第8話後編 『盤上の熱狂』
1 完璧な事後報告と手柄の強奪
王宮の端に位置する第二王子離宮。
装飾を排し、膨大な書類と実務の空気に支配されたその執務室に、第一王子の側近エドワルド・シーン・カルネリアは、一切の油断を排した足取りで踏み入れた。
執務デスクの奥で彼を出迎えたのは、数日前の貴族院議会において、特権貴族たちを恐るべき法廷戦術で追い詰めた第二王子リュートである。
「お忙しいところ失礼いたします、リュート殿下。本日は、先日の食糧問題における『戦後処理』の完了をご報告に上がりました」
エドワルドは慇懃に、かつ極めて事務的に一礼した。
「ご苦労様。先ほど、貴族院からバルトフェルト侯爵たちが引きずり出されたと報告を受けたよ」
「はい。彼らは王家の品位を失墜させた大罪人として、全財産を没収されました。……それに伴い、彼らが海運組合と結んでいた各種契約も、反逆罪による公序良俗違反としてすべて『無効化』いたしました。殿下の組合に、彼らへ支払う義務は一銭も残っておりません」
リュートは深紅の瞳を静かに細めた。
彼が法廷闘争を用いて合法的に貴族たちを破産させるはずだった盤面を、エドワルドは『王家の品位』という大義名分を用いて、さらに手酷く破壊してみせたのだ。
「なるほど。見事な手際だ。……で、本題は?」
リュートの底冷えのする声に、エドワルドは姿勢を正し、あらかじめ用意していた決定事項を突きつけた。
「今回の海運組合による食糧輸送の成果は、すべて『グラクト殿下が事前に暴走を予見し、命じて手配させていたもの』として、すでに公式に発表いたしました。国王陛下、並びに王妃様の裁可も下りております」
「……」
「事後報告となりましたこと、深くお詫び申し上げます。しかし、王都の混乱を即座に鎮め、民の不安を払拭するためには、一刻も早く次期国王の威光を示す必要がございました。緊急の措置であったと、どうかご理解いただきたく存じます」
深く頭を下げるエドワルドは、自らが放った言葉の裏で、目の前の第二王子の僅かな反応の変化すら見逃すまいと神経を尖らせていた。
『事態の収拾を急いだから、ではない。私が、議会で底知れぬ法理を見せたこの第二王子を警戒したのだ。……事前に交渉の席を設けた場合、どのような遅滞戦術や見返りを要求されるか読み切れなかった。だからこそ、理屈の通じない「王の裁可」という既成事実で、盤面を固定するしかなかった』
エドワルドは、自らの『実務家としての敗北(恐怖)』を自覚しているからこそ、強引な事後報告に踏み切った。この第二王子がここで怒りを露わにし、決定を覆そうとするなら、全力で排除する覚悟であった。
だが、リュートの口から紡がれたのは、エドワルドの想定を遥かに超える、極めて冷静な言葉だった。
「……構わないよ、エドワルド殿。兄上の威光が盤石となり、事態が収拾されたのであれば、私に異存はない」
「……殿下?」
「ただ、もし事前に相談を受けていれば、私は反対したかもしれない。兄上に実務の苦労をさせず、出来合いの成果だけを与えることは、次期国王の『実務教育』という観点から見れば、決して褒められたことではないからね」
エドワルドの背筋が、ゾクッと粟立った。
リュートは手柄を奪われたことへの個人的な不満など一切口にしなかった。あえて『兄の成長を案じる弟』という、この国において誰も否定できない絶対的な大義名分を用いて、「事前に言われていれば、正当な理由で阻止していた」と、静かに、しかし決定的な牽制を放ったのだ。
『……なるほど。こちらの意図を理解した上で、この絶対的な秩序の中では波風を立てず、成果を譲るという合理的な判断を下されたか』
エドワルドは内心の緊張をわずかに解いた。
感情に任せて牙を剝くような愚か者ではなく、損得勘定と建前を正確に使いこなす極めて高度な『政治的プレイヤー』。ならば今は、グラクトを支えるための「共闘可能な実務家」として扱うのが最善の選択だ。
