第7話 『法理の断頭台』
1 妹の独立宣言と、マクロの女王の評価
ティナが初恋という幻想を完全に捨て去り、内務省の『完璧な情報庫(内通者)』として覚醒した翌日。
東の海運組合の隠れ家にて、リーゼロッテは東の次期当主であるアイリスと対座し、昨夜の顛末を静かに報告していた。
「――以上です。彼女の覚悟と、内務省の帳簿を差し出すという実務的な忠誠は、間違いなく本物でしたわ」
その報告を聞き、アイリスは感心したように扇で口元を覆った。
「素晴らしいですわね。中央貴族の不正を内側からすべて把握できるのなら、これ以上ない強力な手札となります。これで、殿下の側室(駒)としての彼女の有用性は完全に――」
「アイリス様」
アイリスの言葉を遮ったリーゼロッテの声には、これまで兄の庇護下にあった妹としての甘さは微塵もなく、極めて重く、冷徹な為政者としての凄みが宿っていた。
「……彼女は、兄様のためではなく、この『私』の思想と責任に対して自らの命と忠誠を預けました。これより先、彼女は私が直属の上司として全責任を負い、運用いたします」
リーゼロッテは、第一位の契約者(正妻)であるアイリスの目を真っ直ぐに見据えて宣言した。
「ゆえに、ティナの処遇についての選択権は、第一位の契約者である貴女にも、兄様にもありません。彼女は陣営の共有財産ではなく、私個人の『絶対の腹心』ですわ」
それは、ただの「兄の代理人」という安全な立場からの、明確な『独立宣言』であった。
自らの責任で泥を被る覚悟を決め、己の思想と実務によって最高峰の工作員を服従させ、「一人の盤面の支配者」へと成長を遂げたリーゼロッテ。
その静かで揺るぎない独立宣言を受け、アイリスは一瞬驚きに目を丸くした。
だが次の瞬間、彼女はパチンと小気味良い音を立てて扇を閉じ、東の次期当主として、極めて優雅で頼もしい笑みを浮かべた。
「……分かりましたわ。前言を撤回いたします。あのような修羅の覚悟と、内務省の深奥を暴く最高峰の実務能力を持った手駒を、ただの『殿下の側室(共有の駒)』という生ぬるい枠に収めておくのは、投資効率が悪すぎますものね」
アイリスは、リーゼロッテの成長を心底から歓迎し、その独立を明確に承認した。
「彼女の命と運用権は、貴女のものです。……私としても、無知な令嬢が側室として入ってくるより、貴女の『最も冷徹な情報庫』が、殿下と私たちの盤面を内務省の影から守護してくれるというのなら、これほど心強い投資環境はありませんわ」
論理の女神アイリスは、ティナの価値を「陣営に不可欠な最高峰の内部統制システム」として高く評価し、それを完全に手懐けたリーゼロッテに対し、対等な為政者としての称賛の視線を送った。
「ええ。中央貴族たちが法を盾に動く時、彼女が握る致死のデータが必ず我々の勝利を決定づけますわ」
リーゼロッテもまた、完璧な淑女の笑みで応じる。
リュートという強大な怪物を中心に回っていた陣営に、今、それぞれが自立した盤面(資本と情報)を支配する、極めて恐るべき二人の為政者が並び立った瞬間であった。
2 暴落する市場と、風見鶏の選別
それは、王都の経済圏を支配していた中央貴族たちに対する、実体を持った『暴力』の始まりであった。
南の次期公爵ライオネルから非合法な裏ルート(海路)を通じて引き渡された大量の食料が、東の海運組合の船団によって、王都の港へ怒濤のごとく荷揚げされる。陸路の関所を完全に迂回し、市場へと直接流れ込んだ暴力的なまでの圧倒的「供給」。
特権商人と保守派貴族たちが意図的に流通を絞り、価格を高止まりさせて暴利を貪っていた『人工的な飢餓の盤面』は、この瞬間、完全に崩壊した。
供給過多に陥った王都の穀物相場は、雪崩を打って大暴落を引き起こす。
