第5話後編 『主君の懺悔』
4 罠の実行
実行の日は、驚くほど静かに訪れた。
放課後。
人気の薄くなる旧校舎の一角、図書準備室と呼ばれる小部屋。古い蔵書や帳簿、破損した備品が一時的に運び込まれるその場所は、普段は人の出入りが少なく、教師の巡回も疎らだった。扉は厚く、廊下側から中の様子は窺えない。こうした半ば忘れられた空間こそ、身分ある者が己の特権を行使するには都合がよい。
その日、その部屋へ先に入ったのはスピネルだった。
彼女はいつも通り、簡素だが清潔な制服を纏っていた。髪も、普段より少しだけ丁寧に整えてある。誘ったのではない。媚びたのでもない。ただ相手が勝手に「従順さ」と誤認しやすいよう、必要最小限の隙だけを作っているにすぎなかった。
部屋の中央に置かれた長机の脇に立ち、スピネルは静かに息を整える。怖くないわけがない。だが、その恐怖を表へ出しすぎれば相手は警戒する。逆に、あまりにも強く拒めば、今日この場で決定的な一線へ踏み込んでこない可能性もある。
必要なのは、怯えているが逃げ切れない令嬢。助けを呼ぶだけの力もなく、しかし完全には折れていない女。そう見せることだった。
やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
扉が開き、魔導卿派に連なる伯爵家の子息が姿を現す。年齢に見合わぬ高価な装飾品をいくつも身につけたその男は、部屋の中にスピネルが一人でいるのを確認すると、満足げに口元を歪めた。
「逃げずに来たか。少しは物分かりがよくなったようだ」
そう言って後ろ手に扉を閉める。鍵までは掛けなかった。閉じ込めるまでもない、自分が出て行くなと言えば、この没落令嬢は従うしかない。そう本気で信じているのだ。
スピネルは視線を伏せたまま、小さく問うた。
「……今日は何の御用件でしょうか」
伯爵子息は鼻で笑う。
「まだ分からぬのか。没落した家の娘に、私が何度も声を掛けてやっている意味を、本当に理解していないのか」
ゆっくりと歩み寄り、彼は目の前で立ち止まった。
「お前の父は、もう使い物にならん。家格は男爵でも中身は空っぽだ。金も後ろ盾もなく、学園を出た後に待っているのは、せいぜいどこかの下級官吏の後妻か、もっと酷い落ちぶれ方だけだろう。だが私の庇護に入るなら話は別だ。住まいも、衣服も、生活も与えてやる。父親にも働き口を斡旋してやっていい。お前のような女が生き残るには、それしかあるまい」
その口ぶりは、恩を売っているつもりのそれだった。
脅している自覚すらない。上位者が下位の女へ「道を与えてやる」こと自体が慈悲だと、本気で信じている。
スピネルは唇を引き結んだまま、答えなかった。しかし、それが今は最善だった。
伯爵子息はその沈黙を肯定と受け取ったらしい。声色をさらに柔らかくする。
「怯える必要はない。私は優しい男だ、大人しく従いさえすれば粗末には扱わぬよ」
「……それは、どういう意味でしょうか」
スピネルがわずかに声を震わせると、男の顔から最後の建前が薄くなった。
「正式な妻にしてやることはできないが、愛妾として遇するくらいの情はある。学園にいる間も、卒業した後も、私のそばへ置いてやるということだ」
婚姻ではない。対等な契約でもない。ただ従属と囲い込み。相手に拒む権利があるとも思っていない、上位者の温情でしかなかった。
スピネルはなおも視線を落としたまま問う。
「……お断りすれば、どうなるのですか」
伯爵子息は今度こそ露骨に笑った。
「学園での居場所は失い、父親の再就職口も消える。テノール男爵家の名残など、私が少し口を利けばどうとでもなる」
そう言って彼は、無遠慮にスピネルの顎へ手を伸ばし、無理やり顔を上げさせた。
「これは脅しではない、救済だ。私ほど親切な男はそうおらぬぞ」
