第4話 『箱庭内閣』
1 知将への根回し
学園の夜。特権貴族の狂騒が静まり返った頃合いを見計らい、リュートは第一王子の知将エドワルド・シーン・カルネリアを自室のサロンへと極秘裏に招き入れた。
豪奢な円卓を挟んで対峙する二人。その間に横たわるのは、士爵ネットが収集した分厚い『学園の無秩序の現状報告書』であった。
「……なるほど。食堂における座席の不法占拠、図書室の私物化、そして下位者への理不尽な恫喝。学園の風紀が乱れていることは、私も憂慮しておりました」
報告書に素早く目を通したエドワルドが、氷青の瞳を細めてリュートを見据える。
「しかし、殿下。これが貴族社会の『在り様』です。上位の者が下位の者を力と品位で屈服させ、秩序を保つ。少々の摩擦はあれど、放置しておけば自然と身分の壁が固定化され、平穏は訪れます。……わざわざ事を荒立てる意図が読めませんな」
「事を荒立てる? 逆だよ、エドワルド殿」
リュートは深く長椅子に背を預け、冷徹な法曹の視線で敵の知将を射抜いた。
「このまま自然に固定化されるのを待てばどうなるか。……新入生総代であり、次期国王たるグラクト兄上の足元で、泥にまみれた小競り合いが日常的に繰り広げられることになる。それは『第一王子には、学園の秩序一つ維持する統治能力がない』という致命的な無能の証明になり、兄上の威光に回復不能な傷をつける」
その言葉に、エドワルドの眉がピクリと動く。
エドワルドが今最も恐れているのは、グラクトの「評価の失墜」である。リュートはその最大の急所を、正確に突いた。
「……殿下は、グラクト殿下の威信を守るために、この無秩序を是正すべきだと仰るのですか」
「その通りだ。兄上をトップとした『生徒会』を創設し、明文化された『学則』を導入すべきだ。誰の目にも明らかな基準を設けることで、不要な摩擦を根本から消し去る」
「お待ちください」
エドワルドは即座に反論の刃を突き返す。
「殿下の仰る『見えない品位』ではなく、明文化された『規則』で縛るという思想。……それは裏を返せば、下位貴族や平民にも『規則さえ守っていれば上位貴族と同等の権利を主張できる』という盾を与えることになりませんか? 身分の壁を溶かすような真似は、王宮の保守派が絶対に許しません」
貴族政治の根幹を揺るがす危険性を、エドワルドは正確に看破した。
だが、リュートの唇には、その反発すらも飲み込む悪魔のような冷笑が浮かんでいた。
「だからこそ、生徒会の役員に『四大公爵家の次代』をすべて取り込むのです」
「……何?」
「東のアイリス、南のライオネル、西のヴィオラ、そして北のベアトリス。彼らを生徒会の中枢に据え、兄上の麾下で強固な友誼を演出する。四方の頂点に立つ次期当主たちが、グラクト兄上の定めた『規則』に率先して頭を垂れる姿を全校生徒に見せつける。……そしてもう一つ、決定的な理由があります」
リュートは身を乗り出し、この国の最高規範である「品位」を逆手にとる、恐るべきハッキングの論理を展開した。
「この国の貴族は『規則』よりも己の『品位』や『特権』を重んじる。ならば、その『品位』そのものを武器にするのです。……エドワルド殿。もし、次期国王たる兄上が自ら『学則』を定め、四公爵家がそれを認可し遵守したとしましょう。その絶対的な状況下で、一部の上位貴族がこれまで通り己の身分を振りかざして規則を破れば……それは、一体誰の顔に泥を塗ることになりますか?」
その瞬間、エドワルドの息が止まった。
彼のような極めて優秀な実務家であれば、リュートの仕掛けた恐るべき論理の帰結に一瞬で気づく。
「……規則を破る行為そのものが、それを定めたグラクト殿下の『品位を貶める不敬』と同義になる……!」
「ご名答です」
リュートは満足げに、氷のように冷たく微笑んだ。