倉庫に小麦を溜め込み、さらに高値で売り抜けようと皮算用をしていた商人たちが抱える在庫の価値は、一夜にしてただの紙屑へと成り果てた。
王都中が阿鼻叫喚の恐慌状態に陥る中。東の海運組合の隠れ家では、優雅なティータイムの傍らで、極めて冷酷な「利益の確定」が行われていた。
「ねえ、アイリス様」
新たな魔導具の図面から顔を上げたヴィオラが、卓上にうず高く積まれた『売買契約の証文』を整理しているアイリスに向かって尋ねた。
「殿下が南から麦を大量に運び込んで、王都の相場をぶっ壊したのは分かるわ。でも、相場が『暴落』しているのに、どうして貴女がそんな天文学的な利益を出せるの? 普通、商売って『安く買って、高く売る』ものでしょう?」
転生者であるヴィオラにとっても、暴騰する前に買い占めるならともかく、価格が底抜けに落ちていく中で巨利を得るという現象は直感的に理解し難かった。
アイリスは手を止め、優雅に扇を広げた。
「ええ、ヴィオラ様。商売の基本はご指摘の通りです。ですが、資本市場においては『時間の経過』もまた、価格を操作する変数となります。……私は今回、麦を『手に入れる前』に売りましたの」
「手に入れる前に……? ああ、なるほど。『先渡取引(空売り)』ですわね、アイリス様」
為政者として実務と経済を学んでいるリーゼロッテが、紅茶のカップを置きながら即座にそのロジックを看破した。アイリスは満足げに頷く。
「ご名答ですわ、リーゼ様。……数日前、王都の麦の価格が最高値に達し、商人たちが『価格はまだまだ上がる』と盲信して熱狂していた時のことです。私は彼らにこう持ちかけました。『数日後、今の最高値である金貨十枚より少しだけ安い、金貨九枚で大量の麦を卸しましょう』と」
アイリスの冷徹な声が、室内に響く。
「……なるほど」と、ヴィオラが図面の端を指先で弾いた。「商人たちからすれば、数日後には相場が金貨十一枚や十二枚に上がると思い込んでいるんだから、金貨九枚で確実に仕入れられる契約は喉から手が出るほど欲しいわよね」
「ええ。彼らは喜んで『数日後、いかなる事態が起きようとも金貨九枚で買い取る』という絶対の証文にサインしました。……私自身は、その時点では麦を一粒も持っていない『空荷』の状態で、ですわ」
その言葉の意味を完全に理解し、ヴィオラは呆れたように息を吐いた。
「そして今日、南からの大量流入によって市場はパニックを起こし、麦の価格は金貨一枚にまで大暴落した……」
「そうですわ。ですから私は今朝、紙屑同然となった金貨一枚の麦を市場の底値で買い集めました。そして、先ほどの商人たちに証文を突きつけ、事前の契約通り『金貨九枚』で強制的に買い取らせたのです」
アイリスは、扇の奥で氷のような微笑を浮かべた。
「商人は市場で金貨一枚で買えるゴミを、私から金貨九枚で買わされる羽目になって即座に破産。私は差額の『金貨八枚分』を、何のリスクも負わずに丸儲けいたしました」
情報を持たぬ者が強欲に駆られ、自ら死刑執行書(契約)にサインする。
完全に合法でありながら、あまりにも無慈悲な資本の暴力。ヴィオラは肩をすくめた。
「……エグいわね。自分で自分の首を絞める縄を、ご丁寧に高値で買わせたわけだ」
「ですが、ヴィオラ様。論理の女神と謳われるアイリス様が、単なる資金稼ぎのためだけにこのような手間をかけるとは思えませんわ。……本当の狙いは、別にあるのでしょう?」
リーゼロッテの鋭い問いかけに対し、アイリスは手元にある分厚い貴族たちの名簿を引き寄せた。
「ご慧眼ですわ、リーゼ様。……暴落による利益など、ただの副産物に過ぎません。私の真の目的は、このマクロ経済の波を使った『風見鶏の選別』です」
「選別?」