スピネルは本能的な嫌悪を押し殺し、震える息を吐く。
目の端に滲んだ涙は演技ではない。だが、それを利用すると決めたのは彼女自身だった。
「私は、そのようなことには――――」
彼女がか細く言いかけると、男はそれを遮る。
「清らかさを売りにして値を上げるつもりか。勘違いするな、お前に選り好みする余裕などない。私は拾ってやると言っているだけだ」
そこで彼は一度だけ扉の方へ視線をやった。
人の気配はない。物音もない。完全な密室だと確認したのだろう。
次の瞬間、彼の顔から最後の建前が消えた。
「大人しく従え。そうすれば、お前の家は明日からでも救ってやる」
スピネルは一歩後ずさる。
だが、長机が背に当たり、それ以上は下がれない。
伯爵子息は躊躇なく両腕を掴み、机へ押しつけた。
そこで初めて、彼の行為は言葉ではなく、明確な有形力の行使へと変わった。
「やめて……っ」
「静かにしろ。少し痛いかもしれんが、すぐ慣れる」
スピネルが声を漏らしても、男は吐き捨てるように言い放つ。その言葉とともに、彼の手は一方的に彼女の身体を拘束し、衣服へかかった。脅迫と服従の要求は、ついに性的強要の実行段階へ足を踏み入れた。
『――――今だ』
スピネルの瞳が、涙に濡れたまま一瞬だけ冷えた。
次の瞬間、凄まじい轟音とともに図書準備室の扉が外側から蹴り破られた。古びた蝶番が悲鳴を上げ、扉板が壁へ激突する。土埃の舞う入口に立っていたのは、風紀官の腕章を巻いた二人の少年だった。
先頭はテトラ。
その半歩後ろに、純白の軍服を纏うレオンハルト・アイゼンガルト。
伯爵子息の顔から血の気が失せる。
だがそれは羞恥や罪悪感によるものではなかった。己の欲望を見られたことへの恐怖より先に、平民上がりの特待生に踏み込まれたことへの激怒が勝ったのである。
「貴様ら、何の権限でここへ――――!」
「学則違反の現認による介入だ。暴力および強要の現行犯として拘束する」
怒鳴る伯爵子息に対し、テトラは感情を動かさぬまま告げようとした。
だが最後まで言わせず、伯爵子息の拳が振り抜かれた。
鈍い打撃音が狭い室内に響く。
真正面から顔面を殴られたテトラの身体がよろめき、そのまま床へ膝をついた。口の端が切れ、鮮血が白い床板にぽたりと落ちる。だが彼は怒鳴りもしなければ、苦悶の声すら漏らさなかった。
血の滲んだ口元を拭いもせず、氷のように平坦な声で告げる。
「……風紀官に対する明白な暴行を、確認」
伯爵子息はなおも二撃目を振り上げた。
その腕が振り下ろされるより速く、レオンハルトが一歩前へ出る。白い軍服の袖口から伸びた手が、伯爵子息の手首を万力のように掴み止めた。
「――――見苦しいぞ」
レオンハルトの声は低く、よく通った。少年のそれでありながら、そこには武門の嫡男として鍛えられた絶対的な威圧が宿っている。
「私はアイゼンガルト侯爵家嫡男、レオンハルト・デイル・アイゼンガルト。今この場において、貴殿がテノール男爵令嬢に対し強要を行い、さらに風紀官へ暴行を加えた事実を、明確に現認した」
その一言で、伯爵子息の顔色が一気に変わった。
平民の証言なら踏み潰せる。没落令嬢の訴えなら、情緒や誤解と切り捨てられる。だが、王国最強の武門に連なる侯爵家嫡男の現認は違う。そこには、身分秩序の中ですら覆せない重みがある。しかも床には、テトラの血が落ちていた。突入の正当性、暴行の存在、現場の切迫性、そのすべてを客観的に裏打ちする証拠として。
スピネルは壁際に身体を寄せながら、その光景を見ていた。
肩は震えている。息も浅い。だが、瞳だけははっきりと開いていた。
『――――成ったわ』
そう確信したのだ。
伯爵子息はなおも抵抗しようとしたが、レオンハルトの腕はびくともしない。その横でテトラがゆっくりと立ち上がる。口元の血を拭いもせず、淡々と手帳を開いた。
