第6話 『外側1:法なき夜の死神』
1 タガの外れた王都
特権階級の子弟が集う王立学園という箱庭の中で、リュートたちが『学園裁判』という新たな秩序の刃を静かに研ぎ澄ませていたこの一年。
外の世界――ローゼンタリア王都の裏側では、深刻な「権力の空白」による治安の悪化が、ひたひたと、しかし確実に進行していた。
すべての発端は一年前。王宮警備と王都の治安維持を本務とする武門の筆頭、近衛騎士団長たるゼノビア侯爵家の失脚である。
第一王子グラクトの狂信的な側近であった嫡男セオリスが、大罪を犯して処刑された。ゼノビア侯爵は王家への忠義を何よりも優先し、次代を担うはずの嫡男であっても情を挟むことなく切り捨てた。彼は自家の職務と王家への絶対的な忠誠に対し、どこまでも愚直であった。
だが、その武門としての冷酷な筋を通したとしても、王家の品位を根底から揺るがした身内の暴走に対する監督責任は極めて重く、ゼノビア侯爵は家職停止および謹慎の身に置かれ続けている。
王都の治安維持を担う「絶対的な武の象徴」が現場から消えた影響は、この一年という時間をかけて、じわじわと王都の構造を蝕んでいった。
第一の要因は、実働部隊である近衛騎士団自体の機能不全(麻痺)である。
愚直なまでに法と規律を重んじていた侯爵という強烈なトップを失ったことで、騎士団内部の指揮系統は混乱を極めていた。
さらに「侯爵の嫡男が大罪を犯して処刑された」という政治的余波に巻き込まれることを恐れた指揮官たちは、極端な責任逃れと事勿れ主義に陥った。結果として、明確な命令が下されないまま、末端の騎士たちは街の異常事態を見ても「動かない(動けない)」という最悪の麻痺状態に陥っていたのである。
そして第二の要因が、騎士団の弱体化を嗅ぎ取った裏社会の暗躍であった。
これまで王都の裏社会は、強権と武力を兼ね備えたゼノビア侯爵の睨みが利いていたため、一定の「越えてはならない一線」を守って息を潜めていた。
しかし、騎士団が動かないことを知った彼らは、この一年で徐々にその境界線を踏み越え始めた。最初は小競り合い程度の抗争から始まり、騎士団が介入してこないことを確認すると、次第に非合法な賭場を開帳し、縄張りを拡大していった。
絶対的な武力を持つ強者(ゼノビア侯爵)が暴力で押さえつける間だけ成立する「人治」は、その強者が不在となった瞬間、より凄惨な暴力の連鎖を生み出す。それが、属人的な統治システムの最大の欠陥であった。
そして一年が経過した現在。
かつて近衛の顔色を窺っていたマフィアの顔役や、彼らと裏で癒着して私腹を肥やす悪徳貴族たちは完全に図に乗り、最も極悪非道で、最も莫大な利益を生む利権――身寄りのない平民や孤児を狙った『人身売買』へと本格的に手を染め始めていた。
光が届かず、騎士団の剣も届かなくなった泥の中で。
王都は今、弱者を食い物にする無秩序な狩り場へと完全に堕ちようとしていたのである。
2 狙われる教育機関
王都の裏通りにひっそりと、しかし清潔に保たれている中規模の孤児院。
その通りを挟んだ向かいの路地に停められた黒塗りの馬車の中から、下位貴族であるバルガス男爵は、舌舐めずりをするように窓越しの獲物を値踏みしていた。
「……なるほど。お前が『極上の仕入れ場』と豪語するだけのことはある。その辺の泥水を啜っている薄汚い浮浪児とは、まるで毛並みが違うな」
「へへっ、お気に召しましたか、男爵閣下」
馬車に同乗している裏社会の人買いブローカーが、卑屈な笑みを浮かべて揉み手をする。
「新興の『海運組合』とやらが資金を出している孤児院ですがね、ここのガキどもはただ飯を食わせてもらっているだけじゃありません。読み書きや計算の基礎から、礼儀作法まで叩き込まれている。文字の読める健康な娘となれば、裏のオークションや変態貴族(好事家)どもの間じゃあ、目の飛び出るような値がつきますぜ」
バルガス男爵は、濁った瞳をギラつかせた。
