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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第1章『法の不在』
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第9話 『政略結婚回避』

1 均衡のための生贄


 王宮の白薔薇のサロンは、午後の柔らかな陽光がステンドグラスを通り、床に淡い薔薇の模様を散らしていた。空気は甘く、しかしその甘さの下に、鋭い緊張が張りつめている。テーブルの上には銀のティーセットが並び、湯気が静かに立ち上っていた。


 王妃マルガレーテが上座に座り、優雅にカップを傾けている。彼女の隣に第一側妃ヒルデガード、対面に第三側妃ソフィアが控えていた。国王ゼノンは窓辺の椅子に腰を下ろし、静かに耳を傾けている。女性陣の茶会でありながら、今日の話題は明らかに「政治」だった。


 ソフィアが扇子を軽く開き、口元を隠しながら優雅に切り出した。声は穏やかだが、言葉の端に棘が潜んでいる。


「先日、武門のゼノビア侯爵家からセオリス殿がグラクト殿下の側近に選ばれましたわね。素晴らしいご判断ですわ。でも……王子の周囲が『武』に偏りすぎているのではございませんこと? 王国の調和を欠く、というよりは……バランスを欠いている、と申しますか」

 彼女の視線が王妃に向けられる。マルガレーテはカップを静かに置き、微笑んだ。微笑みは穏やかだが、目は冷たい。


「ソフィア様のおっしゃる通りですわね。グラクト殿下の教育は、武と知と魔導の均衡が理想。武門一辺倒では、確かに不均衡が生じます」

 ヒルデガードが小さく鼻を鳴らした。金髪を優雅に揺らし、翠の瞳でソフィアを睨む。


「では、ソフィア様のご提案は? 魔導卿の家系が、ただ不均衡を嘆くだけとは思えませんわ」

 ソフィアは扇子をゆっくり閉じ、微笑んだ。声は甘く、しかし内容は鋭利だった。


「簡単なことですわ。第一王女リーゼロッテ殿下と、私の甥、リーデル・ソリュ・セラフィナの婚約を……いかがでしょう?」

 一瞬、部屋が静まり返った。ヒルデガードの唇がわずかに歪む。マルガレーテは目を細め、国王ゼノンは窓の外を見たまま動かない。

 ソフィアは続ける。声は穏やかだが、言葉は容赦ない。


「リーデルは6歳。魔導卿セラフィナ侯爵家の嫡男で、すでに初級魔導の才能を示しております。リーゼロッテ殿下は……プラチナブロンドと金眼をお持ちですわね。家格も釣り合い、魔導派の不満も収まり、王子の側近に魔導の血を加える均衡が取れます。まさに『調和』ですわ」

 ヒルデガードが小さく笑った。笑いは冷たく、嘲るようだった。


「出来損ないの娘でも、セラフィナ家の『魔導予算と票』に代わるなら上出来ですわね。……私としては、異存ありません」

 彼女の言葉に、マルガレーテが静かに頷いた。王妃の声は落ち着き払っている。


「王家の内部統制として、派閥の均衡は最優先です。価値の低い王女一人で魔導派の不満が収まるなら……極めて安価な取引ですわね」

 国王ゼノンがようやく口を開いた。声は低く、重い。


「うむ。王女も年頃だ。家格も釣り合う。異存はない」

 決定はあっという間だった。リーゼロッテ本人の意思など、介在する余地はなかった。彼女の未来は、紅茶の湯気が消える前に決まった。

 マルガレーテが優雅にカップを置き、侍女に命じた。


「では、正式決定前に『顔合わせ』を。東屋の庭園でお茶会を設けましょう。形式的に、ですわ」

 ソフィアは扇子で口元を隠し、満足げに微笑んだ。


「ありがとうございます。リーデルも喜びますわ」

 ヒルデガードは小さく舌打ちしたが、誰も気づかないふりをした。国王は再び窓の外に視線を戻した。


 白薔薇のサロンは、再び静かになった。薔薇の模様が床に揺れる中、王女一人の未来が、誰の心も痛めず、ただ「均衡」のために切り捨てられた。

 それは、王国の冷酷な日常だった。




2 影の作戦会議(兄妹の対策)


 離宮の書斎は、夕暮れの柔らかな光が窓から差し込み、古い本棚に長い影を落としていた。机の上には魔法史の分厚い書物が開かれ、羊皮紙にリュートの細かなメモが散らばっている。部屋の空気は静かで、しかし緊張が張りつめていた。


