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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第6章『法治の箱庭』
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第1話 『箱庭への出陣』

1 帰還と、東の盾の証明


 極寒の北の地獄から、リュートとライオネルが王都へ帰還を果たしたのは、王立学園の入学式を数日後に控えた春の初めのことだった。


 二人は王宮や自邸へ戻るよりも先に、極秘裏に手配された馬車で王都の裏路地に構えられた東の海運組合の拠点――アイリス・ルーナ・オルディナの待つ執務室へと足を運んだ。


 数ヶ月ぶりに再会した彼らの姿を見て、アイリスは静かに息を呑んだ。

 王都を出立する前の、どこか理屈や理想が先行していた少年たちの面影は、もはや欠片も残っていない。その眼光は、血と泥に塗れ、数字ではない本物の「命のやり取り」を潜り抜けてきた者特有の、重く、鋭く、そして静謐な冷たさを宿していた。


「……随分と、本物の『為政者』らしい顔つきになられましたわね」

 アイリスは、完璧な貴族の微笑みをたたえながらも、その言葉には確かな敬意が込められていた。


 リュートは小さく肩をすくめ、懐から皺だらけになった一通の封筒を取り出した。

「北の武神は、理屈だけで動かせるほど甘い相手ではなかったよ。……これは、アイギス最前線に残留したテオから預かった手紙だ。君宛てだよ、アイリス」

 手渡された封筒には、泥と血の染みが微かにこびりついていた。


 アイリスは常に口元を隠している扇をそっとテーブルに置き、白魚のような指で丁寧に封を切る。

 便箋に綴られていたのは、かつて歴戦の騎士の殺気に当てられて泣き崩れていた、温室育ちの少年の震える文字ではなかった。


 そこには、極寒の死線で自らの無力さに絶望し、それでもなお、北が流す血の重さを骨の髄まで理解しようと足搔く、テオドール・ルディ・オルディナの力強い決意が整然と記されていた。


『――経済という名の盾を東が担うのなら、僕はここで、彼らの盾の重さを完全に理解しなければなりません。東の誇りに懸けて、必ず北の血の重さを背負える男となって王都へ帰還します』

 それは、東の資本が単なる数字の遊びではなく、誰かの命と血の上に成り立っているという事実を背負い抜く、次代の公爵家当主としての産声であった。


 手紙を読み終えたアイリスは、長い睫毛を伏せ、ゆっくりと息を吐き出した。

 そして、いつもは扇で冷徹に隠し続けている彼女の口元が、ほんの僅かに、だが確かに綻ぶ。


 それは、冷酷な資本家の顔ではなく、たった一人の弟が死線の中で本物の当主へと成長し始めたことを誇りに思う、姉としての慈愛に満ちた美しい微笑みだった。


「……ええ。頼もしくなりましたわね、私の弟は」

 アイリスは便箋を大切に折り畳み、胸元へとしまう。


 東の次期当主が北の最前線で「現場の血の論理」を学んでいるという事実は、将来、彼らが王家の分断統治を打破し、新しい経済圏を構築する上で、これ以上ない強固な楔となる。


「これで、北と東の連携はテオに任せられる。……さあ、王都の盤面を動かそうか」

 リュートの静かな、しかし熱を帯びた声に、アイリスは再び扇を手に取り、冷徹な覇者の顔へと戻った。


 ライオネルもまた、泥に塗れた外套を翻し、獰猛な笑みを浮かべる。

 理屈と現実の両方を兼ね備えた若き怪物たちが、いよいよ王都の心臓部へ向けた侵攻を開始しようとしていた。




2 離宮の首脳会議と、解き放たれる凶刃


 王都の裏路地にある隠れ家。

 アイリスの執務室に、離宮陣営の中枢を担う者たちが集結していた。

 リュート、ライオネル、アイリス。そして、王都の裏盤面を回すリーゼと、彼女を護衛するルリカの五名である。北の最前線に残留したカイルの姿はここにはない。


 分厚い防音の扉が閉ざされた室内で、リュートは静かに、しかし凄惨な実感をもって北の最前線で見た『現実』を共有した。

「……今年のアイギス領の死亡率は三パーセント。王都の内務省では、ただそれだけの数字として処理されていた。だが、実際の戦場でその数字を構成していたのは、際限なく押し寄せる魔物の物量と、防衛線を維持するためにすり潰されていく、我々と同じ血肉を持った兵士たちの命だった」