「特権を振りかざす者ほど、自らの行いが『王家への不敬』に直結するジレンマに陥る。私は下位の者に権利を与えるのではありません。上位の者たち自身の『品位』という概念を鎖に変換し、彼ら自身の手で己を縛らせるのです。これこそが、グラクト兄上の威光を絶対不可侵のものとする、最も強固な防波堤となる」
エドワルドは絶句した。
『……なんという怪物だ。この第二王子は、貴族が最も大切にする「品位」という概念すらもねじ曲げ、我々の首を縛るロープへと変換してみせたのだ』
だが、同時にエドワルドの脳内で、凄絶な損得勘定の演算が回る。
この『生徒会という権力機関と、四公爵家の平伏、そして不敬を盾にした絶対的な秩序』。毒があると分かっていても、現状のグラクトの窮状を打開するためには、この実績が喉から手が出るほど必要なのだ。
『……この提案、乗らざるを得ない。どんな猛毒が仕込まれていようと、私が実務の段階で解毒し、グラクト殿下に都合の良い機関へと作り変えてみせる』
有能な官僚としての傲慢さと、第一王子への絶対の忠誠心。その二つが完全に合致した瞬間、エドワルドは自らの意思で、リュートの差し出した毒杯を飲み干した。
「……殿下の深謀遠慮、恐れ入りました」
エドワルドは立ち上がり、極めて事務的に、しかし深い一礼を捧げた。
「四公爵家の協力と、殿下が提示された『品位の論理』があれば、これほどグラクト殿下の威光を高める策はありません。承知いたしました。グラクト殿下の御ため、私が全力で本宮への根回しを行いましょう」
「頼もしい限りだ、エドワルド殿。兄上のため、共に良き制度を作り上げよう」
リュートは完璧な『忠弟の微笑み』で頷き返した。
かくして、第一王子の首を絞めるためのロープ(成文法)の編み込み作業は、他でもない第一王子派の知将の承認によって、正式に開始されたのであった。
2 神輿のトラウマ
翌日。第一王子グラクトに与えられた豪奢な私室に、重苦しい沈黙が降りていた。
側近エドワルドから、昨夜のリュートとの極秘会談の内容――『四公爵家を取り込んだ生徒会の設立』と『品位を逆手にとった学則の導入』――の全貌を聞かされたグラクトは、称賛するどころか、血の気を失い、紙のように蒼白な顔で立ち尽くしていた。
「……正気か、エドワルド! あいつを私に近づけるな!」
グラクトはバンッと激しく机を叩き、震える声で吐き捨てた。
「あの完璧なまでの大義名分。逃げ道のない論理。あいつが私を助けるためにこんな真似をするはずがない! 忘れたとは言わせないぞ。私は……ルナリア妃の死の片棒を担いでいるんだ!」
グラクトは頭を抱え、荒い息を吐いた。
狂犬セオリスの処刑によって蓋をされたとはいえ、あの凶行が実母ヒルデガードの謀略であったことは、グラクト自身も薄々感づいている。そして、それを最も深く理解しているはずのリュートが、一切の復讐心を見せず、ただ『兄上をお支えする忠弟』の仮面を被って自陣営の懐に入り込もうとしているのだ。
「どの面を下げて、母を殺された息子を味方に引き入れるというんだ。私を立てるふりをして、必ず私を破滅させる猛毒を仕込んでいるに決まっている! あいつのあの底知れない従順な目が……私には恐ろしいんだ!」
母の死の真相と、己の威信を保つためにその罪を握り潰したという罪悪感。そして、底知れぬ知数を持つ異母弟への本能的な恐怖。
それらに押し潰されそうになりながら取り乱す主君に対し、エドワルドは感情を一切交えない、氷のように冷徹な声で事実を突きつけた。
「……ええ。リュート殿下が猛毒を仕込んでいることは、私も重々承知しております。ですが、殿下」
エドワルドは深く頭を下げたまま、王宮の残酷な現実を言葉にする。
「今の殿下には、その毒を飲み干してでも『圧倒的な統治の実績』を稼ぐ以外の道は残されておりません。四公爵家を平伏させ、学園に法と秩序をもたらしたという実績がなければ、本宮の大人たちは殿下を真の王とは認めないでしょう。殿下はこの提案に乗らざるを得ないのです」