 リーゼロッテは小さな椅子に座り、膝の上で手をぎゅっと握りしめていた。プラチナブロンドの髪が肩に落ち、金色の瞳は不安で揺れている。顔合わせの知らせが届いたのは昼過ぎ。彼女はそれ以来、一言も発さずにいた。


 リュートは机の向かいに立ち、妹の様子を静かに見つめていた。黒髪が額にかかり、赤い瞳は冷静だが、その奥にわずかな苛立ちが宿っている。彼はゆっくりと息を吐き、口を開いた。


「リーゼ。……全部聞いたよ」

 リーゼロッテの肩がびくりと震えた。小さな声で、ようやく言葉を絞り出す。


「……お兄様。私……売られるの?」

 その言葉に、リュートの胸が一瞬痛んだ。六歳の妹が「売られる」という言葉を口にする異常さ。だが、彼は感情を押し殺し、冷静に答えた。


「まだ決まったわけじゃない。ただの『顔合わせ』だ。……でも、向こうは本気で婚約を狙っている」

 リーゼロッテの瞳に涙がにじむ。彼女は膝の上で手を強く握り、震える声で続けた。


「私……嫌だよ。お兄様とお母様のところにいたいのに……リーデル様って人、どんな人かわからないし……」

 リュートは机を回り込み、妹の前にしゃがみ込んだ。視線を合わせ、静かに言った。


「怖いよね。理不尽だよね。でも、今は怯えてるだけじゃ守れない。だから……一緒に戦おう」

 彼は机の上から一枚の羊皮紙を取り、リーゼロッテに見せた。そこにはセラフィナ侯爵家の系譜と、リーデルの簡単なプロフィールが記されている。


「相手は魔導卿の嫡男、リーデル・ソリュ・セラフィナ。六歳。家系は『知性』を何より誇りにしている。魔導の伝統を重んじ、過去の偉業を暗記するのが彼らの教育だ。だから、リーゼ。君もただの飾り物じゃなく、対等に話せる『知性』を見せればいい」

 リーゼロッテは目を丸くした。リュートは続ける。


「彼らは『無知な女の子』を期待してる。でも、君が魔法の歴史をただ暗記するだけじゃなく、『歴史の流れから未来を予測する』視座を示せば……一目置かれるはずだ。侮られない。少なくとも、即座に『従順な人形』として扱われなくなる」

 彼は書物のページを開き、指で線を引いた。


「たとえば、三百年前の『聖魔導期』は確かに頂点だった。でも、その後百年で詠唱が簡略化され、魔力効率が上がった。流れを追えば、次は『無詠唱化』や『属性複合』への発展が自然だ。そういう話を振って、『貴方はどう思う?』と聞き返せばいい。議論を『対等な知性』として持ち込めば、彼らは喜ぶ。……少なくとも、軽く見下すことはできなくなる」

 リーゼロッテはメモを食い入るように見つめ、ゆっくり頷いた。瞳にわずかな光が戻る。


「……わかったわ、お兄様。私、頑張って『賢い王女』になってみせる。そうすれば、お兄様みたいに認めてもらえるのね」

 リュートは妹の頭を軽く撫でた。声は優しいが、確信に満ちていた。


「ああ。君ならできる。僕が信じてる」

 彼の胸中では、まだ希望が残っていた。論理と知性が、この国のエリート層にも通用するはずだと。まだ彼は、王国の「品位」という病巣の深さを、完全に読み違えていた。

 リーゼロッテは小さな拳を握り、決意を込めて言った。


「私、負けない。お兄様が教えてくれたこと、全部使ってみせる」

 リュートは微笑み、妹の肩を抱いた。


「一緒に、守ろう。この離宮を……僕たちの居場所を」

 書斎の窓から差し込む夕陽が、二人の影を長く伸ばした。希望と不安が混じり合う中、兄妹は静かに作戦を練り続けた。明日の「お茶会」が、ただの顔合わせで終わらないことを、まだ誰も知らなかった。




3 過去を暗記する者、未来を語る者


 王宮の東屋のある庭園は、初夏の陽光に満ちていた。蔦の絡まる白い柱の下に小さなテーブルが置かれ、銀のティーセットが輝いている。風が軽く吹き抜け、花の香りを運んでくる。表面上は穏やかなお茶会だが、そこに座る二人の子供の間には、すでに無言の緊張が張りつめていた。