この孤児院が、第一王女リーゼロッテの資金によって運営されている「新国家のための特待生育成機関」であることなど、場末の悪徳貴族が知る由もない。彼らにとって、後ろ盾のない平民の子供など、ただの金に換わる『質の高い商品』でしかなかった。
「だが、警備の目はどうなっている? 海運組合とやらは、そこそこ腕の立つ傭兵を雇っていると聞くが」
「ご心配なく。組合の最大の武力であり、裏社会でも恐れられている警備統括のカイルという男は、今、王都を離れてはるか北の領地へ出向いております。……それに、ゼノビア侯爵が失脚して近衛騎士団が機能不全に陥っている今、多少強引に事を構えても、我々を取り締まる力も、この王都には存在しませんよ」
「違いない。組合の出資者である第一王女殿下も、学園内の公務で身動きが取れまい。……平民どもに、貴族の『特権』というものを教えてやろう」
バルガス男爵は下劣な笑みを浮かべ、馬車を降りた。
数人の屈強なゴロツキを護衛に従え、孤児院の門を乱暴に蹴り開ける。
「な、何事ですか!?」
庭で子供たちの世話をしていた平民の院長が、血相を変えて飛び出してきた。
男爵は懐から、偽造した借用書と、己の身分を示す貴族の紋章章を突きつける。
「控えろ、下賤な平民! 私はバルガス男爵である! この院で引き取っている七歳の少女、ニーナの両親は、生前我が領地において莫大な負債を抱えたまま夜逃げをした大罪人だ!」
「そ、そんな馬鹿な……! あの子の親は王都の流行り病で亡くなって……!」
「黙れ! 貴族である私の言葉を疑うというのか。これは不敬罪に当たるぞ!」
男爵の一喝と、背後のゴロツキたちが剣の柄に手をかけたことで、院長や保母たちは恐怖に顔を青ざめさせ、その場に縫い留められた。
騎士団という重しが消えたこの王都において、貴族の言葉は絶対である。「不敬」と言いがかりをつけられれば、その場で斬り殺されても文句は言えない。絶対的な身分制度という見えない鎖が、大人たちの抵抗の意志を完全に麻痺させていた。
「さあ、負債のカタとして、その娘は我が男爵家で引き取らせてもらう!」
男爵の顎振りに従い、ゴロツキの一人が子供たちの群れに踏み込み、怯えて泣き叫ぶ少女の腕を強引に摑んで引きずり出した。
「いやぁっ! 院長せんせぇっ!」
「ニーナ! お待ちください、せめて海運組合の方に確認を……っ!」
「たかが平民の商人風情が、男爵たる私に意見するというのか? 身の程を知れ。負債が返せぬのなら、この娘には裏の娼館で死ぬまで働いて借金を返してもらうだけのことだ」
すがりつこうとする院長をゴロツキが蹴り飛ばし、男爵は少女の首根っこを摑んで馬車へと放り込んだ。
周囲の子供たちが泣き叫ぶ中、男爵は己の身分という暴力を最大限に利用し、カイル不在の隙を突いて何一つ反撃を受けることなく「極上の商品」の略奪を完了させた。
「はっはっは! たかが孤児一人、どこに売られようと誰も気に留めまい! 海運組合の商人どもが後で泣きついてきても、貴族である私に手を出せるはずがないからな!」
バルガス男爵は、馬車の中で高笑いを響かせながら、夕闇の王都へと消えていった。
己がどれほど致命的な逆鱗に触れたのか。
この孤児院が単なる慈善事業ではなく、リュートとリーゼの創り上げた『家族の大切な場所』であり、強固な盾が不在の今、彼らの代わりに王都の闇を統べる『冷酷なる最強の長女』が単独で控えているという、恐るべき地雷を踏み抜いたことに、三流の悪党は微塵も気づいていなかったのである。
3 ルリカの出陣
王都の裏路地に位置する、東の海運組合の隠れ家。
薄暗い執務室の扉が乱暴に叩かれ、息を切らせた組合の構成員が血相を変えて飛び込んできた。
「ル、ルリカ様! 緊急事態です! 組合が支援している孤児院に、バルガス男爵と名乗る悪徳貴族がゴロツキを連れて押し入り、偽の借用書を盾にして……ニーナという七歳の少女を強引に連れ去りました!」
「……バルガス、男爵」
窓辺で夜の王都を見下ろしていたルリカは、振り返ることなくその名をごくりと反芻した。