「ええ。私は手駒を使い、ある特定の層にのみ、今回の暴落のインサイダー情報を事前に漏洩させておりました。それは、殿下が立ち上げた海事組合の将来性にいち早く目をつけ、出資や同調の姿勢を見せていた目ざとい一部の貴族たちですわ」
アイリスは、名簿の一部に冷酷なまでに事務的な筆致でチェックを入れていく。
「情報を流した十二名のうち、八名が私の意図を正確に読み取り、即座に手持ちの在庫を売り払って損失を回避いたしました。……彼らは『合格』です」
王家への忠誠や旧来の利権などという無価値な幻想に縛られず、もたらされた「情報の真偽」を自らの頭で精査し、利益の匂いを嗅ぎ取って即座に行動(損切り)できる者。
アイリスは彼らを『先が読める有能な風見鶏(いずれ殿下の覇道にすり寄る実利主義者)』として高く評価し、陣営に恩恵をもたらす「新しい貴族社会の派閥」の初期メンバーとして明確に色分けをした。
一方で、情報を得ていながら既存の利権に固執し、逃げ遅れて破産した者、あるいはそもそも海事組合の価値を理解できず、恩恵の対象にすらならなかった愚鈍な保守派貴族たち。
アイリスの羽根ペンが、彼らの名簿に一本の太い斜線を引いた。
「変化に対応できない硬直した資本(古い貴族)は、市場から退場するのみ。……彼らは、いずれ殿下が玉座を奪う際の『合法的な粛清(捧げ物)』として、せいぜい有効活用させていただきましょう」
アイリスの瞳に宿っているのは、資本と情報という「実利の篩」を使って人間を容赦なく選別し、来るべき国家転覆の後に立ち上げる『新体制の派閥設計図』を緻密に描き出す、極めて冷徹な支配者の顔であった。
リュートが南で仕掛けた物理的な暴落の波を、アイリスが東の資本の論理で完璧に増幅させ、旧体制の陣地を内側から切り崩していく。
実力と資本のみが支配する経済戦が、ここに幕を開けたのである。
3 保守派のパニックと、物理的防衛線(カイルの鉄壁)
相場の大暴落は、王都の裏社会から表の政治舞台までを巻き込む、巨大なパニックの引き金となった。
これまで陸路の関所を実質的に封鎖し、食料を出し惜しみして価格を高止まりさせていた特権商人と保守派貴族たち。彼らの目論見は、南からの海路による「供給の暴力」によって完全に粉砕された。
高値で売り抜けようと倉庫に溜め込んでいた小麦は、一瞬にして腐る寸前の不良債権へと成り果て、莫大な借金と損失だけが彼らの手元に残された。
「話が違う! このままでは破産だ! 今すぐ賄賂を返せ!」
全財産を失った特権商人たちは、これまで多額の裏金を贈っていた保守派(第一王子派)の中央貴族たちの屋敷へ押しかけ、暴動寸前の騒ぎを起こした。
商人たちからの突き上げを食らい、同時に自らの資金源をも絶たれた中央貴族たちは、完全に恐慌状態へと陥った。そして彼らは、すべての元凶である「海事組合」へとその怒りの矛先を向けた。
「得体の知れない魔導船で、不当に市場を荒らした無法者どもめ! 貴様らのせいで正当な流通が破壊されたのだ! 損失をすべて補填しろ!」
自らの強欲と判断ミスの責任を完全に棚に上げ、「自分たちが損をしたのは新参者のせいだ」という極めて身勝手な論理を振りかざす貴族と商人たち。彼らは私兵や雇いならず者を大勢率いて、王都にある海事組合の本部へと血走った目で押し寄せた。
由緒ある身分と圧倒的な数で威圧すれば、平民上がりの新参組織など容易く屈服し、全財産を差し出すはずだ。彼らは旧態依然とした身分制度の優位性を信じて疑わなかった。
だが。彼らが組合本部の正門で直面したのは、怯える事務員でも、恭しく土下座をする代表でもなかった。
そこに立ち塞がっていたのは、極めて実戦的で無機質な『物理的防衛線』であった。
「――止まれ。ここから先は海事組合の私有地だ」
凄まじい威圧感を放つ巨軀の青年、カイルが静かに宣告した。