 リーゼロッテは離宮から持ってきた淡い水色のドレスを着て、背筋を伸ばしていた。プラチナブロンドの髪を丁寧に結い上げ、金色の瞳は緊張でわずかに揺れている。彼女の前には、リーデル・ソリュ・セラフィナが座っていた。


 六歳のリーデルは、完璧な貴族の礼儀作法で現れた。黒い髪をきっちり撫でつけ、セラフィナ侯爵家の紋章が入った上着を着込み、知的な雰囲気を纏っている。だが、その瞳には隠しきれない優越感が浮かんでいた。彼はリーゼロッテを「聞き役の無知な女の子」として見下し、会話を主導するつもりでいた。

 リーデルは紅茶のカップを優雅に持ち上げ、静かに口を開いた。


「リーゼロッテ王女殿下。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます。せっかくの機会ですので、まずはお互いのことを少しお話しできればと存じます」

 リーゼロッテは丁寧に頭を下げ、穏やかに微笑んだ。声は幼いが、落ち着いている。


「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。リーデル様」

 リーデルは満足げに頷き、話題を自然に振った。


「王女殿下は、離宮でお過ごしになることが多いと伺っております。……魔導の勉強は、いかがでしょうか? セラフィナ家では、幼い頃から歴史を学ぶのが常でございます」

 リーゼロッテはカップをそっと置き、目を輝かせて答えた。リュートの教えを胸に、控えめだが確かな声で。


「はい、少しずつですが、書物を読ませていただいております。特に……三百年前の『聖魔導期』が、とても興味深いですわ。あの時代の大魔導師たちは、複雑な詠唱と厳格な形式で魔力を最大限に引き出していたと……」

 リーデルは即座に反応し、優越感を隠さずに頷いた。


「さすが王女殿下、ご存知でしたか。あの時代こそ、我が魔法の頂点でございます。伝統を守り続けることが、魔導の正道なのです」

 彼の言葉は誇らしげで、教科書通りだった。過去の偉業を暗記し、それを繰り返すことが、彼の「知性」のすべてだった。


 リーゼロッテは静かに聞き、タイミングを見計らって切り返した。声は優しく、しかし自然に。


「ええ、本当に素晴らしい時代ですわね。でも……歴史を紐解くと、その後百年で詠唱が簡略化され、魔力効率が大幅に向上したと記されています。この流れを鑑みれば、私は……『無詠唱化』や『属性複合』といった方向へ、魔法理論はさらに発展の余地があると思うのですが……」

 彼女はカップを傾け、穏やかに続けた。


「リーデル様は、いかがお考えですか?」

 リーデルは一瞬、動きを止めた。カップを持つ手がわずかに震え、瞳に驚きが閃く。


『……何を言っているんだ? 発展? そんな……そんな話は、教科書にない。聖魔導期が頂点で、それ以降は形式を守るだけ……それが正しいはずだ。なのに、この女の子は……未来を? そんなことを……考えているのか?』

 彼の胸に、初めての混乱が広がった。いつもなら、過去の知識を並べるだけで相手を圧倒できる。なのに、今は言葉が出てこない。暗記した内容を超えた質問に、頭が真っ白になる。未知の概念への恐怖が、やがて苛立ちへと変換されていく。


『……この王女、何かおかしい。女の子が、そんな……未来を語るなんて。品位がない。いや、品位以前に……これは、僕の知性を試しているのか? それとも……嘲笑っているのか?』

 リーデルは紅茶を一口飲み、時間を稼いだ。喉が乾いていた。だが、答えは出ない。彼は暗記した知識しか持っていない。未来を語る視座など、持ち合わせていなかった。


「……発展?」

 声にわずかな震えが混じる。リーゼロッテはさらに言葉を重ねた。声は優しく、しかし確信に満ちていた。


「たとえば、無詠唱化が実現すれば、戦場での即時対応が可能になります。属性複合なら、新たな魔法体系が生まれるかもしれません。伝統は大切ですが……それを基に未来を創るのが、真の魔導ではないでしょうか?」