「……殿下の教育的ご配慮、深く胸に刻んでおきます。今後とも、共にグラクト殿下を支える同志として、内務省の『実務』をよろしくお願い申し上げます」
「ええ。頼りにしているよ、エドワルド殿」
二人は互いの真意を明かすことなく、極めて静かに微笑み合った。
2 知将の反省と絶対の盾
エドワルドが恭しく一礼して離宮を去った後。
執務室の奥、隠し部屋の扉が開き、足音を忍ばせて一人の少女が現れた。アイリス・ルーナ・オルディナである。
税務や物流の実務を根底から支え、リュートの思想を対等な視座で理解する彼女は、普段の悠然とした笑みを僅かに潜め、リュートを見遣った。
「……お帰りになりましたね。それにしても、見事なまでに手柄を強奪されていきましたが」
アイリスの問いに対し、リュートは執務デスクの上の書類を乱暴に指先で弾き、深々と、苦々しい溜息を吐き出した。
「ああ。完全に踊らされたよ。今回は僕の負けだ」
その声には、先ほどまでの余裕のある建前は微塵もなく、自身の計算を狂わされた悔恨が滲んでいた。
「僕はあの特権状を撒き餌にして、特権貴族どもから物理的な暴力という選択肢を奪い、議会での『法廷闘争』へと引きずり込むつもりだった。法と論理で彼らを縛り上げ、確実に破産させるための罠を張ったんだ」
「ええ。成文法と契約に基づく盤面としては、隙のない布陣でした」
「……だが、エドワルドは法理の土俵にすら上がらなかった」
リュートは己の未熟さを嘲笑うかのように、自嘲気味に息を吐いた。
「僕は彼を、貴族院議長を輩出するカルネリア家の人間だからという理由で、事前の根回しを重んじる『調整型の官僚』だと高を括っていた。彼個人の冷徹な実力ではなく、家柄というフィルターで彼を推し量ったんだ」
リュートはギリッと奥歯を噛み締めた。その深紅の瞳には、敵への警戒以上に、己の矛盾に対する強い自己嫌悪が渦巻いていた。
「血統による人治国家を破壊し、個人の実力(ルナリアの教え)を重んじるはずの僕自身が、この国の腐った法則に当てはめて彼を見誤った。……完全な僕の失態だ」
「ええ。リュート様らしからぬ、致命的な偏見でしたね」
アイリスは一切の慰めを排し、容赦なく同意した上で、次なる分析を口にした。
「エドワルド・シーン・カルネリア。彼は、家柄という枠組みを超え、この国における『品位』という名の理不尽な暴力を、最も合理的な手段として冷徹に使いこなす『政治家』です」
「ああ。だからこそ、僕の法理による反撃を封じるために、一切の交渉を省いて『王家の決定』という事後報告に逃げた。実に見事な政治的判断だ」
局地戦において、自分は完全にエドワルドという個人の力量に出し抜かれた。その事実を冷徹に受け止め、リュートは脳内の盤面を再構築していく。
「……だが、ただで奪われたまま終わるつもりはない。結果として、最悪の盤面ではないからな」
「と、言いますと?」
「海運組合の成果が『次期国王グラクトの指示』として公式に記録された。……つまり、今後、既存の陸路利権を握っている連中が僕たちの流通網を潰そうと手を出せば、それは自動的に『次期国王の事業に対する反逆』とみなされる」
リュートの言葉の真意を理解し、アイリスの口元にようやく悠然とした笑みが戻る。
「なるほど。手柄を明け渡した代償として、次期国王の威光という『絶対の盾』を手に入れたと。……腹立たしい結果ですが、実務上はこれ以上ない隠れ蓑ですね」
「ああ。それに、僕がエドワルドに言った『兄上の成長』に対する期待は……牽制のための建前であると同時に、僕の『本心』でもあるんだ」
リュートは立ち上がり、窓の外、王都の中心にそびえる本宮を見遣った。