「旧校舎図書準備室において、被害者への脅迫、身体拘束、衣服への接触、ならびに風紀官に対する有形力の行使を確認。現認者は、アイゼンガルト侯爵家嫡男レオンハルト殿」
その記録は、ただのメモではない。
後の法廷で、構成要件該当事実を一つ一つ固定するための、第一の刃だった。
伯爵子息はようやく、自分が取り返しのつかない場所まで踏み込んでしまったことを理解したのだろう。怒りとも恐怖ともつかぬ顔で、掴まれた腕を無様に捩りながら呻いた。
「ば、馬鹿な……私は伯爵家の――――!」
「その爵位が、今この場の醜悪さを消すとでも思ったか」
レオンハルトの返答は冷たかった。
返す言葉はない。
スピネルは目を閉じ、短く息を吐いた。
恐怖は残っている。膝もまだ震えている。それでも彼女は泣き崩れなかった。没落令嬢は、自らの意志で踏み込んだ盤面の上で、確かに相手の喉首を摑んだのだ。
こうして、特権を当然と信じ切った中位貴族の増長は、血と目撃と現場という、誰にも言い逃れのできない客観的事実として固定された。次に待っているのはもはや密室での揉み消しではない。
白日の下の法廷である。
5 知将の戦慄
その報告がエドワルドのもとへ届けられたのは、日付が変わる少し前だった。
第一王子補佐官室――――実質的には、学園内でグラクトの名の下に動く膨大な実務が集積される、もう一つの執務室である。机上には未決裁の書類、次回会議の議題整理、学則の運用報告、風紀官からの巡回記録が幾重にも積まれていた。その山の上へ、ティナの経路を通じて整理された簡潔な報告書が一通、静かに置かれる。
エドワルドは最初、いつものように機械的な速度で目を通そうとした。
旧校舎図書準備室。
没落男爵令嬢スピネルに対する脅迫。
身体拘束。
衣服への接触。
風紀官テトラへの暴行。
そして、現認者――――レオンハルト・デイル・アイゼンガルト。
そこまで読んだところで、彼の指先がぴたりと止まった。
『何だ、これは――――』
誰に向けるでもない内なる声が漏れる。
文面そのものは、極めて整っている。事実関係も明瞭だ。
だからこそ余計に悪い。
エドワルドは報告書を持つ手に力を込めたまま、もう一度、最初から読み返した。
被告となるのは、魔導卿に連なる伯爵家子息。
つまり、第三側妃ソフィアの実家と政治的に近い一門の若手である。表面上だけを見れば、派閥均衡の観点から悪くない案件にも見える。今、王宮内では第三側妃とその背後の魔導卿が、グラクトの周辺で最も強い発言権を持っている。その一角を、学園という別盤面で合法的に削ることができるなら、他の勢力からすれば歓迎すべきことですらある。
だが、エドワルドの顔色が失われたのは、そこではなかった。
彼はゆっくりと椅子の背にもたれ、氷青の瞳を閉じる。脳裏に浮かぶのは、被告人個人の処分ではない。その背後にいる、もっと大きな集団の顔だった。
中位貴族。
伯爵、子爵。
王都に常駐し、代官職や官職を渡り歩きながら、中央政治の実務と地方統治の端々を支えている者たち。
王家ほど高くはなく、公爵家ほど独立してもいない。だが下を見れば、士爵も平民もいる。その中途半端な高さこそが、彼らの最も危うい性質を生む。
上位貴族は、少なくとも王家の品位との距離を知っている。四公爵家ほどになれば、自らが国家の一部を担う責任も理解している。下手に私情で暴れれば、そのまま自家の政治的損失へ直結することを骨身に染みて知っているのだ。
だが、中位貴族は違う。
彼らは王家ほど絶対ではない。
それゆえ、王家の威光を「借りる」ことでしか自らの特権を誇示できない。自らは王ではないからこそ、王家の品位を勝手に自分の鞭として振り回し、下位の者に対する支配権だと誤認する。
学園でも同じだ。