 庭園の風が一瞬止まった。侍女たちが息を呑む。

 リーゼロッテの瞳は輝き、六歳とは思えない知性がそこにあった。彼女はリュートの作戦通り、自然に話題を魔導史へ導き、対等な議論を求めた。


 リーデルはもう、視線を逸らした。胸の奥で、何かが崩れていく感覚。知性の敗北を、初めて味わっていた。


「……伝統を崩すなど、言語道断です」

 言葉は強かったが、声に力がない。リーゼロッテは静かに待った。相手が本当の議論に応じるのを信じていた。


 しかし、リーデルはもう答えられなかった。彼の「知性」は過去の暗記に過ぎず、未来を前にした途端、無力だった。

 東屋の空気が、重く変わり始めた。攻勢はここまでだった。次に待っていたのは、品位という名の暴力だった。




4 品位という名の暴力


 東屋の空気が、一瞬で変わった。

 リーゼロッテの言葉が終わった瞬間、リーデルの表情から優雅さが消えた。代わりに、冷たい嘲笑が浮かぶ。カップを持つ手はもう震えていない。代わりに、ゆっくりと紅茶を置く動作に、計算された冷徹さが宿っていた。


 彼は視線をリーゼロッテから逸らさず、静かに口を開いた。声は低く、しかし周囲に響くように明瞭だった。


「……少しは慎みなさい、リーゼロッテ王女殿下」

 言葉は丁寧だが、刃のように鋭い。侍女たちが息を呑む。リーゼロッテの瞳がわずかに揺れたが、彼女はまだ希望を捨てていなかった。リーデルは続ける。


「慎むことが、妻としての品位ですよ」

 その一言で、庭園全体が凍りついた。リーデルはゆっくりと背筋を伸ばし、勝ち誇ったように微笑んだ。


「結婚すれば、品位の優先順位は逆転します。夫である僕の言葉が『正義』となり、妻はそれに従うのが『品位』です。女が未来のことなど考える必要はない。……貴女はニコニコ笑って、僕の隣で慎ましくしていればいいのです」

 その瞬間、リーゼロッテの胸に激しい痛みが走った。


 離宮で何度も繰り返した努力が、頭の中で一瞬にして砕け散る。リュートが夜通し教えてくれた魔法史の流れ、無詠唱化の可能性を一緒に想像した時間、お兄様の「君ならできる」と励ましてくれた言葉――すべてが、この一言で「不要」と断じられた。


『……そんな……そんなの、違うのに……』

 彼女の小さな手が、テーブルの下で震えた。掌に爪が食い込み、痛みが心を刺す。離宮の書斎で、兄と一緒に羊皮紙に未来の魔法を書き連ねた夜。母ルナリアが「君の考えは素晴らしいわ」と微笑んでくれた瞬間。あの温もりが、今、冷たい風にさらされるように剥ぎ取られていく。


『お兄様が教えてくれたこと……全部、無駄だったの? 私が頑張って賢くなろうとしたこと……こんな人に、一生従うために生まれてきたってことなの?』

 絶望が波のように押し寄せた。こんな人と一生を共にすることが「品位」だと言うなら、王女として生まれた意味は何なのか。離宮の平穏を守るために仮面を被り、論理を学び、未来を夢見た努力が、すべて無意味だったのか。


 胸が締めつけられ、息が苦しい。涙がこみ上げそうになるのを、必死に堪える。

『……お兄様、ごめんなさい。私……負けちゃった……』

 リーゼロッテはゆっくりと息を吸い、完璧な「仮面」を被り直した。声は穏やかで、震えを一切出さない。だが、その瞳の奥は空っぽで、深い闇が広がっていた。


「……左様でございますか。勉強になりましたわ」

 言葉は丁寧で、微笑みさえ浮かべている。リーデルは満足げに頷き、カップを再び手に取った。


「さすが王女殿下、わきまえがおありで。……これからもよろしくお願いいたします」

 侍女たちが安堵の息を吐く。東屋の空気は、再び穏やかになった。表面上は、何事もなかったように。


 リーゼロッテは静かに紅茶を一口飲んだ。味はしない。喉を通る液体が、ただ冷たいだけだった。彼女の小さな手が、テーブルの下で強く握りしめられる。爪が掌に食い込み、血がにじむ。知性の敗北は、ここで完結した。


 東屋の蔦が風に揺れる中、六歳の少女は、静かに絶望を飲み込んだ。離宮で待つ兄と母の顔が浮かぶたび、胸が引き裂かれるように痛んだ。こんな人と一生いることが「品位」なら……彼女は、もう何も信じられなかった。