構成員が告げた「親の借金をでっち上げられ、暴力で連れ去られた七歳の孤児」という凄惨な響き。それは、ルリカの脳裏に、深く冷たい過去の記憶をフラッシュバックさせた。
実力主義のファブリス帝国において、身寄りをなくした孤児の末路は悲惨の一言に尽きる。
かつてのルリカもそうだった。誰にも見向きもされず、泥水の中で飢えと寒さに震え、ただ死を待つしかなかった幼き日の己の姿が、恐怖に泣き叫ぶニーナの姿と完全に重なり合う。
『……あの時。泥の中で死にかけていた私を拾い上げ、その温かい手で抱きしめてくださったのは、他でもないルナリア様だった』
帝国公爵家の令嬢という雲の上のような存在であったルナリアは、薄汚れた孤児である自分に「私の娘」と微笑みかけ、生きる意味と、温かい『家族』を与えてくれた。
そしてルナリアが亡き後も、彼女が遺した大切な弟妹たち――リュートとリーゼは、身分なき異邦の孤児であるルリカを法と論理で「誇り高き長女」として迎え入れ、この海運組合という確かな居場所を与えてくれたのだ。
ルリカは静かに窓辺から離れ、壁に立てかけてあった己の愛剣を手に取った。
カイルは北の最前線にいる。リュートは王立学園という閉鎖空間の中だ。指示を仰ぐ時間はない。いや、初めから指示など必要なかった。
『あの孤児院は、ルナリア様が愛し、遺された弟妹たちが未来の国のために創り上げた大切な場所。そしてあそこにいる子供たちは、かつての私自身だ』
鯉口を僅かに切り、冷たい鋼の輝きをその暗い瞳に映す。
『……ならば私は、ルナリア様がかつて私を救ってくださったように。今度は私が、同じ境遇のあの子たちを、理不尽な暴力から絶対に救い出す』
これまでは、主の命に絶対服従する「無感情な刃」として生きてきた。
だが今のルリカは違う。彼女の胸に宿っているのは、命令されたから動くという従属の論理ではない。ルナリアの慈愛を物理的な力(守護)として継承し、自らの明確な意志で理不尽を叩き斬る、家族の『お姉ちゃん』としての確固たる覚悟であった。
「……男爵の馬車が向かった先は分かっていますね?」
「は、はい! 組合の密偵がすでに追跡し、裏社会の非合法オークションが行われる地下施設を特定しています。すぐに傭兵部隊を集め……」
「不要です」
ルリカは一切の感情を排した、氷のように冷たく静かな声で構成員の言葉を遮った。
彼女が纏う空気は、先ほどまでの静謐な侍女のそれではない。幾多の死線を潜り抜け、帝国の虎の傍らで研ぎ澄まされてきた『最強の死神』としての圧倒的な殺気が、室内の温度を急激に引き下げていく。
「多人数で動けば、王都の警備兵の目を引き、鼠どもに逃げる隙を与えます。……私が単独で潜入し、泥の中の掃除を終わらせてきます。貴方たちは、事後処理の馬車だけを用意しておきなさい」
「ルリカ、様……」
「家族の庭を荒らした薄汚い獣どもに、貴族の『特権』というものが死の淵でどれほど無力か、骨の髄まで教えてやります」
一切の容赦も、慈悲もない。
ルリカ・シルファは黒衣の裾を翻し、己の居場所と家族を守るため、そしてかつての自分自身を救い出すため、血の匂いが立ち込める夜の王都へと、単騎で音もなく姿を消した。
4 血の粛清と、姉妹の刃
王都外縁、バルガス男爵の別邸。その地下に広がる石造りの保管庫は、今や非合法な人身売買のオークション会場と化していた。
カビと脂、そして恐怖の汗が混じり合った異臭が立ち込める中、鉄格子の檻に入れられた子供たちが震えている。薄暗い松明の光に照らされたステージの上では、先ほど孤児院から略奪されたニーナが、猿ぐつわを嚙まされ、絶望に濡れた瞳でバルガス男爵を見上げていた。
「はっはっは! 見ろ、この怯えきった極上の瞳を! 海運組合の商人どもから巻き上げたこの『商品』が、いくらで売れるか楽しみだ!」
バルガス男爵は、悪徳ブローカーや好事家の貴族たちを前に、勝利の美酒を煽っていた。
会場の四方には、彼が雇った凄腕の傭兵やマフィアの暗殺者たちが十数人も睨みを利かせている。ゼノビア侯爵が失脚し、近衛騎士団が機能不全に陥っている今、この地下空間は、暴力と欲望だけが支配する完全なる『安全圏』のはずであった。