平民や特待生に対して、上位者が指導してやる、身分ある者の言葉に従うのが当然だと、本気で信じている。
それは悪意ですらない。
もっと厄介な、無自覚な当然の権利意識だった。
エドワルドは額を押さえた。
『最悪だ』
今回の件を、単なる一人の伯爵子息の不始末として処理することはできない。なぜなら被告人が行ったのは、彼個人の倒錯や一時の激情ではなく、中位貴族層の多くが日常的に当然視している振る舞いの延長線上にあるからだ。
没落した令嬢に庇護をちらつかせる。
下位の者の身体と将来を取引材料として扱う。
拒絶すれば学園での立場も家の将来も潰すと脅す。
それらはすべて、この国の旧い秩序の中では表立って咎められてこなかった「よくあること」にすぎない。
もし、その「よくあること」を、グラクト自身の名の下に公開の法廷で罪と認定してしまえばどうなるか。
答えは明白だった。
中位貴族たちは理解する。
王家は、自分たちの当然の権利を守ってくれる存在ではないのだと。むしろ、自分たちがこれまで無意識に享受してきた特権を、法という名目で剥ぎ取りにくるのだと。
そうなれば、彼らの反発は単なる被告家一つの不満では済まない。議会の多数を占める中位層全体が、「王家はもはや我らの味方ではない」と認識し始める。それは、そのまま貴族院の空気を変える。
エドワルドの父――――貴族院議長カルネリア侯爵は、まさにその中位貴族層を束ねることで議会運営を成立させている。彼らは忠誠心だけで動くわけではない。王家の威信を尊ぶ一方で、自らの特権もまた尊重されるという前提があるからこそ、その均衡が保たれてきたのだ。
だが、その前提が崩れれば――――。
議会運営そのものに、亀裂が入る。
しかも厄介なのは、この案件が「魔導卿派を削る裁判」として終わらないことだった。表面的にはそう見える。第三側妃側の近縁を裁くのだから、他の勢力からすれば痛快な牽制に映るだろう。
だが本質は違う。
これは、魔導卿派の一角を削るのと同時に、中位貴族全体へ向けて「君たちの当然は、もはや法の外では通用しない」と突きつける裁判なのだ。
そして、そこに立つ裁判長はグラクトである。
グラクトの威光を高めるために生徒会を作った。学則を整備した。裁判制度すら導入した。それらすべては、本来なら次期国王の威信を盤石にするための装置だったはずだ。なのに今やその装置は、下手をすれば王家と中位貴族層の信頼関係そのものを切断する刃になりつつある。
エドワルドは立ち上がり、部屋の中を数歩だけ歩いた。
氷のように整った思考が、今だけは高速で軋んでいる。
穏便に潰せるか。難しい。
現認者がレオンハルトである時点で、証拠能力は極めて高い。しかも風紀官テトラへの暴行という追加要素までついている。これを密室で握り潰せば、今度は学則そのものの信頼が死ぬ。
では、軽い処分で逃がせるか。
それも危うい。第二回裁判ともなれば、全校生徒の注目度は第一回以上だ。しかも被害者は没落令嬢、加害者は身分を振りかざした伯爵子息。ここで甘い裁定を下せば、「法は結局、身分に負ける」という判例が刻まれる。
どちらへ転んでも、盤面は傷つく。
そして何より恐ろしいのは、この構図があまりにも美しすぎることだった。
没落令嬢。
中位貴族の増長。
風紀官への暴行。
絶対上位者による現認。
学則に照らせば、法廷へ載せるための材料があまりにも綺麗に揃いすぎている。ここまで揃った案件を、ただの偶然で片づけられるほど、エドワルドは無能ではなかった。
自然と、その名が内心から漏れる。
『――――リュート殿下』
彼はまだ証拠を持っていない。だが、これがあの第二王子の手によって「法廷に最適化された事実」である可能性を疑わずにはいられない。あまりにも都合が良すぎるのだ。魔導卿派を削りつつ、中位貴族の特権意識を試し、さらにグラクトへ「法か、旧秩序か」の選択を迫る盤面として。