「……っ!」
「それに、罪悪感があるのならば、なおのことです。……その罪悪感と泥をすべて飲み込み、それでもなお『光の象徴』として玉座に君臨し続けること。それこそが、理不尽な犠牲の上に立つ、次期『王』の義務にございます」
その冷酷すぎる正論に、グラクトは息を呑み、力なく椅子に崩れ落ちた。
『……そうだ。私は、まだただの神輿なのだ』
パレードで平民の少女を救い、王としての矜持に目覚めかけたとはいえ、己の足で立ち、己の手で法を編むだけの実力はまだ備わっていない。血統という呪縛によって祭り上げられ、実務はエドワルドのような優秀な官僚に依存し、自分は絶対の権威として微笑むことしか許されない。
グラクトの中で、恐怖と王としての自負が激しく渦巻く。だが、絶望の底で、彼は血が滲むほど強く拳を握り締めた。
「……わかった。私が、やろう。生徒会長の座に就き、あいつが編み出す『学則』を私の名の下に布告する」
グラクトは震えを抑え込んだ声で決断を下した。だが、彼の中にはまだ一つの懸念が残っていた。
「しかし、エドワルド。その『学則』とやらで上位貴族の特権を縛れば、必ず反発が起きる。明確な『罰』の規定がなければ、彼らは大人しく従いはしないのではないか?」
それは、為政者として極めて真っ当な懸念であった。
だが、ここでエドワルドという『伝統的な貴族政治の枠組み』の中で極まりすぎた知将の、最大の盲点が露呈する。
「ご案じには及びません、殿下。彼ら貴族が、殿下の御名で出された規則を破り、大問題を起こすことなどあり得ないからです」
「……あり得ない、だと?」
「はい。我々貴族は、幼少期より『君臣の義』を徹底的に叩き込まれて育ちます。殿下が明確な意思を示され、さらに四公爵家がそれに賛同しているという絶対的な状況下で、それに逆らうような不忠者は存在しません」
エドワルドは、微塵の疑いもなく言い切った。
彼自身が王家に対して絶対の忠誠を誓い、秩序を重んじる有能な官僚であるがゆえに、「王家の権威を前にして、己の身分を優先して暴走する愚か者」の心理を、根本的に理解できなかったのだ。
彼にとって、貴族とは等しく君臣の義を弁えるべき存在であり、グラクトの『圧倒的な品位と権威』さえあれば、罰則など用意せずとも、学園は自然と平定されると本気で信じ切っていた。
「殿下はただ、光の象徴として堂々と振る舞っていただければよろしいのです。殿下の『品位』こそが、すべての貴族を抑え込む最強の抑止力となります」
その言葉に、グラクトもまた縋るように頷いた。
「……そうか。私の威光で、抑え込めるのだな」
自分は実務を回せずとも、彼らが作ってくれた『学則』を熟読し、理解し、その理念を体現する完璧な象徴として振る舞えばいい。そうすれば、貴族たちは忠誠を誓い、平民は規則に従い、秩序は保たれるのだと。
だが、彼らは致命的に見落としていた。
特権意識に凝り固まった貴族にとって、平民から「規則」を理由に注意されることが、いかに彼らの『品位』を傷つけ、君臣の義すら忘れさせるほどの激しい怒りを招くかということを。
そしてそれこそが、リュートが意図的に用意した「規則と品位の激突」という名の、学園崩壊の時限爆弾であった。
「……エドワルド。あいつらが作るという学則の草案、すべて私に回せ。一言一句違わず頭に叩き込む。それが、今の私にできる『王の仕事』だ」
恐怖と王の義務を抱きながら、光の神輿は自らの足で、リュートが用意した修羅の盤面へと足を踏み入れた。己の『品位』で世界を律せられるという、傲慢で純粋な錯覚を胸に抱いたまま。
3 沈黙の誓約
グラクトが生徒会長という神輿に乗る決断を下した翌日。
第一王子派が学園の上層部へ通達を出すその直前、リュートは学園の裏手に位置する人気の途絶えた修練場で、ただ一人、北の次期当主ベアトリスと対峙していた。