「僕が創り上げるのは、『成文法による法治国家』という絶対のルールだ。……もし兄上が、品位という特権を捨て、法の下に君臨する王としての器へと成長してくれるのなら、僕は喜んでこの手柄を彼に捧げ、共に歩もう。ルナリアが教えてくれた『寛容』とは、そういうことだ」
己の過ちを認め、実利を拾い上げ、それでもなお国家の未来を俯瞰する。その瞳には、血統の破壊にのみ執着する暗い復讐心は消え、為政者としての静かな光が宿っていた。
「……ですが、もしグラクト殿下が、最後まで『人治の暴力』に縋り、法を拒絶するようであれば?」
「その時は、この盾(兄上)ごと、王家というシステムを盤上から叩き割るだけさ」
法治国家という実利が成るならば、体制の形にはこだわらない。
二人の知将は、冷え冷えとした離宮の中で、エドワルドという新たな政治家の存在と、自らの未熟さを盤面に刻み込みながら、静かに次なる一手を研ぎ澄ませていた。
3 敗者の末路と、実力主義の拾い上げ
王宮から遠く離れた、王都の商業区の一角。
南からの食糧を一手に引き受け、今や王都の物流の要所となりつつある『海運組合』の本部前は、この日、凄惨な怒号と悲鳴に包まれていた。
「ふざけるな! 契約書には暴落時の損失補填が明記されているはずだ! 金を出せ!」
「我々を誰だと思っている! 名門バルトフェルト侯爵の縁座だぞ! 貴様らのような平民の組合が、特権貴族の財産を掠め取る気か!」
正面玄関に詰めかけ、血走った目で喚き散らしているのは、先日の貴族院議会でグラクトによって全財産を没収された中抜き貴族たちの残党(一族や配下)であった。
屋敷を追われ、その日のパンを買う金すら失った彼らは、せめて海運組合にかけていた保険金の契約だけでも履行させようと、プライドをかなぐり捨てて押し寄せてきたのだ。
だが、彼らの行く手を阻むように、組合の警備と裏稼業を束ねる青年――カイルが、屈強な組合員たちを背後に従えて冷酷に立ち塞がった。
「お引き取りを。あなた方にお支払いする金は、銅貨一枚たりともありません」
感情を一切交えない、実務的なカイルの宣告。
それに激昂した初老の元貴族が、カイルの胸ぐらを摑もうと手を伸ばす。
「ふざけるなァ! 契約書があると言っているだろうが! これは不当な契約不履行だぞ!」
「不当、ですか」
カイルはその手をあっさりと払い除け、冷え切った目で元貴族たちを見下ろした。
「あなた方の一族は、王家の品位を失墜させた大罪人として『国家反逆罪』に問われました。王国の法において、反逆者との契約は公序良俗に反するものとして『即時無効』となります。これは不当解約ではありません。正当な法的処理です」
「なっ……!」
「それに、当組合の保険は『理不尽な家職喪失や左遷』を保障するものであり、相場の暴落による投機の失敗はそもそも自己責任、完全なる適用外です。……理不尽だと嘆くなら、あなた方が今まで散々甘い汁を吸い、絶対だと崇め奉ってきた次期国王殿下に直訴に行かれてはいかがですか? もっとも、その首と引き換えになるでしょうがね」
カイルの無慈悲な正論――エドワルドが議会で宣告した「品位のロジック」をそのまま盾にした返答に、元貴族たちは絶望に顔を歪めた。
彼らが縋ってきた「血統」や「特権」というルールは、より巨大な「王家の品位」という暴力の前に完全に無力化されていたのだ。
「叩き出せ。営業の邪魔だ」
カイルが顎をしゃくると、組合員たちが物理的な力をもって泣き喚く元貴族たちを門前へと突き飛ばし、冷酷に排除していく。
自分たちが平民の男たちにゴミのように掃き出されるという現実に直面し、ある者はその場に泣き崩れ、ある者は虚勢を張って呪詛を吐きながら去っていった。
だが、カイルはその哀れな敗者の群れから視線を外さなかった。
『……権力の炎に焼き払われ、血統という幻想が完全に灰になった者の中から、現状を正確に把握し、プライドを捨てられる頭のある奴だけを拾い上げろ、か』
脳裏に蘇るのは、主である第二王子リュートからの冷徹な指示である。