 リュートの言葉に、隠れ家の空気が重く沈む。


 王都の安全な会議室で政治家たちが声高に語る「北の防衛」と、実際の戦場で流されている血の量は、あまりにもかけ離れていた。


「王都の盤面だけでは、国は変えられない。現場の血の重さを知らない政治は、ただの傲慢な空論だ」

 その血を吐くようなリュートの言葉に、皆が深く頷いた。

 彼らはもう、机上の数字だけで命を計るような中途半端な子供ではない。


「……お兄様が北で本物の血肉を知り、王の器を完成させておられる間、私も王都の盤面で『手足』を育てておりましたわ」

 重い静寂を破り、リーゼが手元の書類をテーブルの中央へと滑らせた。

 この半年間、彼女が王都の海運組合と孤児院を回して進めていた『学園への工作』の成果報告である。


「学園の入学試験に成功した人材は計八名。内訳は、没落貴族出身の組合員が二名。孤児出身の特待生が一名。そして、東の資金による一般入学枠でねじ込んだ孤児が五名です。……彼らは学園内で、お兄様の『声なき手足』として多数派工作に動きますわ」

 リーゼは完璧な微笑みを浮かべ、書類の中から特に優秀な二名の履歴書を抜き出した。


「一人は、孤児出身の少年。特待生枠を勝ち取っただけあり、記憶力と計算能力に極めて優れています。いずれ内務省に入るための官僚科志望です。そしてもう一人は、第一王子の派閥争いで没落させられた下級貴族の娘です。彼女は、親から受け継いだ家名を一代で失わぬため、幼い頃から死に物狂いで勉学を続けてきた執念の秀才ですわ」

 リュートは、彼らの名前と経歴が記された書類を一枚ずつ手に取り、その文字をじっと見つめた。


 かつての彼なら、これを「優秀な駒が八つ手に入った」とだけ認識していただろう。だが、北の地獄で兵士の死に直面した今のリュートにとって、彼らは決して使い捨ての『人数』ではない。

 己の人生と家名を懸けて這い上がろうとする、顔のある『人材』だった。


「……見事な手腕だ、リーゼ。彼らの覚悟、私が必ず盤面で活かしてみせよう」

 リュートは書類を置き、妹の完璧な成果を称賛した。

 そして、傍らで音もなく控えている黒曜石のような瞳の侍女――ルリカへと視線を向けた。


「王立学園の規則により、生徒への従者の同伴は原則として禁じられている。最大の『盾』であるカイルを北に残してきた以上、手薄にはなるが……どうせ学園という箱庭の中には、護衛を連れて入れない」

 王家が思想統制を行う箱庭に、外部の武力を介入させないための規則。


 だが、そのルールはリュートにとって、最強の暗殺者を王都の闇へ完全に解き放つための最高の大義名分でもあった。


「私が学園という箱庭に籠もっている間……王都の離宮と孤児院の防衛は、すべてルリカに任せる。頼むよ」

 王族としての命令ではなく、家族としての絶対的な信頼を込めた頼み。

 その言葉を受け、ルリカは静かに、しかし一切のブレがない動作で深く頭を下げた。


「……御意に」

 かつて帝国で泥に塗れていた自分を救い出し、家族として愛してくれた母ルナリア。

 ルリカの胸の奥底には、彼女の遺した弟妹と、彼らが守ろうとする居場所を死守するという、狂気にも似た使命感が燃え盛っている。


 光の当たる学園の表舞台は、リュートが法と論理で戦い抜く。

 ならば、法の届かぬ王都の泥の中は、自分がすべて掃除するまで。ルリカは静かに顔を上げ、その冷たく鋭い刃を研ぎ澄ませていた。




3 箱庭の解析


 離宮陣営の首脳会議が解散した後。

 隠れ家の執務室には、リュート、ライオネル、アイリスの三人が残り、テーブルの上に広げられた分厚い冊子を見下ろしていた。

 表紙には王家の紋章とともに、『王立学園・入学案内』と記されている。


「……表向きは『身分を問わず優秀な者に門戸を開く、王の恩恵と機会均等の象徴』。ですが、実態はよくできた思想統制の鎖ですわね」

 アイリスが扇で冊子をトントンと叩きながら、冷ややかに評した。

 リュートは手元の資料――内務省から密かに引き出した学園の裏データ――に目を落としながら頷く。


「ああ。真の目的は『物理と心理の二重支配』だ。体制に牙を剝きそうな優秀な平民や富裕層に議員などの恩恵をちらつかせて取り込み、同時に、四大公爵家をはじめとする有力貴族の次代を王都に縛り付ける。その上で、幼少期から王家の教えで染め上げ、心の中の反逆すら封殺する。……巨大な無力化装置だよ」