彼の背後には、王国の華美な近衛騎士団とは対極にある、一切の装飾を省いた実戦装備に身を包んだ警備隊が、一糸乱れぬ陣形を組んで控えていた。
その部隊の半数を占めているのは、かつてカイルと共にスラムで泥水を啜り、リュートによって拾い上げられた『孤児院の少年少女たち』である。彼らは東の資本によって提供された最高品質の武具を構え、一切の感情を交えない冷酷な瞳で、喚き散らす貴族たちを見据えていた。
「道を開けろ、平民ども! 我々は歴史ある商会と、その後ろ盾である男爵家だぞ! 組合の代表を出せ!」
先頭に立った貴族が、顔を真っ赤にして身分証を振りかざす。
だが、カイルは表情一つ変えなかった。
「アポイントメント(事前の約束)はあるか」
「あるわけなかろう! 我々は被害者だ! 貴様らの不当な商売のせいで――」
「身分を問わず、アポイントのない者は例外なく全員追い返せ」
カイルは貴族の言葉を冷徹に遮り、主であるリュートから下された絶対の命令を復唱した。
「それが、うちの代表の命令だ。……引き返せ。これ以上の接近は『威力業務妨害』および『不法侵入』とみなし、物理的に排除する」
「なめやがって! たかが平民の傭兵もどきが、貴族に逆らう気か! やっちまえ!」
貴族の号令とともに、数十人のならず者たちが武器を振り上げて殺到する。
しかし次の瞬間、カイルが一切の予備動作なく前方に踏み込み、先頭の男の顔面を鋼の手甲で無造作に粉砕した。
それを合図に、背後に控えていた孤児出身者たちの部隊が音もなく動いた。
「「「……ッ!」」」
彼らにとって、相手が貴族であろうが商人であろうが関係ない。身分という見えないルールで威張るだけの温室育ちなど、スラムの裏路地で毎日命のやり取りをしてきた彼らにとっては、単なる「的」に過ぎなかった。
孤児院出身者たちは最小限の動きでならず者たちの武器を弾き落とし、急所を的確に打ち据え、膝の関節を破壊していく。容赦のない、殺害の一歩手前で寸止めされた極めて高度な暴力の制圧。
腐っていた自分たちに生きる場所と実力を与えてくれた主への、狂信的なまでの忠誠心。彼らは実力主義の陣営において、自らの価値を証明するように冷徹に敵を蹂躙した。
「ひっ……! 悪魔、悪魔どもめ……!」
「足が、足が折れたァッ!」
わずか数十秒。圧倒的な数の有利があったはずの暴徒たちは、血の海の中で呻き声を上げる肉の塊へと変わっていた。
カイルは、腰を抜かして震える首謀者の貴族を見下ろし、冷たく言い放つ。
「……次は殺す。ゴミは持ち帰れ」
恐怖に駆られた貴族と商人たちは、這うようにして組合本部から逃げ散っていった。
身分という幻想が、研ぎ澄まされた実力主義の暴力の前に完全敗北を喫した瞬間であった。
◇
「……物理的な暴力や身分の威圧では、あの組織は微動だにしません。あの警備隊は、中央貴族の権威を微塵も恐れていない『本物の私兵』です」
同じ頃。遠巻きに事態を監視していた手の者からの報告を受け、貴族院議長であるカルネリア侯爵は苦々しく顔を歪めていた。
力業では到底、第二王子の基盤である海事組合を崩すことはできない。
「父上」
その背後で、冷徹な官僚である子息エドワルドが、眼鏡の奥で知的な光を細めながら進言した。
「野蛮な実力行使が通じないというのなら、彼らが最も重んじる『法』の土俵に引きずり出すまでです。……奴らの首に、貴族院議会への『参考人招致』という合法の首輪をかけましょう」
王都の混乱の裏側で、旧体制の最も有能な番犬が、ついにリュートを法廷の盤面へと引きずり出すための召喚状にサインを刻んだのであった。
4 嵐の前の隠れ家(異常な日常と想定問答)