やがて、カイルの鋭い観察眼が、絶望して泣き喚く大人たちの中で、ただ静かに立ち尽くしている数名の若者たちを捉えた。
彼らはバルトフェルト侯爵家の末端に連なる子弟たちでありながら、自らの親たちが喚き散らす姿を冷ややかな諦観の目で見つめ、すでに「自分たちが完全に詰んでいること」を理知的に理解している顔付きをしていた。
「……そこのお前たち」
カイルが声をかけると、数名の若者たちはビクッと肩を震わせ、歩み出てきた。
その中の一人、眼鏡をかけた利発そうな青年が進み出ると、かつての特権貴族としての矜持を完全に殺し、カイルに向かって深く、躊躇いなく頭を下げた。
「……保険金など、支払われないことは理解しています。我々の家門はもう終わりだ。ですが……生きるためには、パンを稼がねばならない」
「……」
「文字の読み書きと、ある程度の算術はできます。下働きで構わない。……我々を、この組合で雇っていただけないでしょうか」
血統という古い看板を自ら叩き割り、労働力という実利を提示して生き残ろうとする意志。
それを見たカイルの口元に、凶悪だがどこか歓迎するような笑みが浮かんだ。
「いいだろう。採用だ」
予想外の即答に、若者たちが呆然と顔を上げる。
「た、助けて、くれるのですか……?」
「勘違いするな。ここは慈善事業じゃない。お前たちが使えそうだから、俺の部下としてコキ使うために拾ってやるだけだ」
カイルは彼らに背を向け、組合の本部へと歩き出しながら、肩越しに冷徹に宣告した。
「今日からお前たちに家柄はない。あるのは、どれだけ組合に利益をもたらすかという『労働の成果』だけだ。実力主義の末端従業員として、せいぜい死に物狂いで足搔いてみせろ」
すべてを失った敗者の末路。
しかし、その死肉の中から、リュートが敷いた『成文法と契約』の世界に適応できる知力を持った者たちだけが、新たな国家の歯車として、容赦なく拾い上げられていくのであった。
4 不満爆発の協会長と官僚の正論
第一王子グラクトの苛烈な粛清は、王都の空気を一変させた。
バルトフェルト侯爵らから没収された莫大な財産は、すべて「平民参加型・王家主催の大オセロ大会」の賞金および運営費として還元されることが大々的に告知された。
無能な悪徳貴族の死肉を喰らい、その血肉(富)を遊戯という名の熱狂に変えて民へと分け与える。この計算し尽くされたプロパガンダにより、王都はグラクトへの絶対的な称賛と、大会への異常な熱気に包み込まれていた。
四大公爵家をはじめとする要人たちも、次期国王の威信を示すこの一大政治ショー(天覧試合)の観戦のため、続々と王都の本宮へと集結しつつあった。
だが、その熱狂の裏側。本宮の一角に設けられた『王立オセロ協会本部室』において、重厚な扉を震わせるほどの甲高い怒声が響き渡っていた。
「冗談じゃないわ! 私は忙しいのよ! どうして私が何日もあんな退屈な試合の特別解説席に座らなきゃならないの!」
激怒して図面を叩きつけているのは、西のクロムハルト公爵家令嬢であり、王立オセロ協会長を務めるヴィオラであった。
彼女の目の前には、第一王子の側近であるエドワルドが、一切の感情を排した氷のような表情で静かに立ち尽くしている。
「私はただ名前を貸しただけ。実務や大会の進行なら、協会の役員たちにやらせればいいでしょう!? 私の技術(オセロ盤の量産と魔導具化)がなければ、そもそもこの大会の規模は成立しなかったのよ! なのに、開発の時間を削ってまでグラクト殿下の横で飾り物になれと言うの!?」
声を荒らげるヴィオラの胸中には、単なる時間の浪費に対する不満以上の、極めてどす黒い感情が渦巻いていた。
『冗談じゃない。誰が、あの男の横で微笑んでなどやるものか』
ヴィオラの脳裏に焼き付いているのは、恩人であり、心の師匠と慕った第二側妃ルナリアの凄惨な死である。