エドワルドは机へ戻り、報告書をもう一度置いた。
その紙一枚が、まるで火薬庫の点火具のように見える。
知将としての直感が、はっきりと警鐘を鳴らしていた。
この裁判は危険だ。
単なる学園風紀の問題ではない。
魔導卿派の失点でもなければ、一人の伯爵子息の処分でもない。
これは、王家と中位貴族を結びつけてきた当然の前提を、法という名目で断ち切る最初の大きな一撃になるかもしれない。
それでもなお、エドワルドには一つだけ救いがあった。
まだ、判決は出ていない。
裁判長はグラクトだ。
そしてグラクトは、成文法を理解し始めたとはいえ、なお王家の重圧と政治の泥の中にいる。ここで政治的着地の必要性を説けば、まだ間に合うかもしれない。法を守る体裁を崩さず、しかし中位貴族層全体へ波及しない形で、処理を穏便に落とす。少なくとも、その努力をする義務が自分にはあった。
エドワルドは音もなく書類を揃えた。
その顔から、動揺はもう消えている。
だが、それは平静に戻ったのではない。最悪の政治爆弾を前にした参謀が、ようやく腹を括っただけの顔だった。
『殿下にお会いしなくてはならない――――』
それは独り言であり、同時に決意でもあった。
もしこの裁判をそのまま法理のままに走らせれば、議会は軋む。中位貴族たちは離れる。そしてグラクトを支えるはずだった土台そのものが、静かに崩れ始める。だからこそ、今夜の進言は決定的になる。
王を守るために、法を曲げるのか。
それとも、法を貫くために旧い支えを切り捨てるのか。
その分岐点が、もう目の前まで来ていた。
6 主君の懺悔と、知将の誓い
第二回学園裁判の開廷を翌日に控えた夜。
第一王子の私室には、春先の冷えた空気を押し留めるような重い沈黙が満ちていた。
机上には、被告人に関する調書、風紀官の報告書、証言の整理、そして訴追官側から提出された起訴状の写しが、几帳面に並べられている。グラクトはその束の前に座り、灯火に照らされた文字列を睨むように見つめていた。だが、その視線は紙面の向こう側、もっと深い、己の内側へと沈んでいるようでもあった。
やがて、扉の向こうから控えめなノックが響く。
「……入れ」
エドワルドだと名乗る声に、グラクトは短く答えた。
入室したエドワルドは、いつも通り一分の隙もない所作で一礼した。だが、その氷青の瞳の奥には、昼間の報告を受けた時から消えぬ緊張が、冷たく沈んでいる。
グラクトは椅子から立ち上がらず、目の前の席を示した。
「座れ。明日の件だろう」
エドワルドは着席すると、机上の書類の一つへ目を落とし、それから主君を真っ直ぐに見た。
「結論から申し上げます。明日の裁判は、学則のみに従って重く断ずるべき案件ではございません」
一切の逡巡なく、彼は口を開いた。
「被告人は、単なる愚かな伯爵子息ではなく、中位貴族層の当然の権利意識をそのまま体現している存在です。もし殿下御自身が、あれを公開の法廷で厳しく断罪すれば、裁かれるのは一人の伯爵家では済みません。議会の土台を成す中位貴族全体が、“王家は我らの特権を認めぬのか”と受け止めます」
整然とした、冷たい論理だった。
感情論ではない。まして被告人個人を庇いたいわけでもない。
ただ、国を運営する現実としての最適解を示している。
「ゆえに、裏での調停が妥当です。学則違反自体は認めさせる。しかし公開の場では、風紀上の不適切行為と身分不相応な軽率さとして処理し、処分は停学相当までに留める。家同士の謝罪と賠償で着地させれば、学則の面目も、議会の均衡も、どちらも辛うじて保てます。政治的には、それが最も正しい」
その一言が、部屋の空気をさらに重くする。
グラクトはしばらく何も言わなかった。
灯火の揺れだけが、沈黙の中で机上の影を細かく揺らしている。