東のアイリス、南のライオネル、西のヴィオラはすでにリュートの意図を完全に理解し、盤面に組み込まれている。四公爵家の満場一致を演出するための最後のピース――北の覇者に対する、儀式的な「根回し」であった。
リュートは、グラクトをトップに据えた生徒会の発足と、特権階級の振る舞いを明文化された規則で縛り上げる『学則』の導入について、包み隠さずすべてを語った。
それは同時に、旧体制の恩恵に縋る上位貴族たちの既得権益を容赦なく「切り捨てる」という、血を伴う法治国家への宣戦布告に他ならない。
すべてを聞き終えたベアトリスは、手にした木剣の柄に寄りかかり、かつて北の死線で見せたような、静かで重い眼差しをリュートに向けた。
彼女の脳裏に、死臭と血の匂いが立ち込める砦の片隅で、共にパチパチとはぜる焚き火を見つめたあの夜の記憶が蘇る。
『いつか貴方が国を動かす権力者となり、多数のために少数を切り捨てる決断を下す時。……その切り捨てられる少数の顔を、今日泥に塗れて死んでいった彼らの顔を、どうか思い出してやってほしい』
あの時、彼女が突きつけた重い呪いと要求。
目の前に立つ少年は今、特権貴族という「少数」を切り捨て、国家という「多数」を生かすための修羅の道を、自らの足で歩き出そうとしているのだ。あの夜、血を吐くような痛みを背負いながら「二度と目を逸らさない」と誓った、強烈な覚悟を胸に抱いて。
ベアトリスは、リュートの深紅の瞳を真っ直ぐに射抜いた。そこに、命の重みから目を逸らすような傲慢な算盤弾きの色は、微塵もない。
「……必要なのだな」
ただ一言。それだけを問うた。
リュートは言葉を発さなかった。ただ深く、一度だけ無言で頷いた。
「……よかろう」
ベアトリスは短く応え、木剣を背に回した。
それは出来レースでありながら、二人の間にだけ通じる、決して言語化し得ない魂の底での絶対的な確認作業であった。
北の槍は、彼が痛みを背負って編み出す『法』を守るための、最強の盾となる。沈黙の誓約が、ここに完了した。
4 神輿の矜持と、最強の箱庭内閣
数日後、学園の大講堂に、全校生徒が緊急の招集を受けた。
ざわめきが満ちる中、重厚な緞帳が上がり、壇上の光景が露わになった瞬間――講堂を揺るがすほどの熱狂的な歓声と、そして水を打ったような静寂が同時に巻き起こった。
中央に立つのは、新入生総代にして次期国王の第一王子グラクト。
その背後には、彼を補佐する副会長として、第二王子リュートが静かな笑みを湛えて控えている。
さらに彼らの両脇を固めるのは、西のヴィオラ、東のアイリス、南のライオネル、北のベアトリスという、王国四方の頂点に立つ四大公爵家の次期当主たち。そして、実務を統括する書記官として、第一王子派の知将エドワルドが隙のない立ち姿で控えていた。
王族と、四公爵家。
学園の歴史上類を見ない、極めて異常で、圧倒的な威光を放つ『最強の箱庭内閣』の誕生であった。
「静粛に」
グラクトのよく通る声が、講堂の熱狂を一瞬で鎮めた。
「本日この時より、学園の風紀を正し、皆が等しく切磋琢磨できる環境を築くため、私の名の下に『王立学園生徒会』を発足する。そして、我々の学園生活の絶対的な規範となる『学則』を……これより布告していく!」
グラクトの力強い宣言が、大講堂に響き渡る。
その言葉の裏で、これから膨大な法案を文字通り血を吐く思いで書き上げなければならないリュートとエドワルドの実務家二人は、表情を変えずに内心で静かにデスマーチの開始を覚悟していた。
「よく聞け、生徒諸君! これから随時布告されるすべての学則は、私と第二王子、そしてここに並ぶ四大公爵家の次期当主たちによる『満場一致』をもって可決されたものである! ゆえに、生徒諸君は布告される規則を常に正確に把握し、いかなる身分であろうとも例外なく遵守することを命ずる!」