海事組合の正門前で暴徒と化した商人たちがカイルの部隊によって物理的に粉砕され、王都全域がかつてない阿鼻叫喚の恐慌状態に陥っていたその頃。
分厚い石壁と防音の魔導具によって外の喧騒から完全に切り離された海運組合の隠れ家(最上階の執務室)では、まるでそこだけが別の世界線にあるかのように、極めて優雅でゆっくりとした時間が流れていた。
部屋を満たしているのは、怒号や悲鳴ではなく、護衛のルリカがいつもの位置で静かに淹れる極上の紅茶の豊かな香りだけだ。
ふかふかのソファに深々と腰を沈めたヴィオラは、王都の権力闘争など全く興味がないというように、無心で新たな魔導具の図面に羽根ペンを走らせている。
その向かいの卓では、東の次期当主であるアイリスが、完璧な姿勢で背筋を伸ばし、山のように積まれた利益確定の帳簿に優雅な手つきで目を通していた。
「……ねえ、アイリス様」
ヴィオラが図面から一切目を離すことなく、ふと思い出したかのように尋ねた。
「表の通りじゃ、全財産を失ったお貴族様たちが泡を吹いて倒れているそうだけど。……で、貴女は今回の暴落で、結局どれくらい稼いだの?」
「そうですね……ざっと見積もって、北のクロムハルト公爵家の『年間予算』と同額程度、といったところですわ」
アイリスは、紅茶のカップを手に取りながら、国家の根幹を揺るがす天文学的な数字を涼しい顔で口にした。
そのあまりにも現実離れした利益額を聞き、ヴィオラはほう、とため息をついて手元の図面を軽く叩く。
「へえ。なら、私の魔導具の研究にもっと援助してちょうだいな。あの海を渡る自律型魔導具(魔導船)の改良には、まだまだ莫大な触媒が必要なのよ」
「あら、ヴィオラ様。それはもう手配しておりますでしょ。今回稼いだ額の『倍』の資本は、すでに東の口座を経由して、貴女の研究所へ突っ込んでありますわよ」
「……」
稼いだ額も異常なら、それを一切の躊躇なく技術開発へ再投資する速度も異常である。
ヴィオラは、一切のブレーキが存在しない論理の女神の果てしない資本投下に呆れ果て、がくりと肩を落とした。
「……ああもう、早く領地に帰りたいわ。王都の政治なんて泥臭くて面倒くさいだけじゃない」
「ふふっ。そうおっしゃらず、もう少しだけ殿下の覇道にお付き合いくださいませ、ヴィオラ様」
外の世界では、彼らが仕掛けた盤面によって大勢の人間が破産し、首を吊り、狂乱の渦に吞まれているというのに。
この部屋にいる彼女たちにとっては、国家の経済崩壊すらも、ただの「日常的なティータイムの雑談」に過ぎなかった。
そんな狂気的でありながらも穏やかな日常会話を耳にしながら。
執務デスクに座っていたリュートは、先ほど王宮の使者から届けられたばかりの、蠟封が施された重々しい封書をペーパーナイフで静かに切り開いていた。
封筒に刻まれているのは、中央貴族の最高権力機関――『貴族院』の紋章である。
中身を一読し、リュートが口角をわずかに上げたのを見て、アイリスが帳簿から視線を上げた。
「……ついに来ましたわね、殿下」
「ああ。暴力で僕たちを潰せないと悟った中央の特権貴族どもが、合法的に僕の首を獲るための召喚状(招待状)だ。……遅いくらいだ」
リュートは、自らを断頭台へと引きずり出すための死の宣告書を、まるでくだらない演劇のチケットでも眺めるかのように卓上へ放り投げた。
「いつですの?」
「明日だ。貴族院の総会にて、『参考人招致』という名目で呼び出された」
アイリスは扇を閉じ、わずかに目を細めた。
「準備はよろしいのですか? 議会という閉鎖空間は、彼らの絶対的なホームグラウンドです。待ち受けているのは、法と詭弁を弄する百戦錬磨の老狸たちですわよ」
「問題ない」
リュートの答えは、短く、そして一切の淀みがなかった。
彼は椅子の背もたれに深く寄りかかり、両手で浅く指を組んだ。