「学科は『政経科』『官僚科』『騎士科』からの選択制だが、絶対の必修科目が『君臣論』と『王国史』か」

 ライオネルが案内書のページをめくり、鼻で笑った。


「『王は天に代わって民を治める存在であり、王への絶対忠誠こそが天地の理であり正義である』……なるほど。この思想を脳髄に叩き込み、成績と将来の地位に直結させるわけだ。逆らえば未来はない。よくできてるぜ」

「特に平民にとっては、文字通りの生存競争になりますわ」

 アイリスが、平民に関する項目の文字をなぞる。


「学園に入学した平民には『一代限りの家名』が与えられますが、卒業時に王家から追認されなければ、成人と同時に剝奪される。この恐怖と恩恵のシステムこそが、平民生徒を死に物狂いで王体制に服従させる究極のモチベーション。……殿下の手足となる特待生たちにとっても、これは強烈な鎖になりますわね」

「だからこそ、利用できる」

 リュートは冷徹に言い切った。


「彼らが欲しているのは王家への忠誠ではなく、家名という『生存権』だ。私が学園内に『実力主義のルール』を敷き、それに従う方が生き残れると証明してやれば、彼らは最も忠実な手足となる。……そして、そのルールを敷くための隙(余白)は、この箱庭に十分すぎるほど用意されている」

 リュートは案内書の『学園生活と自治』の項目を指差した。


 学園は全寮制であり、寮は「男女別」「貴族・平民別」の四つに分かれている。しかし、問題は共有施設だ。


「明確な門限などの明文規則はなく、自治会という名の生徒たちのルールに委ねられている。食堂や図書室にはルールがなく、現在は上位貴族の『顔色(品位)』が空間を支配している状態だ」


「なるほど」と、ライオネルが獰猛な笑みを浮かべた。


「ルールがない無法地帯だからこそ、新しく『法』を作り出し、それに従わせる大義名分になるってわけか」

「その通りだ。グラクト兄上を神輿にして明文化された『学則』を叩きつけ、曖昧な品位による支配を駆逐する。これが我々の第一歩となる」

 アイリスは目を細め、少しだけ懸念を示すように扇を傾けた。


「ですが殿下。学園の教師たちは、基本的に王妃マルガレーテ様への報告義務を負う『無自覚なスパイ』ですわ。私たちが裏で学園を法治化していけば、すぐに本宮に警戒されるのでは?」

「いや、王妃の目は欺ける」


 リュートは内務省での経験から、王宮の官僚組織の硬直化を正確に見抜いていた。

「教師たちが王妃に上げるのは、『グラクト兄上が今日も立派に生徒を導いた』という、賛美の報告だけだ。王妃が求めているのは次期国王の完璧な権威付けであり、現場の泥臭い規則の変容など見向きもしない。我々がグラクト兄上を神輿にして規則を作れば、教師たちは『殿下の手柄』として上に報告する」


「……なるほど。光の神輿が眩しすぎるがゆえに、足元で進行する『改革』には誰も気づかないというわけですか」

 アイリスが感嘆の吐息を漏らす。

 リュートは案内書を閉じ、その表紙の王家紋章を静かに見つめた。


 彼の脳裏に、極寒の北で泥に塗れて死んでいった兵士たちの顔と、北の将軍ベアトリスの言葉が蘇る。


『いつかお前が多数のために少数を切り捨てる決断を下す時。その切り捨てられる少数の顔を、今日泥に塗れて死んでいった彼らの顔を、どうか思い出してやってほしい』


「……学園に『法』という劇薬を投下すれば、特権を奪われる上位貴族たちは確実に反発する。摩擦が生じ、暴発する者も出るだろう。その波紋は王都全体に広がり、間違いなく新たな血が流れる」

 リュートの声は、ひどく静かで、鉛のように重かった。


 制度を変えるということは、古い制度に縋って生きる者たちの首を絞めることと同義だ。無傷で終わる革命など存在しない。


「だが、この狂った『血統と品位』のシステムを放置すれば、北の最前線のように、声なき民が理不尽に死に続けるだけだ。……流れる血の重さを直視し、犠牲の痛みを背負ってでも、私はこの手で国の根幹を解体する」