 次に待っていたのは、離宮での涙と、母の咆哮だった。




5 蜘蛛の糸を紡ぐ母


 離宮のルナリアの私室は、夜の帳が下りた頃に柔らかなランプの光で満たされていた。暖炉の火が静かに揺れ、部屋全体を温かな橙色に染めている。重厚な机の上には、開かれた羊皮紙とインク壺が置かれ、ペンの先がわずかに光を反射していた。

 リーゼロッテは部屋に入るなり、リュートに駆け寄った。小さな体が兄の胸に飛び込み、震える声で泣きじゃくる。


「お兄様……! お兄様の言う通りにしたのに……『慎め』って……女に未来はいらないって……!」

 涙がリュートの服を濡らす。彼女の小さな手が、兄の袖を強く握りしめ、離さない。離宮に戻る道中、彼女は一言も発さず、ただ仮面を被り続けていた。だが、ここに帰ってきた瞬間、すべてが崩れ落ちた。


 リュートは妹を抱きしめ、背中を優しく撫でた。だが、彼の表情は硬い。唇を噛み、胸の奥で自責が渦巻く。


『……僕のミスだ。あいつらは議論なんて求めていなかった。ただの「従順な人形」を欲しがっていたんだ。僕の浅知恵が、リーゼを傷つけた』

 ルナリアは静かに立ち上がり、二人の元へ歩み寄った。黒髪がランプの光に揺れ、赤い瞳は穏やかだが、その奥に冷徹な光が宿っている。彼女はリーゼロッテを抱き上げ、膝の上に座らせた。娘の涙を優しく拭いながら、静かに、しかし力強く言った。


「リーゼ……よく頑張ったわね。お母様は、全部聞いたわ」

 リーゼロッテは母の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らす。


「お母様……私……賢くなろうとしたのに……全部、無駄だった……」

 ルナリアは娘の髪を優しく撫で、リュートに視線を移した。リュートは唇を噛み、俯く。


「お母様……僕が……」

 ルナリアは静かに首を振り、微笑んだ。だが、その微笑みは優しい母のものではなく、帝国の公爵令嬢としてのものだった。


「リュート。あなたの策は間違っていなかった。ただ……この国では、知性が通じない場面があるだけよ」

 彼女はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に控えていたルリカに視線を向けた。声は穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。


「ルリカ。紙とペンを持ってきて」

 ルリカは即座に動き、机の上に新しい羊皮紙とインク壺、羽ペンを並べた。ルナリアは優雅に席に着き、ペンを取り、文字を綴り始める。リュートが近づき、声を潜めて問う。


「お母様……実家に圧力を? でも、露骨にやれば『外患誘致』で……」

 ルナリアはペンを止めず、涼しい顔で答えた。


「まさか。そんな無粋な真似はしないわ。私はただ、『定期報告』を書くだけよ」

 彼女が書いたのは、帝国貴族である父への時候の挨拶文。穏やかな文面に、家族の近況を綴っている。だが、最後の追伸に、さらりと、しかし強烈なフックを仕込んだ。


『……さて、夫の娘である第一王女リーゼロッテですが、先日「無詠唱化」と「属性複合」の理論的可能性について語っておりました。王国の古い教育では「異端」とされましたが、実力主義の帝国ならば、この「未来を見る目」がどう評価されるのか、父上のご意見を伺いたいものです』

 ルナリアは封蝋を押し、リュートに見せた。声は静かだが、確信に満ちている。


「わかる? 私は『助けて』なんて一言も書いていない。ただ、『逸材がここに埋もれていますよ』と、実力至上主義の怪物(父)に餌を投げただけ」

 リュートは息を呑んだ。ルナリアは続ける。


「父なら、この情報を読めばどう動くか明白よ。帝国の利益のために、必ずこの『才能』を確保しようとする。王国への圧力は、帝国が勝手に判断したことであり、私はただの世間話をしたに過ぎない。……これが、リスクを負わずに国を動かすということよ」