王家と四公爵家の完全な一枚岩の意志。
その絶対的な権威と品位を前に、生徒たちは身分を問わず割れんばかりの熱狂的な喝采を浴びせた。第一王子派が喉から手が出るほど欲していた『光の象徴の威信回復』が、この瞬間、最高潮に達したのである。
だが、その熱狂の渦の中心で。
副会長の立ち位置から眼下の生徒たちを見下ろすリュートの深紅の瞳には、一切の熱も感動もなかった。
『……そうだ。熱狂し、喜べ、次世代の貴族たちよ。そして己の目で、これから始まる没落をよく見ておくことだ』
リュートは、狂喜する生徒たちを眺めながら、極めて冷酷に嗤った。
『君たちが何百年も頼りにしてきた「特権」という名の鎖は、今日、この瞬間から……僕たちがこれから一から書き上げる「法」にすり替わる』
光の神輿が放つ眩い威光の裏で、国家の根幹を解体するための法治の劇薬が、ついに学園という箱庭のど真ん中に投下されたのであった。
5 実務家たちの狂宴
大講堂での熱狂的な生徒会発足宣言から数時間後。
夜の闇に包まれた学園の生徒会室では、常軌を逸した光景が繰り広げられていた。
机上に山と積まれた真新しい羊皮紙と、底を突きかけるインク壺。
文字通り血を吐くようなデスマーチの中、第二王子リュートと第一王子側近のエドワルドは、全生徒の行動を縛る『学則』の作成に没頭していた。
「……リュート殿下。この第十二項、『食堂における身分に基づく占有の禁止』はやりすぎです。上位貴族たちの特権意識を真正面から否定すれば、猛反発を招き、不要な反感を第一王子陣営に向けさせることになります」
充血した目で条文を睨みつけ、エドワルドが羽ペンを止めて鋭く異議を唱える。
対するリュートは、前世の法曹としての思考エンジンを極限まで回転させ、冷徹な理知をもって即座に代案を提示した。
「ならば、表現を変えよう。原則を『先着順』と定めた上で、『学園の任務を帯びる者への優先枠』を設けるという妥協案でいかがか」
「……任務を帯びる者、ですか?」
「そうだ。平民の特待生たちは、図書室の管理や清掃、そしてこれから新設される風紀官などの『実務』を担っている。彼らの時間が削られれば、学園の機能が滞る。……『特待生を上位貴族と対等に扱う』のではなく、『学園の労働力に素早く食事を済ませるための合理的な措置』であると定義するのだ」
リュートは、法律の条文における「定義のすり替え」という法務の絶技を涼しい顔で披露した。
「これならば、上位貴族たちも『下賤な者たちに席を譲った』のではなく、『王家が管理する学園の運営に、寛大にも協力してやった』という建前を保つことができる。彼らの品位を傷つけることなく、空間の無秩序を解消できるはずだ」
「……なるほど。身分の平準化ではなく、あくまで運営上の機能的配慮という法解釈ですか。それならば、保守派の貴族たちも反発する大義名分を失う」
エドワルドは小さく唸り、即座にその条文の修正案を書き殴った。
思想は完全に正反対である。
エドワルドは「絶対的な身分の秩序」を守るために規則を編み、リュートは「身分に関わらず事実のみを裁く絶対の法」を定着させるために規則を編んでいる。
だが、互いに感情や精神論を排し、システムを構築する『合理主義の化け物』であるという点において、二人の相性は異常なまでに嚙み合っていた。
リュートが法の抜け穴を塞ぐための厳密な定義と罰則規定を提示し、エドワルドがそれを王国の貴族社会で反発を生まないような文言へと翻訳・調整していく。
二人の実務家は、一切の無駄口を叩くことなく、膨大な法案を恐ろしい速度で叩き合い、洗練させ、次々と『学則』として完成させていった。
やがて、東の空が白み始めた頃。
最後の条項に承認のサインを書き終えたエドワルドが、疲労の極致で羽ペンを机に置いた。深く息を吐き出した彼の顔には、疲弊とともに、目の前の十三歳の少年に対する底知れぬ戦慄が浮かんでいた。