 机上の空論で国が変えられると信じていた、かつての愚かで安全な自分は、もう北の雪原に置いてきた。


「……行くぞ。これより先、安全な教室などどこにもない」

 犠牲を覚悟した若き為政者たちの眼差しは、冷徹な法と論理の刃を秘め、次なる戦場である王立学園へと向けられていた。




4 光の裏側:完璧な令嬢の葛藤


 王宮の奥深く、重厚な調度品に囲まれた王妃の私室。

 息の詰まるような白檀の香りが漂う中、西の次期当主であるヴィオラは、一切の瑕疵がない完璧な淑女の微笑みを顔面に貼り付けていた。


「グラクトも十五歳。王立学園への入学を機に、第三側妃ソフィアには情交奉仕の任が終了します」

 向かいのソファに座る王妃マルガレーテが、氷のように冷ややかな美貌を僅かに綻ばせ、一冊の豪奢な装丁が施された名簿をテーブルに滑らせた。


「次代の王を支える正妃として、『管理』してもらいます。グラクトの心身を安定させ、学園という箱庭の中で野良猫に手を出させぬよう、適切な令嬢を選びなさい。……もちろん」

 王妃は、試すような、ひどく冷徹な眼差しでヴィオラを見据えた。


「正妃となる貴女自身が、今からグラクトの閨に侍り、自らの身をもって絆を深めたいというのであれば、私は止めませんよ。どうしますか、ヴィオラ」

 その甘く悍ましい提案に、ヴィオラの内心では前世の現代日本の倫理観が激しい吐き気を催していた。


『自分と同じ歳の少年と、愛もないのに寝室を共にしろというの……!』

 だが、その生理的嫌悪以上に、彼女の冷徹な理系頭脳が、絶対的な『拒絶』の警鐘を鳴らしていた。王家の血統を遺すための「道具」としての奉仕。そんなおぞましい特権意識に吞まれてグラクトと肉体関係を持てば、リュートと交わした『灰かぶり姫のスキーム』が完全に破綻する。


 グラクトが学園で「真実の愛」を見つけた際、無傷で婚約破棄をして身を引くためには、彼女は『純潔のまま捨てられた悲劇の聖女』でなければならないのだ。王家の都合で処女を散らされれば、それは西のクロムハルト公爵家全体への致命的な政治的瑕疵となり、円満な離脱など不可能になる。


 ヴィオラは震えそうになる指を必死に抑え込み、扇で口元を優雅に隠すと、この人治国家における最も正しく、最も冷酷な『貴族の論理』を紡いだ。


「勿体なきお言葉ですが、辞退させていただきますわ、王妃様。……私の胎は、正式な婚姻の儀を経て、王家の『正統な後継者』を成すためのみに存在しております。学園という不確定な箱庭で、万が一にも順序を違え、不用意な身籠り方をすれば、王家と西のクロムハルトの『品位』に致命的な傷がつきましょう」

 ヴィオラは王妃の冷たい瞳を真っ直ぐに見返し、言葉を続ける。


「それに、正妃たる者の最大の役割は『王の寵愛を独占すること』ではなく、後宮全体を俯瞰し『適切に管理・統制すること』であると、王妃様のお背中から学んでおります。私が自ら慰み者と同じ盤面に降りてしまえば、将来、下の者たちに示しがつかなくなりますわ」

 嫉妬や個人の感情ではなく、あくまで血統の純潔と、将来の支配構造を重んじた完璧な回答。


 王妃マルガレーテは、その冷徹なまでの自己管理と特権階級の傲慢さに満足し、深く頷いた。


「……ええ。見事な覚悟です。嫉妬に狂って自ら泥に降りるような愚かな娘なら、この場で婚約の見直しを口にせねばならないところでした。貴女なら、次代の後宮を完璧に統治できるでしょう」

 試練を乗り越え、王妃からの絶対的な信頼を勝ち取ったヴィオラは、優雅な所作で名簿を手に取った。


『他の少女を夫の性処理の道具として選び、ルナリア様を殺したこのシステムを、私自身の手で回せというのね……』

 名簿のページをめくると、没落寸前の男爵令嬢、借金を抱えた子爵令嬢など、家名を存続させるため、あるいは金のために売りに出された少女たちの名が並んでいる。

 ふと、ヴィオラの視線がある名前に止まった。


『レティシア・ラナ・ハーテス』

 年齢は十四歳。グラクトやヴィオラたちの一つ下の世代にあたる子爵家の令嬢だ。


 王立学園は厳格な全寮制であるため、入学年齢に満たない十四歳の彼女を、今年からグラクトの側に置くことは物理的に不可能だ。おそらく、来年以降の「候補」として、親が先走って名簿に記載させたのだろう。


