると、これまで天美と話せなかったことが、次々と口から零れ出た。
二人で色んなことを話した。
小学生の時のこと、中学生の時のこと、高校生になってから今までのこと。
顔を合わせて、喧嘩をした時、本当はどのような気持ちでいたのかということ。
聞けば聞く程、俺の知らないことが沢山あった。
本人の口から直接聞いて、あの時天美が何を言いたかったのか、天美はあの時どんなことを考えていたのか、思い当たる節が幾つもあった。
真中が言っていた通りだった。天美は素直じゃなくたって、俺のことを慕ってくれていた。大切に思ってくれていたのだ。
だからこそ、俺は――
「天美、あのさ……」
「どうしたの、ダイちゃん? 改まって」
小首を傾げる天美に、俺は意を決して、言った。
「心理喪失を直す気は、ないか?」
「え……それって……」
「反動形成を取り戻すってことだ」
覚悟はしていたが、天美が先程まで浮かべていた幸せそうな笑顔はどこかに行ってしまい、瞳が戸惑い、揺れる。
「ど、どうして……? だって、せっかく昔みたいに、二人仲良く話が出来るようになったのに。私が反動形成を取り戻したら、今みたいに居られなくなっちゃうよ? 顔を合わせれば、互いの悪口を言って、喧嘩になっちゃう」
「確かに、今と同じようには居られなくなるかもしれない。でも、心理喪失になる前みたいに、いつも喧嘩腰の関係にはならないよ。少なくとも俺は、天美の本心が分かったから、悪口を言われたって、怒ったりしない」
「だとしても、わざわざ元に戻す必要なんて……! 私は今が幸せだよ? ダイちゃんとこうして仲良く話せて、互いの気持ちを素直に言えて。それを自分から手放すなんて、私には出来ないよ。やっと手に入れた、奇跡みたいな幸せなのに……!」
ベッドのシーツを、両手で握り締める天美。
彼女は不安そうな顔で、俺を見る。
「それとも……ダイちゃんは、私と違う気持ちだった……? 素直な私は嫌い……?」
俺は首を横に振る。
多分、直接口にするのは、これが初めてだろう。
しかし、不思議と緊張はしていなかった。
「好きだよ。俺は天美が好きだ」
天美が顔を上げて、目を丸くする。頬を朱に染めて、俯く。
「だったら……!」
「俺は、今の天美が好きだし、今の状態が続くなら幸せだとも思う。だけど、分かったんだ。俺は今の素直な天美と同じくらい、素直じゃない天美も好きだったんだって」
「そんなの嘘だよ! 私が素直じゃなくなったら、ダイちゃんは私のことが嫌いになるに決まってる!」
「ならない。だって俺は、天美のことが好きなんだから。素直じゃなかろうが、悪口を言おうが、怒ろうが、俺は天美のことを嫌いになったりしない。全部ひっくるめて、俺は天美のことが好きだ!」
「でも……!」
天美は俯いたまま。
俺は彼女の肩に手を置く。
「俺さ、前の天美に謝らなくちゃならない。今の天美とは心が通じ合えても、前の天美とは喧嘩したままなんだ。本当に天美と一緒に居たいなら、今までのことを謝らなくちゃならない。謝って、ちゃんと仲直りしないと駄目だと思うんだ。その時にこそ、俺はちゃんと天美と向き合える。だから、俺はお前に、反動形成を――」
取り戻して欲しかったのだ。
素直じゃない天美に謝りたかった。
それだけだった。
だけど。
目の前の天美がポロポロと涙を零すのを見て、俺は言葉を失った。
「嫌だよ……」
消え入りそうな小さな声。雫が落ちて、シーツを濡らして行く。
「私は、戻りたくない……」
彼女は心の奥底から絞り出すように、言った。
「好きな人には、素直なままで居たいよぉ……!」
天美に元に戻って欲しいというのは、あくまで俺の願い――エゴに過ぎないのだと、その瞬間に思い知らされた。
俺は天美のことが好きだ。それは変わらない。
しかし、素直じゃない天美に謝りたいのは、俺だけの意思だ。俺だけの望み。俺だけが抱えている後悔。
そんな物は、天美本人には全く関係がない。
俺は、天美にどうあって欲しいか、天美がどうあるべきかということばかりを考えて、彼女自身の意思を全く考えていなかった。
天美のことが好き? 彼女の気持ちを考えもしないで、よくもそんなことを軽々しく口に出来たものだと思う。
俺は自分を殴り飛ばしたかった。
「ごめん、天美」
彼女のくしゃくしゃに歪ん泣き顔を取り除きたくて、俺はベッドに近付いて、その小さな身体を抱き寄せる。
「泣かせるつもりはなかったんだ……ごめん。俺、全然天美の気持ちを分かってなかった。ごめんな、天美。もう無理に戻れなんて言わないから……ごめん」
「――」
天美は泣いた。涙を零しながら、子供のように泣いた。
彼女が落ち着くまで、俺は震える身体を抱き締めていた。
やがて、涙が止まると、彼女は俺に再び笑顔を見せてくれた。
「ダイちゃん、ごめんね。私、みっともないところを見せちゃって」
「いや、謝るのは俺の方だ。……天美の気持ちを、俺はこれっぽっちも考えてなかった」
天美が左手を伸ばし、俺の右手と繋ぐ。そっと指を絡めて来る。
「……私は、ダイちゃんと素直な気持ちを言い合える今が、凄く幸せ。ダイちゃんがこうして側に居てくれるだけで、本当に幸せなの」
肩に温かさと重さを感じて、視線を向ける。
天美が目を瞑って、寄り掛かっていた。
病室の窓の外を見ると、日は落ちて、夜の帳が下り始めている。
「そろそろ帰らないと」
「えー」
名残惜しげに、天美が身体を離す。
俺はスクールバッグを持って立ち上がり、もう片方の手で彼女の頭を撫でる。
「そんな顔すんな。また明日、遊びに来るからさ」
「うん、待ってる」
病室の出口まで歩き、扉を開けたところで、俺は振り返る。
「なぁ、天美」
「どうかした? 忘れ物?」
「天美は俺のこと、好きか?」
俺が問うと、天美は屈託のない笑顔を浮かべて、言った。
「うん、大好き」
「そっか」
俺は微笑みで返して、病室を後にした。
昇降口を降りて、病院を出て、人気のない路地に入ったところで、俺は自分の頬を思いっきり殴った。
口の中で、血の味がした。痛みは感じなかった。
代わりに何故か、胸がズキリと痛んだ。
今更ながら、元ネタ、というかインスピレーションを得たのは志賀直哉の『范の犯罪』です。
とはいえ、いざ書き終えてみると、似ても似つかない作品になってしまいましたが(汗)
個人的なコンセプトとして、『ラノベで文学』を掲げてやってみたのですが、いかがだったでしょうか?
せめて、『ラノベっぽい文学もどき』になっていたならいいなぁ、と思ったり思わなかったり。
感想をお待ちしております!