 リーゼロッテは母の膝の上で、涙を拭きながら見上げた。声は震えていた。


「お母様……私……本当に、守ってもらえるの?」

 ルナリアは娘の頰に優しく手を添え、赤い瞳をまっすぐにリーゼロッテに向けた。声は優しく、しかし断固として響いた。


「もちろんよ。リーゼは私の娘だもの。かけがえのない宝物。誰にも渡さない。誰にも傷つけさせない。絶対に、絶対に守るわ」

 その言葉は、優しい母の約束であり、同時に帝国の虎の咆哮だった。


 リーゼロッテの瞳から、再び大粒の涙がこぼれた。今度の涙は、絶望ではなく、深い安堵の涙だった。彼女は母の胸に強く抱きつき、静かに嗚咽を漏らしながら、温もりの中で少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 ルリカが静かに部屋の隅から近づき、温かな紅茶を差し出す。部屋に、再び静かな平穏が戻った。


 だが、リュートの胸中では、別の感情が渦巻いていた。母の圧倒的な「政治力」と、自分の未熟さの差。知恵だけでは足りない。この国を変えるには、もっと冷徹な手段が必要だ。


 夜の離宮に、ランプの光が揺れる。蜘蛛の糸は、静かに、しかし確実に絡みつき始めていた。




6 王家の誤算と影の誓い


 王宮の執務室は、夜更けの静けさに包まれていた。重厚な扉の向こうで、国王ゼノンが外交信書を広げ、王妃マルガレーテが傍らに立つ。ランプの炎が揺れ、紙面に影を落とす。

 信書は帝国から届いたものだった。内容は簡潔で、しかし重い。


『第一王女リーゼロッテの「未来を見通す魔導の才」に皇帝陛下が興味を持たれている。我が国の第二皇子との婚約を検討したい』

 マルガレーテは書状を読み終え、満足げに頷いた。


「ルナリア様、何気ない手紙でうまく帝国の関心を引いたようね。姪の可愛さを書き送ったのでしょうけれど、それが国益になるとは」

 ゼノンは顎に手を当て、静かに言った。


「帝国が欲しがるほどの才か? まあよい。セラフィナ家より遥かに良いカードだ。縁談は凍結し、帝国との交渉を進めよ」

 二人はルナリアの「義理の娘自慢」が、偶然にも帝国の欲を刺激したと思い込んでいた。王家の誤算は、ここにあった。彼らは、自分たちがルナリアの手のひらで踊らされていることに、全く気づいていなかった。



 一方、離宮のリュートの寝室は、月明かりだけが窓から差し込んでいた。

 リュートはベッドに座り、膝を抱えて目を閉じていた。胸の奥で、母の行動が繰り返し再生される。


 手紙一枚。リスクゼロ。露骨な圧力などかけず、ただ「情報」を投げただけで、帝国の欲を動かし、王国の決定をひっくり返した。ルナリアは、血も流さず、誰にも指一本触れさせず、状況を掌握した。


(……お母様は、僕の知性では届かない高みで戦っていた)

 リュートはゆっくりと目を開けた。赤い瞳に、月光が冷たく映る。


 前世の検察官として、弁護士として、相手の行動原理を読み、弱点を突くことに長けていた。取調べで嘘を見抜き、裁判で矛盾を突き、相手の心理を崩す――それは得意だった。だが、それはあくまで「個」の戦いだった。与えられた盤面の上で、相手一人一人の弱点を突くという局地戦だ。


 しかし、今の母は違う。盤面全体を見て、国家間の力学を探り、それを糸で繋げていた。帝国の「実力至上主義」という国家の欲、王国の「派閥均衡」という病巣、それらを結びつけ、自分に都合よく動かした。


 個人の弱点を突く法曹から、大衆や国家の『欲』を盤上の駒とする統治者への移行。それこそが、ルナリアの見せてくれた強さだった。

 リュートは拳を握りしめた。胸に熱いものが込み上げる。


(……僕の浅知恵は、個の弱点を突くだけだった。でも、それじゃ足りない。この国を変えるには……全体の歪みを、人々の欲を、全部盤上の駒として利用しなければならない)

 彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。月が離宮の庭を白く照らす。リュートは静かに呟いた。


「……次は、僕が守ってみせる。この腐ったルールを使いこなして。誰にも文句を言わせない『影の支配者』になるために」

 八歳の少年の瞳に、冷徹な謀略家としての光が宿った。それは、前世の法曹の鋭さではなく、新たな支配者の覚醒だった。


 離宮の夜は静かに過ぎていく。影は、ゆっくりと、しかし確実に広がり始めていた。

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