『レティシア・ラナ・ハーテス……。覚えておこう。この狂ったリストに名を連ねる少女が、来年以降の盤面でどのような変数になるかは分からないわ』


 ヴィオラは冷徹な頭脳でその名を記憶の隅に留め、再び名簿に目を落とす。

 今すぐ、この名簿ごと暖炉の炎に投げ捨てたい衝動を嚙み殺し、彼女はリストの中から、王妃マルガレーテが最も推しているであろう、実質的に拒否権を持たない没落寸前の令嬢を指先で示した。


「……王妃様。グラクト殿下の学園での安らぎには、こちらの令嬢が最もふさわしいかと存じますわ」

 完璧な笑みを浮かべたまま名簿を返すヴィオラの瞳の奥底には、自分たちを部品としか見なさないこの悍ましい王家のシステムを、リュートと共に根底から物理的・社会的に解体し、跡形もなくぶち壊すという、絶対零度の怒りと決意が燃え盛っていた。




5 内務省での報告と、退屈な誘い


 王立学園の入学式を翌日に控えた昼下がり。

 王都の中心に位置する内務省の重厚な執務室にて、リュートは長官クラスの高官を前に、分厚い視察報告書を提出していた。


「――以上が、北の最前線およびアイギス領の現状報告です」

 リュートの口から語られるのは、極寒の死線で流された血の臭いなど微塵も感じさせない、極めて無味乾燥で官僚的な報告であった。


 報告書を受け取った高官は、そこに記載された整然たる数字と論理的な防衛線の分析に満足げに頷く。


「ご苦労様でした、殿下。自ら北の泥を視察されたその見識、内務省としても高く評価いたします。……して、アイギス公爵との『和解』の感触はいかがでしたかな?」


「特段の進展はありません。あちらはあくまで北の防衛に専念する構えであり、中央の派閥争いには与しないという姿勢を崩しませんでした。今後の経過次第、といったところでしょう」


 東の無条件援助という莫大な『実利のパイプ』を裏で繫いできた事実を完全に隠蔽し、リュートは涼しい顔で噓を吐く。

 高官は「あの北の頑固者め」と苦笑し、手元の書類をトントンと机で揃えた。


「ところで殿下。明日から殿下もいよいよ学園生活に入られますが……内務省としては、殿下に一つ大きなお役目をお願いしたい」

「役目、ですか」


「ええ。今年度の学園には、殿下をはじめ、東のアイリス嬢、南のライオネル殿、西のヴィオラ嬢と、四大公爵家の次期当主がこぞって入学されます。これまでのように各公爵家と個別に実務の折衝を行うより、学園内で彼らと直接言葉を交わせる殿下に『公爵家との専用窓口』となっていただきたいのです」

 高官の言葉は丁寧だが、要するに「気難しい公爵家の子息たちとの面倒な根回しや書類仕事を、すべてリュートに丸投げする」という官僚特有の責任転嫁であった。


 しかし、リュートにとってそれは望外の――いや、事前に完璧に計算し尽くした通りの展開だった。


「承知いたしました。学園内に与えられる私のサロンを実務の拠点とし、内務省からの書類はすべて私が責任を持って各公爵家へ通達・調整いたしましょう」


「おお、引き受けてくださいますか! さすがは実務に長けた殿下だ」

 高官が安堵の笑みを浮かべる。


 彼らは気づいていない。公爵家と中央政府を繫ぐ「情報と実務のパイプ」をリュート一人に独占させるということが、国家の血液(意思決定)をリュートの掌の上で完全にコントロールさせる致命的な失態であることに。


 気を良くした高官は、ふと声を潜め、探るような視線をリュートに向けた。


「実務へのご献身、誠に頼もしい限り。……つきましては殿下。我が家にも、殿下と同じ歳になる娘がおりましてな。学園には通っておりませんが、よろしければ一度、お茶でもいかがかと……」


 それは、実務能力の高い無害な第二王子を、自陣営に取り込もうとする露骨な政略結婚の探りだった。


 権力の頂点を目指すのではなく、便利な実務家として囲い込もうという浅ましい打算。リュートは内心で氷のように冷たく嗤いながら、表面上はどこまでも謙虚で、完璧な「無害な王子の仮面」を被って微笑んだ。