やがて彼は、ぽつりと口を開いた。
「……お前は、いつも正しいな」
称賛とも、皮肉とも取れない声音だった。
エドワルドは微かに眉を動かした。
「本心だ。お前の進言は、いつだって盤面全体を見ている。私が感情に引きずられそうになれば現実へ引き戻し、見栄に走れば損得を突きつけてくる。お前がいなければ、私は今頃とっくに沈んでいただろう」
そう告げたグラクトの表情には、王子としての威厳よりも、もっと剥き出しの疲労と、自嘲に近い影が濃く落ちていた。
「だからこそ分かる。お前の言うことは政治的には正しい。明日の件も、私が賢く立ち回りたいだけなら、その案に乗るのが最善だろう」
エドワルドは静かに頷いた。
だが次の瞬間、グラクトの声がその流れを断ち切る。
「だが、私はもう一度、同じことをしたくはないのだ」
「……何のことでしょうか」
グラクトはすぐには答えなかった。
唇を引き結び、ほんの一瞬だけ、言葉にすること自体を拒むような沈黙があった。
しかし、やがて彼は逃げなかった。
「……セオリスだ」
その名が出た瞬間、部屋の空気が凍る。
エドワルドは目を伏せたまま、表情一つ変えなかった。けれど、その沈黙こそが、いかに重い名であるかを物語っていた。
グラクトはゆっくりと言葉を継ぐ。
「あの時、私は事実から目を逸らした。いや、正確には見えていたのに見なかったふりをした。セオリスが何をしようとしているのか、母の周辺がどんな空気になっているのか、全部を知らぬことにして、自分だけは傷つかぬ場所に立とうとした」
忠臣だった。愚かで、危うくて、だが忠義だけは本物だった。あれを止めるべき立場にいたのに、自分は止めなかった。
「結局のところ、私は自分の立場と己の都合を守るために、事実を捻じ曲げる側へ逃げたのだ」
そうしてその果てに何が残ったのか。
「私は王になど見えなかった。ただ、自分では何も決められぬ神輿として、血で濡れた盤面の上に立たされただけだった」
エドワルドは何も言わない。
今この場で差し挟む慰めも否定も、どちらも無意味だと理解していた。
グラクトは続けた。
「明日の件で裏での処理を選べば、私はまた同じことをする。誰かが見た客観的事実を、“今は政治が大事だから”と薄め、曲げ、曖昧にして、都合の良い形へ塗り替える。確かにその方が賢いのだろう。だが、それで生き延びた先にある自分は、またあの時と同じだ。だからもう、事実を見殺しにして自分を守ることでしか立てぬ王でありたくない」
その声音には、王の気高さというより、己を見失うことへの本能的な嫌悪があった。
エドワルドは初めて、最後の反論を差し出した。
「その御覚悟は理解いたします。ですが殿下、国家は懺悔だけでは動きません。事実を裁くことと、国を運ぶことは時に別なのです。明日の判決が中位貴族全体へ波及すれば、その代償は決して小さくありません。殿下が正しくあろうとするほど、盤面は軋むのです」
「それも分かった上で、なお退けないと言っている」
グラクトは真正面からエドワルドを見た。
そこにあったのは、もはや助言を乞う迷いではなく、決断を告げる者の光だった。
「政治の言葉で返そう。エドワルド、この学則は、誰の名で公布された?」
机上に置かれた学則集へ手を伸ばし、グラクトは問うた。
エドワルドは即座に答える。
「第一王子グラクト・アルバ・ローゼンタリア殿下の御名において、でございます」
「ならば、その学則に違反することは何を意味する? 学則に違反することは、単なる風紀の乱れではない。私が公布した秩序を踏みにじり、王家の名に泥を塗る行為だ。すなわち――――王家の品位への不敬に他ならない」
そこでエドワルドは、問いの先を理解してしまった。
グラクトの声は静かであるがゆえに、逃げ場を与えなかった。