「議会の連中が持ち出してくるであろう過去の判例、法解釈の捻じ曲げ、そして僕を追い詰めるための詭弁。そのすべての『想定問答』は、すでに僕の頭の中で構築が完了している」
リュートの黒髪から覗く真紅の瞳の奥底に、底知れぬ暗い炎が灯る。
相手が用意した舞台が「議会の参考人招致」という政治的な吊るし上げの場であろうとも、既存の法解釈を武器に論戦を仕掛けてくる以上、そこは彼にとって己が最も得意とする『法廷』と同義であった。
「……法理の罠は完璧に張った。あとは明日、強欲な老害どもが自ら議会に用意された『見えない断頭台』に首を突っ込むのを待つだけだ」
外の喧騒を完全に遮断した静寂の部屋の中、カチン、とティーカップの触れ合う上品な音が響く。
すべてを計算し尽くした稀代の知将は、前世からの絶対的な領域たる「法解釈の殺し合い」が幕を開けるのを、ただ静かに、そして冷酷に待ちわびていた。
5 法理の断頭台と、知将の撤退戦(参考人質問)
翌日。王国の旧体制を象徴する、重厚な石造りの貴族院議場。
すり鉢状に配置された百を超える議員席からは、既得権益を脅かされた特権貴族たちの、刺すような敵意と殺気が中央の証言台へと注がれていた。
「――王立海事組合の代表、第二王子リュート・セシル・ローゼンタリア殿下。前へ」
議長であるカルネリア侯爵の厳めしい声を合図に、陸路の関税で長年私腹を肥やしてきた重鎮、バルトフェルト侯爵が立ち上がり、怒号のごとき弾劾を響かせた。
「殿下! 殿下の組合が運用している『得体の知れない物体』は、既存の船舶法および関税法を著しく軽視している! 議会の承認も得ず、風を待たず水上を駆けるなど自然の理に反するのみならず、正当な陸路の流通を破壊した! これこそ王国の法秩序を乱す『脱法行為』ではないか!」
議場から「そうだ!」「横暴だぞ!」という同調の野次が飛ぶ。
だが、証言台に立つリュートは、嵐のような非難を一身に浴びながらも、極めて静かな、ひんやりとした微笑みを浮かべていた。
「……侯爵。論理を飛躍させる前に、一点だけ『法的な定義』の確認をお願いしたい」
リュートの低く、よく通る冷徹な声が、議場の喧騒を冷ややかに撫で斬った。
「船舶法第一条によれば、船とは『帆、あるいは櫂を用いて移動する構造物』と定義されています。初代王の時代、内陸の川舟や沿岸の小舟を統制するために作られたこの法律には、外海を渡る動力の概念など存在しない。……翻って、我が組合の移動体は、帆も櫂も備えていない」
リュートは、法廷で証拠品を提示する法曹のごとく、淡々と事実を並べ立てる。
「あれは魔力を動力源とする『自律型大規模魔導具』。すなわち、法的には工芸品や研究機材と同義です。時代遅れの定義に含まれないものに対し、類推解釈で強引に税を課そうとすることこそ、王国の法秩序を破壊する『恣意的な公権力の行使』にあたる」
明確な文理解釈の壁に阻まれ、バルトフェルト侯爵が言葉に詰まる。
議場がざわめく中、リュートは懐から一葉の羊皮紙――国王から与えられた『特権状』の写しを掲げた。
「さらに、皆様が盾になさる関税法。これは本来『国家が整備した既存の公共インフラ(道路や関所)』を利用する者に課される維持費です。我々は地図にない未定義の海域を開拓し、独自の施設を自らの資本で運用している。利用していないインフラに対して税を払えというのは、法理上、全く成立いたしません」
リュートは声を一段低め、議場全体を支配する圧倒的な威圧感を放った。
ただの論破ではない。ここからが、彼が用意した『法理の断頭台』の本番であった。
「そして現在。この海事組合の収益から、陛下個人の私設金庫へ直接納められている奉納金は、皆様が主張する関税の総計をすでに『二割』上回っております。この特権状は、陛下の利益を最優先する特別法だ。……さて、カルネリア議長」