「身に余る光栄ですが、お断りさせていただきます。……私は明日から、自らの学業と、何より次期国王となられるグラクト兄上を『影』としてお支えすることにすべてを捧げる覚悟です。個人の幸福を追求する余裕など、今の私にはございません」

 第一王子への絶対的な忠誠と、己の分を弁えた完璧な返答。


 高官は「これは失礼を」と引き下がりながらも、その瞳には『やはりこの影の王子は、権力欲のない扱いやすい実務の駒だ』という明白な見下しの色が浮かんでいた。

 内務省の重厚な扉を出て、リュートは一人、王都の空を見上げる。


 無能な官僚たちは、自分が押し付けた書類の山が、やがて彼ら自身の首を絞める強固な『法』にすり替わることなど想像もしていない。


「……さあ、すべての準備は整った」

 王都の盤面、公爵家の手綱、そして法を執行するための大義名分。


 必要な手札をすべて懐に忍ばせ、若き怪物は静かに開戦の笑みを深めた。いよいよ明日、王家が誇る巨大な思想統制の箱庭へと、彼らはその足を踏み入れる。




6 いざ、箱庭へ


 そして迎えた、王立学園の入学式当日。

 王都の中心にそびえ立つ壮麗な学園の正門前には、各所から集められた新入生たちの熱気と、彼らを送り出す貴族たちの馬車がひしめき合っていた。


 その喧騒から少し離れた木陰で、学園の制服に身を包んだリュートとライオネルは、見送りに来た妹のリーゼ、そして侍女ルリカと向かい合っていた。


 学園は厳格な全寮制であり、従者の同伴は許されない。今日からしばらくの間、王都の盤面は完全に分断されることになる。


「……行くよ。私がこの思想統制の箱庭に籠もっている間、離宮と孤児院のことは完全に頼む」

 リュートの静かな言葉に、リーゼは完璧な王女の微笑みを崩さず、優雅にカーテシーをして見せた。


「ええ、ご安心を、お兄様。お兄様が表の盤面で存分に『法』の刃を振るえるよう、王都の裏側(泥)は私とルリカで完璧に管理いたしますわ」

「……殿下の帰る場所は、この命に代えても死守いたします」

 ルリカもまた、音もなく深く頭を下げた。


 母ルナリアが遺した「家族」を守り抜くという絶対の使命。ルリカの瞳の奥には、王都の闇に蠢く敵対勢力を刈り取る死神としての、冷たく鋭い光が宿っていた。


 リュートは二人の確かな覚悟に短く頷くと、ライオネルと共に踵を返し、見送る家族に背を向けて学園の門を潜った。


 足を踏み入れた学園の大講堂は、すでに身分ごとに整然と分けられた新入生と在校生たちで埋め尽くされていた。


 リュートは己に用意された席へと向かいながら、講堂の正面、一段高く設えられた豪奢な壇上へと視線を向ける。

 そこには「光の象徴」として、次期国王たる圧倒的な威光を放つ第一王子グラクトの姿があった。


 彼の背後には、第一王子派の知将エドワルドが影のように控え、周囲に隙のない盤石な体制を見せつけている。

 そしてグラクトの隣には、西の次期当主にして彼の正式な婚約者、ヴィオラの姿があった。


 彼女は、夫の性処理のための愛人選びという、おぞましく吐き気のする役目を自らの手で全うし、一切の瑕疵がない完璧な愛想笑いをその顔面に貼り付けていた。西の自治権と自身の自由を勝ち取るという、血を吐くような悲壮な覚悟を胸に秘めて。


 人混みの中から、誰にも気づかれない冷徹な目で彼らを見上げながら、リュートは静かに開戦の笑みを浮かべた。


『喜べ、誇り高き貴族たちよ。お前たちが絶対だと信じている血統と品位の鎖は、今日から私が持ち込む「成文法」によって、変わることを余儀なくされるのだ』

 母ルナリアの無念の死から始まった、絶望と私怨。


 だがそれは今、北の最前線で流された血の重さを経て、冷徹な法学と政治的ロジックを用いた国家規模の闘争へと完全に昇華されていた。

 王家の絶対権力を解体し、真の法治国家を創り上げる。


 すべての役者の立ち位置が完璧に定まり、巨大な思想統制の箱庭を舞台にした、血を洗う権力闘争がいよいよ幕を開けようとしていた。

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