「……殿下の法整備の才能は、恐ろしい」
エドワルドは、完成した美しくも残酷な学則の束を見つめ、皮肉めいた、しかし偽りのない称賛の言葉を送った。
「これほど緻密で、人間の行動の隙を逃さない論理構造をたった一夜で組み上げるとは。……もし貴方が、第一王子派の敵に回っていたらと考えると、背筋が凍りますよ」
王家の権威を守り抜くという大義名分のもと、エドワルド自身も持てるすべての知恵を絞り尽くした。だからこそ、この法体系がどれほど強固で、隙のない鎖であるかを誰よりも理解していた。
その言葉に対し、リュートは一切の疲労を感じさせない、完璧な『忠弟の微笑み』を浮かべてみせた。
「何を仰るのですか、エドワルド殿。次期国王たるグラクト兄上の威光を盤石にし、お支えすること。……それが、私の唯一の喜びですから」
涼やかな声でそう返しながら、リュートは深紅の瞳の奥で、極めて冷酷に嗤った。
『……そうだ。見事な実務能力だったよ、エドワルド。お前たちの首を絞めるロープの編み方を、他でもないお前自身が手伝って完成させたのだ』
彼らが徹夜で編み上げたこの「完璧な学則」こそが、特権を振りかざす貴族たちの足元に火をつけ、やがて学園を大混乱に陥れるための『絶対の基準』となる。
法の整備というリュートの真骨頂は、敵の知将の労力すらも巻き込みながら、極秘裏に、そして完璧に完了したのであった。
6 武力の配置と「身分の火種」
学則の編纂というデスマーチが完了し、次はその規則を現場で執行するための「組織」を動かす段階に入った。
生徒会室の円卓にて、リュートは新たに創設された『風紀官』の名簿をエドワルドに提示した。
「……リュート殿下。トップに北のベアトリス様、サブに南のライオネル様を据えるのは、武力による絶対的な抑止力として極めて妥当です。しかし……」
名簿に目を落としたエドワルドが、不快げに眉をひそめる。
「その下で実際に学園内を巡回し、違反者を摘発する実働部隊の顔触れです。なぜ、これほどまでに下級貴族の子息や、下賤な平民の特待生ばかりを配備するのですか?」
エドワルドの疑問はもっともだった。貴族を律する組織の実働を平民に担わせるなど、身分制度の根幹を揺るがしかねない。だが、リュートはあらかじめ用意していた完璧な「実務的回答」を涼しい顔で口にした。
「実務能力と、公平性を重視した適材適所です。……エドワルド殿、もし上位貴族の子息を風紀官に任命すればどうなるか。彼らは自らの派閥や血縁者の違反を見逃し、敵対派閥ばかりを摘発するでしょう。それではグラクト兄上の定めた『公平な法』が、単なる派閥争いの道具に成り下がってしまう」
「……」
「特待生たちには、学園内の政治的しがらみが一切ありません。彼らなら、身分に関わらず事実のみを機械的に報告できる。違いますか?」
しがらみのない平民を「機能的な歯車」として使い潰す。その極めて官僚的な合理論に、エドワルドは渋々ながらも納得せざるを得なかった。
「……承知いたしました。殿下の合理的なご判断に従いましょう」
エドワルドが名簿に承認のサインを書き入れた直後。
リュートは、彼には見えない盤面の裏側で、ベアトリスとライオネルの二人にのみ、真の『武力の使い道』を指示していた。
『テトラたち平民の風紀官は、特権貴族の横暴を炙り出すための「生餌」だ。奴らが平民から注意され、怒りで牙を剝いた時……君たちの圧倒的な武力で、手足を絶対に守り抜け』
北の女将軍と南の野獣は、リュートのその冷酷な指示に、獰猛な笑みと沈黙の頷きをもって応えていた。
7 規則の限界と、引火する特権意識
グラクトの名のもとに学則が施行され、風紀官による取り締まりが始まった。