だが、その安全圏は、一筋の冷たい風と共に音もなく崩壊を開始した。
「……ん? おい、扉の前の二人はどうした」
傭兵の一人が、入り口の異変に気づいた。
見張りに立っていたはずの二人の男が、いつの間にか糸の切れた人形のように床に崩れ落ちている。血溜まりは出来ていない。ただ、首の頸動脈だけが、極めて鋭利な刃物で『音もなく』切断されていた。
「な、何事だッ!」
男爵の悲鳴を合図に、傭兵たちが一斉に獲物を抜く。
薄暗い階段の影から、コツ、コツと足音を響かせて姿を現したのは、黒衣に身を包んだ少女――ルリカ・シルファであった。
「……家族の庭を荒らした鼠が、これほど群れているとは」
ルリカの瞳は、無機質な殺意だけを宿していた。
怒声と共に、三人の傭兵が殺到する。彼らは歴戦の荒くれ者であり、魔法使いが詠唱を始める前の「隙」を突く戦い方を熟知していた。
しかし、ルリカの口から詠唱の呪文が紡がれることはなかった。
『――無詠唱による魔力起動。ならびに、風と光の属性複合』
ルリカの身体が、陽炎のようにブレた。
次の瞬間、彼女の姿は傭兵たちの視界から完全に消失し、三人の男たちの首が、まったく同時に、いとも容易く宙を舞っていた。
「な、あ……!?」
残された者たちは、己の目が信じられなかった。
魔法とは、過去の偉業をなぞる長大な詠唱を経て、初めて発動するものである。それが王国の常識であり、魔導を司るセラフィナ侯爵家の嫡男リーデルすらも「伝統を崩すなど言語道断」と絶対視していた過去の縛りであった。
かつてリーゼロッテが語った「無詠唱」と「属性複合」による未来の魔導理論。
それを、リーデルは「品位を欠く」と見下し、嘲笑った。
だが、リーゼロッテは決して諦めなかった。権威に否定されても、彼女はリュートと共に離宮の奥深くで密かにその理論を研究し続け、実証の域にまで組み上げてみせたのだ。それは学問としての探求などではない。己の家族を理不尽から守るための、極めて実戦的で冷徹な『力』の探求であった。
『……見なさい、本宮の愚か者ども。貴方たちが嘲笑った妹の知性は、今ここで、いかなる伝統をも凌駕する絶対の刃となる』
ルリカは、音を殺す「風」と、光を屈折させて残像を生む「光」の魔力を、詠唱を完全に省略して肉体に同時展開していた。
帝国の実戦的な暗殺術と、妹リーゼロッテが血を吐くような努力で編み出した『未来の魔導理論』の完璧な融合。
権威に守られただけの貴族には絶対に届かない、姉と妹の絆が産み出した、理不尽なまでの暴力の極致であった。
「ば、化け物めッ! 魔法使いなら、なぜ呪文を……あがッ!?」
「逃げろ! こいつ、ただの人間じゃな……ッ!」
一切の無駄がない、殺戮の芸術。
詠唱の隙を突こうとした傭兵も、物量で押し潰そうとしたマフィアも、ルリカの姿を正確に捉えることすらできないまま、次々とその命を刈り取られていく。
妹の理論(知性)を己の肉体で証明するように、ルリカは冷徹な機械のごとく、ただ「標的を排除する」という目的だけを遂行していった。
わずか数十秒。
地下施設を警備していた十数人の傭兵と暗殺者は、まともな抵抗すら許されず、静かな死体となって冷たい石畳を血に染めていた。
「ひ、ひぃぃ……っ! あ、悪魔だ……! 来ないでくれ……っ!」
ブローカーや好事家の貴族たちは、腰を抜かして四つん這いになり、泥水にまみれながら出口へと逃げ惑う。
だが、彼らの前に立ち塞がったルリカは、ティナが事前に用意していた羊皮紙――バルガス男爵の横領、違法取引、そして人身売買の詳細な余罪記録――を、震える男爵の足元に無造作に投げ捨てた。
「これは……ッ!? な、なぜこれを貴様が……!」
「光が届かぬ泥の中は、私が掃除いたします。……二度と、我々の家族に触れるな」
ルリカは冷酷に宣告し、一寸の躊躇もなく、男爵の心臓へと白刃を突き刺した。