ローゼンタリアにおいて、「品位」と「不敬」は絶対の言葉である。
それは法の上にあり、慣習の奥に沈み、すべての論理を最後に押し潰す、この国の根源的な支配原理だった。
そして今、グラクトはその原理を、法を守るための論理として反転させてみせたのだ。
「お前は私に、その不敬を不問にせよと言うのか」
反論は、そこで完全に封じられた。
もしここでなお減刑や穏便処理を主張すれば、それは「王家の品位に対する侵害を、政治の都合で見逃せ」と言うに等しい。その瞬間、進言する側のエドワルド自身が、王家の威光を軽んじる者となる。
これこそ、かつてリュートが仕掛け、グラクトが自らの血肉として呑み込んだ、この王国における最強の論理だった。
エドワルドは長く息を吐いた。
完璧だった。
法をそのまま押し通すのではない。
王国の絶対ルールたる品位を纏わせることで、がの執行を政治的に正当化している。これでは、旧い秩序を守ろうとする側こそが、逆に不敬へ追い込まれる。
やがて、彼は静かに頭を垂れた。
「――――見事でございます、殿下」
それは敗北の確認ではなかった。
主君がついに、自分の足で立ったことを認める声音だった。
エドワルドは椅子から立ち上がり、ゆっくりと、しかしこれまでで最も深く頭を垂れた。
「殿下がその論理をもって学則を貫かれるのであれば。その結果として生じる政治的軋轢、中位貴族層の不満、議会に走る亀裂――――そのすべては、私が抑え込みます」
グラクトの瞳が、わずかに揺れる。
エドワルドはなお続けた。
「これまで私は、殿下をお守りするために、盤面の歪みを先回りして調整することこそが己の務めだと思っておりました。神輿として転ばぬよう支えることこそが、忠臣の役目であると。ですが、違ったのですね」
グラクトは、もはや支えなければ倒れるだけの御方ではない。自分の意思で痛みを選び、法を背負い、王として立とうとしている。
「ならば私もまた、参謀ではなく臣下として、その道の泥を共に被るべきでしょう」
グラクトはしばし言葉を失った。
目の前の男は、ただ有能な補佐官ではない。最も冷静で、最も厳しく、最も現実を知る者だからこそ、この誓いの重さは何倍にも増す。
「……いいのか。明日の裁判が、これまでのお前の調整をすべて台無しにする可能性もある。議会と中位貴族の側から、私より先にお前が憎まれるかもしれないのだぞ」
だがエドワルドは、ほんのわずかに唇を緩めた。
それは冷笑ではない。珍しく、どこか穏やかな苦笑だった。
「今更でございます。殿下に仕える以上、いずれ誰かには憎まれます。ですが、殿下が事実から逃げず、御自身の保身よりも学則を選ばれるのであれば――――その主君を支えぬ方が、よほど耐え難い不忠にございます」
その言葉を聞いた瞬間、グラクトの胸の奥で何かが静かにほどけた。
これまで彼は、王として祭り上げられ、周囲の期待と制度に押し立てられてきた。
だが今ここで初めて、自分が選んだ痛みと決断の先に、対等にそれを支える者が立ったのだ。
「……ありがとう、エドワルド」
その礼は、主君が家臣へ掛ける常套句ではなかった。もっと率直で、不器用な、本心からの言葉だった。
エドワルドは再び一礼する。
「明日は、殿下の裁きがこの学園の判例となります。ならば私は、その裁きを国家の側へ接続する役を果たしてご覧に入れましょう」
灯火が静かに揺れる。
その夜、第一王子の私室で交わされたのは、単なる裁判方針の確認ではない。都合よく担がれる神輿と、それを操る参謀の関係でもない。
己の罪と向き合い、成文法を背負うと決めた王。
そして、その過酷な道の泥を引き受けると誓った真の腹心。
グラクトとエドワルドは、ようやくここで初めて、主君と臣下として同じ地平に立ったのである。
翌日、その絆が試される法廷が、静かに幕を開けることになる。