エドワルドの目論見通り、初期の段階では、第一王子の『品位(威光)』を恐れた上位貴族たちが表立った無秩序を控え、食堂の不法占拠などの「具体的な違反行為」は劇的に減少した。
だが、それはあくまで表面上の出来事に過ぎなかった。
特権を取り上げられた貴族たちの不満は、見えない場所で、より陰湿な『圧力』となって吹きこぼれ始めていたのである。
「おい、そこをどけ。その席は我が伯爵家のものだ」
「し、しかし……学則では、席は先着順と……っ」
食堂の片隅で、下級貴族の生徒が震える声で学則を盾にする。だが、伯爵家の子息は鼻で笑い、その胸ぐらを乱暴に摑み上げた。
「学則? くだらん。私が譲れと言っているのだ。……お前の実家、我が領地からの水利権が頼りだったな? ここで席を譲るという『自発的な好意』を見せなければ、来月の水はどうなるか分かっているだろうな?」
「ひっ……!」
その現場を、巡回中であった平民の風紀官が発見し、手帳を片手に割って入る。
「規定違反です。直ちに手を離し、席を空けてください」
「……あァ?」
伯爵家の子息は、下級貴族を突き飛ばすと、血走った目で平民の風紀官を睨みつけた。規則違反を咎められた事実よりも、下賤な平民から命令されたという『身分の逆転』に対する激しい怒りが、彼の特権意識に完全に引火したのだ。
「たかが平民の分際で、誇り高き伯爵家の私に指図するのか! 不敬だぞ! 貴様らのような虫ケラが、殿下の威光を笠に着て威張り散らしおって!」
一触即発の事態。そこに、凄まじい威圧感を伴って、風紀官トップのベアトリスとサブのライオネルが駆けつける。
「騒ぎを起こしているのは誰だ。……風紀官への反抗は、生徒会長たるグラクト殿下への不敬と見なすぞ」
北と南の次期当主の冷酷な眼差しと、文字通り人を殺してきた本物の『武気』を前に、伯爵家の子息はヒィッと短い悲鳴を上げ、顔面を蒼白にして後ずさった。
だが、問題はここからだった。
「……おい、そこの生徒。お前は今、こいつに不当な暴力を受け、席を奪われそうになっていたな? 事実関係を報告しろ」
ベアトリスが被害者である下級貴族に尋ねる。しかし、下級貴族の生徒は、伯爵家の子息から向けられる『実家の死活問題に関わる無言の脅迫』に完全に怯えきっていた。
「い、いえ……! 違います、将軍閣下! 私は、自らの意思で、喜んで伯爵様にお席をお譲りしようとしていただけで……決して、脅迫など……っ!」
「……チッ」
ライオネルが苛立たしげに舌打ちをする。
被害者本人が「自発的な好意だ」と証言してしまえば、明文化された学則の『違反』として立件することはできない。武力でその場を制圧することはできても、特権階級の「見えない脅し」によって事実が隠蔽されれば、罰則は完全に有名無実化してしまうのだ。
こうした『風紀官に対する貴族の恫喝』と『被害者の泣き寝入り』が学園中で頻発し、学則は早くも機能不全に陥りかけていた。規則という建前と、身分という現実。その強烈な矛盾が限界まで軋み、学園の秩序は崩壊の危機に瀕している。
だが、生徒会室の窓からその大混乱を見下ろしながら、リュートは極めて冷酷な、氷のような笑みを浮かべていた。
『……そうだ。怒れ、誇り高き貴族たちよ。君たちがその「身分(品位)」を振りかざして事実を握り潰そうとすればするほど、グラクト兄上が定めた「規則(法)」との矛盾が浮き彫りになる』
エドワルドが信奉していた「君臣の義」など、所詮は特権が保障されている前提での幻に過ぎなかった。
規則はある。武力もある。だが、相手の身分という暴力を無効化し、脅迫を排除して『事実のみを客観的に確定させるシステム』が欠けている。
証拠と論理で真実を白日の下に晒す、絶対的な権威を持った「裁きの場」。
リュートが真に求めていた『学園裁判』を設立するための、これ以上ない完璧な大義名分(学園の危機)が、今まさに熟成されようとしていた。