特権という見えない鎖に胡坐をかいていた悪徳貴族が、物理的な死の前にあっけなく崩れ落ちる。
その血まみれの惨劇の中心で、ルリカは静かに剣の血振るいを行い、鞘に収めた。
そして、檻の鍵を斬り裂き、中で恐怖にすくみ上がっているニーナへと、ゆっくりと歩み寄る。
「……もう大丈夫ですよ、ニーナ。お姉ちゃんが、来ましたから」
しゃがみ込み、ニーナをそっと抱きしめるルリカの顔には、先ほどまでの冷徹な死神の面影は微塵もなかった。
そこにあるのは、亡き母・ルナリアによく似た、不器用だが、たまらなく温かい慈愛の微笑みであった。
妹の知性を牙とし、母の慈愛を胸に抱く。それこそが、ルリカ・シルファという一人の女性が手に入れた、真の強さであった。
5 帰る場所と、次なる盤面の設計
王都の裏通りにある孤児院。
無事に連れ帰られたニーナの姿を見るなり、院長と保母たちは泣き崩れ、子供たちは安堵の声を上げて小さな体を寄せ合った。
学園の外で、リュートの創る国を支える「最も強力で優しい影」が、その圧倒的な実力を証明した瞬間であった。
その数時間後。深夜の王立学園。
徹底した警備と魔導結界が敷かれているはずの男子寮、第二王子専用室。分厚い法案の草稿を書き進めていたリュートは、背後の空間がわずかに揺らいだ瞬間、ピタリと羽ペンを止めた。
「……ルリカか」
振り返ったリュートの深紅の瞳には、鋭い警戒の色が浮かんでいた。
どれほど彼女の隠蔽技術が完璧であろうと、ここは部外者立ち入り禁止の閉鎖空間である。本来、外部との連絡は暗号化した手紙や密偵を介して行うはずだ。
「厳重な結界と学園の規則を破ってまで、君が直接ここへ潜入してくるとは。……王都で、放置できない異常事態が起きたね?」
「はい。夜分に突然の無礼、平にご容赦を」
ルリカは闇の中から姿を現すと、深く片膝をつき、事の顛末を簡潔に、しかし一切の漏れなく報告した。
ゼノビア侯爵失脚による権力の空白。タガが外れた悪徳貴族による孤児院の襲撃。そして、己が独断で下した血の粛清と、見せしめのための事後処理の手配について。
「……なるほど。ゼノビア不在の余波が、そこまで王都の治安を悪化させていたか。カイルが北に残留し、王都の守りが手薄になっている隙を突かれた僕たちの失態でもある」
事態の全容を把握したリュートは、わずかに眉間を揉みほぐした後、静かにルリカを見下ろした。
「事後報告となり、誠に申し訳ありません。本来であればリュート様の指示を……」
「謝る必要はない。むしろ、よくやってくれた、ルリカ」
処罰を待つように頭を垂れるルリカに対し、リュートは極めて明確な肯定を与えた。
「僕たちが学園に隔離されている以上、緊急時に指示を待てば手遅れになる。家族の庭を守り、理不尽な無法者どもに躊躇なく鉄槌を下した君の判断と実行力は、非の打ち所がない。……それに、君が手配した『見せしめ』は、いずれ僕が王都へ持ち込む国家の構想において、貴族たちがすんなりと受け入れるための最高の布石にもなるはずだ」
単なる独断専行を咎めるのではなく、その結果生じた状況を『次なるシステムの材料』として即座に肯定・活用する。リュートのその冷徹かつ懐の深い為政者としての器に、ルリカは密かに安堵の息を吐いた。
リュートは机上の王都の地図へ視線を落とし、新たな指示を下す。
「だが、これで終わりではない。騎士団が治安維持機能を喪失している以上、王都の空白地帯はいずれまた別の悪党どもに狙われる。そこで、君が所有する海運組合の警備隊を再編し、明確な規則と階級を持った『自警団(私設警察)』として組織化したい」
「自警団、ですか」
「そうだ。法治国家には、法を物理的に執行し、泥の中から平民を守るための新たな暴力装置が不可欠だ。機能不全に陥った近衛に代わる、新国家の警察機構の雛形を、今のうちに君の手で王都の裏側に作っておいてほしい」
リュートはそこで言葉を区切り、真っ直ぐにルリカの暗い瞳を見据えた。
「――だが、その組織をどう動かし、どう王都の闇を管理するかは、すべて君に一任する。僕やリーゼは口を出さない。……君自身の裁量で、王都の泥を平定してくれ」