リュートは、特権状を議長席へと突きつけ、青ざめる議長とその背後に控える若き子息、エドワルドを見据えた。
「この議会は、陛下に対して『王の私設金庫に入る利益を減らし、地方貴族の懐を潤す旧法を優先せよ』という進言をなさるおつもりですか? ……もしそうであるなら、私はこのまま陛下の御前へ向かい、皆様のその素晴らしい『忠義』を、一言一句違わず正確に報告いたしますが」
議場が、水を打ったように静まり返った。
王の金を奪い、自分たちの懐に入れろと主張すること。それは王権に対する明白な挑戦であり、『国家反逆罪(逆賊)』の烙印を押されることに等しい。
論理の刃が、完全に彼らの首筋を捉えていた。
だが、既得権益を奪われた怒りで冷静な判断力を失っていたカルネリア議長は、自らの首にギロチンの刃が触れていることにも気づかず、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「な、なんと非道な詭弁を……! 我らの正当な権利を冒涜する気かッ!」
議長が、反逆罪を決定づける致命的な反論を口走ろうとした、まさにその瞬間。
「――恐れ入りながら、殿下」
議長の背後に控えていた若きエドワルドが、青ざめた父の前に滑り出るように進み出て、物理的にその言葉を遮り、床に届くほどの深い、完璧な礼法で頭を下げた。
「殿下のおっしゃる通り、海事組合の『魔導具』の運用は完全に合法であり、陛下への多大な貢献、我ら貴族院一同、深く感銘を受けております。……父の先ほどの言葉は、急激な市場の混乱に対する、一介の臣下としての老婆心に過ぎません。我らにはこれ以上の疑義を挟むつもりは、毛頭ございません」
議場が息を呑む。
エドワルドは、リュートが落とそうとした『反逆罪の刃』の軌道を数秒先まで完全に読み切り、父が決定的な言葉を発する寸前でそれを強制的に遮ったのだ。
自らの特権と莫大な利益を瞬時にドブに捨て、議会の面子すらもかなぐり捨てて、一族の命と立場だけを確実に守り抜く。
完璧な論理のすり替えによる、被害を最小限に抑えた見事な撤退(降伏)宣言であった。
リュートは証言台から、深く頭を下げるエドワルドの姿を静かに見下ろし、内心で鋭く評価した。
『……見事な損切りだ』
リュートの真紅の瞳が、面白げに細められる。
感情に任せて喚き散らし、自ら罠に嵌っていく旧態依然とした老害たちとは次元が違う。エドワルドは、相手が提示した法理の絶対的な優位を即座に認め、守るべきコア(一族の存続)のために末端を躊躇なく切り捨てる、極めて冷徹な演算能力を持っていた。
『奴は私が仕掛けた殺意の軌道を正確に見切った。エドワルド・シーン・カルネリア……旧体制のルールの中で完璧に機能し、盤面を即座に修復してのける、極めて有能で厄介な番犬か』
一方で、頭を下げたままのエドワルドの背中にも、冷たい汗が伝っていた。
特権貴族の慢心を利用し、法の文理解釈から逃げ場のない反逆罪の罠へと誘導する、その悪魔のような法廷戦術。エドワルドもまた、目の前の存在がただの王族ではなく、国家の法理を玩具のように操る『規格外の知将』であることを、このたった一度の攻防で完全に骨の髄まで理解したのだ。
リュートは、目の前の隙のない若き政敵に一瞥をくれ、議場全体に響く声で冷たく微笑んだ。
「……左様でございますか。疑義が晴れたようで、安心いたしました」
一切の流血もなく、最高権力機関である貴族院の重鎮たちを「法」という名の鎖で完全に締め上げ、沈黙させた瞬間。
そして同時に、リュートの知略とエドワルドの冷徹な損切りが盤面で初めて激突した、新たな頭脳戦の幕開けであった。