ルナリアを殺したのは、グラクトの有能な右腕であったセオリスだ。だが、ヴィオラにとって真に憎むべきは、己の狂犬の手綱すら握れず、暴走を見過ごした末に、保身のために一切の責任を切り捨てたグラクトの「底知れぬ弱さと無責任さ」であった。
『ルナリア様を見殺しにし、己の無謬性(綺麗な経歴)だけを守ろうとした卑怯者。そんな男が、他人の成果と没収した金で王の器を気取っている。……反吐が出るわ』
個人的な憎悪と、ルナリアの遺言である「実力を磨くこと」への焦り。それらが入り混じり、ヴィオラは婚約者候補としての建前すら投げ捨ててエドワルドに食って掛かっていた。
だが、冷徹なる官僚は眼鏡の奥の瞳を細め、ヴィオラの感情的な主張を、完璧な『為政者のロジック』で一刀両断した。
「……お言葉ですが、ヴィオラ嬢。貴女の主張は、一介の技術者としては正しくとも、王立オセロ協会長であり、グラクト殿下の『婚約者』という立場にある貴族としては、明確に間違っております」
「なんですって……!」
「グラクト殿下は、この大会を単なる遊戯として開催されるわけではありません。没収した富を循環させ、民の不満を逸らし、王家の威信(品位)を再構築するための『極めて高度な政治装置』として運用しておられるのです」
エドワルドの言葉は冷たく、そして絶対的な正論であった。
「次期国王たる殿下が、反逆者の血肉を用いて国家の安定を図る。その隣に、遊戯の普及に貢献した公爵令嬢が寄り添い、共に王家の慈悲を演出する。……これは国家の統治機構において必要不可欠な『義務』です」
「っ……それは……」
「貴女が個人の魔導具開発を重んじるのは勝手ですが、それはあくまで『私事』に過ぎません。グラクト殿下は今、次代の王として国家の安定という『公事』を回しておられる。その公事を投げ出し、自らの研究という私欲を優先しようとする貴女の振る舞いこそ、婚約者として、そして貴族としてあるまじき無責任な我儘です」
完璧な論理による叱責。
ヴィオラはぐっと言葉に詰まり、唇を強く噛み締めた。
グラクトの行動は、人治国家の次期国王としては一切間違っていない。民を慰撫し、秩序を保つための完璧な政治的采配だ。
対して自分は、ルナリアへの個人的な恩義とグラクトへの私怨、そして「技術」という個人の力に固執するあまり、貴族としての義務(盤面の体裁)を完全に放棄しようとしていた。
『……悔しいけれど、エドワルドの言う通りだわ。ここで私が公の義務を投げ出せば、ただの感情的な子供に成り下がる。それでは、リュート殿下と共にこの腐った盤面をひっくり返すことなど、到底不可能……!』
ヴィオラはルナリアが教えてくれた「自由には責任が伴う」という言葉を脳内で反芻し、自らの個人的な感情に冷や水を浴びせた。
グラクトへの嫌悪感が消えたわけではない。だが、今はまだ、この男の隣で「完璧な婚約者」の仮面を被り、義務を果たす実力を示さねばならないのだ。
「……分かりました。私が間違っていたわ、エドワルド殿」
ヴィオラは大きく息を吐き出し、乱れたドレスの皺を優雅な所作で整えた。先ほどまでの激昂は噓のように消え去り、そこには冷徹な計算式を組み直した西の公爵令嬢の顔があった。
「王立オセロ協会長として、そしてグラクト殿下の婚約者として、天覧試合の解説席には全日程、完璧な笑顔で同席させていただきます。王家の威信を示すという『政治的義務』、必ず果たしてみせましょう」
「賢明なご判断に感謝いたします。では、手配を進めさせていただきます」
ヴィオラが理に服したことを確認し、エドワルドは恭しく一礼して部屋を去った。
一人残された協会本部室で、ヴィオラは壁に立てかけられた巨大なオセロ盤の『黒石』を指先でそっと撫でた。
「……今は、存分に王の器を気取って光り輝いていればいいわ、グラクト殿下。でも、盤面は最後に必ず裏返る」