それは、単なる「命令」ではない。
一人の自立した当主であり、家族の長女である彼女への、全幅の信頼と権限の委譲であった。
ルリカは胸の奥で静かに燃え上がる誇りを感じながら、深々と、しかし今までで最も力強く、騎士の礼をとった。
「御意に。……法の光が届かぬ王都の泥は、我が自警団がすべて制圧し、お守りいたします」
箱庭の中で法を編む怪物たる弟と、箱庭の外で実力を行使する最強の姉。
王都を法治で支配するための両輪が、暗闇の中で静かに、そして確実に嚙み合った瞬間であった。
6 死神の噂と、法への渇望
翌朝。
薄暗い靄が立ち込める王都の中央広場は、早朝から尋常ではない数の群衆と、血相を変えて駆けつけた近衛騎士たちによる異様な喧騒に包まれていた。
広場の中央にそびえ立つ処刑台。
そこは奇しくも一年前、ゼノビア侯爵家の嫡男セオリスがルナリア暗殺の大罪を問い詰められ、絶望の中で首を刎ねられた『近衛の権威失墜の象徴』とも言える場所であった。
その処刑台に、今朝、三つの死体が首を吊られて風に揺れていた。
一人はバルガス男爵。あとの二人は、王都の裏社会を牛耳っていた人身売買ブローカーと、非合法賭場の元締めである。
彼らの足元には、長大な羊皮紙がこれ見よがしに打ち付けられていた。そこには彼らが行ってきた横領、違法な資金洗浄、そして孤児や平民を狙った人身売買の余罪のすべてが、日付や金額、裏帳簿の隠し場所に至るまで、極めて正確かつ詳細に(ティナの手によって)書き連ねられていたのである。
「……なんという事だ。騎士団が取り締まるべき裏の悪党どもが、こんな無惨な姿で……」
「しかも、場所がここ(セオリス処刑の地)だぞ。これは明らかに、我々近衛騎士団の『醜態』に対する、何者かからの痛烈な当てつけ(挑戦状)ではないか!」
現場を囲む騎士たちは、青ざめた顔で歯嚙みするしかなかった。
トップを失い、事勿れ主義に陥って治安維持の義務を放棄していた彼らの怠慢を、「お前たちが動かないのなら、こちらが泥の中を掃除してやった」とでも言わんばかりの、完全なる死の宣告。特権に胡坐をかき、自浄作用を失った王都の権力機構そのものに対する、あまりにも残酷で鮮やかな嘲笑であった。
そして、この吊るされた死体と完璧な罪状記録を見た王都の貴族たちは、騎士団以上の、底知れぬ恐怖のどん底に叩き落とされた。
『この男爵たちの悪行を、一体誰がこれほど詳細に調べ上げたというのだ……?』
『まさか、私の行っているあの裏取引も、すでに何者かに把握されているのではないか……!?』
貴族たちを震え上がらせたのは、単なる殺人鬼への恐怖ではない。
彼らが恐れたのは、自分たちが絶対の盾だと信じ込んでいる「貴族の特権」や「身分」を一切意に介さず、罪を完璧に暴き出し、弁明の余地も与えずに問答無用で命を刈り取っていく『姿なき死神』の存在そのものであった。
人治の国では、特権階級は本来裁かれない。
だが、その特権というルールすら無視して襲い来る「理不尽な暴力(暗殺)」を前にしては、彼らの地位など何の意味も持たなかった。いつ自分の寝首を搔かれるか分からない、特権が通じない恐怖。それは、かつて彼らが平民たちに強いてきた理不尽な恐怖の、完全なる意趣返しである。
「……裏で殺されるよりは、まだ『表の法』で裁かれる方がマシだ」
疑心暗鬼に陥った貴族たちの間で、やがてそんな悲痛な本音が囁かれるようになるのに、そう時間はかからなかった。
問答無用で暗殺されるくらいなら、まだルールが明確に定められており、弁明の機会が与えられ、命だけは取られない(かもしれない)『表の裁判』にすがりつきたい。
皮肉なことに、ルリカという『裏の死神』がもたらしたこの極限の恐怖こそが、将来リュートが学園から王都という広大な盤面へ「明確な成文法と裁判機構」を持ち込んだ際、特権貴族たちがすんなりと受け入れるための、最も強力で抗いがたい心理的下地となっていくのである。




